村上ラヂオ

社会学の講義に出る。

今日のテーマはアイドルだった。70年代から現在に至るまでの年表が配られ、時折音楽を流しながら、授業をしていった。

こうやってざっと見てみると、一神教的なものから、多神教的なものへと変遷しているから面白い。「液状化する社会」への適応なのだろうか。今、アイドルは次元の壁を越えて、「自ら作り変えることができるもの」として表れてきている。

三次元ではAKB、二次元では例えば初音ミク

一人につき一人のアイドルの時代なのかもしれない。

 

講義を聞きながら、村上春樹「村上ラヂオ」を読む。

 

村上ラヂオ (新潮文庫)

村上ラヂオ (新潮文庫)

 

 エッセイ。

村上春樹は好きで、たくさん魅力があるけど、そのうちの一つは「切り口」がたくさんあるところだ。

恋愛で見てもいいし、文学で見てもいい、映画でもいいし、哲学でもいい、サブカルと比較するのも面白い。

要するに村上春樹の小説を読むと、いろいろ考えられるのだ。

中でも、村上春樹を語るうえで外せないのが音楽だ。小澤征爾との対談では、クラシックに関するマニアぶりを披露して、小澤さんを驚かせていた。

音楽っていいですね。そこには常に理屈や論理を超えた物語があり、その物語と結びついた深く優しい個人的情景がある。この世界に音楽というものがなかったら、僕らの人生は(つまり、いつ白骨になってもおかしくない僕らの人生は)もっともっと耐え難いものになっていたはずだ。

本書収録「ポケット・トランジスタ」より。

こういう認識があるからこそ、彼の小説からは音楽が聞こえてくるのだろう。

 

読みながら思ったのは、村上春樹もまた、「アイドル」として機能しているということ。彼にあこがれておしゃれな音楽を聴きながら、お酒を飲むような生活をするようになったという人もいるはず。

すごいのは、世のアイドルたちは、ある種の生活(例えば恋愛禁止だとか)を強いられて、アイドルらしく振舞うのを強制されているのに、村上春樹は素のまま生きてアイドルになっているところ。

なんて楽な生活だ。

でも、たまにはスモークサーモン・サンドウィッチじゃなくて、沢庵とかを食べたくなることないのか。