0000書店紀行アーカイブ

0000書店紀行とは、10000円を握ってさまざまな人と本屋へ行き、本の話をしながら10000円分本を買おう、という企画です。

これはこれまで行われた分のアーカイブです。

 

第一回

ゲスト:木野誠太郎(シナリオライター

kamisino.hatenablog.com

 

第二回

ゲスト:あかごひねひね(ネタツイッタラー)

kamisino.hatenablog.com

 

第三回

ゲスト:土屋誠二(ハイパーノベルクリエイター)

kamisino.hatenablog.com

 

番外編

ゲスト:四流色夜空(小説家)

kamisino.hatenablog.com

倫理

「うたの日」というサイトがある。

ぼくもこのサイトについては外様なので、外様なりの認識で説明すると、「インターネット上で歌会ができる場所」である。「歌会」とはいえ、同時にひとつの場所に集まって、相互的な評を述べる場であるというよりも、めいめいが選歌して投票し、めいめいが評をするという場であるような自由度の高い歌会である。

ぼくもときおり、気が向いたときに短歌を投稿している。何よりも手軽だし、いろいろな人の短歌を読めるからだ。

 

先日、Twitterの短歌をやっている人たちの間で、「仮病乙」という文字列が話題となった。

題「鬱」(短歌には題詠といって、あるテーマのもとに短歌をよむ、というものがあります)の部屋において、「仮病乙」という文字列だけが、57577の定型の短歌群の中におかれていたのである。

そういうわけで、「これは荒らしではないのか」「送信途中ではないのか」といった話題でTwitterが盛り上がっていたのである。

うたの日ははじめ無記名で提出された歌に投票し、結果発表にあわせて作者が明かされる方式である。だから「荒らしではないか」という議論が起こるのである。

 

ぼくはといえば、まずその文字列をドラッグしてみた。「仮病乙」のあとに空白はなさそうだったので(もしかしてスペースを打っても消される仕様なのかもしれないけれど)、「仮病乙」だけで完結しているんだな、と思った。

少し短歌にふれていればわかるけれど、これは本当に短歌なのか?という短歌は山ほどある。加藤治郎の「言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!」という歌は教科書などでも見るかもしれない。

ぼくは題詠「鬱」に対しての短歌「仮病乙」を観賞してみることにした。そうして、難しいなあ、と思った。実際の歌会であれば、こういう挑戦的なことをするのであれば、よっぽどではない限り歌会の場所には現れるだろうし、批判も直接受ける覚悟があるだろう。けれど、ここはインターネットである。

「うたの日」に投稿している人はたくさんいるだろうし、そもそも「場」として成り立っているのが奇跡である。おそらく善意の集団なのである。だからこそ「悪意」に見えるものに対するアレルギーがあるのかもしれない。

 

当然といえば当然だけれど、この歌を「仮病乙」という自分の声に驚いてしまったことの沈黙、あるいは他者からの罵倒に対する沈黙の間の表現ととることはできる。けれど、それは「善意」のバイアスを自分にかけた上での解釈である。この「場」において、このフォーマットにおいて提出されたこのスペースなし5音のみ文字列を、そういう短歌としてとるのは、ぼくには難しかった。せめて「仮病乙」にカギ括弧がついていたら、そう読めたかもしれない。

あるいは、デュシャンの「泉」のようなおこないかもしれない、とも思った。けれどそれにしては、ちょっとありていすぎる。もちろんインターネットという「場」だから、インターネット・スラングを「鬱」というセンシティブかつホットな題でもちいて、「これをよんであなたに感情を芽生えさせることが芸術だ!」「場の崩壊という芸術だ!」ということもありえたけれど、それもかなり「善意」に引き寄せた解釈だ。

そういうわけで、ぼくは「間」説も「泉」説も、作者の作品に対する真摯さが足りていない、と思った。

どちらかといえば、こんなに「鬱病」というものについて認知がすすんだ世界で、未だに2000年代みたいな文字列を書くことが面白かった。だから好意的にとれば「泉」説かな、と思って、当初ツイートをした。

 

 

ほんとうであれば、こういう記事は書きたくないのだけれど、このツイートはわれながら問題を茶化し過ぎかな、抽象化して提示しすぎかな、と思ったので、謝罪のつもりで書いている。

ここまでが件のいきさつである。

そうして、ここから先のもろもろによって気分が悪くなってきてしまった。結果としてこれは荒らしではなかった。ぼくは贖罪の気持ち半分にこれを書いているのだけれど、もう半分は別種の感情である。

 

本気でそう思っているならばこの作者を人として認めないし、これを短歌と私は断じて認めません。

 

うつ病患者として見過ごせないので書きますよ。この、心ない一言に傷ついて死んでしまう人がいたら、あなた、責任が取れますか?

 

件の短歌への評に、こういうものがあった。ぼくは「鬱」の部屋に「仮病乙」という短歌の可能性のある文字列を書き込むより、こちらのほうがひどいのではないかと思う。これはテキストのもつ多くの可能性を、一番それらしいものに引き付けて、倫理によって殴っている図であるように思えてしまった。

当然「鬱」という繊細な題であるからこそ、この文字列をかなしく感じる人間はでてきて然るべきだ。作者は当然、その反応を予期しているに違いない。

だから、作者はこういう意見を甘んじて受け入れるべきである。そうして傷つけばよい。それが作者の読者に対する、あるいは作品に対する責任である。「仮病乙」はできるだけ客観的に見れば、そういう類の作品といえるからである。

けれど、だからといって、こうした「評」が「作品」に寄せられるのはかなしいことだと思う。これは「明確に」作者個人を傷つける言葉である。

おそらく「仮病乙」を「荒らし」とみなしたうえでの発言である(この評がどのタイミングで記入されたかはわからない)が、それなら、せめて作者が解題するまで待てばよいのに、と思う。「うたの日」には掲示板というシステムがある。善意の場において誤読を誘う可能性が高い作品を提出し、ここまで意図が伝わっていないのは作者の責任であり、その解説を作者が放棄してはじめて「荒らし」と判定できる可能性がでてくる。「場」の判断を誤った作者の責任は大きい。

しかし、これを尚早に「荒らし」と判断したのは読者の責任である。

感情的になるのは、作品をよんで感情を抱くのは当然悪ではない。この「仮病乙」はそういう効果をもつ文字列だ。けれど、そうした文字列に対してではなく「書いた本人」への攻撃に転嫁するのは、作品外に波及する負の連鎖である。

 

繰り返しになるが、この「仮病乙」については、作者の作品に対する自覚も、営為も足りていない。しかし作者である以上、この作品に対して寄せられる言葉に、作者は「傷」を負わなくてはいけない。それが「作者の責任」である。

だからといって、倫理をもって、つまり「この、心ない一言に傷ついて死んでしまう人がいたら、あなた、責任が取れますか?」といった言葉をもって、作者に詰めよっていいのかと言われれば、それは否、である。

これは短歌に限らず、文学全般、ときには社会思想においても、あるいはすべての事柄に対してであるが、発言の背後に後押ししてくれる「倫理」を想定している人間は、すでに文学者/思想家ではない。芸術は倫理を追い抜かなくてはならない。そもそも、文学は自由を志向するはずだ。

かなしい気持ちになること自体に罪はない、怒りをもつことにも罪はない。それをぶつけてもいい。けれど、一度立ち止まってもらいたい。その評は「読者の責任」を果たせているであろうか。感情的に過ぎていないだろうか。早合点ではないであろうか。嫌いなもの、認められないもの、わからないものを「悪」として排除しようとしていないだろうか。倫理という暴力を疑いなく行使していないだろうか。

ぼくは短歌をやっている人間は、すべて文学者だと思っている。大衆であれば、好き勝手に何を言おうがまず、問題はない。それは仕方のないことである。

もし歌人、詩人、文学者を志向するのであれば、「読者の責任」について立ち止まって考えてみるべきではないだろうか。

文字列は作者だけでなく、読者がいてはじめて作品となるのである。

ポール・ニザン『アデン・アラビア』

僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。

 

ポール・ニザンの『アデン・アラビア』は、こういう一文ではじまる。カミュの『異邦人』と並んで、二十世紀フランス文学におけるもっとも有名な書き出しのひとつに数えられるらしい。ぼくはサガンの『悲しみよこんにちは』もそのひとつなのではないか、と思う。

 

アデン、アラビア/名誉の戦場 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-10)

アデン、アラビア/名誉の戦場 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-10)

 

 

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

 

 

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

 

 

書き出し、ということを考えるときに、ぼくはいつでも太宰治の「女の決闘」の文章を思い出す。

 

書き出しの巧いというのは、その作者の「親切」であります。

 

太宰治はこうした読者への思いやりを「如是我聞」において「心づくし」と総括している。ぼくが最近、とある人からもらった言葉では「invitation」がこれに近いかもしれない。すなわち、読者をこちらの世界へ導く親切である。とかくに他者を気にしないひとりよがりな文章、もっといえば振る舞い、というのはこの世界には多くて、自戒もこめて、この「心づくし」は大切にしたいところである。

 

新ハムレット (新潮文庫)

新ハムレット (新潮文庫)

 

 

もの思う葦 (新潮文庫)

もの思う葦 (新潮文庫)

 

 

ニザンに戻れば、やはりこの書き出しに心をつかまれる人間は多いだろう。ぼくもそうだった。「二十歳」とはどういう季節であるのか。たとえば与謝野晶子ならば、「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」。俵万智流の訳では「二十歳とはロングヘアーをなびかせて畏れを知らぬ春のヴィーナス」である。

 

みだれ髪―チョコレート語訳 (河出文庫)

みだれ髪―チョコレート語訳 (河出文庫)

 

 

26歳のぼくですら、「若いね」「若い感性」といった言葉を受けることが多いのだから、いわんや二十歳をや、であろう。でもぼくは、そういう言葉を言われるとうれしい反面、少し苦しくなる。もしぼくが若くなくなったら、この感情は消えるのか。ぼくの性格を形作っているものが、ほんとうに若さだけなのだったら、すぐにでも死んで永遠になってやる。

「二十歳」とは、青春を表すひとつの記号なのだろう。だから、「二十歳は美しい」と人が言うときに、その人が羨望しているものはおそらく、きらめく過去という時間の幻影だ。あのころはよかった、という虚飾。

そうした非現実性に対してニザンは怒り狂う。『アデン・アラビア』は世界文学全集の編者である池澤夏樹の言葉を借りれば、「憤り」の文章なのである。

そもそもいわゆる小説とは一線を画したこの小説は、フランスで「風刺的小論文(pamphlet)」と呼ばれるものらしい。ここに物語はない。あるのは、ニザンの怒りなのだ。

それでは彼が具体的に何に怒っているのかというと、高等師範学校(フランスの教員養成学校。ニザンもサルトルと同期でここに入っている)のエリートたち、同時代の詩人、哲学者、教会だ。

『ラモーの甥』よりも、もっと痛烈に、直接的に怒っている。

 

ラモーの甥 (岩波文庫)

ラモーの甥 (岩波文庫)

 

 

いずれ哲学者は、単なる語彙の番犬となり、ひとつの言葉にいろんな意味があったあの中世の歴史家でしかなくなるだろう。

 

祖父たちに捨てられた城のかびた匂いのなかで心安らかにくたばるための最後の避難所

 

すべてを運命のせいにすれば、いつまでもピラトゥスのように手を洗っていればいいってものじゃない。

 

といった具合である。

「考えることは、否と言うことだ」というアランの言葉を引用し、創造力を発揮せずに習慣に埋没する物質に近い人間たちに「否」を叩きつける。

そうして彼は逃げる。その逃げ道にも、彼は「否」を重ねる。宗教――否。偉人への道――否。自殺――否。彼が選んだのは、東洋への旅、イエメンのアデンへの逃亡であった。この『世界文学全集』シリーズを読んでいると、みんなよく旅に出る。『オン・ザ・ロード』が刊行されたはじめの一冊である、ということはおそらく確信犯だろう。『楽園への道』のゴーギャンも旅に出る。それは、近代化という一方通行な時間の遡行であり、ここではないどこか、の希求だ。そして、冒険というのは、たいてい活気の湧くものなのである。

 

オン・ザ・ロード (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-1)

オン・ザ・ロード (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-1)

 

 

楽園への道 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-2)

楽園への道 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-2)

 

 

ちょっと風景が変わる。ぼくもふらふらとするのが好きだから、気が向いたらどこかに出歩く。なんとなく景色が変わって、知らないものを見て、気が安らぐ。廃墟や心霊スポットへいっておののき、海を見て感動する。そういうことが、ずいぶんある。冒険は単なる運動に加えて、未知の体験である。端的にいうと、わくわくする。

巖谷國士ルネ・ドーマルの魔術的冒険小説である『類推の山』(ホドロフスキーの『ホーリー・マウンテン』の原作)の解説でいうところの「元気が出る」という効用が、冒険や旅にはある。

 

類推の山 (河出文庫)

類推の山 (河出文庫)

 

 

それではニザンはどうだったか。もちろん旅――否であった。

イギリスを出発してジブラルタル海峡を通過し、スエズ運河を渡り、紅海、アデンへたどり着くまでの描写はたった4ページ。

 

得意がるほどのことではない。

 

そういう突き放した言い方で、彼の旅は終わる。旅それ自体を楽しむことのできなかったニザンは、やはりアデンも楽しむことはできなかった。

 

アデンは、僕たちの母なるヨーロッパのぎゅっと凝縮されたイメージなのである。

 

東洋よ、詩に歌われるおまえのヤシの木々の下に、僕が見つけることができたのは、またもや人間たちの苦しみなのだ。

 

 

この本が書かれたのは1931年。ニザンがアデンへ滞在したのが、1926~1927年。軍国主義植民地主義のただなかにあって、アデンはイギリス領である。アデンには哲学も詩もない。あるのは、ヨーロッパでのそれをもっと純粋にした、資本家の退屈と労働者の苦役。変わらない近代のシステムであった。

ぼくは「みんな同じ空の下」であるとか、「同じ月を見ている」であるとか、そういった言葉を目にするたびに、少し怖くなる。

 

はちぐわつは青空ばかり底踏みぬいてもまたもや青空/南輝子『WAR IS OVER!百首』

 

同じ空であるということは、同じ空でしかないのである。太陽は眼であり、どこまでいっても監視されている。「三笠の山にいでし月かも」の感傷も、ニザンにはないだろう。資本主義のモチーフの変奏でしかない東洋に彼が感じたのは「退屈」であった。

 

可能性として存在する事物に従って生きるような生き方は、退屈の所産である。

 

アデンでは、恐ろしいくらい無為をもてあます。

 

 

退屈が生み出すものは、過去への憧憬や未来への期待である。そうして自らを興奮させる事件への期待である。それは虚飾であった。リアルではなかった。ニザンにとって「二十歳」とは奪われ続ける、破壊され続ける社会へ参入しなくてはならない年なのだ。

それでは、彼は旅のすべてを否定したのかといえばそうではない。彼は逃亡の為の旅に否といい、オデュッセウスの旅を是とする。

 

旅にまっとうなものはひとつしかない。それは、人間に向かって進んでいくものだ。それがオデュッセウスの旅なのだ。

 

彼は旅を通して立ち向かうものとなる。プラトンヴァレリーをも批判するニザンはマルクスの名前を出さない。この小説の中に、マルクスという人間はまったく存在しない。だからこそ、かえって存在が引き立つ。彼がニザンへの渡航で得たものは、「本当の力」への意志であった。

 

自由は、現実的な力であり、自分自身であろうとする現実的な意志である。

 

自由? 僕が探しているのはそんな空虚なものじゃなくて、本当の力なんだ。

 

フランスに帰ってからの15章(全15章)は、他の章に比べると長い。そこでは、いっそう強い調子でホモ・エコノミクスを批判する。ホモ・エコノミクスとは「経済活動において自己利益のみに従って行動する完全に合理的な存在」をいう。

 

彼はむしろ自動販売機に近い。

 

目的はただひとつ、購買力によって支配すること。

 

こうして、彼らが感じる軽蔑、人々のうちにひき起こす羨望が、彼らの生の実感なのだ。

 

 

彼らの所有は「抽象的」であり、「距離を置いたまま行われるおとぎ話めいた接触」である、とニザンはいう。一方、労働によって得られる所有は「行動、代価、生産物が一体になったもの」である。「自動販売機」という言い方は、アデンへの旅の前に倦んでいた、ベルクソンのいうところの「機械に近い人間」と同じようなものだろう。彼は旅によって、逃げるものから立ち向かうものへと変化した。

ぼくはすごいと思う。ぼくにはこんなに勇気をもって、他者を鼓舞することはできない。負けていたらいいと、それでも仕方ない、と思ってしまう。

この小説は、次のような文章をもって締めくくられていく。

 

きみたちは孤独だ。夕食をとるときも、劇場に、映画館にいるときも、歩道を歩くときも、女とベッドにいるときも、罠を探すんだ。きみたちが通り過ぎていく舞台は、きみたちに不利なように仕組まれている。それを壊さなければならない。

 

怒りをかき立て、気を抜いたりしないこと。憎しみなくして、やつらの秘密を暴けるだろうか?

 

 

もしかしたら辟易する人がいるかもしれない。ブルジョワジーをぶっ倒せ!労働者は革命せよ!そういったアジテーションは、ある意味では古色蒼然としており、もはや空虚に響く。街角で拡声器をもって不平不満を叫ぶ人間をたまに見かける。もちろん、あれで奮起する人間もいるのだろうけれど、ぼくは虚しさを覚えるばかりだ。しかし、この『アデン・アラビア』は違う。

寺山修司は『戦後詩』の中でアジテーションと詩の違いを次のように説明している。

 

 

アジテーションは「隣人のことば」でもよいが詩はあくまでも「自分のことば」でなければならないのである。それは勿論、読者さえも、その詩人の内部の土地へふみこんだときから「自分のことば」として、詩を「体験」できるものである必要がある。

 

ここに書かれた言葉は、間違いなくニザン個人の体験から出てきた、彼の苦悩と怒りの言葉に他ならない。アデンにいったことのないぼくは、彼の倦んだ船旅を追体験し、「僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。」という言葉を、まるで自分のものであるかのように感じている。

「本当の力」への意志のようなものが、煮えるのを感じる。

ニザンはダンケルクで戦死した。もし彼が生きていたら、どうなったか。暇はないが退屈していた彼は「生きることはバラで飾られねばならない」(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』)のような生を是認できたであろうか。

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

 

同じくフランスの詩人のジャック・プレヴェールにこんな詩がある。

 

「五月の歌」

ロバと王様とわたし

明日はみんな死ぬ

ロバは飢えで

王様は退屈で

わたしは恋で

時は五月

 

 

すべてを手中に収めた王様は、退屈する。退屈の虚飾を許せなければ、どうなってしまうのか。彼の戦死をうつくしいということはできない。けれども、それが救いでなかったということもまたできないのである。

 

 

ではニザンの意志は消滅してしまったのだろうか。

『アデン・アラビア』の書評を書き、自身もニザンと親戚関係にあった(らしい。ソースは世界文学全集の解説)レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』はこんな一文から始まる。

 

私は旅や探検家が嫌いだ。

 

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

 

 

レヴィ=ストロースがどういう人間であるか、については説明するまでもないと思う。ニザンの意志は、やがて思想の枠組みを変換させる。彼の戦いは無駄ではない。

ロックンロールは鳴りやまないのだ。

かんざし第三号感想

94年生まれだから、櫛でかんざし。おしゃれです。

いくつか印象に残ったものについて書いておきます。

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写真はtwitterよりお借りしました

 

この土地のどこかに鳥の国があるといふあなたの嘘ためらはず/浅野大輝

 

毎年毎年渡り鳥はどこへいくのだろう、と不思議に思う。冬を越すためにあたたかいところへ行くらしいことは知っているけれど、じゃあそれはどこなんだといわれると答えようがない。「あなた」はどこが鳥の国なのか、ということは言っていない。ただそういう国がある、ということを言っているだけだ。これは悪魔の証明だ。「嘘」とは言ってはいるけれど、ほんとうに嘘なのかは永久にわからない。嘘はお伽噺となり、物語となる。嘘をためらわずにつく「あなた」は物語なのだ。翼をもったものだけの国、それを詩の国といいかえることはやや飛躍しているかもしれないが、どこかにある自由の国を信じて生きていくのだろう。

 

 

火葬場でこの頭骨を砕く日がいつか来るかもよ 君を抱きつつ/吉村桃香

 

ぼくのいったことのある火葬場ではあらかじめ頭蓋骨は取り除かれていて、首から下の骨だけが台に寝そべっていた。獣でもそうだけれど、やはり「頭」というのは生を、表情を感じさせてしまうから、という配慮なのだろう。けれど、頭骨を砕くという言葉にはリアリティがあり、死までをともに過ごそうという意志がそこにはある。きっと頭を抱きしめているんだろうな、と思う。頭骨を砕く、というのは遺骨に残る生を砕くこと。死別を体得すること。永久に別れること。そこまでを「君」を抱きながら夢想している。

 

 

「神様」と呼ばれてた友達の名を思い出せなくても夏は来る/中澤詩風

 

頭の中では神聖かまってちゃんの「23才の夏休み」ががんがんかかっていた。友達なのに、名前が思い出せない。「神様」と呼ばれていた友達は、とても勉強ができたのかもしれない。球技がうまかったのかもしれない。裁縫が異常に上手かったのかもしれない。神様、The One。たったひとつの絶対者に、実は名前はない。神様は名前を忘れられたことによって、手の届かない憧憬の対象となる。過去が遠くなってしまっても、夏は来るのだ。そうして夏が来るごとに、神様はいっそう遠くなっていく。

 

 

いない上司の不満を隅で聞きながら注ぐラー油はゆっくり泡立つ/北虎叡人

 

たとえば醤油を醤油さしに入れたり、牛乳をコップに注いだり、ということは日常生活においてよく経験する。けれど、ラー油はだいたい小瓶のものを使い捨てるので、業務用のものを移すという作業はあまりしたことがない。なので、真っ先に思ったのは「あ、ラー油って泡立つんだ」ということだった。情景がありありと浮かんでくる。「油を売る」という言葉は油の粘性により、売るために客の容器に移し替えるのに時間がかかることが語源らしい。いない上司の愚痴に、主体は参加していない。けれど、ゆっくり泡立っていくラー油によって引き伸ばされた時間に、上司に対しての、そしておそらく不満をいう同僚への、度し難い感情がじわじわと芽生えていく。

 

 

助手席を倒されるときいつも雨 くび、しめてもいいですよ、って/緒川那智

ぐーっと助手席を倒される。その時に見えるのは倒した相手の顔、あるいは車の天井だろう。ワイパーの音は、アイドリングの音は聞こえないだろうか。きっとエンジンは切っている。車内にはふたりの息遣いと「くび、しめてもいいですよ」とささやく雨の音だけが響いている。この雨に、「羅生門」の雨を重ねるのはやや安直かもしれない。けれども、雨の圧迫感、行きどまりの感覚、それから傘を差そうが濡らされてしまうという強大な力に対しての受動、それらが一体となって、くびをしめてもいいよ、とふたりにささやきかける。くびをしめるという背徳的にみえる行為は、抗えない自然によって赦されている。

 

 

眼窩まであをぞら沁むる真昼間の卵生の紫陽花を飼ふゆめ/瑞田卓翔

 

卵生の紫陽花。きっとアメジストのような卵なのだろうな、と思う。そうして、この卵はきっと眼球だ。卵生の紫陽花の夢をみてしまうくらいの青空が、そこにはあったのだ。とんでもない歌だな、と思った。紫陽花を飼うって、どういうことなのだろう。枯れろ、といえば枯らせられることができるし、咲け、といえば咲かせられるのだろうか。他にも卵生の花はいるのだろうか。生物の体系がまるで変ってしまった世界。それを31文字で幻視させてしまった。すごい。

 

 

カタカナ語はあんまり好きじゃないけれどカヌレはいいな、みっつ食べたい/北村早紀

 

カヌレって写真で見ると小さいけれど、実際見るとなかなか大きい。おやつに食べるならひとつでも十分だ。けれど、みっつ食べたいのだ。これは、よっぽどよいのだ。「カタカナ語はあんまり好きじゃない」「カヌレはいいな」「みっつ食べたい」すべて自己完結している。自己完結しているゆえに、どこもまったく動かしようがなくて、ああ、たしかにカヌレはいいな、みっつ食べたい、と思う。カヌレはいいな、みっつ食べたいという気持ちになってしまう。この歌には魔力がある。

 

 

ちょい煙草吸ってくるわと言う人がグラスを軽く机にのせる/森本直樹

 

なんということはない情景なのだけれど、「軽く」という言葉がよくて、よくぞそこを切り取ったな、という気持ちになる。喫煙者を交えたカラオケではしばしば見る光景だけれど、それが言葉で切り取られると、一気に俯瞰的になる。たぶん三人以上なんだろうと思う。ちょい煙草吸ってくるわ、という軽妙な存在感は、グラスの置き方にもあらわれてくる。まさに煙のように行ったり来たりする人なのだきっと。

 

 

青春にへんな音する砂利がありその砂利を踏むわざと、いつでも/工藤玲音

 

青春は違和感の連続だ。大人たちによって塗装整備された道のはずなのに、ところどころに砂利が落ちている。その砂利を気にせずに生きていくことは可能だ。けれど、ねむるときに目玉はどこを向いているのか、あるいは普段舌はどこにあるのか、そういうことをいちど気にすると、いてもたってもいられなくなってしまう。その砂利はへんな音がする、と知ってしまったが最後、砂利の存在は頭から離れなくなってしまう。踏まずに気になるくらいだったら、わざと踏む。踏んでいたら、いつの間にかけもの道だ。いつしか塗装された道から外れるために、砂利を踏むようになる。そのぎみ、っともじゃむ、っともいえない奇妙な音を聞くと、いつまでも大人になれずにいられる。ほんとうはもう大人なのに。

 

 

東直子さんによる前号評が羨ましかったです。

 

ぬばたま第二号感想

うばたまや闇のくらきに天雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる/源実朝

あじさいの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼/佐藤佐太郎

 

96年だから「黒」ということはあとあと知ったのだけれど、黒色ってとてもかっこいいな、と思う。印象に残った歌について、いくつか書いておこうと思います。

 

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 表紙の写真が投稿できなかったのでただの黒です

 

強い風わたしといない日のきみを想像してみるときにとりわけ/乾遥香

 

「わたしといない日」といえば、たとえば交際関係にあって、あるいは好意を向けている人間が、わたしといない日≒わたしでない誰かといるかもしれない日、ということになるのだと思う。でも、もしかしたら「わたしといない日」はわたしときみが出会わなかった世界の夢想なのかもしれない。ともあれ、わたしときみは、きっと常にひとつなのだ。だからこそ、切り離されたときに、神経が過敏になってしまう。順番としてはきみといないから風が強い、なのだ。けれど、そういう日に限って特に強く風が吹く、という錯誤した言葉の並べ方に、わたしと切り離された「自然」が定義される。そういった世界とも換言される自然に、きっとわたしときみなら対抗できるのだろう。

 

 

ティッシュ箱がつぶれてたぶんどちらかが踏んじゃったんだ今日のどこかで/初谷むい

 

お湯のことさゆってよべばおいしそう さゆ きみの中身を知りたいよ/初谷むい

 

好きです。なんにもかなしいことはいっていないはずなのに、どうしてこういう感情になるのか不思議になる。ティッシュ箱、たしかによく潰れる。踏んで潰れるというからには、きっと床に乱雑に置かれている。丁寧な生活では、きっとない。どちらが踏んだかは定かではない。どの時点で踏んだのかも定かではない。ただ、ふたりの生活の結果として潰れたティッシュ箱がある。めちゃくちゃになって進んだ一日の表象として潰れたティッシュ箱がある。

アヌビアス・ナナ水槽に揺れてゐて ナナ、ナナ、きみの残像がある/山田航」例えばこんな歌。楽曲ならば、筋肉少女帯の「香菜、頭をよくしてあげよう」であったり、米津玄師の「vivi」であったり、ROSSOの「シャロン」であったり、スピッツの「ナナへの気持ち」であったり、こういう人名に呼びかける、という歌がある。ぼくは、歌って呼びかけなのではないか、と思っている。「さゆ」も「ナナ」も元は物の名前だ。そこから人名を探し出して呼びかけるとき、ある切実さが生まれる。お湯なんだから透き通っているはずだ。それなのに、中身を知りたいのだ。お湯ですらわからないのだから、人間なんてもっとわからない。

初谷さんの歌の「着地しない言葉遣い」を見ていると、この人の日本語は呪術のようだ、と思う。ひらがな、過去形、主語・目的語の欠落、口語、様々な要素から、日常のそこここに「ほろび」が立ち現れる。

 

 

海風と帆船 なにも奪わない奪われないで暮らしていきたい/佐々木遥

 

海風と帆船。風があるから船は進む。一見すればそれは互助的であって、ある種理想的な関係性に見える。しかしながら、風が強く吹けば船は転覆する。帆は自由に進むことができたはずの風を遮っている。帆船は停止するという自由を風に奪われている。おそらく生きていく中でなにも奪わないで、奪われないで生きていくことは不可能だ。そうして、それを主体はわかっている。「いきたい」という希望は、実は「海風と帆船」によって最初から絶望になっている。けれども、奪っている、奪われているということを意識しなければ、それらは理想的な私/君の関係だ。諦観の中に、切実な願いがどうしても光ろうとする。これをおそらく祈りという。

 

 

映画ならもう冒頭は越えたはず サントラまみれで交わるセックス/関寧花

 

変な言い回しだなと思った。サントラまみれ、とは。実際に映画のBGMを流しながらセックスしているのかもしれないけれど、ぼくはコンテクストのことなのかと思った。コンテクスト、言い換えれば桎梏。ひとつのロマンスのように人生をとらえ、冒頭を越えるころには様々なコンテクストが周囲には生まれているのだろう。映画におけるサントラは、雰囲気を決定する重要な要素だ。日常系ほのぼのアニメの曲が『ダイ・ハード』に流れていたら、途端に気が抜けてしまう。きみとわたしの関係の中で絡みついてくる、すべてのものの中でのセックス。それって実は普通のセックスなのだけれど、それを「サントラまみれ」という突拍子もない言葉で表現されると、何やら面白いものに思えてくる。そして、それを俯瞰している冷徹なわたしが、うっすらと背後に存在している。

 

 

うお座です」「ミモザですか?」と返しつつぼくらに未知の樹が茂る森/越田勇俊

 

うお座です」という答えを発する機会は、たぶん「何座ですか?」と聞かれた時だけだろう。だから、「うお座」を「ミモザ」と聞き間違えることは、ありえない。だから、すでにここには普通ではない論理がはたいている。これは関係ないと思うけれど、みなみのうお座のフォーマルハウトは、クトゥルフ神話ではニャルラトホテプの天敵クトゥグァの住む星だ。クトゥグァはニャルラトホテプの住むン=ガイの森を焼き払う。「未知の樹が茂る森」の神秘的な言い回しは、そういう論理の外にある神話をも想起させる。「うお座」「ミモザ」の聞き間違いだけで、海、空、森という三カ所を一首の中に登場させるのは、面白いと思う。

 

 

僕も飛びたい僕も飛びたい流れ星消えゆく前に僕も飛びたい/九条しょーこ

 

「気づいてくれない」がリフレインされる連作のひとつ。僕も飛びたい、ってどういうことなのだろう。空を?きっと流れ星のように、誰かに待ち望まれたい、見つけてほしい、ということなのだと思う。「黒色の落書きは叫ぶ わたしを消してわたしを消してわたしを消して/早坂類」を思い浮かべた。こちらもきっちり三回、願いを繰り返す。これは流れ星への願いだ。「僕も飛びたい」「僕も飛びたい」流れ星消えゆく前に(僕は願う)「僕も飛びたい」だろう。けれど、その括弧には、きっと「一緒に」という気持ちも入っている。では、飛んだら誰か気づいてくれるのか、というと連作の中でアンサーがされている。連作として面白かった。

 

 

はつ恋のやうにしづかな遊園地のそこにいつでもゐたしろいいぬ/岐阜亮司

 

ああ、初恋って静かなんだと、まずは思った。でも、この静かは、ほんとうに静かなわけではないだろう。「まだあげ初めし前髪の」のように、言葉になる初恋。韻律にのせられて歌われる初恋。その背後には情熱が、眩暈がある。なんといっても遊園地だ。初恋と遊園地という二つの言葉が、「静か」で結び付けられるスリリングさは絶妙だ。そうして、その流れるような言葉は、しろいいぬへと向かっていく。ゐた、のだ。過去形なのだ。きっともういないのだろう。そうしてまた冒頭の初恋へと戻っていく。しろいいぬ、聖性。失われた神聖。これはもう一首を通してどうにも動きようがない、綺麗な歌だと思った。

 

 

糸を引くようなちゃん付けされている 水に沈めて葬式にする/櫛田有希

 

糸を引くようなちゃん付け。なぜだろう、このちゃん付けに対して、ぼくは否定的なニュアンスを受け取った。それはきっと「葬式」という言葉があるからだろう。「ちゃん」という言葉に含まれる性差の、あるいはうっすらとした階層化のニュアンス、それが糸引くようになされている。糸を引くだけでよいのに、さらにされている(ing)というくらいなのだから、相当気になっているのだろう。だから、一度ぶった切って水に沈めて葬式をする。葬る。

もちろん、ちゃん付けがうれしくて、それを冷やすために冷たい水で顔を洗う、というようなプラスにも読めるのだけれど、この連作の中に置かれると、どうにも違和の言葉として現れてくる気がした。

 

 

災厄ののちの世界のうすあかりけもののけものみんな笑つて/岐阜亮司

 

テーマ詠「黒」の中の一首。これについては、歌というより言葉について気になって、自分のためにも書いておきたいところがある。「けもののけもの」という言葉、2017年以後においてはあるひとつのアニメを想起させる言葉になっていると思う。したがって、全体がその文脈に引っ張られることになる。むろん、そういう文脈に乗ろうが乗るまいが、この短歌のノワールな雰囲気、まさに黒の題詠には相応しいよさ、というのは変わらない。けれど、昔、ある人間が「性の悦びを知りやがって」という言葉は、もうエロ漫画界では使えない、というようなことを話してくれた。そこにはもう文脈が生まれてしまっているからだ。

この歌はそういうことを思い出した歌だったので、なんとなく気になった歌だった。

 

 

エッセイも面白かった。なんだか陰謀論めいているけれど、こういう結びつきの話はいいねいいねとなるので、『ぬばたま』という同人誌の中で読めたのは、とてもよかった。

あと、表紙、めちゃくちゃかっこよくないですか。黒、好き。オタクなので

2017年ベスト(本・その他コンテンツ)

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2016年は「失」という漢字で総括していた。

去年は「変」だと思う。よくもわるくも、いろいろな変化があった。

兵庫短歌賞の新人賞をもらい、短歌の集まりによくいった。それから仕事をはじめた。薬の量も減った。

去年は漫画や音楽にあまり触れなかったので、例年のように本、音楽、漫画という章だてにはせず、本とその他コンテンツという形にしようと思う。今年はたくさん触れていきたい。

 

 

【BOOK編】

 

ガルシア=マルケス百年の孤独

 

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

 

 

 文学界の大ボス、という概念が存在していて、それはドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』、ジョイス『ユリシーズ』、プルースト失われた時を求めて』、ピンチョン『重力の虹』、そしてこの『百年の孤独』だ。まあ、その概念はぼくが勝手に思っているだけなのだけれど。とにかく、読書メーターの登録数が1000冊だったので、えい、とばかりに読み進めてみた。同じ名前の人間がたくさん出てくるのだけれど、みんな立ち位置やキャラがしっかりしているので、案外混同はしなかった。木に縛り付けられる老人、空飛ぶ絨毯をもつ錬金術師、人が死んだら降る黄色い花、こういう摩訶不思議な世界観は本当に大好き。『エレンディラ』の長編という感じ。この一冊に、何編の短編小説のアイデアが凝縮されているのだろう。

ラテンアメリカ文学(というと広すぎるけれど)の奇妙さ、というのは垂涎ものだ。今年も読んでいきたい。

 

町田康パンク侍、斬られて候

 

パンク侍、斬られて候 (角川文庫)

パンク侍、斬られて候 (角川文庫)

 

 

 町田康といえば『告白』だったのだけれど、個人的にはこちらのほうが好きだった。まくしたてる文体、ダウンタウンのコントのような構成。笑える文学というのは、わりあい稀有だと思う。やはりこれも摩訶不思議としかいいようがなくて、『きれぎれ』の冒頭のような幻視が満載ながらも、最後は『弥次喜多in DEEP』のような壮大さへと収束(攪拌?)されていく。

宗教っていうのは、まあ、こんなものだよな、という批評的な意識ももちろん感じられ、さすがはパンクロッカーさるぼんぼんと涙ながらにページを閉じたのだった。2018年は町田康の年になれば、と切に思う。(犬年なので)

 

シュトルム『みずうみ』

 

みずうみ 他四篇 (岩波文庫)

みずうみ 他四篇 (岩波文庫)

 

 

みずうみ、という題の本、すべて好きなのかもしれないという直観がある。この本は、もう会うことのできない人間がすすめてくれたもので、しばらく置いていた本だった。たまたまかばんに入れたまま本屋へ向かう途中に、見知らぬ女性に話しかけられた。「あの、さつまいもチップス買いませんか」。ぼくはイヤホンをつけていたのだけれど、それでも話しかけてくるなんて、どれだけ売りたいんだ、と思いながらも「わざわざぼくなんかに話しかけてくれたんだから……」という生来の断れなさを発揮して、思わず買ってしまった。おかげで本が買えなくなったので、チップスを齧りながら扇町公園の鉄塔の土台に座って読んだのだった。

叙情、失われた青春、そういう言葉がそのまま一冊の本になったような代物であった。読み終わって顔をあげたら、夕日が沈みかけつつ空を橙に染めていて、ああ、悪くない一日だったな、と思ったのだった。

 

残雪/バオ・ニン『暗夜/戦争の悲しみ』

 

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)

 

 

隔月で『池澤夏樹世界文学全集』を読んでいこうという試みをしている。どうも池澤夏樹は、反効率主義、近代化へのアンチといったテーマで選んでいるのではないか、という気がしてくる。残雪という作家は、文化大革命の被害者であって、理想という言葉の逆を貼るような薄暗くて不気味な作風の作家。ボルヘスに通じるところもあって、ひとことで表すなら「影」だ。アンナ・カヴァンなんかも少し思い浮かべた。

バオ・ニンはベトナム戦争ベトナム人側から書いた作家。よく燃やすために、わざわざよく燃える草の種を空から蒔いていたというのだから恐ろしい。ここを境に、ベトナム戦争について調べていくことになった。残雪のものもそうだし、リョサの『楽園への道』などでもそうだけれど、世界文学は日本のものをよむときと少し違った部分の筋肉を使うので、どっと疲れるけれど、爽快感もあるのだった。

 

オーウェル1984年』

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

はじめてよんだのは高校生のとき、テスト範囲として原文のペーパーバックが配布されて、したがって英語で読んだのだった。当時からずっと「二分間憎悪」だの「二重思考」だの、なんとなく口にしてしまう造語が印象的であった。

それから村上春樹の『1Q84』や伊藤計劃の『ハーモニー』などで、陽の目があたっていき、ピンチョンの解説がついた新装版が刊行されるにあたって、もう一度読んでみた。思想的でありながら、根本はラブストーリーなので推進力がある。

あえてこんなことをいうのも、という感じではあるけれど、2+2=5を笑えない時代なのだと思う。

 

リャマサーレス『黄色い雨』

 

黄色い雨 (河出文庫)

黄色い雨 (河出文庫)

 

 

なぜ手に取ったかは覚えていないのだけれど、おそらく好きだろう、というセンサーがはたらいたような気がする。終わってしまった村で、孤独な男がひたすら「~だろう、~だろう」という語り口で世界を構成していく。「だろう」という言葉、かなしくないですか。どこまでも推量であって、事実とはいえない。現実と虚構のあわいをたゆたうための助動詞。この言葉でまくしたてられると、どんどん闇に包まれていく。

雨でぐずぐずになった地面のように、たしかな反発力があるはずの大地が、どろどろにとろけていく。

 

中上健次枯木灘

 

枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)

 

 

血と地。芥川賞の作品でもなんでも読めばわかるように、人気のあるテーマだ。それこそ『百年の孤独』であったり、フォークナーであったり、海外文学が発端であるとはいえ、日本ナイズされた血と地の文学は、また違った濃密さに満ちている。男は棒、女は穴。暴力とセックス。被差別部落の、汗と精液の匂い。

熊野という土地に、メタフォリカルな魅力を抱いていて、卒業旅行と称して熊野三山詣でをしたことがある。熊野本宮に比べれば、新宮のあたりはまだしも人気があるのだけれど、それでも独特の空気が流れていた。『枯木灘』で日本文学は終わっている、という言もあるけれど、ここが日本文学のはじまり、ということもできる。なんにせよ、ひとつの強大なランドマークであることは間違いない。

 

a.k.a.GAMI『ヒップホップ・ドリーム』

 

ヒップホップ・ドリーム

ヒップホップ・ドリーム

 

  

ミーハーである。どちらかといえばHIPHOPという音楽ジャンルは、ぼくは苦手であった。それは中学生のとき、ぼくをいじめるような人間はことごとくHIPHOPを聞いていたからだった。だから、どんなに勧められようが、ここだけは敬遠していた。

それがFSDによって火が付き、あっという間にみんながラップをしていた。しばらく鬱病でおしまいになっていた2016年だったけれども、なんとなくラップをやりはじめたら精神がよくなった。「即興」とはある意味で切羽詰まるということで、わりあい思っている感情の言葉が素直にでてくる。ぼくはけっこう訥々と考えながら語ってしまうので、カウンセリングよりも、こちらのほうが「リアル」で健康的だった。

これはHIPHOP界を牽引し続けてきた漢a.k.a.GAMIの自伝なのだけれど、「マイクで『刺す』といったからほんとうに刺しにいった」という、エピソードを読んで「リアル」と「フェイク」という言葉の意味がすぽーんと脳の中でひらめいたのだった。

 

山口雅也『生ける屍の死』

 

生ける屍の死 (創元推理文庫)

生ける屍の死 (創元推理文庫)

 

 

 たいていのミステリーオールタイムベストで名のあがる作品。死人が生きかえる世界観でのミステリーである。設定が奇妙なミステリー、たとえば詠坂雄二だとか西澤保彦だとか、というのは大好きで、特に死人の生きかえる世界、というまるで『ステーシーズ』のような設定ならば、なおさら好きに違いない、と思っていた。けれど、人気なものは距離をおきたい、というあきらかに損でしかない思考によって、しばらく置いたままにしていた。

分厚いけれども、文体が軽くて、まるでブコウスキーのようなパンキッシュなリード力によってぐいぐいと読んでいけてしまう。シドとナンシーみたいな二人がピンク色の霊柩車を乗り回す、と聞いて、おっと思う人はぜひ読んでほしい。

 

イバン・レピラ『深い穴に落ちてしまった』

 

深い穴に落ちてしまった

深い穴に落ちてしまった

 

 

 

地元に大きい図書館ができた、という話があったので行ってみた。ろくに本も買えないような土地だけれど、その図書館はなかなか大きかった。ビオイ・カサーレスアンドレイ・クルコフなどとともに借りたのが、この寓話風物語だった。

深い穴に落ちてしまった兄弟。そこでの狂気。穴をのぼって人間を惨殺しに行くまでの経緯。

状況としては、たとえば日本ホラー小説大賞の『D‐ブリッジ・テープ』などに似ているけれど、こちらはよりいっそうメタファーだ。

穴、とはさまざまな隠喩を孕んでいる。丸々太った蛆虫を食べたり、憔悴して互いを襲ったりする兄弟はとにかく怒っている。それは革命の寓話である。

やわらかな語り口で描かれる苛烈な現実の根本に流れるのは「愛」なのである。

 

 

その他、印象的だったものをあげておく。

上田秋成雨月物語

カーヴァー『CARVER'S DOZEN』

宮沢章夫『80年代地下文化論講義』

木田元『反哲学入門』

アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』

泉鏡花草迷宮

赤江瀑『罪喰い』

キャリントン『耳ラッパ』

後藤明生『挟み撃ち』

最果タヒ『星か獣になる季節』

 

今年は一日一冊読めたらいいな、と思う。

 

【OTHERS編】

 

映画というコンテンツにずっと苦手意識があった。2時間くらいずっと動かずにいなければならない、というのが恐ろしかったのだ。けれど、去年はいろいろとTSUTAYAで借りたり、映画館で見たり、徐々にふれはじめた。

印象的だったものを5つあげておく。

 

『T2 トレインスポッティング

 

 

夜空くんと見に行った。マリファナやコカインがたくさんでてくるので、そういう映画かと思えば、失われた青春をめぐる物語であった。見終えた後、うわああとなった。前作で死んだメンバーの葬式をあげるために、スーツに花束のいでたちへ山へ行くカット。最高。俺たちも終わらないぞ。

 

ニーチェの馬

 

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タクシードライバー』からぶっ通しでみたのだけれど、えらいものを見てしまったという心地になった。時間そのものの体験。ひたすら風が吹いていて、長い時間をかけて水を汲んで、ジャガイモを齧る。こんな終わった映像を3時間よく見られたなと思うけれど、ある意味で心象風景そのままだったので、見終えて泣いた。

 

『エル・トポ』

 

エル・トポ HDリマスター版 [Blu-ray]

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詳しくはちょっと前に書いたので、気持ちだけ書いておくと、ああ、ぼくは「こういう」のが好きなんだよな、という再認識でした。カルト≒オタクなのでは。

kamisino.hatenablog.com

 

散歩する惑星

 

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あかごひねひねくんがもってきたもの。十字架を車でばきばき踏んでいくシーンが最高。やっぱり十字架はばきばき折ってこそ面白い。『サンタ・サングレ』でも大量生産されたキリスト像のカットがあって最高だった。今年は『未来世紀ブラジル』とか『イレイザーヘッド』とかみていきたい。

 

『パターソン』

 

パターソン [Blu-ray]

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ジャームッシュということで注目していたのだけれど見ずにいて、たまたま葉ね文庫で池上さんと話したのでちょっと遠くの単館まで見に行った。

黒人がコインランドリーの音でラップをして「詩を作っているんだ」と言っているシーンが最高。ロックンロールは鳴りやまず、詩はどこまでも続いていく。2017年に見た映画では一番だった。

 

 

音楽について。

毎日のようにレコードショップへ行っていたのに、去年はあまり行かなかった。

ライブは1月のでんぱ組in武道館、4月の&DNAパスピエ、7月のスピッツ30周年、そして9月の夏の魔物in川崎。

パスピエスピッツについては記事を書いた。

kamisino.hatenablog.com

 

kamisino.hatenablog.com

でんぱ組は、新しく虹のコンキスタドールの二人が入った。どんなになろうがぼくはコズミックメロンソーダマジックラブを背負うけれど、それでも6人の最後のライブを見に行けてよかった。WWDBESTは間違いなくでんぱ組のすべてであって、6人で歌ったのは、たぶんあれが最初で最後だったろう。

夏の魔物、ずっと行きたいと思いながら青森だったので行けなかった。筋肉少女帯のピックをとった。大森靖子に触った。まあ、いろいろとあったわけだけれど、最高という一言に含まれるあらゆる感情のみの肉体になった一日だった。

去年まではその年にリリースしたものを選んでいたけれど、2017年は2017年きいたもの、というくくりでいきたいと思う。つまりさぼりです。

 

大森靖子MUTEKI

 

MUTEKI(DVD付)

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大森靖子1部完。そういえてしまうほど、あまりに完璧な一枚。「流星ヘブン」なんてテン年代の一曲として歴史に残るだろう。セルフカバーなのだけれど、大森靖子の本質はやっぱり弾き語りなんだよな、と思う。2月の銀杏との対バンも楽しみ。 

 

少女スキップ『COSODOROKITSUNE』

 

COSODOROKITSUNE

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一時期、日本のシューゲイザーをきいていこうとおもっていろいろ聞いていたのだけれど、あ、好きだとなった一枚。ちょっとジャンルが違うかもしれないけれど『17歳とベルリンの壁』も好きで、あ、おしゃれ、という霊感がもるもると震えたのでした。

 

Burial『Untrue』

 

Untrue [解説付 / ボーナストラック2曲収録 / 国内盤] (BRC322)

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なんかもう歌詞とかしんどいな、という時期にクラブミュージックをだらだら流していたのだけれど、あげあげみたいなのより、こういうゲームソングみたいなのが好き。オタクなので。北欧メタルやDEDE MOUSEが好きなのもゲームっぽいから。オタクなので。

 

future funk

 

これについてはアーティストとかではなくて、ジャンルとして。ツイキャスをやったときにヴェイパー・ウェイブについて教えてもらって、そこからいろいろ見ていたらたどり着いたジャンル。要するに80年代のアニソンやJPOP(的なもの)をサンプリングして、ごりごりべたべたのダンスチューンにしちゃったやつなのだけれど、サンプリング元だとか、MVだとか、果てはアーティスト名までもぶっ飛んでいる(悲しいANDROIDとかマクロスmacross 82-99とか)ので、とてもよい。Artzie MusicやReal Love Musicなどのyoutubeチャンネルがあるので登録しておくと、無限に聞くことができます。

 

いとうせいこう『Mess/Age』

 

Mess / Age

Mess / Age

 

 

去年は東方とか東京03とか、個人的にはまっていたコンテンツはあったのだけれど、いとうせいこうという人間をしっかりと知ることができたのがとてもよかった。『ノーライフキング』の読書会から80年代文化論まで話が広がり、渋谷系の復活だとか、ニューアカだとか、そこらへんまで参照できたのは、ぜんぶいとうせいこうのおかげ。FSDで妙なことを言っているだけではないのである。

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今年もおもしろいものにであいたい。

ホドロフスキー・オールナイト

ホドロフスキーのオールナイト上映会にいった話。

物語の結末にふれる部分があります。

 

昨日、京都のみなみ会館アレハンドロ・ホドロフスキーのオールナイト上映会に行った。12月に新作『エンドレス・ポエトリー』が公開されるので、その記念ということだ。

みなみ会館とはとても古くからある映画館で、千本日活のような変わり種を含めても、京都でもっとも古くから存在している映画館のひとつ。

よくオールナイト企画(馴染みのない人のために説明すると、夜11時くらいから朝までぶっ続けで映画を見ようという楽しい企画)や、映画関係のトークイベントをしているので、映画好きにとっては聖地である。シアターのドアにも、様々な著名人のサインが書かれている。

とはいっても、ぼくはあまり映画というものを見てこなかったし、見るにしてもMOVIXだとかTOHOだとかのシネコンでしか見ていなかったので、そんなに知悉しているわけでもなかった。

はじめてここを訪れたのは銀杏BOYZのライブ映像集『愛地獄』が上映された時のこと。まだ働いていて、仕事をやめる寸前のたしか2月だった。職場で唯一仲が良く、音楽の好みがあった先輩が、「退職祝い」ということで連れてきてくれたのだった。はじめて峯田和伸を見たのも、はじめて彼の歌声を目の当たりにしたのも、みなみ会館だ。その日は隣の松屋でおろしポン酢牛飯を食べて帰った。脳から液体がどばどばでていた。

あれから3年たち、あらゆる状況が様変わりした。数年ぶりに近鉄に乗れば、大学時代を思い出し、ああ~と思ったりもする。京都駅はJRよりも近鉄の乗り場のほうが、なんとなく高級感がある気がする。フランスの駅みたい。

 

前置きが長くなったけれど、ホドロフスキーだ。

映画のことはほとんど知らないけれど、なんとなくカルト映画の監督ということで名前くらいはどこかで聞いていた気がする。

上映作品は『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』『サンタ・サングレ/聖なる血』の三本。これまでに映画を続けて見たのは2回までだったので、アルバイト終わりだということもあって、エスタロンモカを投入して気持ちを高める。周りからはモンスターエナジー系の匂いがしていたので、挙国一致してホドロフスキー脳にしようとしているみたいで楽しい。

はじめに館長からの挨拶があった。前日の12月1日に、みなみ会館閉館のアナウンスがあった。老朽化改修の費用が捻出できない、ということらしい。先日もJASRACの云々があったけれども、文化が消えていくのはさみしい。ぼくはせめて、と思って本は買うようにしているのだけれど、好きなものにはどんどんお金をかけなければ消えていってしまう、というのは意識しなくては、と思う。家とか車とか服とかどうでもよいけれど、本は消えてほしくない。

それでもしんみりとした感じもなく、むしろあたたかな空気の中、上映がはじまる。

 

『エル・トポ』

 

エル・トポ HDリマスター版 [Blu-ray]

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 砂漠の映像にはじまり、馬に乗ったガンマンと子供の会話。

「お前も一人前の男だ、母親とおもちゃを埋めなさい」

そういって子供は母親の絵とおもちゃを埋める。画面にはクローズアップされた母親の絵と去る父子の後ろ姿の静画。

もうこの時点で「あ、これは好きなやつだ」というアンテナがばりばりとはられた。

続くシーンでは砂漠の街に横たわる大量の人間と赤色。首吊り死体のミュージアム。まだ5分とたっていないだろうが、ぼくは席から身を乗り出していただろう。夢野久作の「死後の恋」でもそうだけれど、こういう舞台装置は動悸がするくらい好きなのだ。『エル・トポ』は、『ホーリー・マウンテン』もだけれど、それぞれの場面が強烈な一枚の絵として提示される。例えば冒頭の埋まる母と去る父子なんかは、サルバドール・ダリの絵画のようであった。

動画として、自然を映すのではなく、静止画の連続であるということを意識して、印象的な映像を繰り広げる。あたかも象徴的な、「普通ではない」絵の展示されている美術館を、早足で観賞しているような気分だ。普通の映画なら「印象に残ったシーン」とは物語のある抑揚の一点を指すことが多いように思うけれど、ホドロフスキーの場合は、物語関係なくそのコマ、動作、色、のひとつひとつが印象的なのだ。映画における静画とは、文章においては言葉であり、その意味で、ホドロフスキーが「詩人である」というのは間違いなく事実だろう。

この静物としての一面(しかもそれはリアリズムではなくシュールレアリズム、マジックレアリズム風である)、それからのちの、例えば『サンタ・サングレ』で顕著な暗黒舞踏のようなねっとりした動き、前衛バレエ的な動きの動的な一面の二面性がホドロフスキーの魅力として、ひとつある気がする。厳密にいうと二面性というより、「抽象的な動きの静画」という入り組んだ形であるのだけれど。

映画にかえって、主人公のガンマンは悪魔的な強さを誇り、悪者をばんばん殺していく。黒衣のカウボーイ然とした見た目もかなり格好良く、誰なんだこの役者は、と思っていたらホドロフスキー本人でびっくりした。細い脚とか、ついつい見てしまう。

村人虐殺の張本人を殺害したエル・トポはあっさり息子を捨て、女性と流浪の旅に出る。

ここからがまるで少年漫画のような部分で、女は「強い人にしか興味がない、砂漠の銃の達人を殺して!」と砂漠に住まう4人の達人の殺害をねだる。

これは、オタクだからなのだろうけれど、敵側の四天王とか五聖刃とか十本刀とかそういう幹部集団みたいなのは、もうでてくるだけで拍手喝采だ。

この4人も、ちゃんとキャラが立っていて、銃弾を透かすヨガの達人、繊細な天才のマザコン男、音楽と兎を愛する男、仙人。みんなエル・トポより格上だけれど、彼はだまし討ちで勝っていく。

最後の仙人にだけは完璧に「負け」て、彼は気が狂う。

ここまでが前半。後半は洞窟のフリークスたちに、知らぬ間に「神」として崇められるところから始まる。

捨てた子供との再会もあるのだけれど、印象的だったのは彼がエル・トポを「父」ではなく「師」と表現したこと。

フリークスたちを解放するために道化を演じて金を稼ぐエル・トポ。もうかつての傲慢なかっこよさはない。

最後には、野に放たれたフリークスたちが銃を乱射され、死に、すべてが水泡に帰したエル・トポは焼身自殺する。焼身自殺ってエモくないですか。Rage Against The Machineの『Rage Against The Machine』のジャケ写で有名なティック・クアン・ドックとか。

 

Rage Against the Machine

Rage Against the Machine

 

 

この燃やす、っていう行為もホドロフスキーの中によくでてきて、例えば『ホーリー・マウンテン』で札束を燃やす場面であったり、『サンタ・サングレ』で母の記憶を燃やすときであったり、彼の中で火は「喪失」の意味合いをもっているのかもしれない。これは日本で火葬の文化に触れたであろうことも、ひょっとしたら関係があるのかもしれない。

 

ホーリー・マウンテン

 

ホーリー・マウンテン HDリマスター版 [Blu-ray]

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『エル・トポ』の興奮醒めやらぬまま、そのまま休憩時間に入ったのだけれど、誰かが吐いたらしくて館内に嘔吐物の匂いが広がって最高の空間だった。

ホーリー・マウンテン』は、2016年に読んだ小説の中でもっともよかったルネ・ドーマルの『類推の山』の映画化作品らしくて、楽しみだった。

 

類推の山 (河出文庫)

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ちょっとの映像トラブルののちにはじまったのが、女性二人と導師の謎の宗教行為で、「ああ、最高」となる。

ストーリーとしては、青年の陰茎を切り取ってコレクションしたり、子供を戦争へ導くためのおもちゃを作ったり、おかしな趣味をもつ富豪たちが、不死の賢者に取って代わるため「山」を目指す、という話だ。こちらもやっぱり四天王的なものがカルト版『水滸伝』みたいな話の中ででてくるので楽しい。次はどんな人間なのだろう、と身を乗り出してみてしまう。

『エル・トポ』よりいっそう悪夢的で、絵画的なので、印象に残った映像だけ列挙しておく。

キリスト像の足に風船を結んで、空に飛ばす。

・大量のキリスト像に囲まれた部屋。

・戦争のおもちゃを作る女が道化から黒衣に着替えるカット。

・アライさんとフェネックのごとく山へ登る団体を追いかける女性とチンパンジー。

・最後

ロイ・アンダーソンの『散歩する惑星』でも思ったけれど、キリスト教をネタにしていく映画は最高だ。

 

散歩する惑星 愛蔵版 [DVD]

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最後は「これは映画だ。われらには現実がある」といった形で、メタ的に終わっていく。『類推の山』は読むと元気が出てくるのだけれど、その「生への肯定」感を、こういう形でやったか、と素直に驚いた。寺山修司の『田園に死す』を想起した。

 

 

寺山の時代の前衛界隈では、『エル・トポ』を見なければ前衛を名乗れない、という風潮があったらしい。次の『サンタ・サングレ』では意識的だが、『エル・トポ』にも表現されていた、「母への絶対的/妄信的な愛」は寺山ともかぶってくるところだ。

このメタへの意識、それから抽象的な連想、なぜか根本に流れる少年漫画的な精神性に、ゼロ年代の諸作を読んでいるときと同じようなこころの動きが起こる。

 

『サンタ・サングレ/聖なる血』

 

 

はじめに都市の空撮があって、おお、方向転換か、と思ってちょっと不安になったけれど、両手を切り落とされ強姦致死させられた少女をご神体にすえる宗教が登場してきて、ああ、変わってないわ、と思う。

前の二つに比べれば物語が明確で、かつ胸にくる描写もあるので、肩ひじをはらずにみられた。フリークスはやっぱりでてくる。フリークス・銃乱射・火・悪夢。これがホドロフスキーなのだろう。

母を父が殺し、父が目の前で自殺するところを見たサーカスの少年・フェニックスは気が狂い、精神病棟に入れられてしまう。そうして彼は母の幻影によって操られ、殺人を繰り返す。このあたりはヒッチコックの『サイコ』を思い出す。

 

サイコ (字幕版)

サイコ (字幕版)

 

 

母だと思っていたもの、慕ってくれた小人、サーカスのピエロたち、彼らがすべて幻影だとわかる結末の物悲しさといったらない。救いにきた唖の少女が幻ではなかったことだけが唯一の救いだ。

それにしてもサーカス≒見世物小屋のフリークスたち。淫乱な女。魔術使い。少女。ときたら、どうしても頭に浮かんでくるのは丸尾末広の『少女椿』だ。さきほどの寺山修司もそうだけれど、このあたりの影響関係をみていくのは、すごく楽しいだろうなと思う。というか、今度やりたい。

 

少女椿

少女椿

 

 

フランスのグラン・ギニョルであったり、ヒエロニムス・ボスなどのネーデルラントの画家、レオノーラ・キャリントン(『ホーリー・マウンテン』は彼女の『耳ラッパ』に似ているな、と思ったらやはり交流があったらしい)やアンドレ・ブルトンシュールレアリスト、このあたりの人間関係、文学史の動きは非常に面白いので、自分のためにいろいろ見てみようかなと思う。特にヒエロニムス・ボスは塚本邦雄も好きだったようで、日本の前衛に与えた影響は少なくないはずだ。

 

耳ラッパ―幻の聖杯物語

耳ラッパ―幻の聖杯物語

 

 

ともあれ、脳が活性化するよい上映会だった。思わず九条のみなみ会館から京都駅まで歩いてしまった。朝の5時から半分スキップで歩く男がいたら、それはぼくであった可能性が高い。

12月下旬にはルイス・ブニュエルの上映会が東京であって、そのためだけに東京へ行こうかどうか迷うくらい気になる。今年はあとベルイマンを見たいな、と思う。

映画はほとんど見てこなかったので、いつでも目の前に金・銀・瑠璃色の山がねむっているようでうれしい。

久しぶりによい夜だった。もちろん次の日は頭痛によって、グロッキーになった。

人生だ、これは。