相思樹
宋の康王は暴虐の限りを尽くした王であった。故に孤独な王であった。
日に十も人を殺し、その民には途方もない労働を課した。そして、これに従ぜないものは、国の賊として容赦なく処刑した。口に糊した民や恐怖した臣下が、四方の富める国々へ流れ出たのも致し方のないことであっただろう。
王はときどき玉座に頬杖をついて考えた。
果たしてこの宋という国には、兄を殺してまで手に入れる程の価値があったのだろうか。周囲を魏、斉、楚の大国に囲まれ、窮鼠の体をなすこの宋に、と。
そもそも、続けて王は考える。
そもそも、何故私は、兄から宋を奪おうと思ったのだろう。大した魅力のある国ではない。いや、むしろ重荷にしかならぬ。私は自由が好きだ。王は自由ではない。それなのに宋を欲したのは、恐らくそれが兄のものだったからである。
私は兄の持つものはなんでも欲しかった。
遠い昔、私は月を手に入れるため、森に入ったことがある。その前日、白い石をかざしながら兄が私に自慢したのだ。
「見ろ、月だ」
白く丸みを帯びたそれが、私には本物の月に思われた。
なんとなく、欲しくなった。
「月だ、月だ。ねえ、それをどこで手に入れたの」
「真っ暗森さ。湖に浮かんでいたのを、ひょいと取ったのだ」
聞いて私は走り出した。兄は、くつくつと笑っていた気がする。
冷ややかに水を湛えた湖の畔に私は腰掛け、湖面に満月が現われるのを待った。
夜、雲居に顔を覗かせた満月は、少し恥じらいながらその身を湖に落した。
手を差し伸べたが、月はさらりとしていてつかめず、代わりにその影をゆらりと揺らして、私を暗い湖に誘った。
私の助けを求める声を聞いたのであろう、森の番兵が血相を変えて飛び込んできた。
深夜、私は番兵に抱えられて帰還した。殿中は私がいなくなったとかで大騒ぎであったが、私が戻ってくると、その騒ぎはいよいよ狂気的なものとなった。
松明が煌々と照りつけられ、私はすぐに、冷え切った体を暖かな羽毛に包まれた。
母が駆け寄ってきて、ずぶ濡れになった我が子を見ると、顔を青白くさせた。その母の顔が、件の石よりよほど月に見えたことを私はよく覚えている。
兄は、悪いことをしたというような、ばつが悪い顔をして、白い石を私に手渡した。
私はありがとう、と言ったが、兄がいなくなると、その石を力いっぱい遠くに投げ捨ててしまった。もう石など、どうでもよかったのである。
数日後に父は、私を森に不用意に招き入れた罰として、私を助けた番兵を処罰した。彼は何よりも始めに、自らに与えられた役割を守らなければならなかったのである。
つまり私を助けようが助けまいが、私を森へと招き入れた時点で、彼は死ぬしかなかったわけである。
己の役を侵犯したものには、刑罰を与えねばならないことを、私はこのとき理解した。
捨てた石は、今もこの庭のどこかにあるのだろうか。もしかしたら雨風にさらされ、砂になっているかもしれない。しかしそれはどうでもよいことだ。
くく、と大きく伸びをして、王は庭を眺めた。
二
王の世話焼きに、韓憑という男がいた。
この男、容姿が醜く、顔は油でいつもてらてらとしていたのだが、王が何を申しつけても嫌そうな顔をしない。もしかしたら嫌な顔をしているのかもしれないが、土台、蝦蟇のような容貌であるのでそれがわからない。とにかく文句を口にしたことはないので、その点を王に気に入られ、舎人となったのである。
この韓憑はどう間違ったのか、何氏という傾国の美女を娶り、妻としていた。蝦蟇と一瞥百媚の女とが睦まじくしている様は、当然のように羨望と嫉妬の視線にさらされた。
何より士大夫をして嘆息せしめたのは、韓憑の悪辣たる性癖である。
この男、普段の鬱憤をどこで晴らしているかと思えば、何のことはない、自らの女を打ち据えることでこれを昇華していたのであった。
しかも、この仕打ちには、いささか性的な何ものかが含まれているらしく、涎にまみれながら女の尻を激しく打つ韓憑の顔は、平生のそれに増して魍魎に近しいものであった。
打たれている間、女は苦痛に耐えるでもない、目をとろんとさせた不思議な顔をして、ただ前方を見つめているだけであった。
少し皺の寄った眉間も、幽谷を思わせる美しさであり、時折こぼれる、ああ、という声は、嬌態を覗き居る男達に何とも言えぬ高揚感をもたらした。
韓憑は、四面楚歌の国況ゆえ、詮なく、王より無理難題を背負わされることが度重なり、次第に己が欲望を隠すことを少なくしていった。
終いには所構わず宮庭の木陰などで打ち据えるといった有様で、とうとうその嬌態は王の知れるところとなった。
王は深刻な顔で韓憑を呼び出して言った。
「韓憑よ、私は貴様の、何を申しつけても文句を言わぬ頑丈をのみ認めて、世話焼きとしたのだ。しかし聞けば、自らの妻にその責を押し付け、あまつさえ自らの汚らしい欲を顕わにしているという。遂に貴様の本性が出たということだな」
「へっへ、お言葉ですが最近の王は、私を酷使しすぎております。私はこれでも人間。耐え忍ぶにも限度というものがあります。それにあれは私の妻。どう扱おうと王の気にするところではございません」
「やや、私に文句を言おうとは。蝦蟇のわりに静かな男だと思っていたが、やはり蝦蟇は蝦蟇と見える」
宮中の臣下は笑いをこらえるのに必死になっていたが、韓憑の大きな目に睨みつけられると、怯えた蛇のように体を竦ませた。
「王は汚いとおっしゃいますが、あれもあれで喜んでおります」
「もう駄目だ、私も笑いが止まらぬ。そもそもお前のような化け物が、あの傾国をあれなどと呼ぶのが、ちゃんちゃらおかしいのだ。喜んでげこげこ鳴いているのは、貴様の方だろう」
こらえきれず臣下の一人が、ぶは、と息をふきだしたのを皮切りに、堰を切ったように王の周囲は笑いに包まれた。
そもそも彼らの大半は、醜い韓憑が舎人として重宝され、あれほどの妻を娶ったのを羨ましく思っていたものばかりである。
羨望の裏には必ず嫉妬がある。
つまり彼らは、韓憑が王に叱責されるのが愉快でたまらなかったのである。韓憑は目をぎょろつかせて、ただ恥に耐えていた。
「どうだ、韓憑よ、あの女を私にくれぬか。なんとなく、欲しくなったのだ。貴様にはもったいない。」
これには韓憑も、苦しそうに喉を鳴らした。
「馬鹿を言え、あれは俺のものだ、やるわけがなかろう。だいたい、俺を蝦蟇と呼ぶ貴様は、何と呼ばれているのか、知っているか。宋の紂王だ、この暴君が、人でなしが」
「ふふふ、なかなか悪くはない。それに紂には、妲妃という傾城があったではないか。認めるであろうな、韓憑」
「ああ、悪鬼のような男よ。もう我慢できない。俺なぞより貴様の方がよほど化け物ではないか」
「貴様と言ったな、蝦蟇め。二度は許さぬぞ。貴様は舎人としての領分を侵した。この場で殺してやりたいが、生かしてより酷い重苦を味わわせてやろう」
韓憑は訳のわからぬことを喚き散らし、短刀で王にのぞみかかったが、すぐに衛兵に取り押さえられた。
そのまま両の脇をつかまれ、おのれ、だの、殺す、だの恐ろしいことを叫びながら、引きずられて宮殿を追い出されていった。
三
数日すると、何氏が宮中に招き入れられた。
なるほど、近くで見るとなれば、聞きしより数倍は増して美しい。
これより先の世にもこれほどの女は現れないであろう、王はそう思いながら、漂う妖しい白粉の薫りを鼻に感じていた。その馥郁たる香は鼻孔を通じ、王の脳髄を麻痺せしめた。
女は、二月の柳枝のように、少し風が吹けば折れてしまいそうな足をひた、ひた、と進ませて王の眼前に傅いた。
どこまでも白い肌に、唇と頬はほんのりと赤く色づき、桃の実のようである。
彼女を前にすれば、恐らくは、花も色を失うに違いあるまい。
「顔をあげて、私によく見せてください。あなたは、きっと私を恨んでいような」
「いいえ、あの男は辛いことがあれば、私を激しく打ち据えました。この通り、ここもこんなに赤くなってしまい、王の御寵愛を賜ることが叶うでしょうか、心配でなりません」
そういうと女は、身に纏っていた羽衣をはらりと落した。
すす、という衣擦れの音が妙に艶めかしい。一糸纏わぬ姿となった女の体には、その白い肌にどこまでも不釣り合いな赤があった。
王は韓憑を心から憎く思った。
「ああ、なんと可哀そうな、私はそんな真似は必ずしない。さあ、湯治なさるといい。水を用意してあります」
王が手を叩くと女官が現われ、倒れそうな女を支え起こし、湯浴みへと連れて行った。
浴槽に腰掛ける女は、さながら月であった。
美しいものはこうでなくてはならぬ、蝦蟇などと汚らわしい行為に興じていてはならないのだ。あの女だけは、手に入れてよかった。手放すこともあるまい。
王は朝夕問わずに女を愛した。
帳の中暖かくして、春の宵を過ごす。傍にいて、愛でるだけでよかった。それ以上のことは、少なくとも蝦蟇のようにはしない。彼女には、薄絹の衣を与え、着させた。毎日のように頭を撫で、甘言を囁いた。
「枕を共に出来るだけで、私は幸せです。明日もこうしていてくれますね」
「このような体でも、王様のお役にたてるのなら、私も幸せでございます」
女の甘い声は、王の心を和らげ、癒した。
国が危急の秋であることも、韓憑が城造りの人夫として身をやつしていることも、今はどうでもよいことであった。
「あなたと話していられること、それだけで私は充分なのです」
「幸せでございます……」
「あなたは、韓憑に体をいいようにされましたね」
「今その体を、王様がお役立てになっています」
「冗談の上手いお方だ。私はあの男のように、あなたの体を傷つけることはしませんよ」
「心は……」
「ええ、私はあなたの心がほしいのです。」
四
一季節が廻った。
ある夜、何氏は王に、韓憑宛ての書簡を出すことについて、許しを請うた。
王は言うまでもなく嫌な気持ちであったが、検閲を通すという条件を付けてしぶしぶながら、許可を与えた。
「あれでも、元は夫。少し心配でございます」という女の訴えを、不憫に思ったのである。
私は、これほどあれを愛しているのだ。よもや、間違いもあるまい。手紙の内容も、私が見るのである。今思えば、韓憑にも少し悪いことをした。あれを打ったのは、許しがたいことではあるが、蓋し私も奴に辛く当りすぎたかもしれない。
何氏は早速書簡を書いたようであった。
《こちらは淫淫とした雨が降り続き、大河も龍のように体を震わせております。本日、日は中央に位置いたしました。どうぞお体に気をつけて。》
なるほど、連日のこの雨では、昼夜となく労働に駆り出される韓憑も、どこか体に障りがあるかもしれぬ。河も水かさが増し、雨止みの呪いをするものも出始めているという。
「しかし、『日が中央に位置した』とは? 天は雲に覆われ、日など久しく見ていないというのに、その位置などわかるはずがない。誰かこの意味がわかるものはいるか。」
王は左右に意見を求めたが、答える者はいなかった。
「なんだ、誰もわからないのか」
「恐れながら」
蘇賀がうつむき気味に答えた。
この男、頭が切れ、治世軍略にその才を存分に発揮したため、かつての韓憑のように重宝されていたのである。
「おお、蘇賀。お前が私に意見するというのに、何故そのようにかしこまるのだ。思うことがあれば、言ってみなさい」
「はい。僭越ながら王、これは裏切りの手紙でございます」
「裏切り……」
王の顔が曇った。
「雨が淫淫と降り続くとは、思い悩みながら慕い続けていることを言います。大河の水かさが増したことを言ったのは、行き来が叶わないことを嘆いているのです。中央に日が位置したとは、心に死の決意を固めた事を言ったのです」
「つまり、お前は何氏が私より韓憑を選んだと、そう言うのだな」
「そうとしか読めないと言っているのです」
王の眉間には皺が深く刻まれた。全身を震わせ、そしてなんとか声を絞り出すようにして言った。
「そうか、私はお前を、賢しいと思って重用してきたのだが、そうでもなかったようだ」
「いえ、決してそのような……」
「黙れ。おい、この男を連れていけ」
何氏が私を裏切るなど、あろうはずがない。
蘇賀は馬鹿であった。私と彼女の思いの深さを知らないから、あのような戯言を吐いたのだ。
私たちは一年の間、毎夜欠かさず睦言を交わしてきた。
私は一度たりともあの女を打つような真似はしなかった。それどころか、彼女の脂肌に触れるのは、未だに躊躇いを覚えるほどである。
私は韓憑とは違う。欲のはけ口などでは決してない。心が欲しいのだ。私は渾身、彼女を愛し続けてきた。
彼女もまた、文句の一つも口に出すことはなかった。
それを知らずに蘇賀は。
もう日のことなどどうでもいい。
どの道、私にわからないような手紙を、あの韓憑がわかるはずないのだ。ああ、私はあの女が愛おしくてたまらぬ。欲するものならなんでも与えてやる。
怒りにせよ愛情にせよ、人は強く思いすぎると、何に対して激情を馳せているのか、よく分からなくなるようである。
何氏を愛で始めてから、王は無暗に人を殺すことはなくなった。
一種のしらけといえよう。
五
その夜、王は何氏の部屋に渡り、尋ねた。無実を確信しているとはいえ、やはり気になったのだ。
「何氏よ。手紙を拝見する限り、あなたは韓憑の体をよほど案じている様子。どうだろう、奴を人夫の役から解いてやってもよいのだが」
無論、これは王の一計。少しでも喜ばしい態度を見せたならば、いかな寵愛の妃といえども、さすがに疑いを抱かざるを得ない。
何氏は少し顔を伏せて答えた。
「その必要はございません。あの男に未練など、あろうはずが。ただ、一年苦役に課せられ、雨雪問わず粉骨している身、恐らくもう長くはないでしょう。悲しいかな、今や人夫一人とはいえ無駄にできない状況ゆえ、檄文を送ったにすぎません」
聞いて王は、変わらぬ愛を胸に抱いた。
色めきたる容貌に加え、愛国の志まで。私はこの人を生涯離しはしない。
「なるほど、そういうことでしたか。あなたは心までも麗しいのですね」
一抹でも何氏を疑ったことを恥じねばなるまい。王は一人、悪いことをしたような気になり、誤魔化すために、思いついた適当なことを口にした。
「そういえば、私があげた衣、あれはどうしています? 最近見ないようだが」
「それは……」
と何氏。思いがけない質問に驚いた様子。王は訝しげに何氏を見据え問うた。
「どうしました?」
「いえ、実は連日の雨の中、庭の花が気になり少し外に出たところ、あっと躓き……」
「なるほど、汚しましたか」
「申し訳ございません。王より賜りました品を……、怖れ多く、終に申し出る勇気が得られませんでした」
しばらく鹿爪らしくしていた王は、ふと顔をほころばせ微笑んだ。
「ふふ……ははは、何といじらしいお方だ。そんなことは気にしなくてもよい。たかが衣一枚、なんとでもなります」
「しかし、あれは王が私に初めて下さった品。薄紅の色も、絹の肌触りも気に入っておりましたのに……」
「では、同じものを用意しましょう。実はあの衣、私も気に入っていたのです。あれを着けたあなたは、妲妃もかくやという美しさでしたよ」
何氏、顔を赤らめ、
「いえ、あの、そんな。ただ王の篤い御心遣いに感謝いたします」
その様子のいちいちが可愛く思われてしかたないのは、王。
しばらく黙って何事かを考えていたが、遂に心に決めた様子で、
「実は次の祭日に、あなたへ大きな贈り物をしようと思っていたのです。きっとお喜びになるでしょう」
と微笑んだ。
「まあ、なんでございましょう」
「ふふ、重陽の日を楽しみにしておられるといい。そうだ、その折、例の衣を着てきてください。よい記念です」
何氏は承知の代わりに莞爾と笑い、衣を床に落した。
顔をほころばせた王は、少しためらいながら何氏の肩に手をかけた。
数日の後、韓憑自害の旨が王の耳に届けられた。
夜、自らが作り上げた城の高台に立ち、眼下を一瞥見下し、監視が止める間もなく飛んだのだという。
王は内心安堵した。
これで私の恋慕を妨げる者はいなくなった。何氏の中に、少なからずあり続けたであろう、元夫の残滓も消えうせた。
韓憑が自ら命を絶ったのは、僥倖であった。
何氏は人夫一人さえ無駄にはできないといったが、あの男の代わりくらいはいくらでもいる。
どの道、いつかは殺してしまおうと思っていた。
殺さなかったのは、韓憑への憎しみよりも、何氏への愛しみが強かったからなのだ。
何氏を傷つけた下種が、未だに時を同じくしているのがたまらなく嫌だった。
何氏は穢れた。
穢された。
薄汚い、臭気を漂わせた、ぬめぬめとした蝦蟇の油で。
何氏を腕に抱きながらも、私はかつての夫を忘れることができなかった。この腰は韓憑に抱かれ、この口を韓憑が吸い、この頭を韓憑が撫で、この乳を韓憑は舐めたのだ。
その韓憑が死んだ。何氏は解放されたのだ。
これで私は心置きなく何氏を愛することができる。何氏もまた、亡霊に心を惑わされることなく、愛に身をゆだねることができるであろう。
心の中の澱が、すっかりなくなったようだ。
六
宮中では華やかな酒肴が用意され、女官、侍従が右へ左へ大忙しである。
庭には細かな秋雨が降り咲き、桐の葉を散らしている。今日は庭師も臣下に交じって奔走しているため、階に落ちた赤い葉は掃き去られないまま、重陽の宮を赤く彩っている。
「これもまた優雅ではないですか」
王は隣に腰を下ろす何氏に向かって尋ねた。何氏は、秋には不釣り合いな薄紅の絹衣を身に纏い、じっと俯いていたが、
「ええ。七夕には、嘆きの涙を催さしむるという憎らしい雨も、この重陽には、いいものです」
と目を潤ませ、ほぅと溜息をついた。
「最近のあなたは元気がありませんでした。久しぶりにあなたの笑顔を見られて、私も嬉しいですよ」
「秋の寒さは身に沁みます」
そういうと何氏は王の胸に手をやり、
「けれど、あなたの体は暖かい。しばらく、こうしていてもよいですか」
「勿論です」
「心臓が早鐘のようでございます」
「悪いお人だ。今日の夜、例の高台へ登りましょう。あなたに渡したいものがある」
しなだれかかる何氏の体に手を添え、王は囁いた。
「楽しみにしておりますわ……。それまでに晴れると良いですね」
「なに、天帝も重陽ばかりは逢瀬を手伝ってくれましょう」
杯に並々と注がれた酒を、く、と飲みほし、庭に目をやった。
あの日、放り投げた石は、今日宮中に帰ってくるだろう。
あの石は砂になどなってはいない、今も昔も月のままであったのだ。
今度は投げ出したりはしない。
ああ、何氏の言うとおり、夜までに晴れるといい。
今宵は満月なのだ。
夜。
王は、何氏と数名の従者を引き連れ、韓憑が作り上げた高台へと登った。
空は澄み渡り、満月が白々と高台を照らしている。
時折頬をかすめる風が、心地よい。
くるう、くるうと鳥が鳴き、心が切なくなるような夜である。
「目を瞑って……、そうこちらです。いいですね、私が合図をしたら、目を開けて振り向いてください」
王は何氏の手を取り、台の端へ導いた。
「どうぞ」
何氏は目を開き、振り返り眼下へ広がる景色を一望した。
澄んでいるため、遠くまでが見える。
台の脇を流れる淮水には星々が映り、張騫が筏で渡ったという天の大河が現われた。
民家には燈が灯り、空には星が輝き、見えるものすべてが天球のよう。
さすがに壮観。
王も、従者も、そして何氏も言葉を失った。
全てが幻のようであった。
「これが私からの贈り物です。この城下、国、いや、星々全てをあなたへ差しあげたかったのです」
「これが……」
何氏の頬を一縷の涙が伝った。
王は心から幸せな気持ちであった。
「これが、私の最愛の人、韓憑が見た最後の景色だったのですね」
ふわり、と何氏の体が宙に浮いた。
一瞬のことである。
王はなんとか衣を掴んだ。しかし、何氏の体を一秒も止めておくことはできなかった。
腐っていたのである。
何氏は人知れず、衣を腐らせていたのである。
鈍い音を立て、何氏の体は、宋の大地の塵埃となった。
七
《宋の紂王は卑しくも、私の体を御役立てになりました。
あなたの醜い欲望を、私の体を使って、お晴らしになりました。あなたに心を許したことなど一度もありませんでした。
韓憑を、最愛の人を私から奪ったあなたなど、どうして愛することができましょうか。
あなたの体は暖かかった。けれども、心は冷徹でした。私は、一生あなたの下では温まりそうにありません。
以前韓憑に打たれて辛かったろうとあなたはおっしゃいました。
全く辛くなどなかったのです。私はあの人に打たれて嬉しかった。
苦しみを分け合えて、嬉しかった。
あの人が私を心から愛し、私もそうだったからです。
あなたには、一生わかりますまい。
けれども、あなたに少しでも暖かい心が残っているのならば、私の死体をあの人と一緒に埋めてください。
せめて死んでからは、私の体を私のために役立てたいのです。》
王が新しく与えた衣は、真新しいままで部屋に置かれていた。しかし、その裏には、王への恨み事がつらつらと書かれていのである。
私が欲しかったのは、体ではない。心だったのだ。
悔しく、悲しく、歯を食いしばれども、その口を通して溢れてくるやるせなさをぶつける相手は、王にはいない。
一秒であろうと、ひと所に留まることができない。動いていなければ、引いて行かない怒りの氾濫。或いは、苦しみの氾濫。
なぜ何氏は韓憑を選んだのだろう。
あの涎を垂らした韓憑を、何氏は愛していたというのか。尻を打たれている時も、本気で喜んでいたというのか。私が頭を撫でたとき、何氏は嫌がっていたのか。
なぜ私では駄目だったのか。
私は心から何氏を愛した。ひと時たりとも、放ってはおかなかった。常に心には何氏がいた。
なのに、あの女は心の中で、例の汚らわしい嬌態を思い出していたというのか。韓憑が忘れられなかったというのか。
冷徹。
心が冷徹。
私の贈り物の裏に書かれた言葉。心が冷徹なのはどちらだ。お前は、私の贈り物を腐らせていた。こんなものいらなかったというのか。そこまで嫌だったのか。
転んで、汚したというのも嘘だったのか。気に入ったという言葉も嘘であったのか。
何よりも、恥ずかしい。恥だ。よくも私を騙してくれた。愛を捧げた私に泥を塗ってくれた。
悔しい。苦しい。
王の心の中には、名状し難い感情が渦巻いていた。
名前がつけられる以前の、原始的な感情。名前がつけられていないからこその、混沌とした感情。もし名前がつけられたら、刹那として消えてしまいそうな感情。
「村人どもに命令しろ。あの女は、韓憑の墓と離して埋めるのだ」
あの女は私を裏切った。ならば、その遺言を聞いてやる必要もあるまい。
そうだ、何氏は韓憑に心を操られていたのではないか。そうだとすれば、死ねば呪いは消えるはず。
「ただ、塚は向い合せに作るがよい」
愛し合っているというのなら、死して後、二人は一つにならんとするだろう。
しかし、いくら韓憑が何氏と逢おうとすれど、何氏が拒めば叶うことはない。
もしも、二人が再び一つになるようなことがあれば、その時は私も邪魔をすまい。
私は何氏を、もう一度信じよう。
八
何氏を地面に埋めてから幾晩と経たぬ後、双方の塚の端から、梓の木が生えてきた。
始めの頃は、三寸ほどの芽に過ぎず、通り過ぎる村人の幾人かが、おや、と不思議に思う程度に過ぎなかった。
これが十日も経つと、一抱えに余るほどまで育ち、幹が徐々に、相手の塚に向かって曲がってきた。
梓は天に向かい、真っ直ぐに屹立する木である。
この不思議な木のことは瞬く間に村中へ広がり、人々は寄り合い寄り合い、頭を捻って何事かと考えた。
見る見るうちに枝は交錯し、複雑に絡み合った。互いの木が、待ち侘びていたと言わんばかりである。
とある村人が、根元を掘ってみると、その根も、人間が足を絡め、睦び合うが如く、うねりにうねっていた。
かくて、二つの梓は、一つの樹となった。
枝の先には、いつしか一番の鴛鴦が住まうようになった。ねぐらとしているのだろう、いつまで経っても木から離れようとはしなかった。
鴛鴦は互いの首をさし交えながら、昼となく、夜となく、きゅうきゅうと鳴いた。
それは、互いを慈しむような声であった。
長らく離れ離れになっていた夫婦が、再会を喜び合うような声であったとも言う。
ここにおいて村人たちは、韓憑と何氏を哀れがり、木に「相思樹」という名前を付け、村の宝として大切に育て上げたと言う。
相思とは、おおよそこのようなものであろう。
戦国の世に入り、北狄南蛮が村へ流れ込むにつれ、木は枯れて朽ち、後の世には、ただ相思という言葉だけが残った。
果たしてこの話は、康王の耳に入っただろうか。
それを知るすべはない。
康王の名は、人情を知らぬ暴君として残るばかりである。
(捜神記による)
高校3年生創作ノートより
今村夏子と「書かないこと」
そこにあるべきものが存在していないとき、ふと恐怖に襲われることがある。
いつも同じ場所に置いてあるはずのものが、突如消えていたとき。顔があるべきところに、顔がないのっぺらぼう。しっかり踏みしめていたはずの大地がどろどろに緩みだし、頼るもののない闇の中へと落下していく。
今村夏子は、「書かないこと」の上手い作家である。
私小説作家が書きすぎてしまう心情、あるいは書いて当然である状況、設定。そういうことを書かない。そういう意味ではネットロアの「巨頭オ」なんかに近い怖さがある。藤野可織や小山田浩子、吉田知子など不穏な文学の書き手は多くいるけれど、今村夏子もまたそうした「不穏文学」の担い手として、一味違った小説を書き続けている。
彼女の書いた小説は、まだ少ない。
・太宰治賞、三島由紀夫賞を受賞した「こちらあみ子」を含む作品集『こちらあみ子』
・芥川賞候補となった「あひる」を含む作品集『あひる』
・2017年上半期の芥川賞候補『星の子』
・『文芸カドカワ2016年9月号』に収録の「父と私の桜尾通り商店街」
・『たべるのがおそいvol.3』に収録の「白いセーター」
くらいのものだ。「父と私の桜尾通り商店街」だけ読めていないけれど、このまだ寡作な作家の著作を見通して、どのような作家なのかの簡単な感想を書いておきたい。
『こちらあみ子』
「こちらあみ子」はあみ子の幼年時代の思い出が語られていく作品だが、一読して不穏な気持ちに包まれる。それはあみ子が「信頼できない語り手」だからである。あみ子は純粋である。純粋すぎるがゆえに、アスペルガー的な振る舞いをする。
周りの人間の言動から、あみ子がどのような人間とみなされ、どのように扱われているのかということは嫌というほどわかるのだけれど、それを一向に気にせず、あまつさえ状況を悪化させていくあみ子にやきもきとしてしまう。
「信頼できない語り手」とは、例えばこんな場面だ。
兄が突然不良になったように、母は突然やる気をなくした。
のちに、なぜそうした状況になったのかは読者にはわかるのだけれど、あみ子には「突然」という認識しかできないのだ。
あみ子は同級生からはいじめられ、両親からは腫物を扱うようにされている。母の書道教室では奥のほうに隠され、クラスの友人からは罵詈雑言を吐かれる。けれど、あみ子にはそれらが「理解」できない。この小説はあみ子の視点で進んでいくけれど、「悲しい」という感情がすっぽりと抜け落ちている。
流産した妹の墓を、他の生き物と並べて作ることの意味が、チョコチップクッキーのチョコだけをなめとって好きな男の子に与えることの意味が、あみ子にはわからない。でも読者にはわかる。その認識のずれが、この小説の居心地の悪さを生み出している。
例えば『苦役列車』や『コンビニ人間』も似たような構造をしていて、異端なるものの視点を書くことで、それを笑い、あるいはそれにいらいらとする読者を相対化して、正気と狂気は立場の違いに過ぎない、ということを浮き彫りにする。
けれど「こちらあみ子」は、それらの作品とは違う部分がある。あみ子は疑わないのだ。「自分は普通ではない」というメタな認識があみ子にはない。繰り返しになるが、彼女は純粋なのだ。すべての行動は、自らがよかれと思って行動していることなのだ。
だから、あみ子の告白には破壊力がある。なぜなら、彼女の「好き」にはなんの打算もないからだ。
好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真っ赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。
のり君の「殺す」という気持ちもわかるし、あみ子の「好き」もわかる。この場面は白眉で、読者のもやもやが純粋化した存在としてののり君と、あみ子との対決なのだ。
殴られるというノンバーバルなコミュニケーションによってはじめて、あみ子は「一息つく」ことができた。「好き」という感情の置き所を獲得できた。
その後中学卒業を間近に控えた時期の、兄や幼馴染との対話で言葉によるコミュニケーションの兆しも見えてくる。
と、誰もトランシーバーに応答しない伝達不可能の時代、
「あみ子にはわからんよ」
と父親が吐露する時代から、あみ子は脱却していく。そのきっかけは大好きなのり君に殴られる、というコミュニケーションの経験からなのだ。殴られることによって、対話が成立する。ここに、やはりやりきれないかなしさのようなものがある。
文庫本の解説を穂村弘が書いているけれど、『ラインマーカーズ』などに収められた彼の短歌には、なんだか共鳴するところが多い気がする。
ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi
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お遊戯がおぼえられない君のため瞬くだけでいい星の役
手紙かいてすごくよかったね。ほむがいない世界でなくて。まみよかったですね。
特に前者なんかは、「こちらあみ子」のための短歌のようだ。
また、町田康も解説を書いているのだけれど、ぼくが「こちらあみ子」を読んで思い出したのは古井由吉の『杳子』と町田康の『告白』だった。
『告白』の熊太郎が明らかに悪い方向に進んでいくのを「やめろ……やめろ……」と思いながら読んでいく、という作中主体と読者の関係性は、「こちらあみ子」に似ている。
この居心地の悪さというのは「ピクニック」でも違った形で提供される。
ガールズバーではたらく「ルミたち」のもとへ、芸人の春げんきの彼女と名乗る七瀬さんが訪れる。彼女は春げんきとの出会いを語り、彼への愛からどぶ掃除まで行う人物であり、やはりちょっとおかしい、ということはだんだんわかってくる。
けれども、「ルミたち」は疑わない。七瀬の告発をする女子高生の新人が出て来るけれど、逆に彼女のほうが異端なるものとして扱われている。ここでも「信頼できない語り手」として七瀬はでてくるのだけれど、一番気味が悪いのが、結局彼女が何者であるかがわからないところである。
ただの虚言であるならば、そうだったのか、となるのだけれど、時折彼女と春げんきは通じ合う時がある。例えば、昼の番組に出演したときに、彼は七瀬に約束した(と七瀬が述べる)行動をとる。それは、ひょっとしたら作品には書かれていないところで、七瀬が聞いたラジオで春げんきがそうするということを言っていたのかもしれない。
はじめの靴に関する出会いであったり、カバの鳴き声であったり、という部分は「信頼できない語り手」の虚言であるということもできるだろうが、この部分では客観的な「ルミたち」も時間を共有しているので、真実味が生まれている。
なので、ひょっとしたら出会いは本当で、けれども、七瀬はいわゆる「カキタレ」だったのではないか、そしてある程度は本当のことを言っていたのではないか、という解釈も生まれてくる。
新人のいうようにすべてが嘘だったのか、あるいは本当のこともあったのか、そうしたことの答えは語られることなく、七瀬は部屋に引きこもり物語は終わる。
「チズさん」もまた、書かれないことが多い。何より、語り手とチズさんの関係性がわからない。ヘルパーのようだけれど、ただのご近所さんのようでもある。ヘルパーなら、なぜチズさんの家族があらわれたときに隠れたのだろう。
この、文章の空白とどこか信頼できない語り手たちは、『あひる』でも登場してくる。
『あひる』
あひるを飼い始めてから子供がうちによく遊びにくるようになった。あひるの名前はのりたまといって、前に飼っていた人が付けたので、名前の由来をわたしは知らない。
父と母、それからわたしの三人暮らしの家に、突然「のりたま」というあひるがやってくる。のりたまといえば黄色と黒色。つまりは危険色だ。その名前の通り、一家に不穏な影が闖入する。
弟が家を出ていき、しんとしていた家に、あひるを見にくる子供が次々とやってくる。両親ははりきって、全霊をもって歓待する。家は子供たちによって遊び場と化し、汚されていく。
安部公房の『友達』に近い気持ちわるさだ。
けれど、名前も知らない子供の誕生日会を目前に控えた両親の良心は、何の前触れもなく裏切られる。
この部分がかなり胸にくる。
まるで大人になって二階に引きこもるわたしや不良となって家を出ていった弟の代替物として振る舞う子供たちは、やはり他の家庭の子供であるのだ。
どうして子供たちが誕生日会にこなかったかの説明は一切ない。ここでも「書かない」ことによって、彼らの行いが「家族ごっこ」でしかなかったということが浮き彫りになる。
この小説の気色悪さというのは、あみ子のように純粋さが逆に悪くはたらいてしまうという子供なるものという集合体の気持ち悪さがひとつある。
もう一つは空白の多さである。ぱっとページを開いてみて感じるのは、文字の少なさだ。情報量がかなり少ない。
二階で生活している「わたし」は基本的に傍観者であって、一階で巻き起こる騒動、両親、子供たちは異邦人だ。だから、病気で病院に連れていかれたのりたまが帰ってきたときに、違和感を覚える。
おかしい。
これはのりたまじゃない。
つまり、両親が子供たちを引きとめるために、のりたまの偽物を用意したのではないかという考えに至るのである。
この考えは最終的に三輪車に乗った女の子によって裏打ちされるのだけれど、彼女は「信頼できない語り手」である。誕生日会の日に訪れた男の子をのりたまの化身と思うわたしもまた信頼に足るとは言い難い。
当事者である両親が何も言わない以上、真実はわからないのである。
もちろん前述の誕生日会の日の男の子も謎の人物として書かれるだけである。
「おばあちゃんの家」「森の兄妹」は、同じ場所での出来事を二方向から書いた、連作といってもよい作品だ。
「おばあちゃんの家」は離れに住むおばあちゃんについての話だ。このおばあちゃんは途中からはぼけたものとして扱われるのだけれど、最後の一文が恐怖をそそる。
今、テレビをみているみのりの目の前を横切って、台所へと向かっていったおばあちゃんの足取りは、どう見ても、昨日より安定している。
足取りもおぼつかないおばあちゃんの歩みが安定する。みのりは子供だ。子供の語りというのは、いつでも不安定な要素を含んでいる。『銀の匙』や『二十四の瞳』、あるいは『夏の水の半魚人』の瑞々しさというのは、裏返せば不完全な視線だ。未知だからこそ恐怖があり、わくわくがあるのだ。
この小説は、大人の目線で書かれていたら何のことはない物語なのかもしれない。けれど、子供の目線で、空白の多い文章で書かれることによっておばあちゃんはまるで幽霊のような存在と化す。
『こちらあみ子』でもそうだったが、「あひる」のわたしにしても、「おばあちゃんの家」「森の兄妹」のおばあちゃんにしても、どこか奥に押し込められている「異形のもの」がよくでてくるのは今村夏子の特徴かもしれない。そういう者たちとのコミュニケーションは、基本的には難解なのだ。
「白いセーター」
今度の語り手は嘘をつく。
クリスマスイブの日に、婚約相手の姉から子供を預かってもらうように頼まれる。
そこで、ちょっとしたことから子供を泣かしてしまい、そのことを問われたときに、わたしはとっさに嘘をつく。
奇妙なのはこの部分が、何かを取り繕おうとする嘘として描写されていないことだろう。
元気がないようには見えなかった。わたしには普通に見えた。
わたしはくびをかしげた。
まるで先ほどの出来事を忘れてしまったような振る舞いだ。怒られたくないあまりに嘘をついてしまって泥沼にはまる、というのはよくわかるのだけれど、どうにも「わたしは悪いことはしていない」という純粋さがここにも見え隠れしている。
確かに彼女がしたのは、大声を出す子供の口を塞ぐ、というそれだけのことなのだけれど、嘘をついてしまうことによって、「信頼」を失ってしまう。
素直に言ってしまえばよいのに、という読者と作中主体のずれ、それはこの小説にも描かれることとなる。
基本的に他者は理解不可能だし、自分すらも理解不可能だ。足元がぐらぐらとしてくる。
『星の子』
おそらく今村夏子初の長編だろう。
一読した印象としては、物語づくりや会話、あるいはシーン、新興宗教にはまる両親、正しい家庭を取り戻そうとする姉、自意識過剰な中学教師、きたない人間ばかりの世の中で唯一きれいな友人といった人物造形がかなり漫画っぽいなというものだ。
読みながら、宮崎夏次系の『夕方までに帰るよ』が頭をよぎった。
幼いころ身体の発疹などで苦しんでいた娘を救おうと苦心する両親は、会社で次のような言葉を耳にする。
それは水が悪いのです
この時点で「あっ……」と察する。水と新興宗教の話といえば『聖水』なんかを思い出すけれど、奇妙な宗教やマルチは水を売ると相場が決まっている。
『こちらあみ子』はアスペルガー的振る舞いのゆえに、端的にいえば白痴であるがゆえに疎外されていた主人公であったが、今回は両親が怪しげな宗教にはまっているがゆえに疎外される。
現実の世界でもそうだけれど、家庭環境の不全は、家庭の代替物を求める。いちいちフロイトやなんだをもってこなくても、この辺りはなんとなく納得できると思う。不穏、空白を埋めるものはいつでも物語だ。父親のいない社会で、父親的なものを宗教に求めるように、この家の姉妹も物語を求める。
それは愛であった。
『こちらあみ子』や『あひる』に比べれば直球な小説だ。それゆえに不穏よりも面白さのほうがうわまわっているというのが一回読んだときの率直な感想だった。
個人的な見方では、これは浅野いにおであったり、宮崎夏次系であったり、サブカルと標榜される漫画諸作に読み心地が近い。
「ねえ。ちーちゃん、好きな子いる?」
わたしは、パンをもぐもぐ咀嚼しながら「うん」とこたえた。
「どんな子?」
当時はエドワード・ファーロングへの熱も冷めて、秋山くんのことを好きだった。
「背が高くて、サッカーがうまくて、歌がうまくて、さか立ちができる人」
「へーかっこいいね」
「まーちゃんは」
「いるよ」
「どんな人」
「背が低くてサッカーできなくて歌がへたくそで、さか立ちもできない最低の人」
「アハハ。じゃああたしはどう見える?」
「きれい」
このあたりの台詞回しは、もちろん前後の文脈もあるのだけれど、かなりグッとくる部分だ。
新興宗教といえば妖しくて忌避すべきもの、という考えは1995年以降のわれわれには染み込んでしまっているものだろう。けれども、愛や恋のような幻想の物語はいつでも美徳とされている。そのあたりのことが、改めて認識できる小説だろう。
とはいえ「書かない」今村夏子も健在で、最後のシーン。不気味さを伴う言いさしで終わっていく。とはいえ、この小説では折れながらも進んでいくという陰な爽やかさが不穏さを上回っていた、と個人的には思う。
今村夏子は寡作だ。おそらくこれからたくさん小説を書いてくれるだろう、と期待する。少なくともぼくのまわりでは今村夏子はかなりの読者を獲得している。今日び、たくさん読まれる文学作品というのも珍しい。
不穏な続編を期待している作家のひとりだ。
わすれもの装置
昼下がりの公園。アール氏はベンチに腰掛け昼食をとっていた。空は青々として雲は白く、絶好のランチ日和というわけだ。
元気いっぱいはしゃぎまわる子供たちを目で追っていたアール氏は、視界の端にちらりと何かが見えたのに気がついた。
「おや、あれはなんだろう」
弁当を置き、近寄って見てみると、それは黒色のカバンであった。革製の、ちょっと値の張りそうなカバンである。
「さては誰かが忘れていったのだな」
何しろ今日は絶好のランチ日和だ。浮かれたサラリーマンが一人や二人いたところで、何もおかしくはない。
「うっかりしたやつもいたものだ。そうだ、近くに交番があったな。ここはひとつ、届けてやろう」
「どうも、ありがとうございます」
アール氏のすぐ近くで機械のような、しかし温かみのある声が聞こえた。
「いったい、なにものだ」
「わたくし、忘れ物でございます」
どうやら声の主は、アール氏の手の中にあるカバンのようだった。
「忘れ物だと自己紹介する忘れ物も、なかなか珍しいな。おい、君はどこから声を出しているんだい。ははあ、おおかた、テープでも入っているんだろう。動作に合わせて録音を再生するなんて、なかなか面白いいたずらじゃないか」
「いいえ、いたずらではございません。わたくし、忘れ物でございます」
これにはアール氏も慌てた。こちらの会話を予想して、返事を吹き込んでおくのは不可能だ。だからといって、こんなカバンの中に、人が入れるわけもない。
「すると、君は本当に忘れ物なのか」
「本当に、忘れ物でございます」
「そんなこともあるまい。どれ、中身を見てみよう……」
しかし、カバンは固く閉じられており、どうしても開けることはできなかった。
「なんだか、頭が痛くなってきた。落した人には気の毒だが、気味が悪くていかん。さっさと会社に帰ることにしよう」
アール氏は食べかけの弁当をベンチの上に忘れたまま、会社へと逃げて行った。
数年の月日が流れた。
かつての公園も様変わりし、木々は切り倒され、空の空気もくすんでいた。公園で遊ぶ子供の数も減り、代わりに舗装された道路を走る車ばかりが大きな音を立てていた。
ガールフレンドとデート中のケイは、公園のベンチの下に、ぼろぼろの黒いカバンが置いてあるのに気付いた。
「おい、見てみろよ、忘れ物だ」
「あら、本当。お金なんか入ってないかしら」
「ふふん、見つけたのは俺たちだ。ちょっとばかし、いただいても構わないだろう」
そう言うとケイは、カバンの口に手をかけた。
「わたくし、忘れ物でございます」
どこからともなく聞こえてきた声に、ケイとガールフレンドは、腰を抜かしてしまった。
「うわ、いったい誰だ」
「わたくし、忘れ物でございます」
「気色悪いわ。こんなもの放っておいて、早くいきましょう」
「そうだな、それがいい」
カバンは乱暴に地面へ叩きつけられ、ケイはそれを蹴りつけた。カバンは茂みへと飛び込み、清掃員によってゴミとして収集された。
「わたくし、忘れ物でございます」
その声は誰の耳にも届かず、誰もいないゴミの山で、ただこだまするだけであった。そうしてしばらくすると、かちりと音を立てて、カバンの口が開いた。
「あの、地球という惑星はどうでしょうかね」
時間はさかのぼり、地球のはるか上空。宇宙連合の使節団員は、団長に尋ねた。
「視察した限りでは、地球人は、なかなか善良そうだった。きっと数日もたたないうちに、警察に扮した、われわれの仲間のもとへ届けられるだろう」
「それにしても、宇宙連合に加えるかどうかを、あんなもので判断してよいのでしょうか。しかも、長い間届けられなければ、内蔵された毒ガスでその星の人々を滅ぼしてしまうというのも、少し過激な気がするのですが……」
「今や、宇宙も人口爆発が進んでいるからな。悪意に満ちた星は滅ぼしていかなければならない。それに地球人は大丈夫だろう。彼らにはおもいやりの心がある。そのおもいやりさえ忘れなければ……」
2012年
かみしのの四半世紀のベスト
四半世紀のベストです。
名刺みたいなものです。
どうやら不穏なものが好きなようです。
四半世紀のベスト④
今回は詩歌・古典その他です。
前回↓
76、麻耶雄嵩『メルカトルかく語りき』
一番好きな探偵は、と聞かれたらぼくはホームズでも金田一耕助でもなく、メルカトル鮎と答える。麻耶雄嵩の書く型破りなミステリーは、思わず二度見ならず五度見はしてしまう。『翼ある闇』や『螢』などの長編もよいけれど、やはりメルカトルの探偵らしからぬ悪行が次々と披露される短篇集がいい。このウルトラCの作家を研究したのが清涼院流水。はちゃめちゃなものを読んでも怒らず笑っていられる人にはうってつけの小説だ。
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周りに話を聞くと、赤川次郎のようなライトミステリーやライトノベルから読書にはまったという人が多いけれど、ぼくは両方読んだことがなかった。大学生になって、ふと、これを手に取ってみた。病院×文学少女×青春。ぼくは心のど真ん中を撃ち抜かれてしまった。そして『キノの旅』や『紫色のクオリア』や『ある日、爆弾が落ちてきて』のようなラノベの名作と出会えた。『君の膵臓が食べたい』は本作のオマージュだと個人的に思っている。
78、ペソア『不穏の書、断章』
それはまったくの偶然だった。生協へ行くのが日課だったぼくは、新刊コーナーに「不穏の書」という本を見つける。「不穏」とは結構じゃないか、と思いぼくはそっとページを開く。 そうしてぼくはペソアに出会ってしまった。「わたしとは、俳優たちが通り過ぎ、さまざまな芝居を演じる生きた舞台なのだ」。多重人格を使うペソアの詩には、虚無が、諦観が、喪失が言語化されていた。太宰治とペソアだけがぼくのことをわかってくれた。
79、ハイヤーム『ルバイヤート』
詩人というのはとにかく酒が好きだと思う。酔っては暴言を吐く中原中也に、酔って月をとろうとして水死した李白。もちろん中東にも酒好きはいるもので、この『ルバイヤート』にはひたすら酒のことが吟じられている。「たのしめ一瞬を、それこそ真の人生だ!」そう高らかにうたいあげるハイヤームの詩は、とにかく刹那的で享楽的だ。これを読み終えたぼくはいてもたってもいられずに、友人と飲みの約束を取り付けたのだった。
80、ボードレール『パリの憂愁』
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「僕の好きなのは雲さ」「常に酔っていなければならぬ」「何所でもいいのだ!ただこの世の外でさえあるならば!」新型鬱だの、ファッションメンヘラだの、どうしようもないレッテルがたくさんある世の中で息苦しくなるときはボードレールを読むといい。ここにはとんでもない頽廃が存在している。光の都市と化していく19世紀のパリを疎ましく思う気持ちと、きらきらしたものを厭う気持ちは、深いところで通じ合う。
81、『中国名詩選』
粘法だの、二四不同だの、平仄だのを知って以来、気が向いたら漢和辞典を片手に五言絶句を作っていた。漢字のみで作り上げられる世界に魅了された。よく公的な文章は漢字でしたためるため感情表現が排される、という説明がされることがあるけれどあれは嘘だ。李白、杜甫、白居易、李賀、彼らの作り上げた漢字のみの芸術はどうしたって感情豊かだ。「君に!勧む!一杯の酒!」というコールを友人と考案して、二人でさみしく杯を交わしていたことも思い出す。
82、吉田一穂『吉田一穂詩集』
いうまでもなく詩集や歌集だけで100冊を選ぶこともできるのだけれど、どれを選ぶといわれると難しい。島崎藤村から三角みづ紀まで、詩集は百花繚乱だ。だからぼくはあえてあまり知られていないこの詩人をここに記す。彼の象徴やイメージで散りばめられる漢字の乱打は、漢詩にも通じれば西脇順三郎のようなシュルレアリスム詩にも通じる。この詩集をひらいてぼくの胸に去来したのは「かっこいい」の一言であった。
83、谷川俊太郎『トロムソコラージュ』
谷川俊太郎は偉大な詩人だ。おそらく日本で一番有名な詩人でありながら、今なおアバンギャルドな言動をつづけている。 「万有引力は引き合う孤独の力である」なんて言葉は、どこからやってくるのだろう。この詩集に収められた「詩人の墓」は、詩才ゆえに人に愛され、詩才ゆえに愛されずに死んだ詩人の物語詩だ。もっとも好きな詩のうちのひとつ。水中、それは苦しいというバンドが「芸人の墓」という曲名でオマージュしているけれど、これもよい。
84、ヒューム『人性論』
哲学者の精神はどうなっているのだろう、と不思議に思うことがある。と同時に、文学以上に哲学は毒だと思う。しっかりした解説書や詳しい人による相対化にあえて身をさらさないと、気が狂ってしまう。ぼくはヒュームの懐疑論を知ってしまったせいで、一時期この世のすべてがばらばらに見え、言葉を発せず部屋にひきこもっていた時期がある。プラトンの対話篇くらいなら一人で笑いながら読めるけれど、ある程度円熟してきた時期の哲学は、時に死へと誘ってくる。
メンタルを病んだ人間は仏教に惹かれていく、という傾向がある気がしている。禅宗の「臘八大摂心」なんていうのはLSDで宇宙の真理を知る、というのとほとんど同じだろうし、時宗はスーフィー、部屋で音楽を聞きながら踊り狂うのとたいして変わらない。全は一、一は全。他の宗教と違うのは、仏陀が人間であるということだ。唐突に億なんていう数字が出てくる仏教の思索の世界は哲学に近い。いきなりこれに行かずとも、例えば架神恭介の『もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら』は入門によいと思う。
86、『古事記』
これは天皇が編纂を命じた公的な史書だ。それがここまで物語として面白いのは奇跡だと思う。伊邪那岐と伊邪那美の国産みから、素戔嗚の暴挙、ホノニニギ天孫降臨、日本武尊の武勇伝まで、ありとあらゆる想像の種がてんこ盛りだ。西洋の神は世界を作るけれど、日本の神は世界を産む。だから日本の神々にはどこか母親に似た親しみやすさがある。いろいろ訳があるけれど、中でもこの池澤夏樹のものは親切で読みやすいと思う。
87、旧約聖書より「コヘレトの言葉」
ぼくはキリスト教に関係のある仕事をしていて、よく聖書を読む機会があったのだけれど、説経臭いところはあまり好きではなくて、ずっと隠れて「コヘレトの言葉」と「黙示録」ばかり読んでいた。この「コヘレトの言葉」はちょっと聖書には珍しく「なんという空しさ、すべては空しい 」といった虚無が満ちている。中でも1章18節「知恵が深まれば悩みも深まり知識が増せば痛みも増す。」という箇所を、ぼくは三重くらいで囲った。
- 作者: 紫式部,阿部秋生,今井源衛,秋山虔,鈴木日出男
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まだメールがコミュニケーションツールだった時代、ぼくのアドレスには「msb」だの「gm54」だのといった記号が織り込まれていた。「紫式部」と「源氏物語54帖」だ。海外では叙事詩でヒロイックなことをうたっている一方で、日本ではたおやめな恋愛三昧である。ぼくが京都にきた理由のひとつは『源氏物語』がたまらなく好きだったからだ。魅力はこの文字数では語りきれないけれど、世にあふれる恋愛小説を読むくらいならぼくは『源氏物語』を百回読む。
物語の登場人物を恋し、憧れ、ついには仏道を疎かにして小説に熱中した少女が、結婚と同時に物語は物語でしかなかったことを知り、「こんなことなら本なんて読まなければよかった」と老後に回想する日記。こんなものエモでしかない。けれど孝標女は結局『浜松中納言物語』を書き、それに感化された三島由紀夫は畢竟の大作「豊饒の海」を書く。ロックンロールは鳴りやまないのだ。
すべての文学は引用だ、という言説は日本文学において視覚化される。なぜなら日本には「本歌取り」という文化があるからだ。例えば「葛葉が裏見」という言葉には「恨み」という掛詞を用いた和歌が本歌取りされている。そういうことがわかる人間が読めば、まるで副音声のように物語が多重化する。現代では注を見ながら読むことで、なんとかその足跡だけはたどれる。そういうことをさておいても、この秋成の読本は人間の情念から生まれた妖しが跳梁跋扈する、幽遠な世界を提供してくれる。
91、謡曲「定家」
何の気なしに見ても面白いのは歌舞伎だけれど、やはり謡曲のおどろおどろしい静謐な情念の世界というのはたまらないものがある。藤原定家は式子内親王への妄執から、死後に定家葛となって内親王の墓に絡みつく。 幽霊となって僧へ回向の願いを立てる内親王だが、最後には墓の方へ消え、定家葛はまたそれに絡みつく。あとにはただ雨が降っている。果たして彼女は成仏したのだろうか。ここには永劫回帰の深淵がある気がする。
- 作者: ウィリアムシェイクスピア,William Shakespeare,福田恆存
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正直シェイクスピアはどれも面白いのだけれど、とにかく一番悲劇的で印象に残ったのは『リア王』だった。ソフォクレスの『オイディプス王』にも劣らない悲劇が、老いたリア王を襲う。『ハムレット』『ロミオとジュリエット』もよいけれど、一番わかりやすいのは『ヴェニスの商人』かなと思う。イギリスの劇団がやっているものを見たけれど、国をこえて、時代をこえて、今でも十分斬新な筋立てだ。隣の大学が学生演劇で『夏の夜の夢』をしていて、それも見に行ったことがあったなあ、と懐かしさがやってくる。
学生時代は演劇もよく見に行って、その中でいろいろな戯曲も読んできた。『ゴドーを待ちながら』は間違いなく傑作だ。隙間が多くて、「ゴドー」は「GOD」なのかに始まる解釈の余地がたくさんある。ラーメンズのコントでもオマージュされているこの演劇を、ぼくは日常系アニメだと思って読んでいた。なんといっても笑えるのだ。一方で全体を不穏が覆っている。ゴドーとはおそらく「終わり」そのものだと思う。それは死と言い換えることもできる。「けものフレンズ」のキャラに置き換えてみるというSSも進行中なのでぜひ。
卒論を『金槐和歌集』にしたのは、太宰治が「右大臣実朝」という小説を書いているからだ。この中世歌壇というのは定家がおり、実朝がおり、西行がおり、良経がおり、後鳥羽院がおり、まさに和歌文化のピークといってもよい。中でも実朝の歌というのは、文芸を愛しながらも、謀略渦巻く将軍家に生まれてしまったことへの怨嗟や病に裏打ちされた激しい叫びのような歌が胸を打つ。「大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも」
なんでもいい。書店で塚本邦雄と名の付く歌集を手に取って、どこでもいいから開いてみてほしい。それで、彼がどういう歌人なのかは十分わかるはずだ。古来からの和歌、茂吉から続く近代短歌、そういうものを破壊してしまった歌人なのだ。語割れ・句跨りを考案し、旧字の漢字の硬質な世界を作った。「ディヌ・リパッティ紺靑の樂句斷つ 死ははじめ空間のさざなみ」なんていう短歌、ぼくは稲妻が走った。一番好きなのは「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」
96、魚村晋太郎『花柄』
『玲瓏』の歌会に行くと、必ず黒いシャツに身を包んだ魚村さんがいる。塚本に師事した彼の短歌からは、確かに塚本の息吹を感じるのだけれど、それ以上に抒情的なのだ。 歴史的仮名遣いの、絶妙な息遣い。この人の短歌がぼくの目指すところなのだけれど、到底およばない。どうしたらこんなにせつない短歌が作れるのだろう。「かなしみが怒りの種子をむすばなくなつてひさしい秋天の声」「あの緑色いいよねと(もう二度と聞かぬであらう)声ははなやぐ」
97、南輝子『ジャワ・ジャカルタ百首』
南さんの短歌には絶望が満ちている。仏教や銀河、水のグロテスクなイメージにのせられて父を失ったことのかなしみや苦しみが肌を刺す。悲痛な鎮魂だ。「おしよせるあまたの魂やはちぐわつははれつしそうにぷるぷるしてゐる」「ああああああながきくるしみいみもなしつきぬけるそらすきとほる世」この日本語のうねるよう感覚は魚村さんと近く、なんとかして会得したいのだけれど、やはりまだまだ難しい。歌会などで会えばいつもぼくに気を払ってくれる、短歌の師のひとりだ。余談だけれど、短歌関連でぼくに気をかけてくれる女性は、みんな魔女のような人たちばかりだ。
98、穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』
現代の歌人に与えた穂村弘の影響というのは計り知れなくて、ある意味でみんな穂村チルドレンといってしまってもいいくらいだ。エッセイなどを読んでも独特な人だというのはわかるだろうけれど、やっぱりこの歌集がちょっと異常だと思う。筋肉少女帯の「香菜、頭をよくしてあげよう」に通じる、崩壊しそうな危うさを孕んでいる。「手紙かいてすごくよかったね。ほむがいない世界でなくて。まみよかったですね。」この短歌のやばさはこの歌集を読めばよくわかると思う。
99、『現代俳句集成』
電車に揺られながら、ぼくは魚村さんにどうしたら魚村さんのような短歌を詠めるのか聞いてみた。すると彼は鞄から付箋の大量についた分厚い本を取り出した。それがこの『現代俳句集成』だった。ぼくははっとした。どうも詩と短歌と俳句は違っているように見えたのだけれど、同じ言語芸術であると気付いたのだ。それ以来この本は、ぼくの部屋の手の届くところに置かれ、適当にひらいて眺めては発見を楽しんでいる。津沢マサ子「太虚を孕み割れたるガラスびん」
100、笹井宏之『てんとろり』
- 作者: 笹井宏之,加藤治郎
- 出版社/メーカー: 書肆侃侃房
- 発売日: 2011/01/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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現代、歌人は本当にたくさんいる。いろんな人の短歌を読んできた。みんな美しい言葉で感性的な歌を詠んでいる。でも、ぼくはそうした歌の頂点に笹井宏之がいると思っている。彼の脆く、儚く、壊れてしまいそうな言葉たちは、真似しようと思えば途端に消えてしまう。これは笹井宏之の遺した、あまりに透明でつかむことのできない言の葉なのだ。「かなしみにふれているのにあたたかい わたしもうこわれているのかも」
こうして100冊書き出してみると、案外いろいろな本を読んでいるな、ということがわかる。中でもぼくは「不穏」なものが好きなようだ。それは例えばホラーであり、怪奇であり、幻想であり、夜であり、黒であり、頽廃であり、淫靡であり、儚いものであり、傷をつけるものである。
よい本に出会うと、ぼくは地震が起きたかのようにぐらぐらしてしまう。これから先、どんな本がぼくをぐらぐらとさせてくれるのだろう。
次にベストを書くとすれば、50歳。
それまで生きているかはわからないし、そもそも本というものがあるのかどうかもわからない。けれど、どうなろうがぼくは紙の本を読み続けるし、みんなが失ってしまうもの、落としてしまうものを拾い上げて、大切に保管しておくつもりだ。
だから、みんなも疲れたこちらに帰ってきてほしい。
あたたかいお茶くらいは用意しておくので。
四半世紀のベスト③
前回↑
今回は怖い小説たちです。
51、連城三紀彦『戻り川心中』
『幻影城』で泡坂妻夫ともに第一線をはった連城の、大正デカダン風味の連作短編集。ミステリーには「ホワイ・ダニット」、つまりなぜ殺人を犯したのかという動機に主眼を置いたものが存在するけれど、「桔梗の宿」は個人的には日本におけるホワイ・ダニット小説の頂点。侠客や遊女、芸術家などの一般の道から外れたやくざものたちの織り成す物語は、連城の耽美な文章にのって深い爪跡を残す。京都のサイゼリアで読み終わったとき、ああああああ!と声をあげてしまった。
横溝正史とともに語られることの多い山田風太郎だけれど、彼の小説は少し変わっている。忍者の異能力バトルが繰り広げられたかと思えば、同時代に復活した天草四郎や宮本武蔵が剣豪バトルを繰り広げる『FATE』のようなものまである。この『太陽黒点』も同じく風変わりで、3分の2くらいは青春小説なのだけれど、急転直下で推理小説へと変化する。この「あれっ?」という一瞬は、一時期流行ったアハ体験よりもよっぽど痛快だ。
53、久生十蘭「無月物語」
大学に入ってからずっと、十蘭が好きだと繰り返していた人間がいた。乱歩や久作の系譜だといわれて読んでみた。思わずため息が漏れた。その文章の魔術に飲み込まれたものを中井英夫は「ジュウラニアン」と呼ぶ。「顎十郎」シリーズのような捕物帳もずば抜けて面白いけれど、悪なるものを書かせたら右に出る者はいない。「無月物語」に描かれる純粋悪に動悸が激しくなる。もちろん悪が書けるものは、同短編集の「黄泉から」のようなリリカルな作品も書ける。気づいたらぼくは「ジュウラニアン」だ。
54、津原泰水『蘆屋家の崩壊』
猿渡と伯爵を主人公とした怪奇ミステリー「幽明志怪シリーズ」のひとつ。短編集でありながら、散りばめられた衒学的といってもよい怪異や食べ物の雑学の数々。ときには論理を上回る超常現象へと巻き込まれていく。津原の交友関係を見渡せば、金子國義、四谷シモン、小中千昭。「そういう」世界の住人だ。ちなみに妖怪「件」の小説は、小松左京しかり内田百閒しかり名作となるという、個人的なジンクスがあるのだけど、津原の「五色の舟」もまたそうした傑作のひとつに加えられるだろう。
55、チェスタトン『ブラウン神父の童心』
海外のミステリーというのは実はあまり肌に合わないことも多いのだけれど、チェスタトンは違った。明晰なるブラウン神父を探偵とした「ブラウン神父シリーズ」の短編は、ひとつひとつが珠玉だ。乱歩が「トリック創出率随一」と語ったように魅力的なトリックと、批評家らしい階級社会や宗教への皮肉のきいた言い回しがリーダビリティを生む。「秘密の庭」のびっくりをぜひ味わってほしい。「サラディン公の罪」「アポロの眼」「折れた剣」、どれもよい。
56、太宰治『晩年』
ぼくが太宰治に抱いている感情は愛ではない。憎悪だ。太宰のせいでぼくは小説が好きになったし、太宰のせいでぼくの人生は狂った。一時期ぼくは、自分は太宰なのではないかと本気で倒錯した。文章になっているものは関連の評論やエッセイまで含めてほぼすべて読んだ。玉川上水の入水した場所で瞑想し、実際に彼が着たマントを纏った。「死のうと思っていた」ではじまる太宰の処女短編集『晩年』。冒頭の「葉」に太宰のすべては凝縮されている。
坂口安吾は太宰や織田作と同じく無頼派と呼ばれる集団の一員だ。彼は推理ものもから評論まで数多くのジャンルにまたがって小説を書いてきたが、なんといっても怪奇小説が美しい。「桜の森の満開の下」なんていうのは、その主たるものだ。梶井基次郎しかり、西行しかり、桜には死の魅力が付き纏う。破滅の煌々とした美しさがそこにある。同じく岩波からでている堕落論のほうには、太宰治に対する痛切なラブレターが挿入されている。
気がついたらまわりが猫だらけ。そう書くとなんだか仄々するけれど、この小説の書き手はあの詩人・萩原朔太郎。ショーペンハウエルの引用からはじまるこの小説には、幻想的なイメージが敷き詰められている。いつも散歩している道を逆方向に歩いてみたとき、違和感を覚えたことはないだろうか。それは猫町に入った合図だ。そこら中の窓には、猫が目を光らせている。ポーもそうだが、猫というのはどこか悪魔の使者めいた振る舞いをする。
鴎外は前期・中期・後期と作風ががらりと変わっていて、後期の『渋江抽斎』あたりの歴史小説を円熟とみなすむきはあるけれど、やはり前期の浪漫主義的なものはたまらない。「舞姫」でパラノイアという言葉を知った人間も多いだろうけれど、「うたかたの記」もまた恋に狂う人間の物語だ。ドイツの花売りに恋した日本人画家は、池のほとりで発狂した国王ルートヴィヒに出会う。まるで一枚の絵画を目の前にしているようだ。
実は「蜜柑」以外の芥川の小説はそんなに好きではないのだけれど 、これは別格だ。なんといっても、あの芥川龍之介が書いた異能力バトル小説なのだから。マリア信仰を説き妖しげな術を使う謎の法師、法力で金剛力士像を召喚する仏僧、「地獄変」の大殿の息子にして人心掌握に長けた若殿。彼らの織り成すジャンプ顔負けの戦模様は、どう結末を迎えるのか。ぜひ見届けてほしい。
61、今村夏子『こちらあみ子』
一躍有名になった彼女を見て、ぼくは臍を噛んでいる。好きだったインディーズバンドが売れるのを見る気持ちだ。彼女の小説は「信頼できない語り手」による不信と作者による隙間の多い文章による不安という二方向からの意趣によって、ぐらぐらとした不穏を獲得している。ぼくはぼくであり、きみはきみでしかないことの恐ろしさが詰まっている。ぼくはこの感覚を別の小説で味わった。古井由吉の「杳子」だ。
62、藤野可織『いやしい鳥』
不穏な文学が文学界を覆った時期があった。藤野可織が『爪と目』で芥川賞をとったあの時期だ。ホラー小説が好きだという藤野さんの小説には、アナ・トーフの作品をじっと眺めたときに抱くような不穏が多分に含まれている。「いやしい鳥」や「胡蝶蘭」なんて、そのまま日本ホラー小説大賞をとってもいいくらいだ。怖いことはよいことだ。怖いというのは、体だけでなく心も震えるということだ。足元をぐらつかせるのが文学の役目だとぼくは信じている。
63、最果タヒ『星か獣になる季節』
銀杏BOYZに「十七歳」があり、大森靖子に「子供じゃないもん17」がある。早見純は「4+2+5+6=17(死に頃=17)」と書いた17歳を、最果タヒは星か獣になる季節だという。アイドルとはどういうものか、というのを真っ向から書いた小説。最果タヒはもちろん詩もよいのだけれど、小説も独自の視点から「かわいい」というまやかしへのアプローチをつづけている。彼女の言葉は、この2010年代を無残に切り裂いていく。
64、トム・ジョーンズ『拳闘士の休息』
- 作者: トム・ジョーンズ,岸本佐知子
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2009/10/02
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打って変わってアメリカの元ボクサー作家による、心身を病みながらも疾走し続ける人間たちの短編集。ヘミングウェイやカーヴァーと違うのはなんといってもその文体だ。日本でいうところの舞城王太郎。ドーパミンだらだらのドライブのかかった文章は、ぼくたちをあっという間に置き去りにする。岸本佐知子の畢竟の翻訳といってもいいだろう。こんな作品を一編でも残せたら、もう死んでもいい。
いまやありとあらゆる作家や批評家が言及し、彼の著作に対するなにがしかの論文をもたないと批評家として失格だ、といわれる文学的試金石のドストエフスキー。一回、バフチンだとかフロイトだとか小林秀雄だとか、みんなみんな忘れてこの小説を読んでみてほしい。そこに立ち上がってくるのは、極上、としか形容しようのない小説そのものなのだ。こんなにも思考や感情がぐるぐるとフル回転する小説は他にない。
面白すぎて手が震えてしまう、という経験を久しぶりにした。唐突に現れる紳士然とした悪魔、撥ねられる首、悪魔に占拠されるモスクワの劇場、キリストを愛すピラトを書く小説家。ソ連のイデオロギーへの反抗は、『ファウスト』を下敷きとした世にも奇妙な悪魔の饗宴となってあらわれる。上下巻だけれど、一気に読んでしまった。頭の中では星野桂だとか永井豪だとか中村明日美子だとかの絵で、魅力的な悪魔たちの姿が浮かんでいた。
67、ソローキン『愛』
何も知らずにソローキンの『ロマン』を読める人は幸いだ。人によっては一生小説を読めない体にされてしまうかもしれない。ぼくは読む前に内容を知ってしまった。だから『愛』におさめられたいくつかの短編によって、追体験するしかなくなった。まだ何も知らないひとは、何も調べず必ず頭から読んでみてほしい。ソローキンが試みているのは文字通り小説の破壊だ。コードを破壊するときに、笑いはうまれる。だからよい小説は怖くて笑えるのだ。
68、バルザック「浮かれ女盛衰記」
バルザック ポケットマスターピース03 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
- 作者: オノレ・ドバルザック,野崎歓,Honor´e de Balzac
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2015/12/17
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バルザックは「人間喜劇」という計画によって、19世紀のフランスを完璧に描き切ってしまおうとした。この「浮かれ女盛衰記」は「ゴリオ爺さん」にも登場する希代の大悪党・ヴォートランを主人公にした一作。 きらびやかな表の社交界と政治の世界を、裏から牛耳ろうとする彼の奸計と人間的魅力は、この集英社からでているマスターピースシリーズで十分に味わえる。プルーストやワイルドが心酔した悪の魅力が、ヴォートランには満ちている。
自分を騎士だと思い込んだ老人が、風車に突っ込んでいく。ドン・キホーテといえばまずこのシーンが頭に浮かぶだろう。騎士道物語に辟易して、自らを騎士と思い込んで悪ならぬ悪を成敗していく。これは底抜けに滑稽で、底抜けに悲しい。読み終えたときには絶望に近い感情を覚える。現実世界で出された偽作までも作中に取り込んで、多重構造的にドン・キホーテは進んでいく。 笑いの表裏一体のかなしみ、というのはこういうことをいうのだと思う。
70、チュツオーラ『やし酒のみ』
日本文学の癒し系が武者小路先生なら、海外文学の癒し系はチュツオーラその人だ。「です・ます」と「である」が混じったすっとぼけた文体、自らが神であり、便利アイテムをもっていることをつい忘れてしまう「やし酒のみ」、脅威を落とし穴なんかで解決する展開。アフリカの神話空間が生んだ奇跡のような小説だ。なんといっても、一ページに一か所はつっこみどころがある。それゆえに異常なリーダビリティをもって、読み終えるころにはチュツオーラたん、という呼称をもって彼を呼ぶことになるのだ。
71、リャマサーレス『黄色い雨』
スペインの詩人によるこの美しい小説を、ほんとうは教えたくはない。これはぼくだけのものにしておきたい。でも、それは卑怯なのできちんと書いておく。なにもかもが終焉を迎えた村で息をひそめる一人の男。そこにあるのは冷たい狂気と圧倒的な静寂のみだ。この小説、というべきなのかもわからない世界にはそれ以外のものは何もない。タル・ベーラの『ニーチェの馬』のように純粋化された時間だけが存在している。
72、アレナス『夜明けのセレスティーノ』
- 作者: レイナルドアレナス,Reinald Arenas,安藤哲行
- 出版社/メーカー: 国書刊行会
- 発売日: 2002/04
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ひとえにぼくは、わけがわからないけれどなんだかかなしい小説、というジャンルの小説に垂涎する。これもその一つだ。大人になるにつれて世界は分割されていく、というのはよくきくけれど、そうだとすればこの小説は生まれたばかりの赤ん坊の世界の活写だ。生と死すらも未分化なこの世界はひたすらぐちゃぐちゃだ。突如挿入されるエピグラフ、強烈なリフレイン、死んだと思ったら生き還って次の行でいつの間にか死んでいる。ただかなしみだけが疾走している。
73、コルタサル「南部高速道路」
悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)
- 作者: コルタサル,木村栄一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1992/07/16
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コルタサルの小説は夢と現実がメビウスの輪のようにつながっている。いつの間にか幻想と現実を往還している。閉鎖系というジャンルがあるけれど、この「南部高速道路」は高速道路が舞台。渋滞のつづく高速道路では、夏が冬になり、運転手同士の恋愛出産があり、葬式があり、共同体ができていく。でも、それは高速道路でしかなく、一旦車が動きだしたら、ただの他人だ。このあたりの文明批評が、上手に、丁寧にえがかれている。
74、ルルフォ『ペドロ・パラモ』
人が死んでも記憶は積もる。コマラという町にはペドロ・パラモと彼を取り巻く人間たちの記憶が、地層のように重なっている。記憶が肉体から離れたとき、それは記憶それ自体として歩き出すのだ。解説にもあるように、少ないページ数の中に膨大な時間と空間が閉じ込められている。時間の記述は錯綜していて、死と生がぐるぐると渦巻く。これは一回読んでわかるような作品ではないので、自然と何回も読むことになる。
75、アルトー『神の裁きと訣別するため』
- 作者: アントナン・アルトー,宇野邦一,鈴木創士
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2006/07/05
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中三のときにフーコーに出会った。「パノプティコン」、「狂気の零度」という言葉が痛烈に頭に残った。だからドゥルーズまでは、ある意味で一直線だ。そしてその美しき徒花としてアルトーも知った。ラジオ・ドラマのテキストであるこの著作は、ある程度の条件をもたなければ、真の衝撃を味わうことはできないのだけれど、芸術の狂気を書いたゴッホの著述は圧巻だ。マレルの「狂気のブルー、苦悩のオレンジ」という短編は大好きな短編だけれど、そこに描かれるような狂いを、芸術は孕んでいる。
次回↓
四半世紀のベスト②
今回は現代小説が多めです。
その①はこちら
26、藤枝静男『田紳有楽・空気頭』
「七月初めの蒸し暑い午後、昼寝を終えて外に出た。」といういかにも私小説的な一文から始まる「田紳有楽」は、いつの間にか池に沈むぐい呑みや鉢の視点になり、皿は空を飛び、陶器はしゃべり、ついには森見登美彦ばりのどんちゃん騒ぎになる。冒頭の語り手の正体が明らかになったときには、なんじゃ、これはと思わず笑ってしまった。私小説を突き抜けた結果、しっちゃかめっちゃかになった、最高の「文学」である。
ハンセン病の病棟を舞台にした、死と病の命の小説。「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです」と語られる壮絶な描写は、なぜだか丸尾末広の絵で補完された。命そのものが、胎動している。
28、多和田葉子『聖女伝説』
多和田葉子という作家は日本よりもドイツなどで評価されている。「文字派」といわれる独自の路線を行く彼女の小説も、やはり一風変わっている。少女の生/性/聖が練り上げられていく様を、ぼくは外側から眺めていることしかできない。ひたすら白のイメージをもって書かれる文章ではあるけれど、その行間からはどうしようもなく黒い何者かが蠢いていて、恐ろしく、何よりかなしい。
29、ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』
肺に睡蓮が咲く病気。ぼくはこの設定だけでご飯がいくらでも食べられる。もともとは『ニュールーマニア』というゲームで知ったこの小説は、実は全編が空想的なイメージで彩られた恋愛小説なのだ。ピアノを弾けば音調によってカクテルができ、音楽をかければ部屋は球体に変形し、スケート場では人間が伸縮し死ぬ。ゴンドリーの映画も、シュワンクマイエル風のアニメが使われていて、たいへん面白かった。
イメージの叛乱といえばこの小説(?)を忘れるわけにはいかない。ヒッピー文化の代表にして、重度の麻薬中毒、妻を射殺したこともあるウィリアム・バロウズ。のちカート・コバーンによってオマージュされるカット・アップや麻薬の自動筆記を用いて、猥語や悪夢が取り留めなく記述されていく。そもそも大麻やLSDとはなんなのか、ということを知るのは決して無駄なことではない。それらをひとえに悪と切って捨てることはできないのだ。
31、町田康『パンク侍、斬られて候』
ヒッピー文化はロックというジャンルを生む。日本でも数多のバンドが生まれた。町田町蔵の『メシ喰うな』はパンクの名盤として、よく名があがる。『告白』もこの小説も、まるで松本人志のコントを見ているようだ。つまり笑ってしまうのだ。時代劇の枠組みは、唐突に入る空間の破れによって、簡単にスクラップ・アンド・ビルドしていく。腹ふり党なる怪しげな宗教をめぐる事件は、ついに世界の終焉へと続いていく。げらげら笑いながらも、ふと考えてみると現代の寓話そのものなのが空恐ろしい。
32、峯田和伸『恋と退屈』
仕事に疲れたぼくは自殺を試みた。けど生きた。偶然、先輩につれられて京都のみなみ会館で銀杏BOYZのライブ映画試写会に行った。そこでは汗と涎にまみれた峯田和伸が「薬やったって手首切ったって人殺したっていいから生きて銀杏BOYZを聞きに来てください」と叫んでいた。だからぼくは生きることにしたのだ。いつでも救ってくれるのは歌であり、音であった。峯田和伸と藤原基央と夢眠ねむがいなかったら、ぼくは死んでいた。
33、高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』
高橋源一郎は時代の空気を吸収する、「文学スポンジ」おじさんだと思っている。たくさん吸い込んだ同時代の水は、堰を切ったように絞り出される。現在の童話的語り口もよいけれど、やっぱり初期の三部作は異常だ。ばらばらに崩された言葉の意味、文章、そして文学。はっきりいってめちゃくちゃだ。けれど、その裏には抒情がある。ここでばらばらにされたのは文学ではない。80年代という時代が裁断され、悲しみの声をあげていたのだ。
34、ブローティガン『西瓜糖の日々』
- 作者: リチャードブローティガン,Richard Brautigan,藤本和子
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西瓜糖で作られた世界。そこでは家具も、言葉も、西瓜糖で作られている。薄い甘さで、死と隣り合わせの日常を生きる共同体。いくつかの詩的な断片で編まれた本作は、例えば高橋源一郎に、小川洋子に、村上春樹に、多大な影響を与えた。このリリカルな言葉たちはページを開くたびにすっと胸に馴染みこんでくる。ぼくは好きになった人にこの小説をプレゼントしてきたのだけど、みんないなくなってしまった。だから、これはここだけの秘密のおすすめだ。
ぼくは村上春樹が嫌いだった。洒落た生活をして、セックスをしているだけの小説だと思っていた。これは、無知蒙昧の極みだった。彼のメタファーとアレゴリーというのはちょっと他の作家には見られない。基本的に村上春樹の小説はすべて好きなのだけれど、ぼくを「深い井戸」から救ってくれたのはこれであった。『レオン』を下敷きにしたと思われる、殺し屋・青豆と小説家・天吾、ふかえりの物語。とうていこの文字数では語りつくせないほどの衝撃を受けた。
- 作者: ジョージ・オーウェル,高橋和久
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2009/07/18
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はじめて読んだのは高校の英語のサイド・リーダーだった。表紙には大きく目が印刷されていた。社会主義のいきついた先のディストピアが、「二分間憎悪」「ビッグ・ブラザー」「二重思考」などの魅力的な用語をまじえながら描かれる。この小説は徹底的に絶望である。2+2=4と綴れなくなる時代は、確かに歴史の中で存在していた。『動物農場』もまたある時期の社会の寓話だ。新装版はピンチョンの解説があって、よりよくなっている。
37、伊藤計劃『ハーモニー』
おそらくぼくと同年代の人間は、ほとんどこの小説を読んでいる。伊藤計劃以後、なんて言い方は少し大げさだけれど、ぼくたちは伊藤計劃を失った世界で生きている。『1984年』の翻訳にして、優しさや公共性に支配された世界はまさしく今現在、そのものなのではないか。確かに物語自体も百合じみていて面白いし、多くの文学やライトノベルが引用されているのだけれど、何よりこれは自由意志の小説なのだ。
38、円城塔『バナナ剥きには最適の日々』
円城塔というのは奇妙な作家だ。ホラー好きなぼくは物理専攻にして学術博士、システム・エンジニアを経験してきた伊藤計劃の盟友・円城塔を知るよりも、実は奥さんの田辺青蛙の方を早く知っていた。文学とSFを往還する彼の作品はどれも実験的で難解だ。けれど、例えば二重スリット実験を知ったときの興奮がそのまま文字で追体験できるような硬質な文章、その背後に漂う数学的リリシズムは例えば『Self-Reference ENGINE』に、「墓標天球」に、そして本作所収の「equal」に結実している。
39、海猫沢めろん『左巻キ式ラストリゾート』
『動物化するポストモダン』という新書は、東浩紀の社会批評だけれど、この海猫沢の本一冊にゼロ年代がすべてつまっている。ひぎぃ、ひぎぃから始まる大量のエロと冒涜的な文章。村上隆の作品が自ずとオタクに対する批評性をもったように、この小説もゼロ年代への批評性をたたえている。間違いなく問題作であって、『ドグラ・マグラ』を超えるといってもいいポストモダン奇書だ。元ホストという海猫沢の謎の経歴も味がある。
そしてぼくは舞城王太郎へとたどり着く。正直いってぼくはこの小説によって変わってしまった。ほとんどのミステリーやエンタメ作品では心が動かなくなってしまったのだ。このミステリーにして、文学にして、SFにして、ファンタジーにして、ホラーにして、幻想な小説は、『毒入りチョコレート事件』のような多重推理を組み込み、どこか別の世界へぽーんと飛んで行ってしまう。あとには放心したぼくだけが残っていた。『世界は密室でできている。』あたりが入門にはよい気がする。
41、滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ』
大学時代、これを読んでしばらく大学にいくことができなくなってしまった。現実には、特別なことなんて起こらない。だから見えない敵を作って戦う。けれど、すべて幻なのだ。終わらない日常は続いていく。ただ、薄い灰色が世界を覆っているのだ。今ではスピリチュアルの人になった滝本だけれど、この作品で人生が狂った人も多いのではないかと思う。『lain』や『灰羽連盟』でもデザインを担当している安部吉俊の絵も、くすんでいて素敵だ。
42、金原ひとみ『アッシュベイビー』
綿矢りさとの芥川賞同時受賞で一躍話題となった金原ひとみ。 殺して殺しては、埋めて埋めてに代替できる。ドライブ感のみで構成された拙く幼い文章も、ベイビーなんだから当然だろう。希死念慮そのものを描いた小説だ。男は棒をもつ、女は穴をもつ、男は暴力をもつ。どう叫ぼうとも、この事実は変わることはない。それをまざまざと突き付け、倫理を置き去りにする本作は、人を選ぶだろう。けれど、ぼくは大好きなのだ。
43、本谷有希子『生きてるだけで、愛。』
本谷有希子の名をはじめて知ったのは、『幸せ最高ありがとうマジで!』の演劇だった。そこでは生が強い光を放っていた。寧子は手首を切る代わりに、全身の毛を剃る。働きもせずに男の元に寄生するし、働いたら働いたでちょっとしたことで店を破壊してしまうし、なんでもないことで泣く。変なのはわかっているけれど、変なまま愛されたい。必要なのは矯正じゃなくて同調。そうして、生きてるだけで愛、というのをぼくたちは求めているのだ。
44、鷺沢萠『海の鳥・空の魚』
「切り取ってよ一瞬の光を」と歌ったのは椎名林檎だけれど、人生の一瞬の光を切り取ったいくつもの小品でできているのがこの小説だ。35歳で自殺した彼女もまた、世界の観察に長けていたのではないだろうか。中の短編のひとつは、中学生のとき教材で読んだのを覚えていた。それから教師になり、 高校の教科書に載っていたのをたまたま発見して、ぼくはじーんとしてしまった。人間の光は、何年たっても変わらずに胸をうつ。
45、古井由吉「杳子」
古井由吉は毒だ。過剰に摂取すると、ふらふらして、自分と世界の境界が曖昧になって溶けだしていく。「杳子は深い谷底に一人で坐っていた。」という冒頭から、その世界に閉じ込められる。正常と異常の境界をぐらぐらと揺さぶる杳子。「ここから先は危ない」という具合にざわざわとした不穏を身体的に体験できる文章というのは、たいへん稀有だ。橋を渡るために手を取るシーンなんかは、思わず眩暈がしてしまう。
46、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』
いわゆる「ぼく」文学のはしりと呼ばれるこの小説は、全共闘に馴染めない童貞文学青年の一日の心象を描いている。モラトリアム人間は、赤頭巾ちゃんという無垢なるものによって救われる。これはぼくのことを書いているのか、と錯覚してしまう漫画にするなら浅野いにおか押見修造系文学だ。この小説を読むきっかけも、『旅のラゴス』の女の子だった。彼女は二作目の『白鳥の歌なんて聞こえない』が好きだった。彼女は、どこかで今も本を読んでいるのだろうか。
これもまた罪作りな本だ。はじめにアニメで見、そうして次々と小説を読んでいった。そこで書かれるのは自分の生活する京都の風土だった。あの鴨川も、あの赤玉ワインも、あの、木屋町もここに書かれている。地の文でくすくす笑いながら読めたのは大学時代のこと、あれから数年たち、森見登美彦という名は京都への愛と憎悪とともに脳にしっかりと刻み込まれている。いまだに猫ラーメンは食べられていない。
48、武者小路実篤『友情』
実篤先生は、白樺派という文壇の中心のグループにいながら、直球の笑いとかなしみを提供してくれる素晴らしい先生だ。『愛と死』では自分の創作した人物の死に涙を落とし、『真理先生』では笑いしか起きない物語を描いた武者小路先生は、『友情』でとんでもないことを書いてくれた。いわゆる童貞的な小説といえば田山花袋の『蒲団』が有名だけれど、こちらはよりひどい。なにがひどいって、これを読むと尋常じゃないくらい傷つくのだ。
49、川端康成『みずうみ』
個人的には谷崎潤一郎の気持ち悪さを、より進展させたのが川端康成だと思っている。「片腕」のフェチズムはすでにホラーの域だ。教師と生徒の恋愛に、「意識の流れ」頽の技法と廃的な雰囲気を纏わせたのがこの『みずうみ』。後ろ暗い人間は後ろ暗い人間としか引き合うことができない。くすんでしまった人間は、きらきらしたものにはもう近づくことはできない。なんとも救いのない小説である。
50、伴名練『少女禁区』
- 作者: 伴名練,シライシユウコ
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2010/10/23
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ぼくはホラーが好きで、角川の日本ホラー小説大賞の受賞作はほとんど読んできた。他にもいろいろと面白いものはあるのだけれど、やはりこの『少女禁区』の最後の一文に勝る衝撃はないわけである。根がオタクである、ということであろう。この作品以来しばらく伴名練の噂を聞かなかったのだけれど、しばらくして大森望の『NOVA』の中に名前を発見したときは、思わず小躍りしてしまった。
その③↓