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『群像70周年記念号』全作レビュー3~鎮魂歌~

 

意気揚々とはじめた『群像』全作レビューだけれど、早々に手が止まってしまいました。

群像 2016年 10月号 [雑誌]

群像 2016年 10月号 [雑誌]

 

 

三つ目に掲載されていた、原民喜の「鎮魂歌」。この作品の咀嚼にとても時間がかかってしまったからです。

結論から言えば、これは小説ではなくて、詩でもなくて、慟哭であって、生の叫びであって、祈りです。

 

原民喜戦後全小説 (講談社文芸文庫)

原民喜戦後全小説 (講談社文芸文庫)

 

 

学校の教科書に載っていた作品で、印象に残っている作品はなにか。そう聞かれたら、何と答えますか?『羅生門』だったり、『舞姫』だったり、『こころ』だったり、いろいろな答えがあると思います。

もちろんぼくも、そうした作品が頭の大部分を占めているのですが、その片隅に黴のようにこびりついている文があります。

 

コレガ コレガ人間ナノデス

人間ノ顔ナノデス

 

原民喜の戦争詩なのですが、この悪夢のようなイメージが頭にはりついてしかたがなかった。

正直いって、ぼくは戦争文学といわれるものがあまり好きではありません。それは、まったく政治的意図はなしに、どう転んでも悲しいきもちになるからです。戦争の悲惨さ、戦争の悪辣さ、これは実際に戦争を経験していない世代には、「本当」にはわからないのだと思います。

大学生のとき、広島の原爆資料館で「原爆の絵」という本があったので読んでみました。そこには「子どもを守るような形で焼死した親子の絵」が、何人もの証言で、同じ構図で描かれていました。

 

 

ぼくは椅子に座ったまま動けなくなりました。まぎれもない事実に、かなしさといえばいいのか、嫌悪といえばいいのか、ぼくの心はまったくどす黒い感情に支配されてしまっていたのです。

つまり、共感はできるのです。

戦争を扱った小説は学校でも教わりました。「ちいちゃんのかげおくり」「おとなになれなかった弟たちに……」。怖いのもわかるし、かなしいのもわかる、理不尽なのもわかる。けれど、それはぼくにとっては「おとぎ話」なのです。

あくまで疑似体験であって、想像力の世界の話なのです。経験していない以上、たぶんこれは仕方のないことなのだと思います。こうの史代の『夕凪の街 桜の国』に衝撃をうけたけれど、それで戦争について本当に理解したかと問われれば、いいえとしか言うことができません。

 

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

 

 

したがって、ぼくが戦争文学に対してとれるスタンスは、直情的な感想を除けば、それにいかなる技法が用いられ、どういった効果を発揮しているのか、すなわち文学的な位相にとどまらざるをえません。

「かなしい話だね」というだけではとどまらない、戦争への想像上の悪意をぼくはもっています。しかし、それは食べたことも作ったこともないスイーツについてあれこれ語るパティシエのようなもので、どうしても嘘に思えてしまうのです。

もちろん、それでも語り継がれなくてはいけない、語り継ぐべきだという意見もあるでしょう。ぼくとしては「そちら」寄りの沈黙、という手段を選ばざるを得ません。

 

「鎮魂歌」の話に戻ります。

これは小説ではありません。悪夢の反復であって、死者の声の再生であって、咆哮であって、祈りです。

鎮魂の文学については、ここ

 

kamisino.hatenablog.com

 

ここ

kamisino.hatenablog.com

で語っているので繰り返しになるのですが、この文章は、そうした「鎮魂の文学」が極めて純粋化したものです。純度100%の鎮魂歌です。

 

揺れかえった後の、また揺れかえりの、ふらふらの、今もふらふらと揺れかえる、この空間は僕にとって何だったのか。めらめらと燃え上がり、燃え畢った後の、また燃えなおしの、めらめらの今も僕を追ってくる、この執拗な焔は僕にとって何だったのか。

 

僕はここにいる。僕はあちら側にはいない。ここにいる。ここにいる。ここにいる。ここにいるのだ。ここにいるのが僕だ。

 

ほんの一部ですが、この文章にはリフレインが多用されています。生き残ってしまったものの強迫観念が、ノイローゼが強烈に再現されています。

 

自分の立っている位置さえ曖昧になるのは、彼が歩いているのが死者の街だからです。もちろんそこは、生きている人が歩き、生活する場所です。しかし、彼には

 

人間の声の何ごともない音色のなかにも、ふと断末魔の音色がきこえた。

 

「生き残り、生き残り」と人々は僕のことを罵った。

 

といった具合に、彼のいる場所、すなわち生者の世界に居場所のなさを感じます。どんどん、死者の側に引きずられていきます。そうして彼は、死んだ者たちの声を聞きます。死者たちが、彼に憑依します。彼はますます、「こちら側」に存在してしまっていることに苛まれます。

 

救いはない、救いはない

 

と考えながら、彼は生者でありながら、死者の街を放浪します。

原民喜は、被爆者です。破壊された広島の街を歩き、死者の上を歩いたはずです。「人間の顔」なのかどうかもわからなくなったものを、視界いっぱいに受け取ったはずです。これは物語ではなく、現実なのです。悲しませるため作ったお話ではなく、むき出しの叫びなのです。

ぼくはそれを想像することしかできません。

バイバーズ・ギルト、と一言で言ってしまえばそうなのかもしれませんが、この原民喜の慟哭としかいえない文章は、想像すらも拒絶するようなエネルギーに満ちています。理解することはできません。

本当は、こんな感想をかくのもためらったほどだったのですが、このなんともしがたいきもちを、それでも文章にしておこうと思ったので、愚にもならないことを綴ってしまいました。

 

嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失った僕をつらぬけ。突き放された世界の僕をつらぬけ。

 

繰り返されるこの叫びだけが、それだけが、生きているものにできる唯一の祈りであって、鎮魂なのだと思います。

原民喜の咆哮する遥か彼方の背中を見ながら、そっと感じ入ることしかできないのが、この文章なのではないかと思います。

 

原民喜は、のちに鉄道自殺をします。