『三角みづ紀詩集』三角みづ紀

メンヘラとは何か。

メンヘラという言葉は、例えばサブカルやロキノン、はたまたセカイ系と同じで、ある「雰囲気=感じ」を指すという一面が強く、厳格に定義するのはかなり難しい。その客観的意味内容に重点があるのではなく、その言葉を使う側の主体的意識(「何が」メンヘラなのか、ではなく「何を」メンヘラと名づけて蔑視あるいは自嘲したいのか)の問題だと思うからだ。

メンヘラという言葉は、その言葉を予め共通言語として持つ人たちの間でこねくりまわされる言葉(界隈語)なのであって、厳密性は求められていないような気がする。むしろ「~感じ」くらいの広さすら求められている言葉なのではないかと思う。

だから、言葉としてかなり可塑的であって、ゆえに、それはなんなんだ、ときかれたら、ある方向性を示す単語(あるいは行動)で描写するのが精一杯なのではないか。つまり、手首とか切っちゃう感じ、向精神薬とか飲んじゃう感じ、希死念慮が強い感じ、感情がからっぽな感じ。それがメンヘラだ。

僕自身は、世界における対かなしみの吸水性がすさまじいスポンジみたいな人のことをメンヘラだと思っている。

 

作品について語るときに、メンヘラ(サブサル、セカイ系etc)という言葉を使うのはきっとあまり正しいことではない。なぜなら、その行為は言葉や「感じ」の抽出であって、ただのカテゴライズだからだ。納得であって解釈ではない。主観であって客観ではない。ある意味で思考の放棄といっても良いだろう。

しかし、三角みづ紀についてはあえてメンヘラという言葉を使いたい。

 

 

三角みづ紀詩集 (現代詩文庫)

三角みづ紀詩集 (現代詩文庫)

 

 

三角さんは2005年、「オウバアキル」で第10回中原中也賞を受賞している。

この中原中也賞は面白い詩人が受賞していて、たとえばTwitter詩人として有名になった和合亮一、『乳と卵』の芥川賞作家川上未映子なんかが受賞している。他にも多和田葉子が候補に挙がっていたり、言葉の鋭さの指標になっている(詩の賞だから当然だけど)。

『適切な世界の適切ならざる私』の文月悠光も好きな詩人だけれど、今回はより“剥きだし”な三角さんを取り上げようと思う。

 

恋人は

駅のホームの内側を歩けない

少しずつ

線路内に吸い寄せられる

私は

たった一カケラのチョコレイトを

食べただけで死にたくなる

どうしようもないから荷物を

一緒に背負って

なるべく人ゴミを避けて歩く

私達を基準とするならば

皆かわいそうに不幸なのだ

血が必要だ

溺れてしまう程の

たくさんの血が必要なのだ

眠ったままの恋人の

顔を見ながら

詩を書いている

私達はきっと幸福なのだろう

 

「私達はきっと幸福なのだろう」『オウバアキル』より

 

 

三角さんの詩は剥きだしだ。散文詩のような長さもなければ、いわゆる現代詩のような難解さもない。

音楽にしても、芸術にしても、頭に「現代」とつくだけで途端にこちらからの主体的な読みかけ、知術が必要になってくる。もちろん、それはそれで面白いけれど、たまには感じるもの、精神に直接響いてくるものにも触れたくなる。

そんなときに、三角さんの詩は鋭くこころを切り裂く。

それこそ金子光晴中原中也のような感覚だ。

言葉が痛いという感覚は、きっと一行の短さ、言葉の連なりの平易さ、続出する「」「包丁」「錠剤」「」「」というメンヘラ語に由来する。

 

真っ白で白い

恋人の左腕に

細い二本の傷

生々しい赤の線

なんてことだ

わたし、

間違ってあなたの腕を切ったのだ

「プレゼント」『カナシヤル』より

 

三角さんの剥きだしの言葉には、人を傷つける危険すらある。

世界はぶよぶよとしていて、圧倒的で、無意識で、でっぷりとしていて、傷つくことはない。

だから、その世界に傷をつけようとしても、結局傷つくのはそこに含まれてしまっている自分(そしてあなた)だけなのだ。

 

誰も少女を殺せなかった

故、皆が少女を殺したのだ

マッチ売りの少女、その後」『錯覚しなければ』より

 

だから

わたしは愛するひとと

寝なくてはならない

いますぐに

ぐちゃぐちゃにならなくては

いけない。でないと

わたしが

見失う

「深夜バス」『カナシヤル』より

 

漢字の方がかくかくしていて、人を傷つけそうだけれど、三角さんの詩にはひらがなが多い。彼女の世界はひらがなのように曲線的で、まとわりつくような質感を持っている。逃げ場のないぶよぶよ感がそこにはある。

また、同じ語彙を繰り返したり、フレーズを繰り返したり、音楽的な構成(Aメロ、Bメロというような)をした詩も多く、歌詞のようなものや語感のよいものもたくさんある。

 

 

天井を

仰ぎみる際の

暮れつづく日と

ひとと

ひと

 

しとしとと

降る雨と降らぬ雨の

幾ばくかの度合いはかる

まちがいさがし」『はこいり』より

 

 

こんなんだね、わたしたちいつもこんなんだね、すれ違って、泣いて、叩いて、笑って、怒って、出て行って、抱き合って、いつもこんなんだね、でもわたしはこれらの現状が好きすぎて死にたくなるし、殺したくなる

死にたい殺したい死にたい殺したい死にたい消えてなくなりたい!

「ひかりの先」『錯覚しなければ』より

 

 

一見すると辛さだけがにじみ出てくる詩群だけれど、三角さんのみている世界は絶望だけの世界ではない。

三角さんの詩において、母と子との関係の修復を=母なるもの=世界との和解とまで読むのはやりすぎかもしれないが、三角さんは徐々に幸福を見出していく。母=世界に受け入れられていないと感じながらも、自分が母になっていく怯えを感じつつ、変わらない世界から、かなしみとは異なったコードを見出していく。

 

解説で管啓次郎も述べていたように、詩集『終焉』において具体的な地名が出てきたことは、こうした変化を象徴しているように思える。

具体的な物事を観察できるというのは、世界との距離感がはかりなおされたということだ。メンヘラは抽象的な認識をしがちなのである。 

 

野口あや子がMISUMIMIZUKIは呪文だ、と述べていた。これは本名で、ハナミズキが由来らしい。それだけではない。MIZUKIの中には「傷」がある。傷を背負って、目に見えない血を流しながら、どうしようもない世界に包まれる。

それは僕たちもじゃないか。三角みず紀は僕たちの代弁者なのではないか。

 

メンヘラは蔑称ではない。

飽和したスポンジは、その内容する水分を、恵みの雨として降らせることもできる。

世界に対する感受性の強さは、人を癒し、世界を革命できる武器でもあるのだ。

 

 

詩ノ黙礼

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乳と卵(らん) (文春文庫)

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適切な世界の適切ならざる私

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金子光晴詩集 (岩波文庫)

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中原中也詩集 (新潮文庫)

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