『群像70周年記念号』全作レビュー2~トカトントン~

全作レビュー第二回は、太宰治トカトントン」です。

 

群像 2016年 10月号 [雑誌]

群像 2016年 10月号 [雑誌]

 

 

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

 

 

この太宰治についてはいろいろなところでいっているのですが、間違いなくぼくの現在を形作った作家です。形作ったというと、語弊があるかもしれません。ぼくの本質(のようなもにょもにょ)に、名前を与えてくれた作家、といった方がまだ近いのかもしれません。

 

あまり思い出話もよくないとは思いますが、ぼくが手紙から対談、学生時代の作文、はては作品の論文、批評、近親者の回想文にいたるまで文章になっているものをほとんど読みつくした作家は、この太宰治のほかには誰もいません。

一時期、ぼくは自分のことを太宰治だと思っていたし、太宰治はぼくのことを書いていると本気で思っていました。

TwitterのIDは太宰だったし、卒業論文は『右大臣実朝』に感化されて『金槐和歌集』だった(太宰の小説にしなかったのは近づきすぎて嫌いになるのが怖かったから)し、三鷹に行って太宰が身に着けたマントをつけさせてもらったり、まるでアイドルか何かのように心酔していました。

以前ほどではありませんが、今でも、太宰治はぼくのことを書いていると思っています。

 

惜別 (新潮文庫)

惜別 (新潮文庫)

 

 

金槐和歌集  新潮日本古典集成 第44回

金槐和歌集 新潮日本古典集成 第44回

 

 

ぼくは太宰治の小説の特徴を三つのワードで表現すれば、「憑依」「倍音」「語り」だと思っています。

 

まずは倍音についてですが、これはぼくが作った言葉ではなくて、内田樹さんが使った言葉です。

 

書いている作家のなかに、複数の人格が同時的に存在していて、彼らが同時に語っている。

 

その故に、

 

そこに自分だけに宛てられたメッセージを受信することになる。

 

そうした文体のことを、「倍音」的な文体であると、内田さんは語っています。

 

 

さきほども言った通り、ぼくは太宰治の文章を読んで、ぼくのことを書いていると大真面目に錯覚しました。けれど、太宰治の読者は日本中にたくさんいるわけで、ぼくと同じような感覚をもった人間がたくさんいるからこそ、桜桃忌には老若男女問わず多くの人が三鷹に集結するわけです。

太宰治の中にいるいくつもの人格が、同時に語りかけている。だからその中に自分に宛てられたメッセージを積極的に読み取る。太宰治の音楽にぼくたちは共振するというわけです。

 

それに関係して、太宰治の異様なまでの「憑依」能力についても、考えなくてはいけません。

憑依という言葉が少し遠く感じるならば、換骨奪胎の異常なまでの巧みさと言い換えてもよいのですが、とにかく太宰治はあらゆる作品を自分のものにしてしまいます。

よく太宰治は女性の一人称が得意である、というような評論がありますがそうではありません。

太宰治は誰にでもなることができるのです。

太宰治の作品といえば真っ先に名前が挙がるであろう「走れメロス」ではシラーに、「斜陽」では太田静子に、「右大臣実朝」では実朝や公暁に、「駆け込み訴え」ではユダやキリストに、「新ハムレット」ではシェークスピアに、「新釈諸国噺」では井原西鶴に……。

古今東西を問わずに、太宰治は憑依し続けます。

どれもこれも間違いなく太宰治の作品になっています。どうして太宰治は、こんなにも誰にでもなれるのでしょう。

太宰はエッセイ「如是我聞」の中でこんなことを述べています。

 

文学に於て、最も大事なものは、「心づくし」というものである。

 

「心づくし」とは何か。「正義と微笑」の中のこの言葉が、それを端的に説明しているのではないかと思います。

 

誰か僕の墓碑に、次のような一句をきざんでくれる人はないか。「かれは、人を喜ぶのが、何よりも好きであった!」僕の、生まれたときからの宿命である。

 

人を喜ばせるために、趣向を凝らして小説を書く。本当の自己はひた隠しにして、道化を演じ、人を楽しませる。そうした態度が太宰治の憑依的な才能を開花させたのではないでしょうか。

しかし、そうやって道化を演じる自分に、ある不安に似たものを太宰治は感じていたのではないか、とも思います。「葉」の中に、次のような断片があります。

 

白状し給え。え? 誰の真似なの?

 

人の為と書いて、偽と読みます。自分を隠して、利他に徹する。誰にでもなれるゆえに、本当の自分が行方不明になる。

ポルトガルの詩人ペソアの綴る言葉に、太宰治の苦悩が書かれているような気がしてなりません。

 

いまの私は、まちがった私で、なるべき私にならなかったのだ。

まとった衣装がまちがっていたのだ。

別人とまちがわれたのに、否定しなかったので、自分を見失ったのだ。

後になって仮面をはずそうとしたが、そのときにはもう顔にはりついていた。

 

私はと言えば、ほんとうの私はと言えば、それらすべての中心である。実在しない中心、思念の幾何学によってのみ存在する中心である。周囲にこれらのものが回転するこの虚無が私なのだ。

 

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

 

 

何人もの自分を持つことができる、ゆえに倍音の文章を書くことができる。しかし、その裏に果てしない苦悩が隠れているのではないかと思います。

さらにこの倍音をはっきりとしたものにしているのが、「語り」の文体。

太宰治は、紙面から「こちら」に向けて語り掛けてくるような言葉遣いで文章を綴ります。

語られるようなリズム、まるでキャッチコピーのように歯切れのよい言葉に、ぼくたちははっとします。太宰治のどの小説でもいいので手に取ってみて、どのページでもよいので開いてみると、不思議なことに印象的な一文が必ず見つかるのです。

昔、本の枕フェア、という小説を隠して冒頭の一文だけでその小説を購入するかどうかを決めるというイベントが書店で行われていましたが、太宰治の小説でこれを行ったら、どれを買おうか迷って結局選ぶことができないのではないかと思います。

太宰治の言葉集、といった類のものが出ていることからもわかるように、太宰治の言葉は内容以前に言葉として、繊細にぼくたちの心をとらえます。

 

トカトントン」の話をします。

この小説は、

 

拝啓。

一つだけ教えて下さい。困っているのです。

 

と、小説家に宛てた手紙という形式で話が進んでいきます。

困っていることとは何か。それは何かに熱中しようとするたびに聞こえてくるトカトントン」の音です。

 

何か物事に感激し、奮い立とうとすると、どこからとも無く、幽かに、トカトントンとあの金槌の音が聞えて来て、とたんに私はきょろりとなり、眼前の風景がまるでもう一変してしまって、映写がふっと中絶してあとにはただ純白のスクリンだけが残り、それをまじまじと眺めているような、何ともはかない、ばからしい気持になるのです。

 

あのトカトントンの幻聴は、虚無をさえ打ちこわしてしまうのです。

 

この音は、芸術に打ち込もうとしたとき、「労働は神聖なり」といって労働に打ち込もうとするとき、恋愛をしようとするとき、デモや政治活動に興味を抱いたとき、果ては、

 

晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン

 

と四六時中何をするにも、この無力の鐘が鳴り響くことになります。

これはとても卑近な例ですが、ぼくもこういう風になってしまうことがよくあります。一念発起して何かをやろうとする瞬間に、唐突にやるきがなくなってしまうこと。スケジュールを立ててはやるきがなくなってしまうこと。生きているのがしんどくなって、でもそのしんどいということにさえやるきがなくなってしまうこと。

太宰治の発する声に、ぼくは共振してしまいました。

理想に立ち向かおうとして、急に現実に足元をすくわれる(作中の恋愛をしようとした瞬間に、急に背後の犬の糞が気になってしまうというように)といったらよいのか、世界に対する圧倒的な無力感に苛まれるといったらよいのか、そういう恐ろしいしらけ、まるで躁から鬱へのフリーフォールが、太宰の語りによって描かれています。

 

もちろん1947年の作品ということもあり、このしらけの背後には戦争というものがあると思います。しかし、このしらけの感覚は、すでに普遍性を得て、現代のぼくたちに(少なくともぼくには)訴えかけてきます。

 

さらにこの小説の一番苦しいところは、手紙を送られた小説家による返信。

 

気取った苦悩ですね。

 

とばっさりです。

悩んでいる青年も、返信する小説家ももちろん太宰治です。つまり、この小説は自問自答であって、そのしらけに対して太宰は極めてニヒルな解答を自分で用意しています。

苦しみは自己解決しているのです。しかし、解答をえると同時に、決してトカトントンの苦しみは消え去っていません。

堂々巡りなのです。答えはわかっているけれど、どうしようもないのです。この無限回郎の構造こそが、最もつらいところです。

 

悩みに対して、分裂した自己が常に行動を監視するという状況。悩んでいるのも自分だし、監視しているのも自分なので、どちらのいうことも自分にとっては真実であるという状況。二律背反が一つの体に共存しているという状況。

太宰治倍音が引き裂かれ、一対一のものとして対峙したのが、この「トカトントン」なのではないかと思います。

 

話と関係ないところでも、太宰の語りはさえわたっていて、内向的な人間にとってはとても共感してしまうような言葉はたくさんありました。

 

日ましに自分がくだらないものになって行くような気がして、実に困っているのです。

 

恋をはじめると、とても音楽が身にしみて来ますね。

 

途中、自分の両手の指の爪がのびているのを発見して、それがなぜだか、実に泣きたいくらい気になったのを、いまでも覚えています。

 

ぼくの自意識を、太宰はわかるわかると頷いてくれます。

太宰治と、馬鹿げていやがるなんて言いながら、お酒を酌み交わしてみたかった。