君の名は。〜記憶と糸〜
「君の名は。」を見てきました。
- 作者: 新海誠,東宝,コミックス・ウェーブ・フィルム,角川書店
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川書店
- 発売日: 2016/08/27
- メディア: 単行本
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いろいろなことを思ったので、とりあえず覚えている限りで感想のような考察のようなものを書きなぐってみたいと思います。ぼくは映画については門外漢なので、手法云々は他の人に任せておいて、さしあたり内容やメッセージについて書きます。
ネタバレしていますので、まだ見ていない方はよろしくお願いします。
1、記憶の文学
少し話はそれますが、ぼくは「記憶の文学」という系譜があると思っています。
昔、記事でもちょっとだけ書いたのですが
記憶していること、あるいは追憶することが死者の鎮魂、すなわち祈りとなり、精神的な結びつきが行われる、という主題のもとに書かれた作品群をぼくは「記憶の文学」と呼んでいます。
ここでは覚えている、思い出すということが、生きている人間が死者と交信する唯一の手段といえます。
具体的な例を挙げるとすれば、井上ひさし『父と暮らせば』、小川洋子の諸作品、村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』、舞城王太郎『短篇五芒星』、いとうせいこう『想像ラジオ』などです。
そしてこれらの物語は、主に災害の死者の魂との交歓を描いています。それは例えば戦争であったり、震災であったりします。
はじめにいってしまえば、ぼくはこの「君の名は。」もこうした記憶の文学の一つだと考えました。
そのことについて、もう少し話してみたいと思います。
2、糸と結び
この映画には、呪術的な要素がたくさん出てきます。岐阜県の民俗はとりあえずわきに置いて例をあげれば、三葉の巫女としての振る舞いをはじめとしたより紐、口噛み酒、お参りなどです。
特に「糸と結び」についてはこの物語の主題と、文字通り絡んでくる部分となってきます。
基本的に三葉は、糸を紡ぐ者として描かれています。物語に即していえば、関係を結ぶ者であるともいえます。
「糸と結び」のテーマは、瀧と三葉をつなぐことになる三年前の紐やより紐などわかりやすいもの以外にも隠れています。
冒頭、瀧と入れ替わった時に、アルバイト先で先輩の服が切られ、それを三葉が繕うというシーンがありました。あそこは象徴的な部分で、そのことをきっかけに瀧(三葉)と奥寺先輩の距離感は近づいていきます。三葉が関係を紡いだのです。
また、三葉は髪の毛を三つ編みにしていますが、瀧が三葉に入っている時は、髪はボサボサのまま登校していたとのことでした(もっとも、瀧も入れ替わりを重ねるごとに、髪を結ぶようになって「結ぶ者」としてのスキルを上昇させていきます)。
途中、彼女が断髪する場面がありますが、そこで一時瀧と三葉は入れ替わりが起こらなくなります。これは失恋であり、関係の切断であるともいえます。
つまり、髪を結べなくなることが、関係を結べなくなることに直結しているため、この描写も「糸と結び」という主題の象徴であるといえます。
物語の中には、教師が万葉集の歌を教えているシーンがありました。以下の歌です。
誰そ彼とわれをな問ひそながつきの露に濡れつつ君待つわれそ
意味としては、「あなたは誰、と私に問わないでください。9月の露に濡れながら、あなたのことをお慕いしている私なのですから」くらいになります。
もちろん、この和歌は今後の展開の暗示になっています。先に述べておけば、タイトルでもある「君の名は。」という、名前を問う行為、名前を知られるということは、魂の交歓であり、婚意とも結びついてきます。
ところで、万葉集には糸と結びの歌が存在しています。
ふたりして結びし紐をひとりして我れは解きみじただに逢ふまでは
意味合いとしては、「また会う日まで紐をひとりで解かないでください」ということなのですが、当時から紐を結ぶという行為は、愛を誓い合うということを意味しています。
そもそも「結ぶ」という言葉自体が、「苔むす」の「むす」や「産(む)す」のように、生命の誕生、契りを意味するような言葉が語源となっています。「虫」「蒸す」も、その熱量から生命のうねりを感じさせる同語源です。
同じものを体内に入れるという「共食」という概念である口噛み酒をしたり、あの世とこの世を往還したりする呪術的イコンをもつ三葉は、同じく呪術的な意味で「結ぶ者」としての役割をもになっています。
先ほども述べたとおり、そうした「結ぶ者」としての役割を、三葉は髪の毛を切るという象徴的行為によって放棄します。
そこで新たに「結ぶ者」としての役割をになうのが瀧なのです。
では一体、瀧はどんな糸を紡いだのでしょうか。
それは、「記憶の糸」です。
記憶の糸をたぐり寄せて紡ぐことによって、三葉と瀧はまた結ばれることとなるのでした。
ちなみに二人があの世とされている場所で出会うのは、イザナギとイザナミの物語を下敷きにしていると思われます。あの場面はあくまで、死の世界における出会いなのです。
3、物語の構成
ここで少し話をそらして、物語の構造についてちょっとだけ考えてみたいと思います。大きく分けて二つのトピック、「父殺し」と「村上春樹」です。
後者については、根幹と関わってくる部分なので、まずは本筋とはあまり関係ない「父殺し」について書きます。
物語の類型として、「父殺し」の物語というのがあります。簡単にいえば、少年や少女が父親を擬似的に、あるいは実際に「殺す/超える」ことによって成長を表現するという方法です。
この「君の名は。」も少し変則的な父殺しの物語でした。
終盤、三葉の祖母や父親が入れ替わりを経験していたことをほのめかす描写が出てきます。そのうち、父親については妻を失っています。もちろん、父親にも瀧や三葉のような物語があったかどうかはわかりません。
しかし、三葉の父親と瀧の関係はどうやら鏡写しになっているということはわかります。
さらに、父親は町の権威であり、呪術的行為(神社をつぐこと)を諦めた存在でもあります。
そんな彼を二人して説得し、大団円を迎えるという仕掛けは、父親の物語を塗り替えることとなり、結果「父殺し」の物語として機能することとなります。
もう一つ、「村上春樹」についてですが、昔から新海誠監督と村上春樹の影響については各所で述べられていました。
まず構造についてですが、村上春樹は『海辺のカフカ』『1Q84』などの作品で、二つの世界を同時進行させる手法を取っています(例えばフォークナーの『野生の棕櫚』などもありますが、ここでは村上春樹の手法としておきます)。
「君の名は。」も二人の世界が同時進行的に語られます。
次に内容についてですが、先ほども述べたように、村上春樹は「記憶の文学」の書き手としてぼくは認識しており、特に震災についての祈り方を『神の子どもたちはみな踊る』で描いています。
ここでの震災とは、1995年の阪神・淡路大震災です。この年は加えて地下鉄サリン事件が起きた年でもあり、村上文学においても一つのターニングポイントとなっています。
村上文学において「も」といったのは、大きな枠組みとしてもこの年は一つの転換点であり、同じく村上春樹を下敷きにすえるアニメ『輪るピングドラム』などでも、象徴的に扱われています。
実は「君の名は。」にもこの1995という年代が登場していました。終盤、部室に飾られている額に、一瞬だけですがこの年が書かれているのが思わず目に止まりました。これは確実に意図して書かれていると思います。
震災の記号1995、村上春樹、彗星が衝突して町が一つ消し飛ぶという自然災害。
ここから導きだされるのは、「東日本大震災」です。
つまり、この「君の名は。」は単なるボーイ・ミーツ・ガールSFとしての側面以外に、ポスト震災を生きるものの祈りが、記憶するという祈り方が描かれているのではないかと、いうことになります。
4、なぜ二人は出会ったのか
今までの新海作品では、二人は出会えないままということもありえたでしょう。しかし、この作品では、瀧と三葉は時を越えて再会を果たします。それはなぜかといえば、主題が記憶による死者との対話だからです。
はじめに述べたように、生者が死者と交歓するためには、死者を思い出すこと、記憶すること、忘れないことが必要です。
瀧は一度となく三葉のことを忘却します。三葉は三年前に自然災害によって死んだ人間です。彼女のことを忘れてしまっては、当然出会うことはできませんし対話もできません。
しかし、瀧は彼女を思い出します。
忘却しないこと、記憶することが死者との対話となるということを語る「記憶の文学」の性質上、二人はどうしても会わなくてはいけないのです。
もちろん、それは二人による「結び」の効能でもあります。
「記憶の糸」によって結ばれた二人が出会わなければ、「記憶の文学」としてのメッセージが霞んでしまうのです。
二人の物語であると同時に、この物語は死者(特に震災被害者)のことを忘却することなかれという意味合いも込められています。記憶によって結ばれることで、生きているものは死んでいるものと出会うことができるのです。
そうした大枠での「記憶の文学」と「SFボーイ・ミーツ・ガール」が二重構造として立ち現れてくるのが、この「君の名は。」の最も面白く、そして切実なところなのではないか、とぼくは思います。
表層的に見てもこの映画はウケる映画です。これだけの興行収入をあげているのがその証拠です(実際見に行った時もレイトにもかかわらず満席でした)。
そうしたエンタメ的な面白さに、ポスト震災/記憶の文学の主題をかなり純粋化した形で練りこんでいる「君の名は。」は、とても巧妙だと言えるのではないかと思います。
くどくどと述べてきましたが、細かい部分で覚えていない部分があったりするので、また小説を買って読みなおしたり、映画館に足を運んでもう一度見てみたいと思います。
何はともあれ、めっちゃ面白かったというのが一番の感想です。
RADWIMPSもはまっていたと思います。ぼくも来世はイケメン男子に生まれ変わりたい。