波女は僕を愛しすぎている。
この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎてゆくようにかつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。
あなたにそのことを話してあげよう。
わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。
ごめんね、僕はこれ以上大きな声で話すことはできないんだ。
君が、そう、僕が語りかけている君が、いつ僕の語りかけに気づいてくれるか、僕にはわからない。
そもそも、僕が君に語りかけているのに君は気づいてくれるのだろうか?
いきなりだけれど、ここに引用した文章には共通した感覚があるような気がしている。
言葉が体にすうっと入ってくるような、心のどこかが無意識に「あっ好きだ」とつぶやくような独特の感覚だ。
上から順に池澤夏樹の『スティル・ライフ』、ブローティガンの『西瓜糖の日々』、エンデ『鏡のなかの鏡』の冒頭だ。
つまり、上の3つの文章はすべて詩人によって書かれたものなのである。
国も年代も違うのに、まったく同じような感覚を読み手に(少なくとも僕には)抱かせるのだから、やはり詩人は言葉の魔術師だな、と思う。
なぜこんなことを話すかと言えば、今回記事にするオクタビオ・パスも詩人であり、その「波との生活」の冒頭にも同じような情感を抱いたからだ。
短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)
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海から上がろうとすると、すべての波のうちひとつだけが進み寄ってきた。ほっそりとして軽やかな波だった。他の波たちがひらひらする服をつかみ、大声で叫んで引き止めようとしたにもかかわらず、彼女は僕の腕につかまると、一緒に海から飛び出した。
どうであろうか。
この部分からもわかるように、「波との生活」は「波」に惚れられ、「波」と生活する男の話だ。
異類婚姻譚のひとつといってよさそうだが、「蛤女房」や「雁の草子」のような作品とは少し違う。
相手が無生物なのだ。
さらに言えば、異類婚姻譚に特徴的な「見るなのタブー」も存在していない。他の作品では、一般的に人間と動物の別れの原因は「見るな」というタブーを破り、相手の真の姿を見てしまうということにある。
この作品では、はじめから男は波を波として認識している。しかもそれを違和感なく受け入れ、扱い、愛している。
そして別れの原因は(幻想的な言葉に言い換えてはあるものの)波の変貌である。
昔は清純でかわいかったのに、年をとるにつれて意地が悪くなっていく妻に違和感を感じる夫……という、よくあるあれだ。
ざっくりいえば、普通の恋愛小説みたいなのである。
女性を海にたとえたり、海を女性にたとえたり、という例はよく目にする。
でも、海と人間の恋愛の話にしてしまおうという発想は見たことはない。詩人ならではの発想ではないだろうか。
ドイツに詩人が多いのは、シュバルツバルトがあるから、という説をどこかで目にしたことがあったが、詩人は自然と調和した存在であるのだ。
波に包まれ、波と一体になるという体験は詩人の願望であり、同時に女でもある波と交わるという体験は男の願望でもある。
自然物との恋、そこでは性と詩人の願望が重なる。
波は月に影響をうける。
女性も月に影響をうける。
下ネタではない。あらゆる意味で自然の話だ。
木や石を女性と置き換えるのとは違ったしっくり感が、波にはある。
そういえば、オクタビオ・パスという名前、すごくタコっぽい。
波に惹かれるのも納得だ。