『群像70周年記念号』全作レビュー1~岬にての物語~
群像の創刊70周年記念ということで、分厚い(800ページ超!)の群像が発売されました。
ここにはなんと54の短編が掲載されていて、時代も三島由紀夫から藤野可織まで、広い範囲から採られています。
こうやって近代から現代のまでの文学を語れる機会があまりなかったので、今回、この群像の掲載作品の全作を思い出話半分にレビューしてみたいと思います。
読んだことのある作家、ない作家いろいろいるけれど、備忘録としていろいろ書き散らします。
その第一回となるのが、三島由紀夫の「岬にての物語」です。
群像の冒頭は三島由紀夫に続いて太宰治の作品が収録されており、思わずニヤリとしてしまいました。
ぼくは大学では文学部に進んだのですが、初めに巻き起こった論争が「村上春樹は好きかどうか」「夏目漱石の作品の中で好きなものはどれか」、そして「三島由紀夫と太宰治のどちら派か」というものでした。
この二人の論争(というか、三島由紀夫からの一方的な論争)は、文壇におけるビーフとしてかなり有名なものの一つ。
『不道徳教育講座』ではわざわざ一章を割いて、太宰への思いのたけをぶつけています。おそらく根本が似たもの同士の二人ですので、弱い自分を着飾った三島は、弱い自分のままでいた太宰に対して思うところがあったのではないか、と邪推してしまいます。
三島由紀夫の文章の特徴として、修飾的で華美である、というものがあります。
この「岬にての物語」は房総半島の鷺浦と呼ばれる岬で、幼少期の「私」が直面した出来事について書かれた物語です。
その岬の描写は例えばこのようなもの。
永劫の弥撒を歌いつづけている波濤の響
勢い立った夏草の茂みは、そこに咲く鬼百合の虹のような毒気と共に、
憂愁のこもった典雅な風光
オルガンの音はそこから物織る糸のように忍び出で、野の花々(鬼百合も)に蜘蛛や蜜蜂や黄金虫が死んだように身を休め、しばし凪に楡の樹の梢も鳴らさぬ午後の謐けさすべてが金色のままに翳なくそれがそのまま真夜中を思わせるような夏の午後の謐けさを、そのオルガンの音楽はさまざまな縫取りで重たくするかのようであった。
花々は虔ましい祈禱のために打ち集うていたのだと思われた。
ぼくはどうにも、この三島由紀夫のうるさい修飾がはじめのうちは好きになれなかったのですが、いろいろ読んでいくうちに、だんだん読めるようになっていきました。
「弥撒(ミサ)」「鬼百合」「毒気」「憂愁」「死」「祈禱」の言葉によって、この岬はどこかゴシックで宗教的で荘厳な印象を与えられています。
「私」は水泳の練習のために来た岬で、書生のオコタンや母親の目を盗んで岬を探検しにでかけます。
すると、たどり着いた廃屋からオルガンの音が聞こえてきます。さきほど引用した部分の「オルガンの音」がそうです。
そのオルガンを弾いていたのは20歳に満たない美しい少女。「私」は少女と、それからその廃屋にやってきた少女の知り合いである青年と、岬の先まで散歩にでかけます。
そこではみんなでかくれんぼをし、鬼になった少年は、背後から「高貴な鳥の呼び声」に似た「荘厳な美しい声」の「悲鳴に似た短い叫び」を聞きます。
「私」は二人を探しますが見つかりません。
はっきりと書かれてはいませんが、おそらく二人は心中したのではないのかと思います。
「私」はこの出来事を「一つの真実」として、激しく記憶しました。
ところで三島由紀夫には「英霊の聲」と「月澹荘綺譚」という海に関係した怪談があるのですが、どうにも三島由紀夫にとって海と死というのは深く結びついているのではないか、というような気がします。
山とちがって海から私は永く惹かれて求めえなかったものの源を、見出したように感じた。
「岬にての物語」の中にもこうありますが、三島由紀夫は「海系」神秘主義者じゃないのか、と思います(ちなみに「山系」は泉鏡花だったり仏教徒だったりします)。
「永く惹かれて求めえなかったもの」とは何かということは、はっきりとはいえませんが、手に入れることのできない神秘的なもの=心惹かれる抽象(そしておそらくそれは頽廃的で悪魔的なもの)のことを指しているのだと思います。
海は「産み」に通じ、母なるものとも称されますので、海にそうした「生と死」の神秘を見出していてもおかしくはありません。
人間が音楽を頼りに「奥」へ進み、隠された怪しげなもの神秘的なものに会うという形は、例えば日本の古典作品によくあるパターンです。
例えば『松浦宮物語』では、氏忠が琴の音を頼りに秋草の中をさまよいながら進んでいった結果、華陽公主との恋愛へと物語は発展していきました。
この形は谷崎潤一郎も踏襲していて、「少年」の中ではピアノの音を効果的に使っています。
聖書でも、終末にはラッパが鳴り響くという風に書かれていることですし、和洋問わず神秘的なもの、隠されたものとの邂逅には音楽がつきものなのだと思います。
三島の場合、オルガンは文章中の「弥撒(ミサ)」「祈禱」などの語にも響き合って、バロックな宗教的雰囲気を作り上げています。
彼等は、私にからまっているキラキラした蜘蛛の糸を無理強いにとり去ったけれど、蜘蛛の網とみえたのは実はかげろうのそれのような脆美な私の翼であった。
人の死とは、頽廃的で悪魔的なものは正常な人間にとっては「蜘蛛の糸」ですが、三島由紀夫にとっては「翼」であって「一つの真実」なのです。
三島由紀夫という人間がどういう人間なのかがわかる短編なのではないかと思います。
こういう少しホラー感のある作品、好きです。