神大短歌vol.4感想

 

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 (画像はTwitterからお借りしました)

 

神大短歌会。

創設の時期にちょっとかかわりがあったので、そのつてで買ってみました。

気になった歌をチョイスしてみようかなと思います。

 

さるすべり咲く夏いくつ重ねてもわたしのものにならない空よ/嶋田さくらこ

 

『やさしいぴあの』の嶋田さくらこさんによる寄稿。「Sa」の音の置き所がよくて、爽やかではあるけれどさらっと過ぎていってしまう夏のような上の句に、「a」の嘆息があふれる下の句。実家の庭にさるすべりの木がたっているのだけれど、幹を触ると制汗シートで拭いた後の肌のようにすべすべしていて、ひっかかりがまったくない。空を掴むことはできない。猿から進化しただけの人間に、自然は、時間はあまりに深淵で程遠いのだ。

 

 

マッキーで腕に描く星 能力を封印された妖怪だから/貴羽るき

 

まあ、ぱっと思い浮かぶ「封印された妖怪」といえばどうしても『NARUTO』の九尾狐とかになってしまうのだけれど、たいてい曰くのあるスポットは仰々しい印や紋章が刻み込まれている。あんなのがあるから、肝試し気分の大学生が封印を破ってしまって世界がたいへんなことになるのだ。思い切って更地にしてしまえば、かえって誰も気にしないのに。けれど、大きな存在は存在しているということを叫ばなければ済まないのだ。ピアスを開けるのでもなく、手首を切るのでもなく、マッキーで星を腕に描く、それだけで何者かであることができるのだ。

 

 

電飾の消えた食品サンプルのショーケースがいちばんあたたかい/すずきはるか

 

食品サンプル。おいしそうでなければ、お店に入ってくれない。けれど、自らは食べられるわけではなく、ただ軒先にさらされているだけ。いわば、自分に似た別物のために存在している存在。ちゃんと活動して、他者の役に立っているものからしたら影であり、なぜ存在しているのか、という理由が希薄だ。彼ら(彼女ら)が休むことができるのは、みんなが寝静まった夜だけ。まるである種の人間みたいですね。食品サンプルという着眼点がよい。

「シティーライフ」という都市生活の疲れを綴った連作の中に置かれることで、じんわりとしたよさが浮かび上がってくる。夜のやさしさへの憧憬だ。「ストラクチャー」もよかった。

 

 

ナチュラルに笑えてるけど先輩はヒトを解剖したんですよね/上木優香

 

連作をしっかり読んでいくと、医学部生の、あるいは医療についての問題意識が詰まっているのだけれど、最初に読んだときは、又吉の自由律俳句のようなものに見えてふふっと笑ってしまった。

血と肉をもっている人間が、同じ人間を解剖するのはやっぱり恐ろしくて、大江健三郎の「死者の奢り」ではないけれど「人」を物として、「ヒト」として扱っているわけだ。中世風にいえば神の似姿を、暴いて、切り刻んでいるわけで、冒涜的だともいえる。それでもそうやって人間を解剖しながら「ナチュラルに笑え」る人間のおかげで生きることができる人間もいるわけだ。

そういう根深い問題意識が女子高生のつぶやきのような軽妙な歌になっているのがよいと思った。

 

 

おりがみを虹の形に折りました 生命線を没収されて/村上なぎ

 

じっと手を見る。生命線のカーブが虹のように見えてくる。昔何かで見たのだけれど、生命線というのは長さではなくて、曲がり具合が重要らしい。誰に生命線を没収されたのかはわからないけれど、これは生命線が失われてしまったから、それを補うように折り紙を折ったという風に解釈した。

虹は雨のあとにできるものだし、虹の根元にはどうやらたいへんな宝物が埋まっているらしいので、そんなたいへんなものが折り紙で折れてしまうのはうれしいことだと思う。生きる意味が感じられないのなら、自分の手を使って、美しくてすごいものを作ればいいのだ。

 

 

織姫は彦星がいないときにだけ会員制露天風呂を楽しむ/梯やすめ

 

364日ほぼ毎日じゃないか!!!

ということで、甘いラブストーリーも蓋を開けてしまえばこんなものかもしれない、というあけすけな感じがよかった。一年に一回しか会えないのも、何千年と続けてくると特別感もわりと薄れてくるのだろうか。

 

 

鍵忘れ記憶ちぐはぐそんな日に大きなラムネをむさぼる、ぐふふ/むらかれん

 

どうしても、ラムネというと錠剤をイメージしてしまって、したがって睡眠だとかむしろ記憶喪失が縁語としてでてきてしまうのだけれど、その真逆の使い方(ある意味では安定剤なのだけれど)がされていて新鮮だった。

ぶれている軸に芯を通す大きなラムネ。「ぐふふ」というコミカルな擬音が入ってくることによって、駄菓子屋で大人買いをしたお菓子にかじりついているような茶目っ気がでてくる。豪快でよいと思う。

 

 

ぼくだけが知らないうちにこの町が濡れたよぼくの知ってる町が/九条しょーこ

 

九条さんの短歌はどれもよかったです。叙情といってしまえばそれまでだけれど、連作にも名前が出てきていたスピッツフジファブリックフラワーカンパニーズの、あの感じ。

知らないうちに世界は変わっていく。ぼくたちは取り残される。知っていたはずの風景が一変して見える。「インソムニア」だ。しっかり目を開いていたはずなのに、ぼく以外の人間がみんな当然のように見ていたものを見逃してしまう。違うところを見ていたのだろうか。ぼくだけが狐に化かされているのだろうか。みんなできていることができない。けれど、だからこそ、人と違うことができる。

夜を歩くこと(夜を駆ける)や「水色」の言葉(水色の街)などから、『三日月ロック』のようなイメージをもった連作であった。好き。

 

 

一首評や贈答歌も面白く読みました。

短歌バトル、もう一度学生に戻れるならでてみたい。

次号もまた楽しみにしています。

同志社短歌4号感想

 

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目玉焼き黄身を潰すと泣き顔のようになるから口にはできない/石勇斎朱吉

 

ちょっと前に「ひよこがかわいそうだから、卵料理が食べられない」という女子が話題になったことがある。当時はしこたま馬鹿にされていたけれど、スーパーの卵は無精卵だから、とかなんとか訳知り顔で批判するよりも夢があっていいんじゃないかと思う。ぼくは目玉焼きは完熟派なので泣き顔のようにたらっと垂れることはないのだけれど、ああ、この人は目玉焼きは半熟の人なんだな、というリアルな質感がある。だから、泣き顔に見える、というのもきっと本当だ。

 

 

プリントのはげたTシャツを君はまだ知らない 寝るまで好きって言い合う/尾崎七遊

 

いつの間にかクリープハイプっぽいという言葉はちょっとした侮蔑のようになってしまったけれども、この歌もまたクリープハイプっぽい屑な大学生感がでている。いろいろと想像できる。きっとこの男(たぶん)は服装に無頓着で、だらしない人間なのだろう。「寝るまで好きって言い合う」というのは幸福の形に見えるけれど、ここには「寝るまでしか好きって言い合わない」という意味の隙間がある。Tシャツのプリントはきっと背中だろう。主体は背中を見て歌っている。双方向性の愛に見えて、実はお互いに相手を見ていない、一方通行同士の恋でしかないのかもしれない。

 

 

はなびらの交歓 ふさがることのないきずぐちにたがいの海辺があって/虎瀬千虎

 

「はなびら」とひらいて書いたときの淫靡と「花弁」と書いたときの淫靡は少し質が違う。雪舟えまと与謝野晶子の違い、というのはざっくりしすぎているかもしれない。「ふさがることのないきずぐち」はきっとじゅくじゅくして膿んでいる。これはぼくの深読みかもしれないけれど、「はなびら」も「海」も女性器の暗喩としてよく使われる。また、古事記伊邪那美が「吾が身は、成り成りて成り合はざる処一処在り」というように、そこは「ふさがらないきずぐち」である。これは、百合なのではないだろうか。という直截的な言葉の連関が、ひらがな表記によって、湿ったポエジーを獲得しているところが面白い。

 

 

月が木にかかっていれば森にいてそうでなければ草原にいる/田島千捺

 

「夏の園」はジム・ジャームッシュのように渇いて映像的な連作だ。どれもよいから、どれも取り上げたいのだけれど、このなんともなさそうな一首に惹かれた。自分もそうだけれど、情感を、感情を、と思って短歌は詠んでしまいがちだ。こうやって風景から自然に情感がたちあがってくる、京極派歌人たちのような手法というのは、鮮やかで憧れるけれど自分にはできない芸術だな、と思う。普通に考えれば、森か草原かなどという二択はありえないのだけれど、こうやって連作で見てくると、確実に森か草原にいる。池澤夏樹の「スティル・ライフ」の冒頭を思い出す。詩人は自然とひとつになることができる。

 

 

水たまりを跳び越えること いつの日か飛んで行きたい場所ができること/林美久

 

年を越す瞬間にジャンプして、「わたしは2×××年、地球にいなかったんだよ!」なんていうかわいくてなつかしい遊びがあるけれど、ジャンプしたときだけは地球の重力から自由になった気がする。水たまりは雨上がりにしか存在しない。水たまりを跳び越える、というのは過去からの飛翔なのかもしれない。今はまだなにも飛んで行きたい場所はないけれど、いつかはできるのだろう。それは夢なのかもしれないし、恋なのかもしれない。

 

 

傘をさす 傘がさされているときは水たまりへとかえす雨粒/はたえり

 

理科の教科書は、なんだかサイクルを描いた絵が多い気がする。酸素と二酸化炭素だとか、食物連鎖だとか、水の循環だとか。傘というのは雨を防ぐためのもので、道具で、人間が人間たりえるもののひとつだと思うけれど、そこで水たまりへ雨をかえす、という発想が面白い。傘が雨をかえすとき、傘をさしている人間も、自然をめぐる水システムの部品になっている。けれど「かえる」ではなく、「かえす」なところに、ちゃんと意志を感じる。チャップリンの歯車とは違う。やわらかい部品だ。

 

 

一首評や吟行、エッセイ、評論に前号評と、盛りだくさんなのがうれしい。エッセイと評論と前号評についてだけ、ちょっともにゃもにゃと書いておきたいと思います。

 

 

古今集の美/御手洗靖大

 

勅撰集、中でも『古今集』における四季と情感についてのエッセイ。とても面白かったです。勅撰集って、そうとう権力的なものだと思うし、私家集もまた政治的でありながらあくまで個人集なので、それぞれの色があるはずだ。同時代意識からどうずれているか、というのを見ていくのは面白いので、ぜひいろんな歌人の私家集の紹介をしてほしい。(できたらなぜかマイナーな良経とか慈円とか)

 

 

実学に対する文学/三浦宏章

 

正直、いいたいことは山ほどあります。これは評論ではない、とか、サルトルの問いをそんなに矮小化してはいけない、とか、「文学」なのに短歌の話(短歌の同人誌だから仕方ないけれど)しかしていない、とか。『カラマーゾフの兄弟』にも宗教に関する、イワンの有名な問いがあるけれど、救うというのはたいへん難しいことです。だから、このテーマというのは、こういうありきたりな結論に陥ってしまうのも仕方ないと思います。

だから、細かい部分は一旦置いておいて一言だけいうとすれば、「文学」や「救済」を語る人間が、「それほど文学に魅せられたわけでもなければ」なんていう予防線を張ってはぜったいにだめです。それは、いろんな人間に対する冒涜だし、自分の書いたものも貶める言葉です。それだけは、文学をやっているなら、たとえ本当に思っていても言ってはだめです。

これはきわめて個人的な直観だけれど、文学は人を救わない。けれど、文学によって救われる人間はいる。絶対にありきたりでそれらしく、当たり障りのない、心を癒すなんていう結論には、収斂しない。そもそも文学は、救う救わないではない、ということもあるけれど、それは長くなるのであれです。

もちろん筆者のせいではないし、ぼくの性格がおかしいというのはある。けれど、ぼくは、この文章を読んでかなしくなりました。文学が人を救う、ってそんな表層的に、簡単に語っていいんですか。

 

 

『共有結晶』レビューや一首評、前号評はみんなの個性がでていたし、的を射て気持ちよいところが多かったので楽しかったです。

BLに対して抱いていた感情、ぼくは水城せとなさんの『放課後保健室』で一転しました。

 

 

最後、森本くんの前号評。最後の六行の言葉はぼくもまったくおなじ気持ちなので、2018年もやっていきましょう。

 

SPITZ 30th ANNIVERSARY TOUR "THIRTY30FIFTY50"名古屋公演レポート

スピッツのライブに行くのは、「ロックロックこんにちは」のようなフェスも含めればおそらく6回か7回目。

彼らのライブのよいところは、スピッツが好きなはずの人間でも一瞬「何の曲だっけ?」と思ってしまうマイナーな曲を一曲は演奏してくれるところだと思う。今回のツアーは結成30周年ということでどんなセトリになるのだろうとわくわくしながら、炎天の名古屋を訪れたのだった。

大阪城ホールでのチケットは完売していたので、ガイシホールの立見席を購入。

はじめて行く会場だったけれども、交通の便はよかったので開場10分過ぎくらいにホールへ到着。

 

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会場の外ではキーボードのクジさんの出版した書籍や、FCの入会案内、30周年記念のシングルコレクションなどが売られていた。いつもだったらタオルやTシャツを買うのだけれど、今回はお金がなかったので泣く泣くスルーして、立見席へ移動する。

ステージから見て右翼側の天井近くの場所で、椅子ありの席とそんなに変わらなかったのでよかった。

会場入りしてから1時間近くの時間をどうやって過ごすかいつも悩んでいるのですが、とりあえずiPodのイヤホンを耳にさして、半券回収とともに配られたパンフレットを読んで時間をつぶす。隣の人はオペラグラスをもって、今か今かと待ちわびていた。

いろいろなライブに行ったけれど、スピッツのライブはお客さんの年齢層がかなり幅広い。オペラグラスと逆の隣の人は、おそらく60を超えていた。ロックバンドのライブに来る60代といえば内田裕也みたいなのを想起するけれど、完全に好々爺だった。スピッツすごい。

 

しばらく待つと注意事項のアナウンスが入り、会場が暗転。

ライトが消えて、ざわざわとしていた会場が静まり返る一瞬。このはじまりの瞬間は、どんなフェスやライブに行っても、やっぱり気持ちがざわっと高まる。

 

一曲目は「醒めない」。

去年リリースされた15枚目のアルバム『醒めない』のリードナンバーだ。たぶんいろいろなところで言われているだろうけれど、この曲のテーマは「初期衝動」だ。

「最初ガーンとなったあのメモリーに今も温められてる」なんていう歌詞はいかにもスピッツだ。今の時代のロックバンドは、みんな繊細な歌詞や難解な言葉遣いをして、なんとか気持ちを伝えようと苦心しているけれど、その衝撃を「ガーン」というオノマトペでさらっと、だけれどこれ以上ないくらい適格に表現できるのはスピッツの魅力だと思う。

30周年記念のライブを、この初期衝動の曲ではじめるのは、まだまだやっていくぞ、という意志の表明のようで、とてもわくわくする。

 

勢いはそのままに「8823」。

おっ、と思った。「8823」はライブでは必ず演奏する定番曲だけれど、たいてい終わりのほうで、最後の盛り上がりを作るために演奏する。

二曲目にしてあのイントロが耳に聞こえてきたとき、思わず、えっと口に出してしまった。最初から殺しにかかっているような選曲だ。会場も飛び跳ねていた。

スピッツはメロディの直球さももちろんよいのだけれど、やはり草野マサムネの書く歌詞が他と置き換えることのできない味を醸し出していると思う。爽やかな印象やクリアなサウンドに騙されがちだけれど、よくよく歌詞を見るととんでもないことを言っていたりする。早く『草野正宗詩集』が岩波文庫から出てくれないかな、と密かに期待している。

「8823」も「君を不幸にできるのは宇宙でただひとりだけ」という、ありふれたJpop風歌詞の逆をはる言い回しにはっとなる。

個人的には「世界で君を幸せにできるのはぼくだけだよ」と言われるよりも「世界で君を不幸にできるのはぼくだけだよ」と言われたほうが好きになる。つまりそういうことだろう。

 

三曲目は「涙がキラリ☆」。

12枚目のシングル曲。この曲や「ロビンソン」がリリースされた1995年という年を、ぼくはほとんど本でしか知らない。阪神淡路大震災があり、地下鉄サリンがあった時代。社会的に大きな転機となった時代。

スピッツの楽曲は90年代の暗さをあまり感じさせない。時代を超えて、2010年代の今でも古さを感じない。

オリコンで2位を取るようなキャッチ―なメロディだけれど、歌詞を見れば「浮かんで消えるガイコツが鳴らすよ恋のリズム」である。いったい何が見えているのか、不思議でならない。

 

続けて演奏されるのは「ヒバリのこころ」。

1991年にリリースされたデビュー・シングルだ。少し調べてみたけれど、このCDが世に出たとき、まだぼくは生まれていなかった。そんな昔からスピッツスピッツとしてやっているというのが、奇跡のような気がしてくる。

この記事を書くにあたって、曲を流して歌詞を見ているのだけれど、こんなことを言っていたのかという発見が未だにあって、本当に面白い。「魔力の香りがする緑色の歌声」という視覚と嗅覚と聴覚と第六感を往還する歌詞が、こんなに違和感なく歌われているのはどういうことなのだろう、とつくづく不思議になる。

この辺りまできて、なんとなく今回のツアーの選曲の傾向がわかってきた気がした。

 

ここでMC。

今回のツアーではステージの階段が2段だったけれど、名古屋から3段になったので上り下りが楽になったと微笑む草野さん。ベースの田村さんが激しく動き回るのは、いつものことだけれど、今回のツアーでは草野さんも結構動き回る。

メンバーはみんな1967年生まれなので、今年で50歳。どう見ても50歳には見えない。織田信長松尾芭蕉が死んだのも、だいたい50歳だ。なんだか、まだまだやっていけそうだなという活力がわいてくる。

 

そのまま新曲の「ヘビーメロウ」へ。

スピッツの曲はだいたい二、三回も聞けば口ずさめるようになっている。「ヘビーメロウ」も「めざましテレビ」のテーマソングではあるけれど、テレビをほとんど見ないので、聞くにしてもyoutubeだった。けれど、いつの間にか口ずさめるようになっていた。

カッティングギターとファンクな曲調が心地いい。

あと、この曲はMVがとてもよいのでぜひ見てみてほしい。

 

次は「冷たい頬」。

どうやらここは、別日では違う曲になる枠らしい。「冷たい頬」を初めて聞いたのは『とげまる』のツアーだった。初めていったスピッツのライブだった。たぶん20歳前後だったと思う。

ふりかえってみれば、何もかもが変わってしまったけれど、スピッツは変わっていない。素敵だ。「それがすべてで何もないこと時のシャワーの中で」という何ともいえない無常な歌詞が胸を打つ。なにもかもを諦めながら、それでも空を掴んでいるような、何もない日々を空虚に進んでいるような、マイナスなポジティブ。好きな曲のひとつだったので聞けて良かった。

 

余韻はそのままに「君が思い出になる前に」。

今回のツアーのセトリにはシングル曲が多いけれど、シングル曲は逆にあまり聞かないというところもあるので新鮮だった。たぶん「君が思い出になる前に」は、iPodなどで聞いた回数よりも、河原町BOOKOFFで聞いた回数のほうが多い気がする。

シングル4枚目の、完全に売れ線を狙った楽曲だけれど、思惑通りに見事に売れたようだ。1993年のことなので、ぼくは2歳。だけれど、物心がついたときには知っている曲だったので、どれだけスピッツが世の中に浸透しているか、ということがわかる。

 

ここで2回目のMC。

「あまり男は日傘をささない風潮があるけれど」と草野さん。東京へいけば(川谷)絵音くんのような男の子が案外さしているよ、という報告に続けて「あれ、やってみるとわかるけれど涼しいんですよ」とのこと。日傘を差してもおかしくない50歳は貴重なのでどんどん広めて、男が日傘を差してもおかしくない世界を作って行ってほしい(ぼくもできることなら日傘をさして外を歩きたい)。

ご当地ネタでは、プライベートで食べにきたうなぎがおいしかった、という話。店で並んでいてふと隣を見たらスピッツがいたら、絶対に度肝を抜かれる自信がある。

 

小休止をはさんでから、次の曲は「チェリー」。

まず間違いなく、スピッツの中でも最も有名な曲のひとつだ。ぼくも中学生のときに授業で歌った記憶がある。愛唱歌集にのるくらいポピュラーな曲だし、「愛してるの響きだけで強くなれる気がした」なんていう甘い歌詞だけれど、よくよく考えれば「チェリー」っていうのは「童貞」のことだろう。

どうどうと教育現場で「童貞」を連呼してもおかしくない空気を作り上げているのは、すごいことだと思う。「死とセックスのことしか歌わない」と過去のインタビューで話していた草野さんだけれど、「海とピンク」や「プール」や「ラズベリー」なんかは、ちょっとどきっとしてしまうような性の曲だ。それでも何のいやらしさもなく「おっぱい」なんて歌えるのは、おそらくスピッツくらいのものだろう。

 

そして「さらさら」。

春の曲で繋がっていくけれど、ここもオルタナ枠だ。『小さな生き物』が出たときによく聞いていたのを思い出すけれど、あれからもう4年たっているという事実に愕然としてしまう。

横浜の赤レンガ倉庫で十数年ぶりの野外ライブをしたときに歌っていた印象が強い。あの日のライブは音響はそんなによくなかったのだけれど、当時リリースされていたアルバムから少なくとも一曲は演奏してくれたり、「ハチミツ」の歌詞を間違えたり、川を挟んだホールでアジカンがライブをしていたり、何かと特別だったので深く印象に残っている。

そのままポートタワーや中華街をぶらぶらしながら帰ったけれど、日本各地にスピッツの思い出があるのもなんだかいい感じである。

 

そして「惑星のかけら」。

一度はライブで聞いてみたかった曲だったので、思わずはしゃいでしまった。

私事だけれど、大学時代にスピッツの「恋する凡人」をテーマにスピッツの小説を書いたことがある。その時にいろいろな楽曲を元ネタにしたのだけれど、当時のぼくには(今もだけれど)、「君から盗んだスカート鏡の前で苦笑い」という歌詞がエモくてエモくて仕方がなかった。

惡の華』や銀杏BOYZの「SKOOL KILL」でもそうだけれど、好きな子の私物を盗むということの背徳感は青春そのものだと思う。

その青春像ともったりとしたメロディライン、「骨の髄まで愛してよ僕に傷ついてよ」という直球の歌詞が、心臓のど真ん中を撃ち抜き、一日に50回はリピートして聞いていた。

かなり好きな曲のひとつ。

この辺りからぼくは麻痺し始めて、ぼんやりとステージを眺めていた。

 

モリーズ・カスタム」も定番曲だ。

この曲のときは、たいてい照明がちかちかするので、テンションもそれに連れて高くなる。スピッツの中でもディストーションの利いた激しい曲だ。まだ中盤のはずなのだけれど、自然に体が動き、少し疲れすらも見えてくる。

掲げた右手を左右に振りながら、うきうきの気分になっていた。隣の人もオペラグラスを下ろして手を振っていた。

なんだかんだ言いながら、こういう一体感は嫌いじゃない。

 

そして、聞いたことがあるはずなのに、なんだったか思い出せないリフ。

歌いだしの「僕のペニスケースは人のとはちょっと違うけど」というところでやっと「波のり」であることがわかった。

『惑星のかけら』に入っているアルバム曲で、マイナー中のマイナーだ。30周年という割り合い大衆向けであろうツアーで、さらに年齢層が広い会場で、わざわざ「波のり」を演奏するところ。ここがスピッツのよさなのだ。普通はやらない。

セトリを見てみたら、他の日は「エスカルゴ」をやっていたので、かなりラッキーだった。直後のMCでも「25年ぶりくらいに演奏した」と言っていた。

ロックバンドがあふれている現代でも「ペニスケース」を歌詞に入れるバンドはいないんじゃないかと思う。どれだけ挑戦的なのだ、という話である。

 

まだ半分もいっていないけれど、MCでやっと休憩といった感じで一息つく。

ギターの三輪さんもいうとおり、年々MCが長くなっていく。短い漫談を見ているような掛け合いも楽しい。

草野さんが初めて芸能人にあったのは赤ん坊のとき、母親と一緒にいった布施明のイベントだったという。その後(たぶん)布施明の曲をワンフレーズだけ歌っていたけれど、何の曲かはわからなかった。けれど、会場はけっこうざわついていたので、年齢層の高さがうかがえる。

それから、解散の危機は草野と田村の「てっちりとふぐちりの違い」の論争のときぐらいだよね、という小ネタを挟んでいく。

案外バンドの解散理由というのは、そういうくだらないものなのかもしれないな、と思うと30年続けてくれているスピッツがありがたく見えてくる。

 

ここからはある意味でラッシュだ。

まずは「ロビンソン」。

これもまたスピッツのもっとも有名な曲のひとつだろう。1995年という時代。「大きな力で空に浮かべたらルララ宇宙の風にのる」という神秘的な歌詞が、オカルトな時代背景と照らし合わされたりもした。

確かにスピッツの魅力のひとつにはどこかオカルトな「魔」の存在というのがある。

けれど、ぼくは少なくともこの曲においては「誰もさわれない二人だけの国」というセカイ系な世界観が死ぬほど好きなのだ。これはゼロ年代の、あのざわざわ感にも十分通じると思う。

あとどうでもよいけれど、これをカラオケで歌うと地声でもかなり高い音程になるので、オクターブ上で歌っている草野さんの化け物具合がよくわかる。

 

そのまま「猫になりたい」。

さっきから好きな曲好きな曲言っているけれど、これもやっぱり好きな曲だ。

まるで日向でごろごろしている猫のような曲調で、「猫になりたい」と歌う。ぼくも猫になりたい。「消えないように傷つけてあげるよ」という歌詞が特にたまらない。

猫になって好きな人の腕の中でさみしさを紛らわせたい、という受動的な態度だけでなく、ちゃんと傷をつけるのだ。

「消えないように」というのは「誰が/何が」なのだろう。「ぼくの存在」なのか、それとも「きみの存在」なのか、「痛みという感覚」なのか。傷つけあうことでしかつながることのできない関係、というのがここに集約している気がする。

スピッツの歌詞には「傷」という言葉がたくさんでてくる。

 

クジさんのピアノ伴奏から「」へ。

まあ、次から次へと心臓が切り裂かれていくような選曲である。

はじめてこの曲を知ったのは高校時代。合唱コンクールに歌う曲を決めるにあたって、いくつか候補を挙げた中に「楓」も挙げられていた。

ぼくは指揮をしていたので、すべての曲を聞いてみたのだけれど、この曲だけが色濃く脳にこびりついた。結局、別の曲をうたうことにはなったのだけれど、密かに「楓」は聞き続けていた。

圧倒的な別れと空虚の曲。今では思い出すだけでうううううううう、っとなるのだけれど、17歳の夏に告白してふられたぼくは「胸が傷つく曲集」を作ってきいていた。今この文字を打ちながら、心臓が裏返って口から出そうな衝撃に襲われている。

まあ、詳しくは延べないけれど、「楓」もその中の一曲だった。

だから「楓」を聞くと高校時代がぶわっと頭に浮かぶ。この前、高校時代の友人から結婚式の案内状が届いた。時代は進む。つまり、そういうことだろう。

「チェリー」にしても「惑星のかけら」にしても、意識していないところでぼくの人生を貫いているのは、何気にスピッツだった。

 

次の曲は「夜を駆ける」。

『三日月ロック』に収録の曲だけれど、スピッツの中でも人気の高い曲だと思う。基本的にスピッツの曲は春や夏の昼、という印象の曲が多いのだけれど、この曲は夜だ。

「君と遊ぶ誰もいない市街地」「滅びの定め破って駆けていく」という歌詞も、なんだかディストピアを感じる。なぜだか知らないけれど、女の子二人が、廃墟の中を手を繫ぎながら走っていく絵が頭に浮かぶ。

 

ここでメンバー紹介。

いつもはアンコールのときにメンバー紹介をするので、珍しかった。

リーダーの田村。「デビューしたら、目標がいくつかあった。キャプテンレコードからCDを出すことと、新宿ロフトでワンマンをすること。もう達成しているから今は惰性なのかもしれない」と笑いを誘う。

キーボード、クジ。「30周年なので30年前に買ったTシャツを着てきた。今日の会場は足元が市松模様になっているけれど、新宿ロフトを意識したの?」と新宿ロフトの思い出を続けて話していく。

ドラム、崎山。「新宿ロフトでイベントに出れると決まったとき、俺は授業を受けていたのだけれど、リーダーが学校までやってきて『イベント決まったよ!』と報告してくれたのが未だに記憶に残っている。本番では張り切ってツーペダルのドラムにしたけど、演奏できなかった」と、スピッツの歴史を語っていく。

ギター、三輪。「おじさんは話が長い」と、彼らしい端的さに笑いが起こる。

最後に草野マサムネは、「モグラのクリスマス」というインディーズ時代に作ったという、音源化されてもいない曲を弾き語る。謎の曲だった。

 

ここからラストスパート。

正夢」。

この曲にも苦い思い出があって、小学生のころ、放送委員会だったぼくは、クラスメイトからリクエスト曲を募っていた。その中で挙げられたのが「正夢」で、いよいよ当日になってぼくは放送室の機材を壊してしまった。

「放送機材の故障でリクエスト曲は流れません」というアナウンスをしたとき、ぼくは世界が終わった感覚がした。そんな極めて私的なことなんかも、思い出してしまう。Jpopの効用なのではないかと思う。

 

記憶のもやもやが続く中、「夢追い虫」へ。

これもとても好きな曲だ。「削れて減りながら進むあくまでも」という歌詞が好きで、大学の行き帰りにずっと流していた。

スピッツは健康で健全に見えて、実はぼろぼろだ。擦り切れている。自分のことを「虫」と認識しているのだ。だから、彼らはいつまでもパンクなのだ。

終電のなくなった地下鉄四条駅でスピッツを聞きながら泣いていたときがあった。そういう力のあるバンドなのである。

 

運命の人」。

バスの揺れ方で人生の意味がわかった、だとか、愛はコンビニで買える、だとか、決して仰々しくない、日常のふとした瞬間にスピッツは大発見をする。

この曲を聞くと毎回、長い映画のエンドロールを見ている気分になる。

 

恋する凡人」。

先ほども書いたけれど、ぼくはこの曲で小説を書いた。iPodの再生回数は、ぶっちぎりで一位だ。この曲にはすべてがつまっていると思っている。恋だとか、ロックだとか、そういう衝動は決して理性で何とかなるようなものではないのだ。

土砂降りの中を走るようながむしゃらさだけを信じて生きていく人生を、ぼくは素敵だと思う。

「これ以上は歌詞にできない」という結末には、もうなんの言葉もでない。

 

ベースのごりごり音。定番の「けもの道」。

田村さんは相変わらず動き回る。冒頭の「東京の日の出」を「名古屋の日の出」にかえて、突き進んでいく。

立見席ですら酸欠なのだから、アリーナだともっとすごかっただろうなと思う。

 

そしてまさかの「俺のすべて」。

これもまた『とげまる』ツアーのときに聞いた曲だ。7年前の再現のようで、胸がいっぱいになる。友人が一番好きな曲だといっていたけれど、本当にたまらない。

「俺の前世はたぶん詐欺師か呪い師」と飄々と歌っていく。

 

最後は新曲の「1987→」。

インディーズ時代の「泥だらけ」のセルフカバーともいえる曲だ。

初期衝動の曲で始まり、シングル曲を中心にアルバム曲も演奏し、インディーズ時代の再現で終わる。なんだかスピッツの30年をまるまる詰め込んだようなセトリだった。

最高。

 

アンコール一曲目は「SJ」。

『醒めない』の中でも、あまり目立たないアルバム曲だ。なぜに「SJ」と思ってしまう選曲の妙だ。何気に『醒めない』のツアーのときに聞けなかったので、うれしかった。

 

「ありがとうございました!」の掛け声とともに、最後は「春の歌」。

ヒバリは春を告げる鳥だ。「ヒバリのこころ」でデビューしたスピッツが、「春の歌」で30周年ツアーを終える、というところに、偶然かもしれないけれど、強い意図を感じた。

「冬来たりなば春遠からじ」だ。

春は永遠と、再生の象徴だ。きっとスピッツは永遠に続いていくのだと思う。

雷雨が鳴り響く中、ぼくは余韻に浸りながらずぶ濡れでガイシホールをあとにした。

 

 

セトリ

1、醒めない

2、8823

3、涙がキラリ☆

4、ヒバリのこころ

5、ヘビーメロウ

6、冷たい頬

7、君が思い出になる前に

8、チェリー

9、さらさら

10、惑星のかけら

11、メモリーズ・カスタム

12、波のり

13、ロビンソン

14、猫になりたい

15、楓

16、夜を駆ける

17、正夢

18、夢追い虫

19、運命の人

20、恋する凡人

21、けもの道

22、俺のすべて

23、1987→

 

アンコール

En.1、SJ

En2、春の歌

 

CYCLE HIT 2006-2017 Spitz Complete Single Collection(通常盤)

CYCLE HIT 2006-2017 Spitz Complete Single Collection(通常盤)

 

 

[文学とはROCKである。] vol.1

[文学とはROCKである。] vol.1

  • 作者: 木野誠太郎,かにヴぁ。,人間無骨,かみしの,百華鬼斗,弥生,犬神紳士,K坂ひえき,二鳥クロロ,へーちょ,りりぃ,あおちゃん
  • 出版社/メーカー: 密林社
  • 発売日: 2013/04/14
  • メディア: ムック
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文学とはROCKである。vol.3

文学とはROCKである。vol.3

  • 作者: かにヴぁ。,木野誠太郎,アダムス,伊藤なむあひ,お湯。,かみしの,アライニコ,つくみず,はるしにゃん,山村まわる,駿河凛,りりぃ,ぴず,対ガス専用マスク,あおちゃん
  • 出版社/メーカー: 密林社
  • 発売日: 2013/11/04
  • メディア: ムック
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相思樹

 宋の康王は暴虐の限りを尽くした王であった。故に孤独な王であった。

 日に十も人を殺し、その民には途方もない労働を課した。そして、これに従ぜないものは、国の賊として容赦なく処刑した。口に糊した民や恐怖した臣下が、四方の富める国々へ流れ出たのも致し方のないことであっただろう。

 王はときどき玉座に頬杖をついて考えた。

 果たしてこの宋という国には、兄を殺してまで手に入れる程の価値があったのだろうか。周囲を魏、斉、楚の大国に囲まれ、窮鼠の体をなすこの宋に、と。

 そもそも、続けて王は考える。

 そもそも、何故私は、兄から宋を奪おうと思ったのだろう。大した魅力のある国ではない。いや、むしろ重荷にしかならぬ。私は自由が好きだ。王は自由ではない。それなのに宋を欲したのは、恐らくそれが兄のものだったからである。

 私は兄の持つものはなんでも欲しかった。

 遠い昔、私は月を手に入れるため、森に入ったことがある。その前日、白い石をかざしながら兄が私に自慢したのだ。

「見ろ、月だ」

 白く丸みを帯びたそれが、私には本物の月に思われた。

 なんとなく、欲しくなった。

「月だ、月だ。ねえ、それをどこで手に入れたの」

「真っ暗森さ。湖に浮かんでいたのを、ひょいと取ったのだ」

 聞いて私は走り出した。兄は、くつくつと笑っていた気がする。

 冷ややかに水を湛えた湖の畔に私は腰掛け、湖面に満月が現われるのを待った。

 夜、雲居に顔を覗かせた満月は、少し恥じらいながらその身を湖に落した。

 手を差し伸べたが、月はさらりとしていてつかめず、代わりにその影をゆらりと揺らして、私を暗い湖に誘った。

 私の助けを求める声を聞いたのであろう、森の番兵が血相を変えて飛び込んできた。

 深夜、私は番兵に抱えられて帰還した。殿中は私がいなくなったとかで大騒ぎであったが、私が戻ってくると、その騒ぎはいよいよ狂気的なものとなった。

 松明が煌々と照りつけられ、私はすぐに、冷え切った体を暖かな羽毛に包まれた。

 母が駆け寄ってきて、ずぶ濡れになった我が子を見ると、顔を青白くさせた。その母の顔が、件の石よりよほど月に見えたことを私はよく覚えている。

 兄は、悪いことをしたというような、ばつが悪い顔をして、白い石を私に手渡した。

 私はありがとう、と言ったが、兄がいなくなると、その石を力いっぱい遠くに投げ捨ててしまった。もう石など、どうでもよかったのである。

 数日後に父は、私を森に不用意に招き入れた罰として、私を助けた番兵を処罰した。彼は何よりも始めに、自らに与えられた役割を守らなければならなかったのである。

 つまり私を助けようが助けまいが、私を森へと招き入れた時点で、彼は死ぬしかなかったわけである。

 己の役を侵犯したものには、刑罰を与えねばならないことを、私はこのとき理解した。

 捨てた石は、今もこの庭のどこかにあるのだろうか。もしかしたら雨風にさらされ、砂になっているかもしれない。しかしそれはどうでもよいことだ。

 くく、と大きく伸びをして、王は庭を眺めた。

 

  二

 

 王の世話焼きに、韓憑という男がいた。

 この男、容姿が醜く、顔は油でいつもてらてらとしていたのだが、王が何を申しつけても嫌そうな顔をしない。もしかしたら嫌な顔をしているのかもしれないが、土台、蝦蟇のような容貌であるのでそれがわからない。とにかく文句を口にしたことはないので、その点を王に気に入られ、舎人となったのである。

 この韓憑はどう間違ったのか、何氏という傾国の美女を娶り、妻としていた。蝦蟇と一瞥百媚の女とが睦まじくしている様は、当然のように羨望と嫉妬の視線にさらされた。 

 何より士大夫をして嘆息せしめたのは、韓憑の悪辣たる性癖である。

 この男、普段の鬱憤をどこで晴らしているかと思えば、何のことはない、自らの女を打ち据えることでこれを昇華していたのであった。

 しかも、この仕打ちには、いささか性的な何ものかが含まれているらしく、涎にまみれながら女の尻を激しく打つ韓憑の顔は、平生のそれに増して魍魎に近しいものであった。

 打たれている間、女は苦痛に耐えるでもない、目をとろんとさせた不思議な顔をして、ただ前方を見つめているだけであった。

 少し皺の寄った眉間も、幽谷を思わせる美しさであり、時折こぼれる、ああ、という声は、嬌態を覗き居る男達に何とも言えぬ高揚感をもたらした。

 韓憑は、四面楚歌の国況ゆえ、詮なく、王より無理難題を背負わされることが度重なり、次第に己が欲望を隠すことを少なくしていった。

 終いには所構わず宮庭の木陰などで打ち据えるといった有様で、とうとうその嬌態は王の知れるところとなった。

 王は深刻な顔で韓憑を呼び出して言った。

「韓憑よ、私は貴様の、何を申しつけても文句を言わぬ頑丈をのみ認めて、世話焼きとしたのだ。しかし聞けば、自らの妻にその責を押し付け、あまつさえ自らの汚らしい欲を顕わにしているという。遂に貴様の本性が出たということだな」

「へっへ、お言葉ですが最近の王は、私を酷使しすぎております。私はこれでも人間。耐え忍ぶにも限度というものがあります。それにあれは私の妻。どう扱おうと王の気にするところではございません」

「やや、私に文句を言おうとは。蝦蟇のわりに静かな男だと思っていたが、やはり蝦蟇は蝦蟇と見える」

 宮中の臣下は笑いをこらえるのに必死になっていたが、韓憑の大きな目に睨みつけられると、怯えた蛇のように体を竦ませた。

「王は汚いとおっしゃいますが、あれもあれで喜んでおります」

「もう駄目だ、私も笑いが止まらぬ。そもそもお前のような化け物が、あの傾国をあれなどと呼ぶのが、ちゃんちゃらおかしいのだ。喜んでげこげこ鳴いているのは、貴様の方だろう」

 こらえきれず臣下の一人が、ぶは、と息をふきだしたのを皮切りに、堰を切ったように王の周囲は笑いに包まれた。

 そもそも彼らの大半は、醜い韓憑が舎人として重宝され、あれほどの妻を娶ったのを羨ましく思っていたものばかりである。

 羨望の裏には必ず嫉妬がある。

 つまり彼らは、韓憑が王に叱責されるのが愉快でたまらなかったのである。韓憑は目をぎょろつかせて、ただ恥に耐えていた。

「どうだ、韓憑よ、あの女を私にくれぬか。なんとなく、欲しくなったのだ。貴様にはもったいない。」

 これには韓憑も、苦しそうに喉を鳴らした。

「馬鹿を言え、あれは俺のものだ、やるわけがなかろう。だいたい、俺を蝦蟇と呼ぶ貴様は、何と呼ばれているのか、知っているか。宋の紂王だ、この暴君が、人でなしが」

「ふふふ、なかなか悪くはない。それに紂には、妲妃という傾城があったではないか。認めるであろうな、韓憑」

「ああ、悪鬼のような男よ。もう我慢できない。俺なぞより貴様の方がよほど化け物ではないか」

「貴様と言ったな、蝦蟇め。二度は許さぬぞ。貴様は舎人としての領分を侵した。この場で殺してやりたいが、生かしてより酷い重苦を味わわせてやろう」

 韓憑は訳のわからぬことを喚き散らし、短刀で王にのぞみかかったが、すぐに衛兵に取り押さえられた。

 そのまま両の脇をつかまれ、おのれ、だの、殺す、だの恐ろしいことを叫びながら、引きずられて宮殿を追い出されていった。

 

  三

 

 数日すると、何氏が宮中に招き入れられた。

 なるほど、近くで見るとなれば、聞きしより数倍は増して美しい。

 これより先の世にもこれほどの女は現れないであろう、王はそう思いながら、漂う妖しい白粉の薫りを鼻に感じていた。その馥郁たる香は鼻孔を通じ、王の脳髄を麻痺せしめた。

 女は、二月の柳枝のように、少し風が吹けば折れてしまいそうな足をひた、ひた、と進ませて王の眼前に傅いた。

 どこまでも白い肌に、唇と頬はほんのりと赤く色づき、桃の実のようである。

 彼女を前にすれば、恐らくは、花も色を失うに違いあるまい。

「顔をあげて、私によく見せてください。あなたは、きっと私を恨んでいような」

「いいえ、あの男は辛いことがあれば、私を激しく打ち据えました。この通り、ここもこんなに赤くなってしまい、王の御寵愛を賜ることが叶うでしょうか、心配でなりません」

 そういうと女は、身に纏っていた羽衣をはらりと落した。

 すす、という衣擦れの音が妙に艶めかしい。一糸纏わぬ姿となった女の体には、その白い肌にどこまでも不釣り合いな赤があった。 

 王は韓憑を心から憎く思った。

「ああ、なんと可哀そうな、私はそんな真似は必ずしない。さあ、湯治なさるといい。水を用意してあります」

 王が手を叩くと女官が現われ、倒れそうな女を支え起こし、湯浴みへと連れて行った。

 浴槽に腰掛ける女は、さながら月であった。

 美しいものはこうでなくてはならぬ、蝦蟇などと汚らわしい行為に興じていてはならないのだ。あの女だけは、手に入れてよかった。手放すこともあるまい。

 王は朝夕問わずに女を愛した。

 帳の中暖かくして、春の宵を過ごす。傍にいて、愛でるだけでよかった。それ以上のことは、少なくとも蝦蟇のようにはしない。彼女には、薄絹の衣を与え、着させた。毎日のように頭を撫で、甘言を囁いた。

「枕を共に出来るだけで、私は幸せです。明日もこうしていてくれますね」

「このような体でも、王様のお役にたてるのなら、私も幸せでございます」

 女の甘い声は、王の心を和らげ、癒した。

 国が危急の秋であることも、韓憑が城造りの人夫として身をやつしていることも、今はどうでもよいことであった。

「あなたと話していられること、それだけで私は充分なのです」

「幸せでございます……」

「あなたは、韓憑に体をいいようにされましたね」

「今その体を、王様がお役立てになっています」

「冗談の上手いお方だ。私はあの男のように、あなたの体を傷つけることはしませんよ」

「心は……」

「ええ、私はあなたの心がほしいのです。」

 

  四

 

 一季節が廻った。

 ある夜、何氏は王に、韓憑宛ての書簡を出すことについて、許しを請うた。

 王は言うまでもなく嫌な気持ちであったが、検閲を通すという条件を付けてしぶしぶながら、許可を与えた。

「あれでも、元は夫。少し心配でございます」という女の訴えを、不憫に思ったのである。

 私は、これほどあれを愛しているのだ。よもや、間違いもあるまい。手紙の内容も、私が見るのである。今思えば、韓憑にも少し悪いことをした。あれを打ったのは、許しがたいことではあるが、蓋し私も奴に辛く当りすぎたかもしれない。

 何氏は早速書簡を書いたようであった。

こちらは淫淫とした雨が降り続き、大河も龍のように体を震わせております。本日、日は中央に位置いたしました。どうぞお体に気をつけて。》

 なるほど、連日のこの雨では、昼夜となく労働に駆り出される韓憑も、どこか体に障りがあるかもしれぬ。河も水かさが増し、雨止みの呪いをするものも出始めているという。

「しかし、『日が中央に位置した』とは? 天は雲に覆われ、日など久しく見ていないというのに、その位置などわかるはずがない。誰かこの意味がわかるものはいるか。」

 王は左右に意見を求めたが、答える者はいなかった。

「なんだ、誰もわからないのか」

「恐れながら」

 蘇賀がうつむき気味に答えた。

 この男、頭が切れ、治世軍略にその才を存分に発揮したため、かつての韓憑のように重宝されていたのである。

「おお、蘇賀。お前が私に意見するというのに、何故そのようにかしこまるのだ。思うことがあれば、言ってみなさい」

「はい。僭越ながら王、これは裏切りの手紙でございます」

「裏切り……」

 王の顔が曇った。

「雨が淫淫と降り続くとは、思い悩みながら慕い続けていることを言います。大河の水かさが増したことを言ったのは、行き来が叶わないことを嘆いているのです。中央に日が位置したとは、心に死の決意を固めた事を言ったのです」

「つまり、お前は何氏が私より韓憑を選んだと、そう言うのだな」

「そうとしか読めないと言っているのです」

 王の眉間には皺が深く刻まれた。全身を震わせ、そしてなんとか声を絞り出すようにして言った。

「そうか、私はお前を、賢しいと思って重用してきたのだが、そうでもなかったようだ」

「いえ、決してそのような……」

「黙れ。おい、この男を連れていけ」

 何氏が私を裏切るなど、あろうはずがない。

 蘇賀は馬鹿であった。私と彼女の思いの深さを知らないから、あのような戯言を吐いたのだ。

 私たちは一年の間、毎夜欠かさず睦言を交わしてきた。

 私は一度たりともあの女を打つような真似はしなかった。それどころか、彼女の脂肌に触れるのは、未だに躊躇いを覚えるほどである。

 私は韓憑とは違う。欲のはけ口などでは決してない。心が欲しいのだ。私は渾身、彼女を愛し続けてきた。

 彼女もまた、文句の一つも口に出すことはなかった。

 それを知らずに蘇賀は。

 もう日のことなどどうでもいい。

 どの道、私にわからないような手紙を、あの韓憑がわかるはずないのだ。ああ、私はあの女が愛おしくてたまらぬ。欲するものならなんでも与えてやる。

 怒りにせよ愛情にせよ、人は強く思いすぎると、何に対して激情を馳せているのか、よく分からなくなるようである。

 何氏を愛で始めてから、王は無暗に人を殺すことはなくなった。

 一種のしらけといえよう。

 

 

  五

 

 その夜、王は何氏の部屋に渡り、尋ねた。無実を確信しているとはいえ、やはり気になったのだ。

「何氏よ。手紙を拝見する限り、あなたは韓憑の体をよほど案じている様子。どうだろう、奴を人夫の役から解いてやってもよいのだが」

 無論、これは王の一計。少しでも喜ばしい態度を見せたならば、いかな寵愛の妃といえども、さすがに疑いを抱かざるを得ない。

 何氏は少し顔を伏せて答えた。

「その必要はございません。あの男に未練など、あろうはずが。ただ、一年苦役に課せられ、雨雪問わず粉骨している身、恐らくもう長くはないでしょう。悲しいかな、今や人夫一人とはいえ無駄にできない状況ゆえ、檄文を送ったにすぎません」

 聞いて王は、変わらぬ愛を胸に抱いた。

 色めきたる容貌に加え、愛国の志まで。私はこの人を生涯離しはしない。

「なるほど、そういうことでしたか。あなたは心までも麗しいのですね」

 一抹でも何氏を疑ったことを恥じねばなるまい。王は一人、悪いことをしたような気になり、誤魔化すために、思いついた適当なことを口にした。

「そういえば、私があげた衣、あれはどうしています? 最近見ないようだが」

「それは……」

 と何氏。思いがけない質問に驚いた様子。王は訝しげに何氏を見据え問うた。

「どうしました?」

「いえ、実は連日の雨の中、庭の花が気になり少し外に出たところ、あっと躓き……」

「なるほど、汚しましたか」

「申し訳ございません。王より賜りました品を……、怖れ多く、終に申し出る勇気が得られませんでした」

 しばらく鹿爪らしくしていた王は、ふと顔をほころばせ微笑んだ。

「ふふ……ははは、何といじらしいお方だ。そんなことは気にしなくてもよい。たかが衣一枚、なんとでもなります」

「しかし、あれは王が私に初めて下さった品。薄紅の色も、絹の肌触りも気に入っておりましたのに……」

「では、同じものを用意しましょう。実はあの衣、私も気に入っていたのです。あれを着けたあなたは、妲妃もかくやという美しさでしたよ」

 何氏、顔を赤らめ、

「いえ、あの、そんな。ただ王の篤い御心遣いに感謝いたします」

 その様子のいちいちが可愛く思われてしかたないのは、王。

しばらく黙って何事かを考えていたが、遂に心に決めた様子で、

「実は次の祭日に、あなたへ大きな贈り物をしようと思っていたのです。きっとお喜びになるでしょう」

 と微笑んだ。

「まあ、なんでございましょう」

「ふふ、重陽の日を楽しみにしておられるといい。そうだ、その折、例の衣を着てきてください。よい記念です」

 何氏は承知の代わりに莞爾と笑い、衣を床に落した。

 顔をほころばせた王は、少しためらいながら何氏の肩に手をかけた。

 数日の後、韓憑自害の旨が王の耳に届けられた。

 夜、自らが作り上げた城の高台に立ち、眼下を一瞥見下し、監視が止める間もなく飛んだのだという。

 王は内心安堵した。

 これで私の恋慕を妨げる者はいなくなった。何氏の中に、少なからずあり続けたであろう、元夫の残滓も消えうせた。

 韓憑が自ら命を絶ったのは、僥倖であった。

 何氏は人夫一人さえ無駄にはできないといったが、あの男の代わりくらいはいくらでもいる。

 どの道、いつかは殺してしまおうと思っていた。

 殺さなかったのは、韓憑への憎しみよりも、何氏への愛しみが強かったからなのだ。

 何氏を傷つけた下種が、未だに時を同じくしているのがたまらなく嫌だった。

 何氏は穢れた。

 穢された。

 薄汚い、臭気を漂わせた、ぬめぬめとした蝦蟇の油で。

 何氏を腕に抱きながらも、私はかつての夫を忘れることができなかった。この腰は韓憑に抱かれ、この口を韓憑が吸い、この頭を韓憑が撫で、この乳を韓憑は舐めたのだ。

 その韓憑が死んだ。何氏は解放されたのだ。

 これで私は心置きなく何氏を愛することができる。何氏もまた、亡霊に心を惑わされることなく、愛に身をゆだねることができるであろう。

 心の中の澱が、すっかりなくなったようだ。

 

  六 

 

 宋は重陽節句を迎えた。

 宮中では華やかな酒肴が用意され、女官、侍従が右へ左へ大忙しである。

 庭には細かな秋雨が降り咲き、桐の葉を散らしている。今日は庭師も臣下に交じって奔走しているため、階に落ちた赤い葉は掃き去られないまま、重陽の宮を赤く彩っている。

「これもまた優雅ではないですか」

 王は隣に腰を下ろす何氏に向かって尋ねた。何氏は、秋には不釣り合いな薄紅の絹衣を身に纏い、じっと俯いていたが、

「ええ。七夕には、嘆きの涙を催さしむるという憎らしい雨も、この重陽には、いいものです」

 と目を潤ませ、ほぅと溜息をついた。

「最近のあなたは元気がありませんでした。久しぶりにあなたの笑顔を見られて、私も嬉しいですよ」

「秋の寒さは身に沁みます」

 そういうと何氏は王の胸に手をやり、

「けれど、あなたの体は暖かい。しばらく、こうしていてもよいですか」

「勿論です」

「心臓が早鐘のようでございます」

「悪いお人だ。今日の夜、例の高台へ登りましょう。あなたに渡したいものがある」

 しなだれかかる何氏の体に手を添え、王は囁いた。

「楽しみにしておりますわ……。それまでに晴れると良いですね」

「なに、天帝も重陽ばかりは逢瀬を手伝ってくれましょう」

 杯に並々と注がれた酒を、く、と飲みほし、庭に目をやった。

 あの日、放り投げた石は、今日宮中に帰ってくるだろう。

 あの石は砂になどなってはいない、今も昔も月のままであったのだ。

 今度は投げ出したりはしない。

 ああ、何氏の言うとおり、夜までに晴れるといい。

 今宵は満月なのだ。

 夜。

 王は、何氏と数名の従者を引き連れ、韓憑が作り上げた高台へと登った。

 空は澄み渡り、満月が白々と高台を照らしている。

 時折頬をかすめる風が、心地よい。

 くるう、くるうと鳥が鳴き、心が切なくなるような夜である。

「目を瞑って……、そうこちらです。いいですね、私が合図をしたら、目を開けて振り向いてください」

 王は何氏の手を取り、台の端へ導いた。

「どうぞ」

 何氏は目を開き、振り返り眼下へ広がる景色を一望した。

 澄んでいるため、遠くまでが見える。

 台の脇を流れる淮水には星々が映り、張騫が筏で渡ったという天の大河が現われた。

 民家には燈が灯り、空には星が輝き、見えるものすべてが天球のよう。

 さすがに壮観。

 王も、従者も、そして何氏も言葉を失った。

 全てが幻のようであった。

「これが私からの贈り物です。この城下、国、いや、星々全てをあなたへ差しあげたかったのです」

「これが……」

 何氏の頬を一縷の涙が伝った。

 王は心から幸せな気持ちであった。

「これが、私の最愛の人、韓憑が見た最後の景色だったのですね」

 ふわり、と何氏の体が宙に浮いた。

 一瞬のことである。

 王はなんとか衣を掴んだ。しかし、何氏の体を一秒も止めておくことはできなかった。

 腐っていたのである。

 何氏は人知れず、衣を腐らせていたのである。

 鈍い音を立て、何氏の体は、宋の大地の塵埃となった。

 

  七

 

《宋の紂王は卑しくも、私の体を御役立てになりました。

 あなたの醜い欲望を、私の体を使って、お晴らしになりました。あなたに心を許したことなど一度もありませんでした。

 韓憑を、最愛の人を私から奪ったあなたなど、どうして愛することができましょうか。

 あなたの体は暖かかった。けれども、心は冷徹でした。私は、一生あなたの下では温まりそうにありません。

 以前韓憑に打たれて辛かったろうとあなたはおっしゃいました。

 全く辛くなどなかったのです。私はあの人に打たれて嬉しかった。

 苦しみを分け合えて、嬉しかった。

 あの人が私を心から愛し、私もそうだったからです。

 あなたには、一生わかりますまい。

 けれども、あなたに少しでも暖かい心が残っているのならば、私の死体をあの人と一緒に埋めてください。

せめて死んでからは、私の体を私のために役立てたいのです。》

 

 王が新しく与えた衣は、真新しいままで部屋に置かれていた。しかし、その裏には、王への恨み事がつらつらと書かれていのである。

 私が欲しかったのは、体ではない。心だったのだ。

 悔しく、悲しく、歯を食いしばれども、その口を通して溢れてくるやるせなさをぶつける相手は、王にはいない。

 一秒であろうと、ひと所に留まることができない。動いていなければ、引いて行かない怒りの氾濫。或いは、苦しみの氾濫。

 なぜ何氏は韓憑を選んだのだろう。

 あの涎を垂らした韓憑を、何氏は愛していたというのか。尻を打たれている時も、本気で喜んでいたというのか。私が頭を撫でたとき、何氏は嫌がっていたのか。

 なぜ私では駄目だったのか。

 私は心から何氏を愛した。ひと時たりとも、放ってはおかなかった。常に心には何氏がいた。

 なのに、あの女は心の中で、例の汚らわしい嬌態を思い出していたというのか。韓憑が忘れられなかったというのか。

 冷徹。

 心が冷徹。

 私の贈り物の裏に書かれた言葉。心が冷徹なのはどちらだ。お前は、私の贈り物を腐らせていた。こんなものいらなかったというのか。そこまで嫌だったのか。

 転んで、汚したというのも嘘だったのか。気に入ったという言葉も嘘であったのか。

 何よりも、恥ずかしい。恥だ。よくも私を騙してくれた。愛を捧げた私に泥を塗ってくれた。

 悔しい。苦しい。

 王の心の中には、名状し難い感情が渦巻いていた。

 名前がつけられる以前の、原始的な感情。名前がつけられていないからこその、混沌とした感情。もし名前がつけられたら、刹那として消えてしまいそうな感情。

「村人どもに命令しろ。あの女は、韓憑の墓と離して埋めるのだ」

 あの女は私を裏切った。ならば、その遺言を聞いてやる必要もあるまい。

 そうだ、何氏は韓憑に心を操られていたのではないか。そうだとすれば、死ねば呪いは消えるはず。

「ただ、塚は向い合せに作るがよい」

 愛し合っているというのなら、死して後、二人は一つにならんとするだろう。

 しかし、いくら韓憑が何氏と逢おうとすれど、何氏が拒めば叶うことはない。

 もしも、二人が再び一つになるようなことがあれば、その時は私も邪魔をすまい。

 私は何氏を、もう一度信じよう。

  

  八 

 

 何氏を地面に埋めてから幾晩と経たぬ後、双方の塚の端から、梓の木が生えてきた。

 始めの頃は、三寸ほどの芽に過ぎず、通り過ぎる村人の幾人かが、おや、と不思議に思う程度に過ぎなかった。

 これが十日も経つと、一抱えに余るほどまで育ち、幹が徐々に、相手の塚に向かって曲がってきた。

 梓は天に向かい、真っ直ぐに屹立する木である。

 この不思議な木のことは瞬く間に村中へ広がり、人々は寄り合い寄り合い、頭を捻って何事かと考えた。

 見る見るうちに枝は交錯し、複雑に絡み合った。互いの木が、待ち侘びていたと言わんばかりである。

とある村人が、根元を掘ってみると、その根も、人間が足を絡め、睦び合うが如く、うねりにうねっていた。

 かくて、二つの梓は、一つの樹となった。

 枝の先には、いつしか一番の鴛鴦が住まうようになった。ねぐらとしているのだろう、いつまで経っても木から離れようとはしなかった。

 鴛鴦は互いの首をさし交えながら、昼となく、夜となく、きゅうきゅうと鳴いた。

 それは、互いを慈しむような声であった。

 長らく離れ離れになっていた夫婦が、再会を喜び合うような声であったとも言う。

 ここにおいて村人たちは、韓憑と何氏を哀れがり、木に「相思樹」という名前を付け、村の宝として大切に育て上げたと言う。

 相思とは、おおよそこのようなものであろう。

 戦国の世に入り、北狄南蛮が村へ流れ込むにつれ、木は枯れて朽ち、後の世には、ただ相思という言葉だけが残った。

 果たしてこの話は、康王の耳に入っただろうか。

 それを知るすべはない。

 康王の名は、人情を知らぬ暴君として残るばかりである。

 

(捜神記による)

 

高校3年生創作ノートより 

今村夏子と「書かないこと」

そこにあるべきものが存在していないとき、ふと恐怖に襲われることがある。

いつも同じ場所に置いてあるはずのものが、突如消えていたとき。顔があるべきところに、顔がないのっぺらぼう。しっかり踏みしめていたはずの大地がどろどろに緩みだし、頼るもののない闇の中へと落下していく。

今村夏子は、「書かないこと」の上手い作家である。

私小説作家が書きすぎてしまう心情、あるいは書いて当然である状況、設定。そういうことを書かない。そういう意味ではネットロアの「巨頭オ」なんかに近い怖さがある。藤野可織小山田浩子吉田知子など不穏な文学の書き手は多くいるけれど、今村夏子もまたそうした「不穏文学」の担い手として、一味違った小説を書き続けている。

彼女の書いた小説は、まだ少ない。

 

太宰治賞、三島由紀夫賞を受賞した「こちらあみ子」を含む作品集『こちらあみ子』

芥川賞候補となった「あひる」を含む作品集『あひる』

・2017年上半期の芥川賞候補『星の子』

・『文芸カドカワ2016年9月号』に収録の「父と私の桜尾通り商店街」

・『たべるのがおそいvol.3』に収録の「白いセーター」

 

くらいのものだ。「父と私の桜尾通り商店街」だけ読めていないけれど、このまだ寡作な作家の著作を見通して、どのような作家なのかの簡単な感想を書いておきたい。

 

こちらあみ子』

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

 

こちらあみ子」はあみ子の幼年時代の思い出が語られていく作品だが、一読して不穏な気持ちに包まれる。それはあみ子が「信頼できない語り手」だからである。あみ子は純粋である。純粋すぎるがゆえに、アスペルガー的な振る舞いをする。

周りの人間の言動から、あみ子がどのような人間とみなされ、どのように扱われているのかということは嫌というほどわかるのだけれど、それを一向に気にせず、あまつさえ状況を悪化させていくあみ子にやきもきとしてしまう。

「信頼できない語り手」とは、例えばこんな場面だ。

 

兄が突然不良になったように、母は突然やる気をなくした。

 

のちに、なぜそうした状況になったのかは読者にはわかるのだけれど、あみ子には「突然」という認識しかできないのだ。

あみ子は同級生からはいじめられ、両親からは腫物を扱うようにされている。母の書道教室では奥のほうに隠され、クラスの友人からは罵詈雑言を吐かれる。けれど、あみ子にはそれらが「理解」できない。この小説はあみ子の視点で進んでいくけれど、「悲しい」という感情がすっぽりと抜け落ちている。

流産した妹の墓を、他の生き物と並べて作ることの意味が、チョコチップクッキーのチョコだけをなめとって好きな男の子に与えることの意味が、あみ子にはわからない。でも読者にはわかる。その認識のずれが、この小説の居心地の悪さを生み出している。

例えば『苦役列車』や『コンビニ人間』も似たような構造をしていて、異端なるものの視点を書くことで、それを笑い、あるいはそれにいらいらとする読者を相対化して、正気と狂気は立場の違いに過ぎない、ということを浮き彫りにする。

苦役列車 (新潮文庫)

苦役列車 (新潮文庫)

 

 

コンビニ人間 (文春e-book)

コンビニ人間 (文春e-book)

 

 

けれど「こちらあみ子」は、それらの作品とは違う部分がある。あみ子は疑わないのだ。「自分は普通ではない」というメタな認識があみ子にはない。繰り返しになるが、彼女は純粋なのだ。すべての行動は、自らがよかれと思って行動していることなのだ。

だから、あみ子の告白には破壊力がある。なぜなら、彼女の「好き」にはなんの打算もないからだ。

 

好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真っ赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。

 

のり君の「殺す」という気持ちもわかるし、あみ子の「好き」もわかる。この場面は白眉で、読者のもやもやが純粋化した存在としてののり君と、あみ子との対決なのだ。

殴られるというノンバーバルなコミュニケーションによってはじめて、あみ子は「一息つく」ことができた。「好き」という感情の置き所を獲得できた。

その後中学卒業を間近に控えた時期の、兄や幼馴染との対話で言葉によるコミュニケーションの兆しも見えてくる。

 

「おーとーせよ。こちらあみ子、こちらあみ子。おーとーせよ」ザーザーと雑音がするだけで、やはり兄の声は聞こえない。

 

と、誰もトランシーバーに応答しない伝達不可能の時代、

 

 「あみ子にはわからんよ」

 

父親が吐露する時代から、あみ子は脱却していく。そのきっかけは大好きなのり君に殴られる、というコミュニケーションの経験からなのだ。殴られることによって、対話が成立する。ここに、やはりやりきれないかなしさのようなものがある。

文庫本の解説を穂村弘が書いているけれど、『ラインマーカーズ』などに収められた彼の短歌には、なんだか共鳴するところが多い気がする。

 

ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi

ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi

 

 

お遊戯がおぼえられない君のため瞬くだけでいい星の役

手紙かいてすごくよかったね。ほむがいない世界でなくて。まみよかったですね。

 

特に前者なんかは、「こちらあみ子」のための短歌のようだ。

また、町田康も解説を書いているのだけれど、ぼくが「こちらあみ子」を読んで思い出したのは古井由吉の『杳子』と町田康の『告白』だった。

『告白』の熊太郎が明らかに悪い方向に進んでいくのを「やめろ……やめろ……」と思いながら読んでいく、という作中主体と読者の関係性は、「こちらあみ子」に似ている。

 

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

 

 

告白 (中公文庫)

告白 (中公文庫)

 

 

この居心地の悪さというのは「ピクニック」でも違った形で提供される。

ガールズバーではたらく「ルミたち」のもとへ、芸人の春げんきの彼女と名乗る七瀬さんが訪れる。彼女は春げんきとの出会いを語り、彼への愛からどぶ掃除まで行う人物であり、やはりちょっとおかしい、ということはだんだんわかってくる。

けれども、「ルミたち」は疑わない。七瀬の告発をする女子高生の新人が出て来るけれど、逆に彼女のほうが異端なるものとして扱われている。ここでも「信頼できない語り手」として七瀬はでてくるのだけれど、一番気味が悪いのが、結局彼女が何者であるかがわからないところである。

ただの虚言であるならば、そうだったのか、となるのだけれど、時折彼女と春げんきは通じ合う時がある。例えば、昼の番組に出演したときに、彼は七瀬に約束した(と七瀬が述べる)行動をとる。それは、ひょっとしたら作品には書かれていないところで、七瀬が聞いたラジオで春げんきがそうするということを言っていたのかもしれない。

はじめの靴に関する出会いであったり、カバの鳴き声であったり、という部分は「信頼できない語り手」の虚言であるということもできるだろうが、この部分では客観的な「ルミたち」も時間を共有しているので、真実味が生まれている。

なので、ひょっとしたら出会いは本当で、けれども、七瀬はいわゆる「カキタレ」だったのではないか、そしてある程度は本当のことを言っていたのではないか、という解釈も生まれてくる。

新人のいうようにすべてが嘘だったのか、あるいは本当のこともあったのか、そうしたことの答えは語られることなく、七瀬は部屋に引きこもり物語は終わる。

 

「チズさん」もまた、書かれないことが多い。何より、語り手とチズさんの関係性がわからない。ヘルパーのようだけれど、ただのご近所さんのようでもある。ヘルパーなら、なぜチズさんの家族があらわれたときに隠れたのだろう。

この、文章の空白とどこか信頼できない語り手たちは、『あひる』でも登場してくる。

 

『あひる』

あひる

あひる

 

 

あひるを飼い始めてから子供がうちによく遊びにくるようになった。あひるの名前はのりたまといって、前に飼っていた人が付けたので、名前の由来をわたしは知らない。

 

父と母、それからわたしの三人暮らしの家に、突然「のりたま」というあひるがやってくる。のりたまといえば黄色と黒色。つまりは危険色だ。その名前の通り、一家に不穏な影が闖入する。

弟が家を出ていき、しんとしていた家に、あひるを見にくる子供が次々とやってくる。両親ははりきって、全霊をもって歓待する。家は子供たちによって遊び場と化し、汚されていく。

安部公房の『友達』に近い気持ちわるさだ。

友達・棒になった男 (新潮文庫)

友達・棒になった男 (新潮文庫)

 

 

けれど、名前も知らない子供の誕生日会を目前に控えた両親の良心は、何の前触れもなく裏切られる。

この部分がかなり胸にくる。

まるで大人になって二階に引きこもるわたしや不良となって家を出ていった弟の代替物として振る舞う子供たちは、やはり他の家庭の子供であるのだ。

どうして子供たちが誕生日会にこなかったかの説明は一切ない。ここでも「書かない」ことによって、彼らの行いが「家族ごっこ」でしかなかったということが浮き彫りになる。

この小説の気色悪さというのは、あみ子のように純粋さが逆に悪くはたらいてしまうという子供なるものという集合体の気持ち悪さがひとつある。

もう一つは空白の多さである。ぱっとページを開いてみて感じるのは、文字の少なさだ。情報量がかなり少ない。

二階で生活している「わたし」は基本的に傍観者であって、一階で巻き起こる騒動、両親、子供たちは異邦人だ。だから、病気で病院に連れていかれたのりたまが帰ってきたときに、違和感を覚える。

 

おかしい。

これはのりたまじゃない。

 

つまり、両親が子供たちを引きとめるために、のりたまの偽物を用意したのではないかという考えに至るのである。

この考えは最終的に三輪車に乗った女の子によって裏打ちされるのだけれど、彼女は「信頼できない語り手」である。誕生日会の日に訪れた男の子をのりたまの化身と思うわたしもまた信頼に足るとは言い難い。

当事者である両親が何も言わない以上、真実はわからないのである。

もちろん前述の誕生日会の日の男の子も謎の人物として書かれるだけである。

 

「おばあちゃんの家」「森の兄妹」は、同じ場所での出来事を二方向から書いた、連作といってもよい作品だ。

「おばあちゃんの家」は離れに住むおばあちゃんについての話だ。このおばあちゃんは途中からはぼけたものとして扱われるのだけれど、最後の一文が恐怖をそそる。

 

今、テレビをみているみのりの目の前を横切って、台所へと向かっていったおばあちゃんの足取りは、どう見ても、昨日より安定している。

 

足取りもおぼつかないおばあちゃんの歩みが安定する。みのりは子供だ。子供の語りというのは、いつでも不安定な要素を含んでいる。『銀の匙』や『二十四の瞳』、あるいは『夏の水の半魚人』の瑞々しさというのは、裏返せば不完全な視線だ。未知だからこそ恐怖があり、わくわくがあるのだ。

この小説は、大人の目線で書かれていたら何のことはない物語なのかもしれない。けれど、子供の目線で、空白の多い文章で書かれることによっておばあちゃんはまるで幽霊のような存在と化す。

こちらあみ子』でもそうだったが、「あひる」のわたしにしても、「おばあちゃんの家」「森の兄妹」のおばあちゃんにしても、どこか奥に押し込められている「異形のもの」がよくでてくるのは今村夏子の特徴かもしれない。そういう者たちとのコミュニケーションは、基本的には難解なのだ。

 

「白いセーター」

文学ムック たべるのがおそい vol.3

文学ムック たべるのがおそい vol.3

 

 

今度の語り手は嘘をつく。

クリスマスイブの日に、婚約相手の姉から子供を預かってもらうように頼まれる。

そこで、ちょっとしたことから子供を泣かしてしまい、そのことを問われたときに、わたしはとっさに嘘をつく。

奇妙なのはこの部分が、何かを取り繕おうとする嘘として描写されていないことだろう。

 

元気がないようには見えなかった。わたしには普通に見えた。

 

わたしはくびをかしげた。

 

まるで先ほどの出来事を忘れてしまったような振る舞いだ。怒られたくないあまりに嘘をついてしまって泥沼にはまる、というのはよくわかるのだけれど、どうにも「わたしは悪いことはしていない」という純粋さがここにも見え隠れしている。

確かに彼女がしたのは、大声を出す子供の口を塞ぐ、というそれだけのことなのだけれど、嘘をついてしまうことによって、「信頼」を失ってしまう。

素直に言ってしまえばよいのに、という読者と作中主体のずれ、それはこの小説にも描かれることとなる。

基本的に他者は理解不可能だし、自分すらも理解不可能だ。足元がぐらぐらとしてくる。

 

『星の子』

星の子

星の子

 

 

おそらく今村夏子初の長編だろう。

一読した印象としては、物語づくりや会話、あるいはシーン、新興宗教にはまる両親、正しい家庭を取り戻そうとする姉、自意識過剰な中学教師、きたない人間ばかりの世の中で唯一きれいな友人といった人物造形がかなり漫画っぽいなというものだ。

読みながら、宮崎夏次系の『夕方までに帰るよ』が頭をよぎった。

夕方までに帰るよ (モーニング KC)

夕方までに帰るよ (モーニング KC)

 

 

幼いころ身体の発疹などで苦しんでいた娘を救おうと苦心する両親は、会社で次のような言葉を耳にする。

 

それは水が悪いのです

 

この時点で「あっ……」と察する。水と新興宗教の話といえば『聖水』なんかを思い出すけれど、奇妙な宗教やマルチは水を売ると相場が決まっている。

聖水 (文春文庫)

聖水 (文春文庫)

 

 

こちらあみ子』はアスペルガー的振る舞いのゆえに、端的にいえば白痴であるがゆえに疎外されていた主人公であったが、今回は両親が怪しげな宗教にはまっているがゆえに疎外される。

現実の世界でもそうだけれど、家庭環境の不全は、家庭の代替物を求める。いちいちフロイトやなんだをもってこなくても、この辺りはなんとなく納得できると思う。不穏、空白を埋めるものはいつでも物語だ。父親のいない社会で、父親的なものを宗教に求めるように、この家の姉妹も物語を求める。

それは愛であった。

こちらあみ子』や『あひる』に比べれば直球な小説だ。それゆえに不穏よりも面白さのほうがうわまわっているというのが一回読んだときの率直な感想だった。

個人的な見方では、これは浅野いにおであったり、宮崎夏次系であったり、サブカルと標榜される漫画諸作に読み心地が近い。

 

「ねえ。ちーちゃん、好きな子いる?」

わたしは、パンをもぐもぐ咀嚼しながら「うん」とこたえた。

「どんな子?」

当時はエドワード・ファーロングへの熱も冷めて、秋山くんのことを好きだった。

「背が高くて、サッカーがうまくて、歌がうまくて、さか立ちができる人」

「へーかっこいいね」

「まーちゃんは」

「いるよ」

「どんな人」

「背が低くてサッカーできなくて歌がへたくそで、さか立ちもできない最低の人」

 

「アハハ。じゃああたしはどう見える?」

「きれい」

 

このあたりの台詞回しは、もちろん前後の文脈もあるのだけれど、かなりグッとくる部分だ。

新興宗教といえば妖しくて忌避すべきもの、という考えは1995年以降のわれわれには染み込んでしまっているものだろう。けれども、愛や恋のような幻想の物語はいつでも美徳とされている。そのあたりのことが、改めて認識できる小説だろう。

とはいえ「書かない」今村夏子も健在で、最後のシーン。不気味さを伴う言いさしで終わっていく。とはいえ、この小説では折れながらも進んでいくという陰な爽やかさが不穏さを上回っていた、と個人的には思う。

 

 

今村夏子は寡作だ。おそらくこれからたくさん小説を書いてくれるだろう、と期待する。少なくともぼくのまわりでは今村夏子はかなりの読者を獲得している。今日び、たくさん読まれる文学作品というのも珍しい。

不穏な続編を期待している作家のひとりだ。

わすれもの装置

 昼下がりの公園。アール氏はベンチに腰掛け昼食をとっていた。空は青々として雲は白く、絶好のランチ日和というわけだ。
 元気いっぱいはしゃぎまわる子供たちを目で追っていたアール氏は、視界の端にちらりと何かが見えたのに気がついた。
「おや、あれはなんだろう」
 弁当を置き、近寄って見てみると、それは黒色のカバンであった。革製の、ちょっと値の張りそうなカバンである。
「さては誰かが忘れていったのだな」
何しろ今日は絶好のランチ日和だ。浮かれたサラリーマンが一人や二人いたところで、何もおかしくはない。
「うっかりしたやつもいたものだ。そうだ、近くに交番があったな。ここはひとつ、届けてやろう」
「どうも、ありがとうございます」
 アール氏のすぐ近くで機械のような、しかし温かみのある声が聞こえた。
「いったい、なにものだ」
「わたくし、忘れ物でございます」
 どうやら声の主は、アール氏の手の中にあるカバンのようだった。
「忘れ物だと自己紹介する忘れ物も、なかなか珍しいな。おい、君はどこから声を出しているんだい。ははあ、おおかた、テープでも入っているんだろう。動作に合わせて録音を再生するなんて、なかなか面白いいたずらじゃないか」
「いいえ、いたずらではございません。わたくし、忘れ物でございます」
これにはアール氏も慌てた。こちらの会話を予想して、返事を吹き込んでおくのは不可能だ。だからといって、こんなカバンの中に、人が入れるわけもない。
「すると、君は本当に忘れ物なのか」
「本当に、忘れ物でございます」
「そんなこともあるまい。どれ、中身を見てみよう……」
 しかし、カバンは固く閉じられており、どうしても開けることはできなかった。
「なんだか、頭が痛くなってきた。落した人には気の毒だが、気味が悪くていかん。さっさと会社に帰ることにしよう」
アール氏は食べかけの弁当をベンチの上に忘れたまま、会社へと逃げて行った。


数年の月日が流れた。
かつての公園も様変わりし、木々は切り倒され、空の空気もくすんでいた。公園で遊ぶ子供の数も減り、代わりに舗装された道路を走る車ばかりが大きな音を立てていた。
ガールフレンドとデート中のケイは、公園のベンチの下に、ぼろぼろの黒いカバンが置いてあるのに気付いた。
「おい、見てみろよ、忘れ物だ」
「あら、本当。お金なんか入ってないかしら」
「ふふん、見つけたのは俺たちだ。ちょっとばかし、いただいても構わないだろう」
 そう言うとケイは、カバンの口に手をかけた。
「わたくし、忘れ物でございます」
 どこからともなく聞こえてきた声に、ケイとガールフレンドは、腰を抜かしてしまった。
「うわ、いったい誰だ」
「わたくし、忘れ物でございます」
「気色悪いわ。こんなもの放っておいて、早くいきましょう」
「そうだな、それがいい」
カバンは乱暴に地面へ叩きつけられ、ケイはそれを蹴りつけた。カバンは茂みへと飛び込み、清掃員によってゴミとして収集された。
「わたくし、忘れ物でございます」
 その声は誰の耳にも届かず、誰もいないゴミの山で、ただこだまするだけであった。そうしてしばらくすると、かちりと音を立てて、カバンの口が開いた。


「あの、地球という惑星はどうでしょうかね」
 時間はさかのぼり、地球のはるか上空。宇宙連合の使節団員は、団長に尋ねた。
「視察した限りでは、地球人は、なかなか善良そうだった。きっと数日もたたないうちに、警察に扮した、われわれの仲間のもとへ届けられるだろう」
「それにしても、宇宙連合に加えるかどうかを、あんなもので判断してよいのでしょうか。しかも、長い間届けられなければ、内蔵された毒ガスでその星の人々を滅ぼしてしまうというのも、少し過激な気がするのですが……」
「今や、宇宙も人口爆発が進んでいるからな。悪意に満ちた星は滅ぼしていかなければならない。それに地球人は大丈夫だろう。彼らにはおもいやりの心がある。そのおもいやりさえ忘れなければ……」

 

2012年

かみしのの四半世紀のベスト

 

四半世紀のベストです。

名刺みたいなものです。

どうやら不穏なものが好きなようです。

 

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