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大学読書人大賞ノミネート作品を買うため生協へ行く。

この読書人大賞、第一回は『幼年期の終わり』、第二回は『好き好き大好き超愛してる。』、第三回は『夜は短し歩けよ乙女』、第四回は『天地明察』、第五回は『ハーモニー』、第六回は『南極点のピアピア動画』がそれぞれ受賞している。

今年のノミネート作品を見る限り、僕の予想では野崎まどの『know』が有力だと思う。

あるいは宮内悠介か米沢穂信あたりかなと思う。ただ僕は『know』と『何者』と『パンギン・ハイウェイ』しか読んでいないので、詳しくは何とも言えない。

せっかくの機会なので読んでみることにする。

 

 

帰ってからは夏目漱石の『門』を読む。

 

門 (新潮文庫)

門 (新潮文庫)

 

 夏目漱石の初期三部作だ。初出は1910年。伊藤博文の暗殺、大逆事件など日本文化に大きな影響を与えた出来事が起こった年だ。

『三四郎』『それから』は、ともに西洋風なものに憧れる・寄生するという在り方に明治期の「日本」性が表れていると思った。しかしながら本作に、そのような「西洋」臭はあまりない。

もっと閉鎖的で、興味の対象が社会ではなく自己の内側へ向かっていっている。

宗助と御米の一生を暗く彩どった関係は、二人の影を薄くして、幽霊の様な思を何所かに抱かしめた。彼等は自己の心のある部分に、人に見えない結核性の恐ろしいものが潜んでいるのを、仄かに自覚しながら、わざと知らぬ顔に互と向き合って年を過した。

この「結核性の恐ろしいもの」こそ、『門』全体を貫く不穏な空気の正体だ。宗助と御米は、過去の罪から社会に背かれている。『それから』の結末があのような形であったからには、対象が社会から自己に、広さから深さに向かっていくのもある意味で当然なのだ。

漱石の文学が初期から後期へ移行する転換期であるということは、確かに伝わってくる。

印象的なのは、宗助が座禅を行ったにもかかわらずなにも変わっていないところだ。座禅とは、個の内面と向かい合うのに最も優れた方法だ。

「普通」、宗教的体験は新たな視座をもたらす。神との交信にしろ、トリップによる神秘体験にしろ、物語に宗教体験が出てきた以上は何かしら動きが生まれるはずなのだ。

でも『門』ではなんにも起きない。なぜなのか。それは二人の抱える罪の意識が「結核性」だからだ。明治における結核は不治の病なのである。

この「結核性の恐ろしいもの」を「自覚しながら、わざと知らぬ顔に互と向き合って年を過」ごした結果、宗助のような先延ばしの人間が生まれてくるのだ。

前には堅固な扉が何時までも展望を遮ぎっていた。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

門の下で待っている人は現代でも多くいる(僕もたぶんそう)。この状況を生み出す原因となる心の動きを探っていくのが、夏目漱石の後期文学ではないのかと、勝手に考えた。

「うん、然し又じき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。

「冬来たりなば春遠からじ」と考えるのが普通だ。けれど、『門』はこの一文で終わっている。この後ろ向きな心の動きは一般的には日本人のそれだろう。

『三四郎』『それから』そして『門』で、漱石は一貫して日本人を描いているのだ。だからこそ、彼は日本の代表的作家なのだろう。

とにかくこの『門』からは、とにかく生活は続いていくという、人生のつらみのようなものを感じた。

初期三部作はどうやら読む時期が良かったようで、すべて楽しく読めた。それぞれの作品の主人公に感情移入してしまった。僕のことを書いていると思った。辛い。