ぬばたま第二号感想

うばたまや闇のくらきに天雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる/源実朝

あじさいの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼/佐藤佐太郎

 

96年だから「黒」ということはあとあと知ったのだけれど、黒色ってとてもかっこいいな、と思う。印象に残った歌について、いくつか書いておこうと思います。

 

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 表紙の写真が投稿できなかったのでただの黒です

 

強い風わたしといない日のきみを想像してみるときにとりわけ/乾遥香

 

「わたしといない日」といえば、たとえば交際関係にあって、あるいは好意を向けている人間が、わたしといない日≒わたしでない誰かといるかもしれない日、ということになるのだと思う。でも、もしかしたら「わたしといない日」はわたしときみが出会わなかった世界の夢想なのかもしれない。ともあれ、わたしときみは、きっと常にひとつなのだ。だからこそ、切り離されたときに、神経が過敏になってしまう。順番としてはきみといないから風が強い、なのだ。けれど、そういう日に限って特に強く風が吹く、という錯誤した言葉の並べ方に、わたしと切り離された「自然」が定義される。そういった世界とも換言される自然に、きっとわたしときみなら対抗できるのだろう。

 

 

ティッシュ箱がつぶれてたぶんどちらかが踏んじゃったんだ今日のどこかで/初谷むい

 

お湯のことさゆってよべばおいしそう さゆ きみの中身を知りたいよ/初谷むい

 

好きです。なんにもかなしいことはいっていないはずなのに、どうしてこういう感情になるのか不思議になる。ティッシュ箱、たしかによく潰れる。踏んで潰れるというからには、きっと床に乱雑に置かれている。丁寧な生活では、きっとない。どちらが踏んだかは定かではない。どの時点で踏んだのかも定かではない。ただ、ふたりの生活の結果として潰れたティッシュ箱がある。めちゃくちゃになって進んだ一日の表象として潰れたティッシュ箱がある。

アヌビアス・ナナ水槽に揺れてゐて ナナ、ナナ、きみの残像がある/山田航」例えばこんな歌。楽曲ならば、筋肉少女帯の「香菜、頭をよくしてあげよう」であったり、米津玄師の「vivi」であったり、ROSSOの「シャロン」であったり、スピッツの「ナナへの気持ち」であったり、こういう人名に呼びかける、という歌がある。ぼくは、歌って呼びかけなのではないか、と思っている。「さゆ」も「ナナ」も元は物の名前だ。そこから人名を探し出して呼びかけるとき、ある切実さが生まれる。お湯なんだから透き通っているはずだ。それなのに、中身を知りたいのだ。お湯ですらわからないのだから、人間なんてもっとわからない。

初谷さんの歌の「着地しない言葉遣い」を見ていると、この人の日本語は呪術のようだ、と思う。ひらがな、過去形、主語・目的語の欠落、口語、様々な要素から、日常のそこここに「ほろび」が立ち現れる。

 

 

海風と帆船 なにも奪わない奪われないで暮らしていきたい/佐々木遥

 

海風と帆船。風があるから船は進む。一見すればそれは互助的であって、ある種理想的な関係性に見える。しかしながら、風が強く吹けば船は転覆する。帆は自由に進むことができたはずの風を遮っている。帆船は停止するという自由を風に奪われている。おそらく生きていく中でなにも奪わないで、奪われないで生きていくことは不可能だ。そうして、それを主体はわかっている。「いきたい」という希望は、実は「海風と帆船」によって最初から絶望になっている。けれども、奪っている、奪われているということを意識しなければ、それらは理想的な私/君の関係だ。諦観の中に、切実な願いがどうしても光ろうとする。これをおそらく祈りという。

 

 

映画ならもう冒頭は越えたはず サントラまみれで交わるセックス/関寧花

 

変な言い回しだなと思った。サントラまみれ、とは。実際に映画のBGMを流しながらセックスしているのかもしれないけれど、ぼくはコンテクストのことなのかと思った。コンテクスト、言い換えれば桎梏。ひとつのロマンスのように人生をとらえ、冒頭を越えるころには様々なコンテクストが周囲には生まれているのだろう。映画におけるサントラは、雰囲気を決定する重要な要素だ。日常系ほのぼのアニメの曲が『ダイ・ハード』に流れていたら、途端に気が抜けてしまう。きみとわたしの関係の中で絡みついてくる、すべてのものの中でのセックス。それって実は普通のセックスなのだけれど、それを「サントラまみれ」という突拍子もない言葉で表現されると、何やら面白いものに思えてくる。そして、それを俯瞰している冷徹なわたしが、うっすらと背後に存在している。

 

 

うお座です」「ミモザですか?」と返しつつぼくらに未知の樹が茂る森/越田勇俊

 

うお座です」という答えを発する機会は、たぶん「何座ですか?」と聞かれた時だけだろう。だから、「うお座」を「ミモザ」と聞き間違えることは、ありえない。だから、すでにここには普通ではない論理がはたいている。これは関係ないと思うけれど、みなみのうお座のフォーマルハウトは、クトゥルフ神話ではニャルラトホテプの天敵クトゥグァの住む星だ。クトゥグァはニャルラトホテプの住むン=ガイの森を焼き払う。「未知の樹が茂る森」の神秘的な言い回しは、そういう論理の外にある神話をも想起させる。「うお座」「ミモザ」の聞き間違いだけで、海、空、森という三カ所を一首の中に登場させるのは、面白いと思う。

 

 

僕も飛びたい僕も飛びたい流れ星消えゆく前に僕も飛びたい/九条しょーこ

 

「気づいてくれない」がリフレインされる連作のひとつ。僕も飛びたい、ってどういうことなのだろう。空を?きっと流れ星のように、誰かに待ち望まれたい、見つけてほしい、ということなのだと思う。「黒色の落書きは叫ぶ わたしを消してわたしを消してわたしを消して/早坂類」を思い浮かべた。こちらもきっちり三回、願いを繰り返す。これは流れ星への願いだ。「僕も飛びたい」「僕も飛びたい」流れ星消えゆく前に(僕は願う)「僕も飛びたい」だろう。けれど、その括弧には、きっと「一緒に」という気持ちも入っている。では、飛んだら誰か気づいてくれるのか、というと連作の中でアンサーがされている。連作として面白かった。

 

 

はつ恋のやうにしづかな遊園地のそこにいつでもゐたしろいいぬ/岐阜亮司

 

ああ、初恋って静かなんだと、まずは思った。でも、この静かは、ほんとうに静かなわけではないだろう。「まだあげ初めし前髪の」のように、言葉になる初恋。韻律にのせられて歌われる初恋。その背後には情熱が、眩暈がある。なんといっても遊園地だ。初恋と遊園地という二つの言葉が、「静か」で結び付けられるスリリングさは絶妙だ。そうして、その流れるような言葉は、しろいいぬへと向かっていく。ゐた、のだ。過去形なのだ。きっともういないのだろう。そうしてまた冒頭の初恋へと戻っていく。しろいいぬ、聖性。失われた神聖。これはもう一首を通してどうにも動きようがない、綺麗な歌だと思った。

 

 

糸を引くようなちゃん付けされている 水に沈めて葬式にする/櫛田有希

 

糸を引くようなちゃん付け。なぜだろう、このちゃん付けに対して、ぼくは否定的なニュアンスを受け取った。それはきっと「葬式」という言葉があるからだろう。「ちゃん」という言葉に含まれる性差の、あるいはうっすらとした階層化のニュアンス、それが糸引くようになされている。糸を引くだけでよいのに、さらにされている(ing)というくらいなのだから、相当気になっているのだろう。だから、一度ぶった切って水に沈めて葬式をする。葬る。

もちろん、ちゃん付けがうれしくて、それを冷やすために冷たい水で顔を洗う、というようなプラスにも読めるのだけれど、この連作の中に置かれると、どうにも違和の言葉として現れてくる気がした。

 

 

災厄ののちの世界のうすあかりけもののけものみんな笑つて/岐阜亮司

 

テーマ詠「黒」の中の一首。これについては、歌というより言葉について気になって、自分のためにも書いておきたいところがある。「けもののけもの」という言葉、2017年以後においてはあるひとつのアニメを想起させる言葉になっていると思う。したがって、全体がその文脈に引っ張られることになる。むろん、そういう文脈に乗ろうが乗るまいが、この短歌のノワールな雰囲気、まさに黒の題詠には相応しいよさ、というのは変わらない。けれど、昔、ある人間が「性の悦びを知りやがって」という言葉は、もうエロ漫画界では使えない、というようなことを話してくれた。そこにはもう文脈が生まれてしまっているからだ。

この歌はそういうことを思い出した歌だったので、なんとなく気になった歌だった。

 

 

エッセイも面白かった。なんだか陰謀論めいているけれど、こういう結びつきの話はいいねいいねとなるので、『ぬばたま』という同人誌の中で読めたのは、とてもよかった。

あと、表紙、めちゃくちゃかっこよくないですか。黒、好き。オタクなので

2017年ベスト(本・その他コンテンツ)

kamisino.hatenablog.com

 

2016年は「失」という漢字で総括していた。

去年は「変」だと思う。よくもわるくも、いろいろな変化があった。

兵庫短歌賞の新人賞をもらい、短歌の集まりによくいった。それから仕事をはじめた。薬の量も減った。

去年は漫画や音楽にあまり触れなかったので、例年のように本、音楽、漫画という章だてにはせず、本とその他コンテンツという形にしようと思う。今年はたくさん触れていきたい。

 

 

【BOOK編】

 

ガルシア=マルケス百年の孤独

 

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

 

 

 文学界の大ボス、という概念が存在していて、それはドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』、ジョイス『ユリシーズ』、プルースト失われた時を求めて』、ピンチョン『重力の虹』、そしてこの『百年の孤独』だ。まあ、その概念はぼくが勝手に思っているだけなのだけれど。とにかく、読書メーターの登録数が1000冊だったので、えい、とばかりに読み進めてみた。同じ名前の人間がたくさん出てくるのだけれど、みんな立ち位置やキャラがしっかりしているので、案外混同はしなかった。木に縛り付けられる老人、空飛ぶ絨毯をもつ錬金術師、人が死んだら降る黄色い花、こういう摩訶不思議な世界観は本当に大好き。『エレンディラ』の長編という感じ。この一冊に、何編の短編小説のアイデアが凝縮されているのだろう。

ラテンアメリカ文学(というと広すぎるけれど)の奇妙さ、というのは垂涎ものだ。今年も読んでいきたい。

 

町田康パンク侍、斬られて候

 

パンク侍、斬られて候 (角川文庫)

パンク侍、斬られて候 (角川文庫)

 

 

 町田康といえば『告白』だったのだけれど、個人的にはこちらのほうが好きだった。まくしたてる文体、ダウンタウンのコントのような構成。笑える文学というのは、わりあい稀有だと思う。やはりこれも摩訶不思議としかいいようがなくて、『きれぎれ』の冒頭のような幻視が満載ながらも、最後は『弥次喜多in DEEP』のような壮大さへと収束(攪拌?)されていく。

宗教っていうのは、まあ、こんなものだよな、という批評的な意識ももちろん感じられ、さすがはパンクロッカーさるぼんぼんと涙ながらにページを閉じたのだった。2018年は町田康の年になれば、と切に思う。(犬年なので)

 

シュトルム『みずうみ』

 

みずうみ 他四篇 (岩波文庫)

みずうみ 他四篇 (岩波文庫)

 

 

みずうみ、という題の本、すべて好きなのかもしれないという直観がある。この本は、もう会うことのできない人間がすすめてくれたもので、しばらく置いていた本だった。たまたまかばんに入れたまま本屋へ向かう途中に、見知らぬ女性に話しかけられた。「あの、さつまいもチップス買いませんか」。ぼくはイヤホンをつけていたのだけれど、それでも話しかけてくるなんて、どれだけ売りたいんだ、と思いながらも「わざわざぼくなんかに話しかけてくれたんだから……」という生来の断れなさを発揮して、思わず買ってしまった。おかげで本が買えなくなったので、チップスを齧りながら扇町公園の鉄塔の土台に座って読んだのだった。

叙情、失われた青春、そういう言葉がそのまま一冊の本になったような代物であった。読み終わって顔をあげたら、夕日が沈みかけつつ空を橙に染めていて、ああ、悪くない一日だったな、と思ったのだった。

 

残雪/バオ・ニン『暗夜/戦争の悲しみ』

 

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)

 

 

隔月で『池澤夏樹世界文学全集』を読んでいこうという試みをしている。どうも池澤夏樹は、反効率主義、近代化へのアンチといったテーマで選んでいるのではないか、という気がしてくる。残雪という作家は、文化大革命の被害者であって、理想という言葉の逆を貼るような薄暗くて不気味な作風の作家。ボルヘスに通じるところもあって、ひとことで表すなら「影」だ。アンナ・カヴァンなんかも少し思い浮かべた。

バオ・ニンはベトナム戦争ベトナム人側から書いた作家。よく燃やすために、わざわざよく燃える草の種を空から蒔いていたというのだから恐ろしい。ここを境に、ベトナム戦争について調べていくことになった。残雪のものもそうだし、リョサの『楽園への道』などでもそうだけれど、世界文学は日本のものをよむときと少し違った部分の筋肉を使うので、どっと疲れるけれど、爽快感もあるのだった。

 

オーウェル1984年』

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

はじめてよんだのは高校生のとき、テスト範囲として原文のペーパーバックが配布されて、したがって英語で読んだのだった。当時からずっと「二分間憎悪」だの「二重思考」だの、なんとなく口にしてしまう造語が印象的であった。

それから村上春樹の『1Q84』や伊藤計劃の『ハーモニー』などで、陽の目があたっていき、ピンチョンの解説がついた新装版が刊行されるにあたって、もう一度読んでみた。思想的でありながら、根本はラブストーリーなので推進力がある。

あえてこんなことをいうのも、という感じではあるけれど、2+2=5を笑えない時代なのだと思う。

 

リャマサーレス『黄色い雨』

 

黄色い雨 (河出文庫)

黄色い雨 (河出文庫)

 

 

なぜ手に取ったかは覚えていないのだけれど、おそらく好きだろう、というセンサーがはたらいたような気がする。終わってしまった村で、孤独な男がひたすら「~だろう、~だろう」という語り口で世界を構成していく。「だろう」という言葉、かなしくないですか。どこまでも推量であって、事実とはいえない。現実と虚構のあわいをたゆたうための助動詞。この言葉でまくしたてられると、どんどん闇に包まれていく。

雨でぐずぐずになった地面のように、たしかな反発力があるはずの大地が、どろどろにとろけていく。

 

中上健次枯木灘

 

枯木灘 (河出文庫)

枯木灘 (河出文庫)

 

 

血と地。芥川賞の作品でもなんでも読めばわかるように、人気のあるテーマだ。それこそ『百年の孤独』であったり、フォークナーであったり、海外文学が発端であるとはいえ、日本ナイズされた血と地の文学は、また違った濃密さに満ちている。男は棒、女は穴。暴力とセックス。被差別部落の、汗と精液の匂い。

熊野という土地に、メタフォリカルな魅力を抱いていて、卒業旅行と称して熊野三山詣でをしたことがある。熊野本宮に比べれば、新宮のあたりはまだしも人気があるのだけれど、それでも独特の空気が流れていた。『枯木灘』で日本文学は終わっている、という言もあるけれど、ここが日本文学のはじまり、ということもできる。なんにせよ、ひとつの強大なランドマークであることは間違いない。

 

a.k.a.GAMI『ヒップホップ・ドリーム』

 

ヒップホップ・ドリーム

ヒップホップ・ドリーム

 

  

ミーハーである。どちらかといえばHIPHOPという音楽ジャンルは、ぼくは苦手であった。それは中学生のとき、ぼくをいじめるような人間はことごとくHIPHOPを聞いていたからだった。だから、どんなに勧められようが、ここだけは敬遠していた。

それがFSDによって火が付き、あっという間にみんながラップをしていた。しばらく鬱病でおしまいになっていた2016年だったけれども、なんとなくラップをやりはじめたら精神がよくなった。「即興」とはある意味で切羽詰まるということで、わりあい思っている感情の言葉が素直にでてくる。ぼくはけっこう訥々と考えながら語ってしまうので、カウンセリングよりも、こちらのほうが「リアル」で健康的だった。

これはHIPHOP界を牽引し続けてきた漢a.k.a.GAMIの自伝なのだけれど、「マイクで『刺す』といったからほんとうに刺しにいった」という、エピソードを読んで「リアル」と「フェイク」という言葉の意味がすぽーんと脳の中でひらめいたのだった。

 

山口雅也『生ける屍の死』

 

生ける屍の死 (創元推理文庫)

生ける屍の死 (創元推理文庫)

 

 

 たいていのミステリーオールタイムベストで名のあがる作品。死人が生きかえる世界観でのミステリーである。設定が奇妙なミステリー、たとえば詠坂雄二だとか西澤保彦だとか、というのは大好きで、特に死人の生きかえる世界、というまるで『ステーシーズ』のような設定ならば、なおさら好きに違いない、と思っていた。けれど、人気なものは距離をおきたい、というあきらかに損でしかない思考によって、しばらく置いたままにしていた。

分厚いけれども、文体が軽くて、まるでブコウスキーのようなパンキッシュなリード力によってぐいぐいと読んでいけてしまう。シドとナンシーみたいな二人がピンク色の霊柩車を乗り回す、と聞いて、おっと思う人はぜひ読んでほしい。

 

イバン・レピラ『深い穴に落ちてしまった』

 

深い穴に落ちてしまった

深い穴に落ちてしまった

 

 

 

地元に大きい図書館ができた、という話があったので行ってみた。ろくに本も買えないような土地だけれど、その図書館はなかなか大きかった。ビオイ・カサーレスアンドレイ・クルコフなどとともに借りたのが、この寓話風物語だった。

深い穴に落ちてしまった兄弟。そこでの狂気。穴をのぼって人間を惨殺しに行くまでの経緯。

状況としては、たとえば日本ホラー小説大賞の『D‐ブリッジ・テープ』などに似ているけれど、こちらはよりいっそうメタファーだ。

穴、とはさまざまな隠喩を孕んでいる。丸々太った蛆虫を食べたり、憔悴して互いを襲ったりする兄弟はとにかく怒っている。それは革命の寓話である。

やわらかな語り口で描かれる苛烈な現実の根本に流れるのは「愛」なのである。

 

 

その他、印象的だったものをあげておく。

上田秋成雨月物語

カーヴァー『CARVER'S DOZEN』

宮沢章夫『80年代地下文化論講義』

木田元『反哲学入門』

アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』

泉鏡花草迷宮

赤江瀑『罪喰い』

キャリントン『耳ラッパ』

後藤明生『挟み撃ち』

最果タヒ『星か獣になる季節』

 

今年は一日一冊読めたらいいな、と思う。

 

【OTHERS編】

 

映画というコンテンツにずっと苦手意識があった。2時間くらいずっと動かずにいなければならない、というのが恐ろしかったのだ。けれど、去年はいろいろとTSUTAYAで借りたり、映画館で見たり、徐々にふれはじめた。

印象的だったものを5つあげておく。

 

『T2 トレインスポッティング

 

 

夜空くんと見に行った。マリファナやコカインがたくさんでてくるので、そういう映画かと思えば、失われた青春をめぐる物語であった。見終えた後、うわああとなった。前作で死んだメンバーの葬式をあげるために、スーツに花束のいでたちへ山へ行くカット。最高。俺たちも終わらないぞ。

 

ニーチェの馬

 

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タクシードライバー』からぶっ通しでみたのだけれど、えらいものを見てしまったという心地になった。時間そのものの体験。ひたすら風が吹いていて、長い時間をかけて水を汲んで、ジャガイモを齧る。こんな終わった映像を3時間よく見られたなと思うけれど、ある意味で心象風景そのままだったので、見終えて泣いた。

 

『エル・トポ』

 

エル・トポ HDリマスター版 [Blu-ray]

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詳しくはちょっと前に書いたので、気持ちだけ書いておくと、ああ、ぼくは「こういう」のが好きなんだよな、という再認識でした。カルト≒オタクなのでは。

kamisino.hatenablog.com

 

散歩する惑星

 

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あかごひねひねくんがもってきたもの。十字架を車でばきばき踏んでいくシーンが最高。やっぱり十字架はばきばき折ってこそ面白い。『サンタ・サングレ』でも大量生産されたキリスト像のカットがあって最高だった。今年は『未来世紀ブラジル』とか『イレイザーヘッド』とかみていきたい。

 

『パターソン』

 

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ジャームッシュということで注目していたのだけれど見ずにいて、たまたま葉ね文庫で池上さんと話したのでちょっと遠くの単館まで見に行った。

黒人がコインランドリーの音でラップをして「詩を作っているんだ」と言っているシーンが最高。ロックンロールは鳴りやまず、詩はどこまでも続いていく。2017年に見た映画では一番だった。

 

 

音楽について。

毎日のようにレコードショップへ行っていたのに、去年はあまり行かなかった。

ライブは1月のでんぱ組in武道館、4月の&DNAパスピエ、7月のスピッツ30周年、そして9月の夏の魔物in川崎。

パスピエスピッツについては記事を書いた。

kamisino.hatenablog.com

 

kamisino.hatenablog.com

でんぱ組は、新しく虹のコンキスタドールの二人が入った。どんなになろうがぼくはコズミックメロンソーダマジックラブを背負うけれど、それでも6人の最後のライブを見に行けてよかった。WWDBESTは間違いなくでんぱ組のすべてであって、6人で歌ったのは、たぶんあれが最初で最後だったろう。

夏の魔物、ずっと行きたいと思いながら青森だったので行けなかった。筋肉少女帯のピックをとった。大森靖子に触った。まあ、いろいろとあったわけだけれど、最高という一言に含まれるあらゆる感情のみの肉体になった一日だった。

去年まではその年にリリースしたものを選んでいたけれど、2017年は2017年きいたもの、というくくりでいきたいと思う。つまりさぼりです。

 

大森靖子MUTEKI

 

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大森靖子1部完。そういえてしまうほど、あまりに完璧な一枚。「流星ヘブン」なんてテン年代の一曲として歴史に残るだろう。セルフカバーなのだけれど、大森靖子の本質はやっぱり弾き語りなんだよな、と思う。2月の銀杏との対バンも楽しみ。 

 

少女スキップ『COSODOROKITSUNE』

 

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一時期、日本のシューゲイザーをきいていこうとおもっていろいろ聞いていたのだけれど、あ、好きだとなった一枚。ちょっとジャンルが違うかもしれないけれど『17歳とベルリンの壁』も好きで、あ、おしゃれ、という霊感がもるもると震えたのでした。

 

Burial『Untrue』

 

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なんかもう歌詞とかしんどいな、という時期にクラブミュージックをだらだら流していたのだけれど、あげあげみたいなのより、こういうゲームソングみたいなのが好き。オタクなので。北欧メタルやDEDE MOUSEが好きなのもゲームっぽいから。オタクなので。

 

future funk

 

これについてはアーティストとかではなくて、ジャンルとして。ツイキャスをやったときにヴェイパー・ウェイブについて教えてもらって、そこからいろいろ見ていたらたどり着いたジャンル。要するに80年代のアニソンやJPOP(的なもの)をサンプリングして、ごりごりべたべたのダンスチューンにしちゃったやつなのだけれど、サンプリング元だとか、MVだとか、果てはアーティスト名までもぶっ飛んでいる(悲しいANDROIDとかマクロスmacross 82-99とか)ので、とてもよい。Artzie MusicやReal Love Musicなどのyoutubeチャンネルがあるので登録しておくと、無限に聞くことができます。

 

いとうせいこう『Mess/Age』

 

Mess / Age

Mess / Age

 

 

去年は東方とか東京03とか、個人的にはまっていたコンテンツはあったのだけれど、いとうせいこうという人間をしっかりと知ることができたのがとてもよかった。『ノーライフキング』の読書会から80年代文化論まで話が広がり、渋谷系の復活だとか、ニューアカだとか、そこらへんまで参照できたのは、ぜんぶいとうせいこうのおかげ。FSDで妙なことを言っているだけではないのである。

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今年もおもしろいものにであいたい。

ホドロフスキー・オールナイト

ホドロフスキーのオールナイト上映会にいった話。

物語の結末にふれる部分があります。

 

昨日、京都のみなみ会館アレハンドロ・ホドロフスキーのオールナイト上映会に行った。12月に新作『エンドレス・ポエトリー』が公開されるので、その記念ということだ。

みなみ会館とはとても古くからある映画館で、千本日活のような変わり種を含めても、京都でもっとも古くから存在している映画館のひとつ。

よくオールナイト企画(馴染みのない人のために説明すると、夜11時くらいから朝までぶっ続けで映画を見ようという楽しい企画)や、映画関係のトークイベントをしているので、映画好きにとっては聖地である。シアターのドアにも、様々な著名人のサインが書かれている。

とはいっても、ぼくはあまり映画というものを見てこなかったし、見るにしてもMOVIXだとかTOHOだとかのシネコンでしか見ていなかったので、そんなに知悉しているわけでもなかった。

はじめてここを訪れたのは銀杏BOYZのライブ映像集『愛地獄』が上映された時のこと。まだ働いていて、仕事をやめる寸前のたしか2月だった。職場で唯一仲が良く、音楽の好みがあった先輩が、「退職祝い」ということで連れてきてくれたのだった。はじめて峯田和伸を見たのも、はじめて彼の歌声を目の当たりにしたのも、みなみ会館だ。その日は隣の松屋でおろしポン酢牛飯を食べて帰った。脳から液体がどばどばでていた。

あれから3年たち、あらゆる状況が様変わりした。数年ぶりに近鉄に乗れば、大学時代を思い出し、ああ~と思ったりもする。京都駅はJRよりも近鉄の乗り場のほうが、なんとなく高級感がある気がする。フランスの駅みたい。

 

前置きが長くなったけれど、ホドロフスキーだ。

映画のことはほとんど知らないけれど、なんとなくカルト映画の監督ということで名前くらいはどこかで聞いていた気がする。

上映作品は『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』『サンタ・サングレ/聖なる血』の三本。これまでに映画を続けて見たのは2回までだったので、アルバイト終わりだということもあって、エスタロンモカを投入して気持ちを高める。周りからはモンスターエナジー系の匂いがしていたので、挙国一致してホドロフスキー脳にしようとしているみたいで楽しい。

はじめに館長からの挨拶があった。前日の12月1日に、みなみ会館閉館のアナウンスがあった。老朽化改修の費用が捻出できない、ということらしい。先日もJASRACの云々があったけれども、文化が消えていくのはさみしい。ぼくはせめて、と思って本は買うようにしているのだけれど、好きなものにはどんどんお金をかけなければ消えていってしまう、というのは意識しなくては、と思う。家とか車とか服とかどうでもよいけれど、本は消えてほしくない。

それでもしんみりとした感じもなく、むしろあたたかな空気の中、上映がはじまる。

 

『エル・トポ』

 

エル・トポ HDリマスター版 [Blu-ray]

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 砂漠の映像にはじまり、馬に乗ったガンマンと子供の会話。

「お前も一人前の男だ、母親とおもちゃを埋めなさい」

そういって子供は母親の絵とおもちゃを埋める。画面にはクローズアップされた母親の絵と去る父子の後ろ姿の静画。

もうこの時点で「あ、これは好きなやつだ」というアンテナがばりばりとはられた。

続くシーンでは砂漠の街に横たわる大量の人間と赤色。首吊り死体のミュージアム。まだ5分とたっていないだろうが、ぼくは席から身を乗り出していただろう。夢野久作の「死後の恋」でもそうだけれど、こういう舞台装置は動悸がするくらい好きなのだ。『エル・トポ』は、『ホーリー・マウンテン』もだけれど、それぞれの場面が強烈な一枚の絵として提示される。例えば冒頭の埋まる母と去る父子なんかは、サルバドール・ダリの絵画のようであった。

動画として、自然を映すのではなく、静止画の連続であるということを意識して、印象的な映像を繰り広げる。あたかも象徴的な、「普通ではない」絵の展示されている美術館を、早足で観賞しているような気分だ。普通の映画なら「印象に残ったシーン」とは物語のある抑揚の一点を指すことが多いように思うけれど、ホドロフスキーの場合は、物語関係なくそのコマ、動作、色、のひとつひとつが印象的なのだ。映画における静画とは、文章においては言葉であり、その意味で、ホドロフスキーが「詩人である」というのは間違いなく事実だろう。

この静物としての一面(しかもそれはリアリズムではなくシュールレアリズム、マジックレアリズム風である)、それからのちの、例えば『サンタ・サングレ』で顕著な暗黒舞踏のようなねっとりした動き、前衛バレエ的な動きの動的な一面の二面性がホドロフスキーの魅力として、ひとつある気がする。厳密にいうと二面性というより、「抽象的な動きの静画」という入り組んだ形であるのだけれど。

映画にかえって、主人公のガンマンは悪魔的な強さを誇り、悪者をばんばん殺していく。黒衣のカウボーイ然とした見た目もかなり格好良く、誰なんだこの役者は、と思っていたらホドロフスキー本人でびっくりした。細い脚とか、ついつい見てしまう。

村人虐殺の張本人を殺害したエル・トポはあっさり息子を捨て、女性と流浪の旅に出る。

ここからがまるで少年漫画のような部分で、女は「強い人にしか興味がない、砂漠の銃の達人を殺して!」と砂漠に住まう4人の達人の殺害をねだる。

これは、オタクだからなのだろうけれど、敵側の四天王とか五聖刃とか十本刀とかそういう幹部集団みたいなのは、もうでてくるだけで拍手喝采だ。

この4人も、ちゃんとキャラが立っていて、銃弾を透かすヨガの達人、繊細な天才のマザコン男、音楽と兎を愛する男、仙人。みんなエル・トポより格上だけれど、彼はだまし討ちで勝っていく。

最後の仙人にだけは完璧に「負け」て、彼は気が狂う。

ここまでが前半。後半は洞窟のフリークスたちに、知らぬ間に「神」として崇められるところから始まる。

捨てた子供との再会もあるのだけれど、印象的だったのは彼がエル・トポを「父」ではなく「師」と表現したこと。

フリークスたちを解放するために道化を演じて金を稼ぐエル・トポ。もうかつての傲慢なかっこよさはない。

最後には、野に放たれたフリークスたちが銃を乱射され、死に、すべてが水泡に帰したエル・トポは焼身自殺する。焼身自殺ってエモくないですか。Rage Against The Machineの『Rage Against The Machine』のジャケ写で有名なティック・クアン・ドックとか。

 

Rage Against the Machine

Rage Against the Machine

 

 

この燃やす、っていう行為もホドロフスキーの中によくでてきて、例えば『ホーリー・マウンテン』で札束を燃やす場面であったり、『サンタ・サングレ』で母の記憶を燃やすときであったり、彼の中で火は「喪失」の意味合いをもっているのかもしれない。これは日本で火葬の文化に触れたであろうことも、ひょっとしたら関係があるのかもしれない。

 

ホーリー・マウンテン

 

ホーリー・マウンテン HDリマスター版 [Blu-ray]

ホーリー・マウンテン HDリマスター版 [Blu-ray]

 

 

『エル・トポ』の興奮醒めやらぬまま、そのまま休憩時間に入ったのだけれど、誰かが吐いたらしくて館内に嘔吐物の匂いが広がって最高の空間だった。

ホーリー・マウンテン』は、2016年に読んだ小説の中でもっともよかったルネ・ドーマルの『類推の山』の映画化作品らしくて、楽しみだった。

 

類推の山 (河出文庫)

類推の山 (河出文庫)

 

 

ちょっとの映像トラブルののちにはじまったのが、女性二人と導師の謎の宗教行為で、「ああ、最高」となる。

ストーリーとしては、青年の陰茎を切り取ってコレクションしたり、子供を戦争へ導くためのおもちゃを作ったり、おかしな趣味をもつ富豪たちが、不死の賢者に取って代わるため「山」を目指す、という話だ。こちらもやっぱり四天王的なものがカルト版『水滸伝』みたいな話の中ででてくるので楽しい。次はどんな人間なのだろう、と身を乗り出してみてしまう。

『エル・トポ』よりいっそう悪夢的で、絵画的なので、印象に残った映像だけ列挙しておく。

キリスト像の足に風船を結んで、空に飛ばす。

・大量のキリスト像に囲まれた部屋。

・戦争のおもちゃを作る女が道化から黒衣に着替えるカット。

・アライさんとフェネックのごとく山へ登る団体を追いかける女性とチンパンジー。

・最後

ロイ・アンダーソンの『散歩する惑星』でも思ったけれど、キリスト教をネタにしていく映画は最高だ。

 

散歩する惑星 愛蔵版 [DVD]

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最後は「これは映画だ。われらには現実がある」といった形で、メタ的に終わっていく。『類推の山』は読むと元気が出てくるのだけれど、その「生への肯定」感を、こういう形でやったか、と素直に驚いた。寺山修司の『田園に死す』を想起した。

 

 

寺山の時代の前衛界隈では、『エル・トポ』を見なければ前衛を名乗れない、という風潮があったらしい。次の『サンタ・サングレ』では意識的だが、『エル・トポ』にも表現されていた、「母への絶対的/妄信的な愛」は寺山ともかぶってくるところだ。

このメタへの意識、それから抽象的な連想、なぜか根本に流れる少年漫画的な精神性に、ゼロ年代の諸作を読んでいるときと同じようなこころの動きが起こる。

 

『サンタ・サングレ/聖なる血』

 

 

はじめに都市の空撮があって、おお、方向転換か、と思ってちょっと不安になったけれど、両手を切り落とされ強姦致死させられた少女をご神体にすえる宗教が登場してきて、ああ、変わってないわ、と思う。

前の二つに比べれば物語が明確で、かつ胸にくる描写もあるので、肩ひじをはらずにみられた。フリークスはやっぱりでてくる。フリークス・銃乱射・火・悪夢。これがホドロフスキーなのだろう。

母を父が殺し、父が目の前で自殺するところを見たサーカスの少年・フェニックスは気が狂い、精神病棟に入れられてしまう。そうして彼は母の幻影によって操られ、殺人を繰り返す。このあたりはヒッチコックの『サイコ』を思い出す。

 

サイコ (字幕版)

サイコ (字幕版)

 

 

母だと思っていたもの、慕ってくれた小人、サーカスのピエロたち、彼らがすべて幻影だとわかる結末の物悲しさといったらない。救いにきた唖の少女が幻ではなかったことだけが唯一の救いだ。

それにしてもサーカス≒見世物小屋のフリークスたち。淫乱な女。魔術使い。少女。ときたら、どうしても頭に浮かんでくるのは丸尾末広の『少女椿』だ。さきほどの寺山修司もそうだけれど、このあたりの影響関係をみていくのは、すごく楽しいだろうなと思う。というか、今度やりたい。

 

少女椿

少女椿

 

 

フランスのグラン・ギニョルであったり、ヒエロニムス・ボスなどのネーデルラントの画家、レオノーラ・キャリントン(『ホーリー・マウンテン』は彼女の『耳ラッパ』に似ているな、と思ったらやはり交流があったらしい)やアンドレ・ブルトンシュールレアリスト、このあたりの人間関係、文学史の動きは非常に面白いので、自分のためにいろいろ見てみようかなと思う。特にヒエロニムス・ボスは塚本邦雄も好きだったようで、日本の前衛に与えた影響は少なくないはずだ。

 

耳ラッパ―幻の聖杯物語

耳ラッパ―幻の聖杯物語

 

 

ともあれ、脳が活性化するよい上映会だった。思わず九条のみなみ会館から京都駅まで歩いてしまった。朝の5時から半分スキップで歩く男がいたら、それはぼくであった可能性が高い。

12月下旬にはルイス・ブニュエルの上映会が東京であって、そのためだけに東京へ行こうかどうか迷うくらい気になる。今年はあとベルイマンを見たいな、と思う。

映画はほとんど見てこなかったので、いつでも目の前に金・銀・瑠璃色の山がねむっているようでうれしい。

久しぶりによい夜だった。もちろん次の日は頭痛によって、グロッキーになった。

人生だ、これは。

岡大短歌vol.5感想

岡大短歌5号。

まず、全体についてなのですが、企画がとても面白かったです。5首連作には岡山についての小文が添えられていて、一度も行ったことのない岡山という土地に閉じ込められた感情の一端を味わうことができます。レぺゼン感があって、とてもよかったです。

しんくわさんや田丸まひるさんとの手紙と連作の交換、学年×5首の連作、一首評と、目次を眺めているだけでも(もちろん中身も)楽しい一冊でした。

よい歌が多かったのですが、いくつか書いておこうと思います。

 

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土曜日のバイトに行きたくないきみとたまに柔軟剤を分け合う/山田成海

 

柔軟剤ってなんなのか実はよくわからない。柔軟というくらいだからふわふわにしてくれるんだろうけれど、ぼくの中では「いい匂いになる」液体という印象が強い。この「きみ」はやはり恋人と思ってしまう。柔軟剤を分け合うということは、一緒の洗濯機を使っている。「土曜日のバイトが嫌」というのは限定的なのだけれど、わざわざ「土曜日の」というからには他の日のバイト事情も知っているはずだ。火曜は楽しみなのかもしれない、けれども土曜は行きたくないということを知っている。そんな「きみ」と「ぼく/わたし」は、分け合った柔軟剤でいい匂いになり、同じ匂いになり、洗濯機の中でぐるぐると回って一つになる。

 

 

一晩で野薔薇が家を覆いつくしドアが開かないので休みます/森永理恵

 

森永さんの短歌は、この「巻き貝に似た」の他にも「蜃気楼システム」という連作も載っているのだけれど、どの歌もかなり好きでした。ぼくが今までずる休みのときに使った嘘は「眼医者に行きます」とか「いま病院です」とかそんなに面白くないのだけれど、ぼくもこんな言い訳ができたら愉快だったろうと思う。薔薇というと三島由紀夫であったり、中井英夫であったり、どこか耽美的な香りがある。あんなものに巻き付かれたら痛いだろうと思う。野生の「鉄の処女」だ。この世界は歩いているだけで毒状態のようにHPが減っていくことがある。あれは、もしかしたら野薔薇に巻き付かれているのかもしれない。でも、その血を浴びるエリザベート・バートリはいない。そう考えると、家も出たくなくなる。

 

 

「いのちって綿菓子よりも軽いから」君のてのひらに咲く寒椿/杉野真歩

 

人間の魂は21グラム。屋台のわたあめはだいたいザラメ20グラムで作るらしい。確かに人間のいのちはわたあめよりも軽いらしい。ぼくは椿という花が好きで、なぜかというと椿は花の形を保ったまま落ちるからだ。きれいなまま死ねるなんて羨ましい。だから椿の花は「散る」のではなく、「落ちる」だ。しかし寒椿は椿にもかかわらず、散る。そうなってくると、君がてのひらに咲かせている寒椿は、君みずから手折ってきたのかもしれない。そんな君が「いのちって綿菓子よりも軽い」という。思わず背筋が凍ってしまいそうになる。結句のS音がふとした寒気のように吹く。

 

 

〈うつくしい重星〉の誤植〈うつくしい銃声〉悲運な星座の項に/白水裕子

 

星座のなりたちの伝承を見ていると、ギリシア人たちはほんとうに悲劇が好きだったんだろうなと考えてしまう。ぼくは魚座の一等星フォーマルハウトの重星ではないかと思った。確か魚座は、体と体を結んで入水した恋人の星座……とここまで書いてから調べたらどうやら違うらしい。太宰治か何かと混同していたのかもしれない。重星はよく目を凝らさないと二つ見えない。銃声もよく目を凝らさないと、音にかき消されて失われてしまった生命が見えない。特に死体が隠される現代では、死は機会がない限りなかなか触れられない。それが本や神話、宇宙など遠い物語の中でしか、しかも誤植で偶然的にしか目にできないというのは、ほんとうに不運に他ならないのかもしれない。「うつくしい/銃声悲運な」と切ったときの上の句から下の句の温度の移行にびっくりしてしまう。

 

まばたきのあいだに見失ったねこ ほんとにいたんだ黒ねこ ほそいの/安良田梨湖

 

本当にいた気がする猫の身体的特徴を伝えてその実在を訴えるのが、まあ論理的なやり方には違いないのだけれど、なかなかそうもいかない。見失ったものを、なくしてしまったけれど、自分の中で確かに存在していたものの実在をしらしめるには、あったんだよ、あったんだ、とわめくしかない。そうして、冷静になってからそれがどんなものであったのか、言葉にする。17・12・4とどんどん少なくなっていく音数が、感情の爆発と収束、あとに残るやりきれなさのようなものが現れているようで、微笑ましくもさみしい。

 

香川県産/きゅうり」のところに刃を入れて婚姻はこんな感じだろうか/上本彩加

 

今どきは夫婦別姓という選択肢もあるけれども、やはり結婚というのは、他者の家に入るということである。「香川県産」、どこで生まれたのか≒苗字。「きゅうり」、それがなんであるのか≒名前。そこに鋭く切り込まれる包丁。それまで、最低でも18年か16年はそうやって存在していた苗字+名前が、切断されうるものだと気付くとき、どんな痛みが走るのかはまだ知らない。だからこそ「こんな感じだろうか」という曖昧な実感が、主体には存在している。達人の切った野菜はまたくっつくらしいけれど、そうなってくると離婚という選択肢を選べた人は、何かの達人なのかもしれない。

 

 

奇形なら喜ばれるのねクローバーひとの世界もそうならいいね/里見香織

 

探偵ナイトスクープ」という番組で、四葉のクローバーを探すことのできる少女、という回があってびっくりした。京都の三つ葉タクシーには、たまに四つ葉が混じっている。いつの間にか、クローバーといえば「四つ葉」が主流となっている。突然生まれてしまった変異体、インドで奇形児が神の子と畏れられるように、ありがたがられるのは奇形のほうだ。凡人(凡葉)は見向きもされない。人間の世界ではそうもいかない。まあ、あまり民族性をもってくるのは好きではないけれど、日本にいると特に感じる。出る杭を打ち、KYが流行語になるような国だ。特に苦しいのは四つ葉と三つ葉は葉っぱの数が一枚しか違わないことだ。クローバーも11枚とかになれば、もはやあまり触れられないように、人間の世界でもほんものの突き抜けた奇形は違う世界に生きられる。けれども、葉っぱ一枚分しか他の人間と違わないぼくたちは、どちらの世界にも属せず精神をすり減らしていく。

 

 

重力のこびりついてるヒラメ筋洗ってそのまま布団に沈む/加瀬はる

 

重力子はまだ発見されていないけれど、もし発見されたら重力子だけを洗い流せるお風呂とかできるのだろうか。足が棒になる、とか昔の人は面白い言葉を作ったものだと思うけれど、重力がこびりついているという表現も面白い。確かに、山登りした時のあの疲れは、しつこい汚れのようにこびりついているとしか思えない。そんな足を洗って、布団にぼふっと顔をうずめるときはほんとうに幸せだ。けれど、「沈む」という言葉が表しているように、それでもぼくたちは重力からは逃れられない。そんな自然を洗い落とせるととらえる感覚が素敵だ。

 

 

適当にリュックサックに放り込むこれはあの山に落ちていたへんなライター/しんくわ

 

これはすごい。なんといってもなんにも具体的なことをいっていない。「適当に」「あの山」「へんなライター」。どこなんだ、なんなんだ、なんでリュックに放り込んだんだ。きっと「へんなライター」だったから記念なのだろうけれど、山に落ちているような、ある意味でごみであるにもかかわらず拾いたくなる「ライター」っていったい、どう変なのだろう。よく映画なんかででてくる、銃のライターだったらちょっとほしいけれど、そんなものをリュックに忍ばせていたらすぐにお縄だろう。しんくわさんの連作はどれもユーモアが、しかもいやらしくない、ふふっと笑ってしまうものが多かった。

 

 

でもすべて大丈夫だね大丈夫だよミッフィーのハンドクリーム/田丸まひる

 

すべて大丈夫だね、って大丈夫ではないのだ、もちろん。この問いかけは一緒に寝ている誰かへの問いかけなのだろうか。いや、違う。これは自問自答だ。どう考えても、この世界で生きるなんて大丈夫ではない。他の人間なんて信用できない。ぼくは、わたしは、ぼくだけで、わたしだけで、ひとつの弾丸となって世界を撃ち抜いていかなければならない。だからミッフィーのハンドクリームなのだ。かわいいの力、化粧品の力、コーティングの力。戦闘部族がする隈取は、ここではハンドクリームだ。「すべて」大丈夫から「手」へと収束する、認知の歪みのような把握感覚に共感してしまう。

 

 

繰り返しですが、企画が面白くて、感想を書いていない短歌でもよいものがたくさんありました。

面白かったです。

神大短歌vol.4感想

 

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 (画像はTwitterからお借りしました)

 

神大短歌会。

創設の時期にちょっとかかわりがあったので、そのつてで買ってみました。

気になった歌をチョイスしてみようかなと思います。

 

さるすべり咲く夏いくつ重ねてもわたしのものにならない空よ/嶋田さくらこ

 

『やさしいぴあの』の嶋田さくらこさんによる寄稿。「Sa」の音の置き所がよくて、爽やかではあるけれどさらっと過ぎていってしまう夏のような上の句に、「a」の嘆息があふれる下の句。実家の庭にさるすべりの木がたっているのだけれど、幹を触ると制汗シートで拭いた後の肌のようにすべすべしていて、ひっかかりがまったくない。空を掴むことはできない。猿から進化しただけの人間に、自然は、時間はあまりに深淵で程遠いのだ。

 

 

マッキーで腕に描く星 能力を封印された妖怪だから/貴羽るき

 

まあ、ぱっと思い浮かぶ「封印された妖怪」といえばどうしても『NARUTO』の九尾狐とかになってしまうのだけれど、たいてい曰くのあるスポットは仰々しい印や紋章が刻み込まれている。あんなのがあるから、肝試し気分の大学生が封印を破ってしまって世界がたいへんなことになるのだ。思い切って更地にしてしまえば、かえって誰も気にしないのに。けれど、大きな存在は存在しているということを叫ばなければ済まないのだ。ピアスを開けるのでもなく、手首を切るのでもなく、マッキーで星を腕に描く、それだけで何者かであることができるのだ。

 

 

電飾の消えた食品サンプルのショーケースがいちばんあたたかい/すずきはるか

 

食品サンプル。おいしそうでなければ、お店に入ってくれない。けれど、自らは食べられるわけではなく、ただ軒先にさらされているだけ。いわば、自分に似た別物のために存在している存在。ちゃんと活動して、他者の役に立っているものからしたら影であり、なぜ存在しているのか、という理由が希薄だ。彼ら(彼女ら)が休むことができるのは、みんなが寝静まった夜だけ。まるである種の人間みたいですね。食品サンプルという着眼点がよい。

「シティーライフ」という都市生活の疲れを綴った連作の中に置かれることで、じんわりとしたよさが浮かび上がってくる。夜のやさしさへの憧憬だ。「ストラクチャー」もよかった。

 

 

ナチュラルに笑えてるけど先輩はヒトを解剖したんですよね/上木優香

 

連作をしっかり読んでいくと、医学部生の、あるいは医療についての問題意識が詰まっているのだけれど、最初に読んだときは、又吉の自由律俳句のようなものに見えてふふっと笑ってしまった。

血と肉をもっている人間が、同じ人間を解剖するのはやっぱり恐ろしくて、大江健三郎の「死者の奢り」ではないけれど「人」を物として、「ヒト」として扱っているわけだ。中世風にいえば神の似姿を、暴いて、切り刻んでいるわけで、冒涜的だともいえる。それでもそうやって人間を解剖しながら「ナチュラルに笑え」る人間のおかげで生きることができる人間もいるわけだ。

そういう根深い問題意識が女子高生のつぶやきのような軽妙な歌になっているのがよいと思った。

 

 

おりがみを虹の形に折りました 生命線を没収されて/村上なぎ

 

じっと手を見る。生命線のカーブが虹のように見えてくる。昔何かで見たのだけれど、生命線というのは長さではなくて、曲がり具合が重要らしい。誰に生命線を没収されたのかはわからないけれど、これは生命線が失われてしまったから、それを補うように折り紙を折ったという風に解釈した。

虹は雨のあとにできるものだし、虹の根元にはどうやらたいへんな宝物が埋まっているらしいので、そんなたいへんなものが折り紙で折れてしまうのはうれしいことだと思う。生きる意味が感じられないのなら、自分の手を使って、美しくてすごいものを作ればいいのだ。

 

 

織姫は彦星がいないときにだけ会員制露天風呂を楽しむ/梯やすめ

 

364日ほぼ毎日じゃないか!!!

ということで、甘いラブストーリーも蓋を開けてしまえばこんなものかもしれない、というあけすけな感じがよかった。一年に一回しか会えないのも、何千年と続けてくると特別感もわりと薄れてくるのだろうか。

 

 

鍵忘れ記憶ちぐはぐそんな日に大きなラムネをむさぼる、ぐふふ/むらかれん

 

どうしても、ラムネというと錠剤をイメージしてしまって、したがって睡眠だとかむしろ記憶喪失が縁語としてでてきてしまうのだけれど、その真逆の使い方(ある意味では安定剤なのだけれど)がされていて新鮮だった。

ぶれている軸に芯を通す大きなラムネ。「ぐふふ」というコミカルな擬音が入ってくることによって、駄菓子屋で大人買いをしたお菓子にかじりついているような茶目っ気がでてくる。豪快でよいと思う。

 

 

ぼくだけが知らないうちにこの町が濡れたよぼくの知ってる町が/九条しょーこ

 

九条さんの短歌はどれもよかったです。叙情といってしまえばそれまでだけれど、連作にも名前が出てきていたスピッツフジファブリックフラワーカンパニーズの、あの感じ。

知らないうちに世界は変わっていく。ぼくたちは取り残される。知っていたはずの風景が一変して見える。「インソムニア」だ。しっかり目を開いていたはずなのに、ぼく以外の人間がみんな当然のように見ていたものを見逃してしまう。違うところを見ていたのだろうか。ぼくだけが狐に化かされているのだろうか。みんなできていることができない。けれど、だからこそ、人と違うことができる。

夜を歩くこと(夜を駆ける)や「水色」の言葉(水色の街)などから、『三日月ロック』のようなイメージをもった連作であった。好き。

 

 

一首評や贈答歌も面白く読みました。

短歌バトル、もう一度学生に戻れるならでてみたい。

次号もまた楽しみにしています。

同志社短歌4号感想

 

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目玉焼き黄身を潰すと泣き顔のようになるから口にはできない/石勇斎朱吉

 

ちょっと前に「ひよこがかわいそうだから、卵料理が食べられない」という女子が話題になったことがある。当時はしこたま馬鹿にされていたけれど、スーパーの卵は無精卵だから、とかなんとか訳知り顔で批判するよりも夢があっていいんじゃないかと思う。ぼくは目玉焼きは完熟派なので泣き顔のようにたらっと垂れることはないのだけれど、ああ、この人は目玉焼きは半熟の人なんだな、というリアルな質感がある。だから、泣き顔に見える、というのもきっと本当だ。

 

 

プリントのはげたTシャツを君はまだ知らない 寝るまで好きって言い合う/尾崎七遊

 

いつの間にかクリープハイプっぽいという言葉はちょっとした侮蔑のようになってしまったけれども、この歌もまたクリープハイプっぽい屑な大学生感がでている。いろいろと想像できる。きっとこの男(たぶん)は服装に無頓着で、だらしない人間なのだろう。「寝るまで好きって言い合う」というのは幸福の形に見えるけれど、ここには「寝るまでしか好きって言い合わない」という意味の隙間がある。Tシャツのプリントはきっと背中だろう。主体は背中を見て歌っている。双方向性の愛に見えて、実はお互いに相手を見ていない、一方通行同士の恋でしかないのかもしれない。

 

 

はなびらの交歓 ふさがることのないきずぐちにたがいの海辺があって/虎瀬千虎

 

「はなびら」とひらいて書いたときの淫靡と「花弁」と書いたときの淫靡は少し質が違う。雪舟えまと与謝野晶子の違い、というのはざっくりしすぎているかもしれない。「ふさがることのないきずぐち」はきっとじゅくじゅくして膿んでいる。これはぼくの深読みかもしれないけれど、「はなびら」も「海」も女性器の暗喩としてよく使われる。また、古事記伊邪那美が「吾が身は、成り成りて成り合はざる処一処在り」というように、そこは「ふさがらないきずぐち」である。これは、百合なのではないだろうか。という直截的な言葉の連関が、ひらがな表記によって、湿ったポエジーを獲得しているところが面白い。

 

 

月が木にかかっていれば森にいてそうでなければ草原にいる/田島千捺

 

「夏の園」はジム・ジャームッシュのように渇いて映像的な連作だ。どれもよいから、どれも取り上げたいのだけれど、このなんともなさそうな一首に惹かれた。自分もそうだけれど、情感を、感情を、と思って短歌は詠んでしまいがちだ。こうやって風景から自然に情感がたちあがってくる、京極派歌人たちのような手法というのは、鮮やかで憧れるけれど自分にはできない芸術だな、と思う。普通に考えれば、森か草原かなどという二択はありえないのだけれど、こうやって連作で見てくると、確実に森か草原にいる。池澤夏樹の「スティル・ライフ」の冒頭を思い出す。詩人は自然とひとつになることができる。

 

 

水たまりを跳び越えること いつの日か飛んで行きたい場所ができること/林美久

 

年を越す瞬間にジャンプして、「わたしは2×××年、地球にいなかったんだよ!」なんていうかわいくてなつかしい遊びがあるけれど、ジャンプしたときだけは地球の重力から自由になった気がする。水たまりは雨上がりにしか存在しない。水たまりを跳び越える、というのは過去からの飛翔なのかもしれない。今はまだなにも飛んで行きたい場所はないけれど、いつかはできるのだろう。それは夢なのかもしれないし、恋なのかもしれない。

 

 

傘をさす 傘がさされているときは水たまりへとかえす雨粒/はたえり

 

理科の教科書は、なんだかサイクルを描いた絵が多い気がする。酸素と二酸化炭素だとか、食物連鎖だとか、水の循環だとか。傘というのは雨を防ぐためのもので、道具で、人間が人間たりえるもののひとつだと思うけれど、そこで水たまりへ雨をかえす、という発想が面白い。傘が雨をかえすとき、傘をさしている人間も、自然をめぐる水システムの部品になっている。けれど「かえる」ではなく、「かえす」なところに、ちゃんと意志を感じる。チャップリンの歯車とは違う。やわらかい部品だ。

 

 

一首評や吟行、エッセイ、評論に前号評と、盛りだくさんなのがうれしい。エッセイと評論と前号評についてだけ、ちょっともにゃもにゃと書いておきたいと思います。

 

 

古今集の美/御手洗靖大

 

勅撰集、中でも『古今集』における四季と情感についてのエッセイ。とても面白かったです。勅撰集って、そうとう権力的なものだと思うし、私家集もまた政治的でありながらあくまで個人集なので、それぞれの色があるはずだ。同時代意識からどうずれているか、というのを見ていくのは面白いので、ぜひいろんな歌人の私家集の紹介をしてほしい。(できたらなぜかマイナーな良経とか慈円とか)

 

 

実学に対する文学/三浦宏章

 

正直、いいたいことは山ほどあります。これは評論ではない、とか、サルトルの問いをそんなに矮小化してはいけない、とか、「文学」なのに短歌の話(短歌の同人誌だから仕方ないけれど)しかしていない、とか。『カラマーゾフの兄弟』にも宗教に関する、イワンの有名な問いがあるけれど、救うというのはたいへん難しいことです。だから、このテーマというのは、こういうありきたりな結論に陥ってしまうのも仕方ないと思います。

だから、細かい部分は一旦置いておいて一言だけいうとすれば、「文学」や「救済」を語る人間が、「それほど文学に魅せられたわけでもなければ」なんていう予防線を張ってはぜったいにだめです。それは、いろんな人間に対する冒涜だし、自分の書いたものも貶める言葉です。それだけは、文学をやっているなら、たとえ本当に思っていても言ってはだめです。

これはきわめて個人的な直観だけれど、文学は人を救わない。けれど、文学によって救われる人間はいる。絶対にありきたりでそれらしく、当たり障りのない、心を癒すなんていう結論には、収斂しない。そもそも文学は、救う救わないではない、ということもあるけれど、それは長くなるのであれです。

もちろん筆者のせいではないし、ぼくの性格がおかしいというのはある。けれど、ぼくは、この文章を読んでかなしくなりました。文学が人を救う、ってそんな表層的に、簡単に語っていいんですか。

 

 

『共有結晶』レビューや一首評、前号評はみんなの個性がでていたし、的を射て気持ちよいところが多かったので楽しかったです。

BLに対して抱いていた感情、ぼくは水城せとなさんの『放課後保健室』で一転しました。

 

 

最後、森本くんの前号評。最後の六行の言葉はぼくもまったくおなじ気持ちなので、2018年もやっていきましょう。

 

SPITZ 30th ANNIVERSARY TOUR "THIRTY30FIFTY50"名古屋公演レポート

スピッツのライブに行くのは、「ロックロックこんにちは」のようなフェスも含めればおそらく6回か7回目。

彼らのライブのよいところは、スピッツが好きなはずの人間でも一瞬「何の曲だっけ?」と思ってしまうマイナーな曲を一曲は演奏してくれるところだと思う。今回のツアーは結成30周年ということでどんなセトリになるのだろうとわくわくしながら、炎天の名古屋を訪れたのだった。

大阪城ホールでのチケットは完売していたので、ガイシホールの立見席を購入。

はじめて行く会場だったけれども、交通の便はよかったので開場10分過ぎくらいにホールへ到着。

 

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会場の外ではキーボードのクジさんの出版した書籍や、FCの入会案内、30周年記念のシングルコレクションなどが売られていた。いつもだったらタオルやTシャツを買うのだけれど、今回はお金がなかったので泣く泣くスルーして、立見席へ移動する。

ステージから見て右翼側の天井近くの場所で、椅子ありの席とそんなに変わらなかったのでよかった。

会場入りしてから1時間近くの時間をどうやって過ごすかいつも悩んでいるのですが、とりあえずiPodのイヤホンを耳にさして、半券回収とともに配られたパンフレットを読んで時間をつぶす。隣の人はオペラグラスをもって、今か今かと待ちわびていた。

いろいろなライブに行ったけれど、スピッツのライブはお客さんの年齢層がかなり幅広い。オペラグラスと逆の隣の人は、おそらく60を超えていた。ロックバンドのライブに来る60代といえば内田裕也みたいなのを想起するけれど、完全に好々爺だった。スピッツすごい。

 

しばらく待つと注意事項のアナウンスが入り、会場が暗転。

ライトが消えて、ざわざわとしていた会場が静まり返る一瞬。このはじまりの瞬間は、どんなフェスやライブに行っても、やっぱり気持ちがざわっと高まる。

 

一曲目は「醒めない」。

去年リリースされた15枚目のアルバム『醒めない』のリードナンバーだ。たぶんいろいろなところで言われているだろうけれど、この曲のテーマは「初期衝動」だ。

「最初ガーンとなったあのメモリーに今も温められてる」なんていう歌詞はいかにもスピッツだ。今の時代のロックバンドは、みんな繊細な歌詞や難解な言葉遣いをして、なんとか気持ちを伝えようと苦心しているけれど、その衝撃を「ガーン」というオノマトペでさらっと、だけれどこれ以上ないくらい適格に表現できるのはスピッツの魅力だと思う。

30周年記念のライブを、この初期衝動の曲ではじめるのは、まだまだやっていくぞ、という意志の表明のようで、とてもわくわくする。

 

勢いはそのままに「8823」。

おっ、と思った。「8823」はライブでは必ず演奏する定番曲だけれど、たいてい終わりのほうで、最後の盛り上がりを作るために演奏する。

二曲目にしてあのイントロが耳に聞こえてきたとき、思わず、えっと口に出してしまった。最初から殺しにかかっているような選曲だ。会場も飛び跳ねていた。

スピッツはメロディの直球さももちろんよいのだけれど、やはり草野マサムネの書く歌詞が他と置き換えることのできない味を醸し出していると思う。爽やかな印象やクリアなサウンドに騙されがちだけれど、よくよく歌詞を見るととんでもないことを言っていたりする。早く『草野正宗詩集』が岩波文庫から出てくれないかな、と密かに期待している。

「8823」も「君を不幸にできるのは宇宙でただひとりだけ」という、ありふれたJpop風歌詞の逆をはる言い回しにはっとなる。

個人的には「世界で君を幸せにできるのはぼくだけだよ」と言われるよりも「世界で君を不幸にできるのはぼくだけだよ」と言われたほうが好きになる。つまりそういうことだろう。

 

三曲目は「涙がキラリ☆」。

12枚目のシングル曲。この曲や「ロビンソン」がリリースされた1995年という年を、ぼくはほとんど本でしか知らない。阪神淡路大震災があり、地下鉄サリンがあった時代。社会的に大きな転機となった時代。

スピッツの楽曲は90年代の暗さをあまり感じさせない。時代を超えて、2010年代の今でも古さを感じない。

オリコンで2位を取るようなキャッチ―なメロディだけれど、歌詞を見れば「浮かんで消えるガイコツが鳴らすよ恋のリズム」である。いったい何が見えているのか、不思議でならない。

 

続けて演奏されるのは「ヒバリのこころ」。

1991年にリリースされたデビュー・シングルだ。少し調べてみたけれど、このCDが世に出たとき、まだぼくは生まれていなかった。そんな昔からスピッツスピッツとしてやっているというのが、奇跡のような気がしてくる。

この記事を書くにあたって、曲を流して歌詞を見ているのだけれど、こんなことを言っていたのかという発見が未だにあって、本当に面白い。「魔力の香りがする緑色の歌声」という視覚と嗅覚と聴覚と第六感を往還する歌詞が、こんなに違和感なく歌われているのはどういうことなのだろう、とつくづく不思議になる。

この辺りまできて、なんとなく今回のツアーの選曲の傾向がわかってきた気がした。

 

ここでMC。

今回のツアーではステージの階段が2段だったけれど、名古屋から3段になったので上り下りが楽になったと微笑む草野さん。ベースの田村さんが激しく動き回るのは、いつものことだけれど、今回のツアーでは草野さんも結構動き回る。

メンバーはみんな1967年生まれなので、今年で50歳。どう見ても50歳には見えない。織田信長松尾芭蕉が死んだのも、だいたい50歳だ。なんだか、まだまだやっていけそうだなという活力がわいてくる。

 

そのまま新曲の「ヘビーメロウ」へ。

スピッツの曲はだいたい二、三回も聞けば口ずさめるようになっている。「ヘビーメロウ」も「めざましテレビ」のテーマソングではあるけれど、テレビをほとんど見ないので、聞くにしてもyoutubeだった。けれど、いつの間にか口ずさめるようになっていた。

カッティングギターとファンクな曲調が心地いい。

あと、この曲はMVがとてもよいのでぜひ見てみてほしい。

 

次は「冷たい頬」。

どうやらここは、別日では違う曲になる枠らしい。「冷たい頬」を初めて聞いたのは『とげまる』のツアーだった。初めていったスピッツのライブだった。たぶん20歳前後だったと思う。

ふりかえってみれば、何もかもが変わってしまったけれど、スピッツは変わっていない。素敵だ。「それがすべてで何もないこと時のシャワーの中で」という何ともいえない無常な歌詞が胸を打つ。なにもかもを諦めながら、それでも空を掴んでいるような、何もない日々を空虚に進んでいるような、マイナスなポジティブ。好きな曲のひとつだったので聞けて良かった。

 

余韻はそのままに「君が思い出になる前に」。

今回のツアーのセトリにはシングル曲が多いけれど、シングル曲は逆にあまり聞かないというところもあるので新鮮だった。たぶん「君が思い出になる前に」は、iPodなどで聞いた回数よりも、河原町BOOKOFFで聞いた回数のほうが多い気がする。

シングル4枚目の、完全に売れ線を狙った楽曲だけれど、思惑通りに見事に売れたようだ。1993年のことなので、ぼくは2歳。だけれど、物心がついたときには知っている曲だったので、どれだけスピッツが世の中に浸透しているか、ということがわかる。

 

ここで2回目のMC。

「あまり男は日傘をささない風潮があるけれど」と草野さん。東京へいけば(川谷)絵音くんのような男の子が案外さしているよ、という報告に続けて「あれ、やってみるとわかるけれど涼しいんですよ」とのこと。日傘を差してもおかしくない50歳は貴重なのでどんどん広めて、男が日傘を差してもおかしくない世界を作って行ってほしい(ぼくもできることなら日傘をさして外を歩きたい)。

ご当地ネタでは、プライベートで食べにきたうなぎがおいしかった、という話。店で並んでいてふと隣を見たらスピッツがいたら、絶対に度肝を抜かれる自信がある。

 

小休止をはさんでから、次の曲は「チェリー」。

まず間違いなく、スピッツの中でも最も有名な曲のひとつだ。ぼくも中学生のときに授業で歌った記憶がある。愛唱歌集にのるくらいポピュラーな曲だし、「愛してるの響きだけで強くなれる気がした」なんていう甘い歌詞だけれど、よくよく考えれば「チェリー」っていうのは「童貞」のことだろう。

どうどうと教育現場で「童貞」を連呼してもおかしくない空気を作り上げているのは、すごいことだと思う。「死とセックスのことしか歌わない」と過去のインタビューで話していた草野さんだけれど、「海とピンク」や「プール」や「ラズベリー」なんかは、ちょっとどきっとしてしまうような性の曲だ。それでも何のいやらしさもなく「おっぱい」なんて歌えるのは、おそらくスピッツくらいのものだろう。

 

そして「さらさら」。

春の曲で繋がっていくけれど、ここもオルタナ枠だ。『小さな生き物』が出たときによく聞いていたのを思い出すけれど、あれからもう4年たっているという事実に愕然としてしまう。

横浜の赤レンガ倉庫で十数年ぶりの野外ライブをしたときに歌っていた印象が強い。あの日のライブは音響はそんなによくなかったのだけれど、当時リリースされていたアルバムから少なくとも一曲は演奏してくれたり、「ハチミツ」の歌詞を間違えたり、川を挟んだホールでアジカンがライブをしていたり、何かと特別だったので深く印象に残っている。

そのままポートタワーや中華街をぶらぶらしながら帰ったけれど、日本各地にスピッツの思い出があるのもなんだかいい感じである。

 

そして「惑星のかけら」。

一度はライブで聞いてみたかった曲だったので、思わずはしゃいでしまった。

私事だけれど、大学時代にスピッツの「恋する凡人」をテーマにスピッツの小説を書いたことがある。その時にいろいろな楽曲を元ネタにしたのだけれど、当時のぼくには(今もだけれど)、「君から盗んだスカート鏡の前で苦笑い」という歌詞がエモくてエモくて仕方がなかった。

惡の華』や銀杏BOYZの「SKOOL KILL」でもそうだけれど、好きな子の私物を盗むということの背徳感は青春そのものだと思う。

その青春像ともったりとしたメロディライン、「骨の髄まで愛してよ僕に傷ついてよ」という直球の歌詞が、心臓のど真ん中を撃ち抜き、一日に50回はリピートして聞いていた。

かなり好きな曲のひとつ。

この辺りからぼくは麻痺し始めて、ぼんやりとステージを眺めていた。

 

モリーズ・カスタム」も定番曲だ。

この曲のときは、たいてい照明がちかちかするので、テンションもそれに連れて高くなる。スピッツの中でもディストーションの利いた激しい曲だ。まだ中盤のはずなのだけれど、自然に体が動き、少し疲れすらも見えてくる。

掲げた右手を左右に振りながら、うきうきの気分になっていた。隣の人もオペラグラスを下ろして手を振っていた。

なんだかんだ言いながら、こういう一体感は嫌いじゃない。

 

そして、聞いたことがあるはずなのに、なんだったか思い出せないリフ。

歌いだしの「僕のペニスケースは人のとはちょっと違うけど」というところでやっと「波のり」であることがわかった。

『惑星のかけら』に入っているアルバム曲で、マイナー中のマイナーだ。30周年という割り合い大衆向けであろうツアーで、さらに年齢層が広い会場で、わざわざ「波のり」を演奏するところ。ここがスピッツのよさなのだ。普通はやらない。

セトリを見てみたら、他の日は「エスカルゴ」をやっていたので、かなりラッキーだった。直後のMCでも「25年ぶりくらいに演奏した」と言っていた。

ロックバンドがあふれている現代でも「ペニスケース」を歌詞に入れるバンドはいないんじゃないかと思う。どれだけ挑戦的なのだ、という話である。

 

まだ半分もいっていないけれど、MCでやっと休憩といった感じで一息つく。

ギターの三輪さんもいうとおり、年々MCが長くなっていく。短い漫談を見ているような掛け合いも楽しい。

草野さんが初めて芸能人にあったのは赤ん坊のとき、母親と一緒にいった布施明のイベントだったという。その後(たぶん)布施明の曲をワンフレーズだけ歌っていたけれど、何の曲かはわからなかった。けれど、会場はけっこうざわついていたので、年齢層の高さがうかがえる。

それから、解散の危機は草野と田村の「てっちりとふぐちりの違い」の論争のときぐらいだよね、という小ネタを挟んでいく。

案外バンドの解散理由というのは、そういうくだらないものなのかもしれないな、と思うと30年続けてくれているスピッツがありがたく見えてくる。

 

ここからはある意味でラッシュだ。

まずは「ロビンソン」。

これもまたスピッツのもっとも有名な曲のひとつだろう。1995年という時代。「大きな力で空に浮かべたらルララ宇宙の風にのる」という神秘的な歌詞が、オカルトな時代背景と照らし合わされたりもした。

確かにスピッツの魅力のひとつにはどこかオカルトな「魔」の存在というのがある。

けれど、ぼくは少なくともこの曲においては「誰もさわれない二人だけの国」というセカイ系な世界観が死ぬほど好きなのだ。これはゼロ年代の、あのざわざわ感にも十分通じると思う。

あとどうでもよいけれど、これをカラオケで歌うと地声でもかなり高い音程になるので、オクターブ上で歌っている草野さんの化け物具合がよくわかる。

 

そのまま「猫になりたい」。

さっきから好きな曲好きな曲言っているけれど、これもやっぱり好きな曲だ。

まるで日向でごろごろしている猫のような曲調で、「猫になりたい」と歌う。ぼくも猫になりたい。「消えないように傷つけてあげるよ」という歌詞が特にたまらない。

猫になって好きな人の腕の中でさみしさを紛らわせたい、という受動的な態度だけでなく、ちゃんと傷をつけるのだ。

「消えないように」というのは「誰が/何が」なのだろう。「ぼくの存在」なのか、それとも「きみの存在」なのか、「痛みという感覚」なのか。傷つけあうことでしかつながることのできない関係、というのがここに集約している気がする。

スピッツの歌詞には「傷」という言葉がたくさんでてくる。

 

クジさんのピアノ伴奏から「」へ。

まあ、次から次へと心臓が切り裂かれていくような選曲である。

はじめてこの曲を知ったのは高校時代。合唱コンクールに歌う曲を決めるにあたって、いくつか候補を挙げた中に「楓」も挙げられていた。

ぼくは指揮をしていたので、すべての曲を聞いてみたのだけれど、この曲だけが色濃く脳にこびりついた。結局、別の曲をうたうことにはなったのだけれど、密かに「楓」は聞き続けていた。

圧倒的な別れと空虚の曲。今では思い出すだけでうううううううう、っとなるのだけれど、17歳の夏に告白してふられたぼくは「胸が傷つく曲集」を作ってきいていた。今この文字を打ちながら、心臓が裏返って口から出そうな衝撃に襲われている。

まあ、詳しくは延べないけれど、「楓」もその中の一曲だった。

だから「楓」を聞くと高校時代がぶわっと頭に浮かぶ。この前、高校時代の友人から結婚式の案内状が届いた。時代は進む。つまり、そういうことだろう。

「チェリー」にしても「惑星のかけら」にしても、意識していないところでぼくの人生を貫いているのは、何気にスピッツだった。

 

次の曲は「夜を駆ける」。

『三日月ロック』に収録の曲だけれど、スピッツの中でも人気の高い曲だと思う。基本的にスピッツの曲は春や夏の昼、という印象の曲が多いのだけれど、この曲は夜だ。

「君と遊ぶ誰もいない市街地」「滅びの定め破って駆けていく」という歌詞も、なんだかディストピアを感じる。なぜだか知らないけれど、女の子二人が、廃墟の中を手を繫ぎながら走っていく絵が頭に浮かぶ。

 

ここでメンバー紹介。

いつもはアンコールのときにメンバー紹介をするので、珍しかった。

リーダーの田村。「デビューしたら、目標がいくつかあった。キャプテンレコードからCDを出すことと、新宿ロフトでワンマンをすること。もう達成しているから今は惰性なのかもしれない」と笑いを誘う。

キーボード、クジ。「30周年なので30年前に買ったTシャツを着てきた。今日の会場は足元が市松模様になっているけれど、新宿ロフトを意識したの?」と新宿ロフトの思い出を続けて話していく。

ドラム、崎山。「新宿ロフトでイベントに出れると決まったとき、俺は授業を受けていたのだけれど、リーダーが学校までやってきて『イベント決まったよ!』と報告してくれたのが未だに記憶に残っている。本番では張り切ってツーペダルのドラムにしたけど、演奏できなかった」と、スピッツの歴史を語っていく。

ギター、三輪。「おじさんは話が長い」と、彼らしい端的さに笑いが起こる。

最後に草野マサムネは、「モグラのクリスマス」というインディーズ時代に作ったという、音源化されてもいない曲を弾き語る。謎の曲だった。

 

ここからラストスパート。

正夢」。

この曲にも苦い思い出があって、小学生のころ、放送委員会だったぼくは、クラスメイトからリクエスト曲を募っていた。その中で挙げられたのが「正夢」で、いよいよ当日になってぼくは放送室の機材を壊してしまった。

「放送機材の故障でリクエスト曲は流れません」というアナウンスをしたとき、ぼくは世界が終わった感覚がした。そんな極めて私的なことなんかも、思い出してしまう。Jpopの効用なのではないかと思う。

 

記憶のもやもやが続く中、「夢追い虫」へ。

これもとても好きな曲だ。「削れて減りながら進むあくまでも」という歌詞が好きで、大学の行き帰りにずっと流していた。

スピッツは健康で健全に見えて、実はぼろぼろだ。擦り切れている。自分のことを「虫」と認識しているのだ。だから、彼らはいつまでもパンクなのだ。

終電のなくなった地下鉄四条駅でスピッツを聞きながら泣いていたときがあった。そういう力のあるバンドなのである。

 

運命の人」。

バスの揺れ方で人生の意味がわかった、だとか、愛はコンビニで買える、だとか、決して仰々しくない、日常のふとした瞬間にスピッツは大発見をする。

この曲を聞くと毎回、長い映画のエンドロールを見ている気分になる。

 

恋する凡人」。

先ほども書いたけれど、ぼくはこの曲で小説を書いた。iPodの再生回数は、ぶっちぎりで一位だ。この曲にはすべてがつまっていると思っている。恋だとか、ロックだとか、そういう衝動は決して理性で何とかなるようなものではないのだ。

土砂降りの中を走るようながむしゃらさだけを信じて生きていく人生を、ぼくは素敵だと思う。

「これ以上は歌詞にできない」という結末には、もうなんの言葉もでない。

 

ベースのごりごり音。定番の「けもの道」。

田村さんは相変わらず動き回る。冒頭の「東京の日の出」を「名古屋の日の出」にかえて、突き進んでいく。

立見席ですら酸欠なのだから、アリーナだともっとすごかっただろうなと思う。

 

そしてまさかの「俺のすべて」。

これもまた『とげまる』ツアーのときに聞いた曲だ。7年前の再現のようで、胸がいっぱいになる。友人が一番好きな曲だといっていたけれど、本当にたまらない。

「俺の前世はたぶん詐欺師か呪い師」と飄々と歌っていく。

 

最後は新曲の「1987→」。

インディーズ時代の「泥だらけ」のセルフカバーともいえる曲だ。

初期衝動の曲で始まり、シングル曲を中心にアルバム曲も演奏し、インディーズ時代の再現で終わる。なんだかスピッツの30年をまるまる詰め込んだようなセトリだった。

最高。

 

アンコール一曲目は「SJ」。

『醒めない』の中でも、あまり目立たないアルバム曲だ。なぜに「SJ」と思ってしまう選曲の妙だ。何気に『醒めない』のツアーのときに聞けなかったので、うれしかった。

 

「ありがとうございました!」の掛け声とともに、最後は「春の歌」。

ヒバリは春を告げる鳥だ。「ヒバリのこころ」でデビューしたスピッツが、「春の歌」で30周年ツアーを終える、というところに、偶然かもしれないけれど、強い意図を感じた。

「冬来たりなば春遠からじ」だ。

春は永遠と、再生の象徴だ。きっとスピッツは永遠に続いていくのだと思う。

雷雨が鳴り響く中、ぼくは余韻に浸りながらずぶ濡れでガイシホールをあとにした。

 

 

セトリ

1、醒めない

2、8823

3、涙がキラリ☆

4、ヒバリのこころ

5、ヘビーメロウ

6、冷たい頬

7、君が思い出になる前に

8、チェリー

9、さらさら

10、惑星のかけら

11、メモリーズ・カスタム

12、波のり

13、ロビンソン

14、猫になりたい

15、楓

16、夜を駆ける

17、正夢

18、夢追い虫

19、運命の人

20、恋する凡人

21、けもの道

22、俺のすべて

23、1987→

 

アンコール

En.1、SJ

En2、春の歌

 

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