南部高速道路は閉鎖されました。

池澤夏樹編集の世界文学全集を買った。

 

短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

 

 目次を見て心躍った。コルタサル、マラマッド、ディック、アチェベ、ブローティガン、カーヴァー……。

この第一集は南北アメリカ、アジア、アフリカの傑作を集めているらしい。

これは第二集も買わなければならないと思った。

 

普段なら本一冊単位で感想を書くのだけど、この短篇集については一編一編が長編並みの濃さを持っているので、短篇ごとに思ったことを書いていきたい。

ということで、今回はコルタサルの「南部高速道路」。

 

 

「閉鎖系」というジャンルがある。

批評家の小森健太朗(『神、さもなくば残念。』)によれば、

〈閉鎖系〉というのは、ミステリで言えば、クローズド・サークルものである 

という。

ミステリーでは、クリスティーの『そして誰もいなくなった』や綾辻行人の『十角館の殺人』、純文学では村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』、夢野久作『瓶詰の地獄』、アニメまで視界を広げれば『灰羽連盟』などを「閉鎖系」作品としてあげることができるであろう。

つまり、何らかの原因で「外部」との接続が切断してしまった状況で繰り広げられる生活や事件を取り扱った作品を「閉鎖系」と呼ぶのである。

 

この「南部高速道路」もそうした「閉鎖系」作品に連なる一作ととらえることができる。

しかし、他作品と比べると、本作は明らかな異彩を放っている。

 

話は飛ぶが、僕は渋滞というものがそこまで嫌いではない。

ただ乗っているだけだった昔は嫌いだったが、運転するようになってからは、あのクリープ現象だけで進んでいくあの感じが結構好きだ。

僕は音楽を流しながら運転をするのだけど、普通は中途半端なところで目的地へ到着してしまう。だけど、渋滞中は好きなだけ音楽を聴くことができる。

そういうわけで、案外渋滞は苦じゃない。

 

ただ、その渋滞が一年以上も途切れなかったらどうだろう。

 

普通は考えられない。しかし、ありえた。

「南部高速道路」の舞台は片側六車線のパリへ通じる高速道路である。

そして用意された密室は「渋滞」である。

まずはその発想に驚かされる。1200の密室を考えた清涼院流水も(たぶん)渋滞を密室と考えてはいなかっただろう(でも清涼院のことだから考えてるかもしれない)

しかもそんじょそこらの渋滞とはわけが違う。

 八月のうだるような暑さ

の中で始まった渋滞は、いつの間にか、

 二、三日の間は雪が休みなく降り続いた

冬にまで突入する。

気づいたらもうコルタサルの世界だ。

 

コルタサルの小説はクラインの壺に似ている。

現実だと思っていたことが気がつかないうちに虚実になり、そうかと思っていたらあれよあれよと現実に帰っている。

 

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

 

 この短編集に収められている「続いている公園」はその顕著な例だ。

空想は現実になり、また空想に移り変わっていく。コルタサルに、現実と夢の間の境界線は存在していない。

 

「南部高速道路」も、渋滞という身近な世界が気づかないうちに幻想空間に突入している。

夏から冬へ。そんなに長い間飲まず食わずで生活できるはずはないから、閉じ込められた人間たちは、周囲の同じ状況に押し込められた人々と協力することとなる。

少ない食料を分け合い、水を分け合い、さらには恋をし、死人を看取る。

若者がいて、老人がいて、子供がいて、男と女がいて、他の共同体と敵対までする。

 

まるで村のような、原始的な共同体が近代の高速道路の中に現れる。

動かない車と、一足飛びに流れる外部の時間。しかしながら、共同体の「質」は近代から前近代へ逆行する。

結果として空間的にも、時間的にも、高速道路上の渋滞は外部と切断されることになる。

大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』も「閉鎖系」の傑作だが、時間感覚までは取りこんでいなかった。

 

いつの間にか読み手は、この空間がいつまでも続けばいいのに、と思うようになる。

しかし、そうはいかない。

なんといっても、時は近代。場所は高速道路。動くことが運命づけられているのである。

 なぜこんなに飛ばさなければならないのか、なぜこんな夜ふけに他人のことにまったく無関心な、見知らぬ車に取り囲まれて走らなければならないか、その理由は誰にもわからなかったが、人々は前方を、ひたすら前方を見つめて走り続けた。

なぜ、どうして、理由もわからずに車は無機質に動き出す。共同体は一瞬で瓦解し、別れのあいさつもないまま、かつての仲間たちは不特定多数に埋没していく。

 

実はこの小説には、人名が登場しない。

「ドーフィヌの若い娘」「プジョー203の夫婦」「タウナスの男」「シムカの若者」のように、車の名前で呼ばれる。

アルゼンチンの小説に日本の文化をとりこんで考えていいのかはわからないけど、一般的に名前を知るというのは、そのまま関係性の問題にとって代わられる行為だ。

名前を知られるということは、魂を握られるということだ。

逆にいえば、本名を知られない限り、関係が近づくことはない。

車の名称を人名として進行するこの話では、最初から関係性は放棄されていたのだ。どれだけ仲良くなっても、長い間共同生活を送っても、はじめから「よそよそしさ」が付いて回っていたのだ。

その「よそよそしさ」はそのまま近代性といってもいい。

共同生活を送っていたのは、人ではなく車だったのだ。

 

抒情とやるせなさを残しながら、閉鎖空間は無限に開かれてゆく。

近代に対する批評性を若干含みながら、南部高速道路の交通渋滞は正常化していくのだ。

 

たまには渋滞もいいんじゃないかな、と思わせてくれるマジックリアリズム小説の傑作だと、僕は思う。