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パトロネ

 

音楽を聴きながら、藤野可織の『パトロネ』を読む。

 

パトロネ (集英社文庫)

パトロネ (集英社文庫)

 

 藤野さんの小説は、『爪と目』『いやしい鳥』と読んできたけど、かなり好きだ。ただ、これは日本ホラー小説大賞じゃないのか、と思うこともしばしば。

藤野さんは「いやしい鳥」で第103回文學界新人賞を取っている。文學界新人賞といえば、文藝春秋が主催しているからなのか、固いイメージがある。でも、第104回には円城塔が「オブ・ザ・ベースボール」で、第92回には吉村萬壱が「クチュクチュバーン」で受賞していて、たまに変な小説が受賞することがあるらしい。

たぶん藤野さんも、その「変」なメンツの一人じゃないかと思う。

 

「パトロネ」も「いけにえ」も、読んでいると不安になってくる。

特に「パトロネ」に顕著なのだが、どうしてそう感じるのかの答えが解説にあった。

藤野さんの小説は、手当たり次第にピントが合っていく。そして容赦ないまでに正確に、言動や物事が描かれる。目の前に広がる場面の、手前だろうが遠くだろうが、あちこちにランダムにピントが合っていたら、どんな光景になるだろう。

さすが星野智幸さんだ。星野さんはこの藤野さんの特色を「リアリズムの氾濫」と呼んでいる。

「いけにえ」には次のような一節がある。

登美乃作品の不気味な点は、モノトーンの色彩よりも、花の描き方にある。彼女が一つの画面に描く花は、五輪から七輪である。一輪一輪異なる種が描かれるが、あやめ、ゆりも、あじさいも、ききょう、しゃくなげも、つばきも、曼珠沙華も、松虫草も、パンジーも、たんぽぽも、しろつめくさも、さくらさえもがほぼ同サイズで、しかもそれぞれ、もっともその花のかたちを認識しやすい角度で描かれている。

これはある意味でメタな描写だと思う。

彼女の文章、正確には視点には遠近感がない。物語を進めていくうえで必要な描写も、不必要な描写も、「同サイズ」で書かれている。奥行きの消失だ。

だから不気味なのだ。

「いつ」「どこまで」物語が進むのかという距離感がまるでわからない。そこには現在しかないからだ。

そうして、断続的な現在は、唐突なねじれを迎える。

「パトロネ」ならりーちゃんの登場、「いけにえ」なら悪魔の登場だ。

唐突にわれわれの世界とはパラレルな世界に入り込むのだが、視線は相変わらず現在だけをとらえ続ける。

そうして終わる。

ただサンドペーパーの上を歩かされているようなざらざらとした不安感だけが残る。 

僕はこの不安感を、現代アートに感じたことがある。アナ・トーフの「偽った嘘について」。無機質に静止画とテキストが次々映し出される映像作品だ。

藤野可織作品は、小説というよりアートに近いと思う瞬間がよくある。

なんというか、普通の美術館を歩いていたら、唐突に「スペースウンコ」に出会うような異質感が藤野作品にはある。彼女が美芸出身であるから、勝手にそう思ってしまっているだけかもしれない。

この中編集で一番異質感を感じたのは、日本からパリへの唐突な時間の消失でもなく、悪魔をとらえた後の仕打ちでもなく、次の場面。

腰を落とし、真下からネガを見上げる。そして、下の端にぱっと食らいつくと、くちびるだけでにじって口のなかに回収していった。

ざらざらな彼女が、つるつるのパトロネになろうとした瞬間だ。

気持ち悪い。