血と地と

講談社文芸文庫から『現代小説クロニクル』というシリーズが出た。1975年から2014年までの文学の歴史を追おうという全8巻のシリーズである。

池澤夏樹世界文学全集もまだ読み終わらないまま、こちらに浮気した。

かなり久しぶりのブログ更新。

ぶっちゃけ死ぬほど忙しかったので、更新どころか本を読むことすらままならなかった。

多少慣れてきたので、更新してみる。

なんか、文章の書き方も忘れてしまった。

 

今回は「クロニクル」第一巻の一作目、中上健次の「岬」だ。

 

 

 

中上健次について語るためには、まず熊野について語らなくてはならない。

熊野とは、紀伊半島南端の地域をさすが、この熊野にはある特別な力が宿っている。鎌倉時代には「熊野三山詣」、すなわち本宮・新宮・那智の三所への参詣が流行した。本宮=阿弥陀如来、新宮=薬師如来那智=千手観音を詣でることで、過去・現世・未来の三世に利益を得ようとしたのである。ここには、例えば一遍が時宗を開いたり、小栗判官が蘇生したり、補陀落浄土があったり、八咫烏が飛び回っていたりと、何かと神秘的な伝説が多く残っている。

風土記』によれば、熊野は「隠国」と呼ばれ、死者の霊がこもる地として解釈されてきた。すぐ近くには天照大神の祀られる伊勢神宮があり、光の伊勢に対して闇の熊野として長く紀伊半島に存在してきたのである。

 

僕は一時期この熊野にめちゃくちゃ入れ込んでいて、二泊三日で熊野三山(+伊勢)弾丸ツアーを慣行したことがある。

京都を出発して、本宮にたどり着くまで約6時間。ひたすら電車やバスに揺られてたどり着いた熊野本宮大社は、鬱蒼とした木々に囲まれていた。これはすごいところにきてしまった、と思った。

 

行ってみてはっきりと感じたことがある。

熊野には「何か」がいる。

熊野には、生者と死者とが交歓してきた歴史がある。

僕は長野出身で、山や森が近くにあるけれど、熊野のそれとはやっぱり違う。

 

中上健次の「岬」は、この熊野を舞台にした物語だ。第74回の芥川賞を受賞している。

正直、ものすごく読むのにエネルギーのいる小説だ。

 

まず人物関係をつかむのに時間がかかる。

自分で相関図を作らないことには、ちんぷんかんぷんだ。気を抜くと「あれ?弦叔父って誰の弟だ?」「ん?親方って誰の夫だったっけ?」ということになる。

今のところ小説を読みながら人物相関図を作った作品は、これと『カラマーゾフの兄弟』だけだ。

 

それから、濃厚な臭気。

絶えず漂い続ける暴力とセックスの香り。濃厚な土と汗のにおい。「わきがのにおい」と描写される獣の匂い。嗅覚が激しく刺激される文章だ。

 

そして、童貞の青年がもつ強烈なエネルギー。

しかも、主人公の秋幸は、ただの童貞ではない。まず、欲望の権化である実の父親が、母を残して行方をくらませている。母は結婚を繰り返し、三人目の夫と生活している。腹違いの兄は自殺した。本作で「彼」と称される秋幸は、血のつながらない姉と生活しているのである。

秋幸は「路地」に蔓延する性的な力(≒血縁)を拒絶しながらも、徐々に実父の血が表立ってくる。

 

おれの顔は、あの男の顔だった。世の中で一番みにくくて、不細工で、邪悪なものがいっぱいある顔だ。

 

花も実もつけることなど要らない。名前などなくていい。

 

しかしながら、その「邪悪」が「花」となって「実」をつけ始める。

秋幸の就いている「土方」という仕事も象徴的だろう。土を掘り、コンクリートを流し込むことは、とりもなおさず土地(≒地縁)の再構築とつながってくる。

生まれながらにして土地と血に縛られた秋幸が、その両方を超越しようとしながらも、実父や姉、兄と同じような狂気を発露していくさまには、恐怖とともに空しさも覚える。

 

本文でも「すぐ熱狂する」と描写されている通り、たかだか100ページの文章とは思えない熱量が、この「岬」にはあふれている。

この熱の原因はどこにあるのだろう。

青年というだけではない。地理だけではない。熊野の「歴史」もまた、この物語に強固なバックグラウンドを提供している。姉の狂うきっかけは、「死者の声」であった。これは、生と死が錯綜する熊野だからこそ、現実味を帯びてくる。

それから、「路地」としての歴史もまた影響しているだろう。「路地」とは被差別地域、すなわち部落のことをさしている。その戦いについては、例えば水平社宣言などを一目でも見れば充分に伝わってくる。

 

あらゆる歴史=物語が内包されているからこそ、この「岬」にはとんでもないエネルギーが満ちているのだろう。

いろんなラリパッパな人たちがでてくるけれど、そのほとんどが強烈な「つながり」の犠牲者なのだ。秋幸はそこから逃れようと思いながら、のまれていくのである。

 

この作品の主人公は秋幸でも、姉でも、母でもなく、土地そのものなのかもしれない。

 

いわゆるエディプス・コンプレックスだとか、佐藤友哉押見修造を髣髴とさせる青年期の鬱屈、フォークナーに連なる「土地」の力、いろいろな「文学的」要素を併せ持つ「岬」、ひいては中上健次に惹かれる読者が多いのも納得だ。

もちろん、僕もその一人となった。

これこそが「物語」なのだと思う。