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『群像70周年記念号』全作レビュー5~悪い仲間~

群像レビュー

太宰治から始まった群像全作レビューも、ついに安岡章太郎まできました。

 

群像 2016年 10月号 [雑誌]

群像 2016年 10月号 [雑誌]

 

 

安岡章太郎といえば、1953年~55年にデビューした作家たちを指して言う「第三の新人」のひとりとして知られている作家です。

この「第三の新人」の特徴は、なんといっても「新しさ」です。それまでのいわゆる文学的なテーマや文章とは一線を画した、現代まで連なるモダンさがそこにはあります。

やや長い引用のうえ孫引きになりますが、批評家の服部達はこのように述べています(太字は引用者によります)。

 

同じ三十代でも、いわば優等生に属する連中は、何かをさっさと信じ込むことによって、いちはやく作家として出発した。(中略)残された連中は、いったいどうしたらいいのか。――彼らは逆手を使う以外になかった。外部の世界も、高遠かつ絶対なる思想も、おのれのうちの気分の高揚も信じないこと。おのれが優等生でなく、おのれの自我が平凡であり卑小であることを認めること。しかも、大方の私小説作家のように、深刻ぶった思いつめた顔つきをしないこと。こうした逆手を、一番最初に発見し、それによって(中略)いわば「第三の新人」の原形となった作家は、安岡章太郎だった。

「劣等生・小不具者・そして市民」

 

のちに安岡章太郎はこの「逆手」という部分に対して疑問を呈しますが、ともかく「第三の新人」とはこの小市民的な感覚によって、文学に新しさを獲得します。

 

大久保房男によれば、「山本五十六みたいな大将ではなく、ダメな兵卒を書き、聖母マリアではなく娼婦を書く」のが第三の新人

wikiより

 

というわけです。

この延長線上に石原慎太郎であったり、大江健三郎が出てくるということになります。

 

ぼくは1953年に芥川賞を受賞したこの「悪い仲間」もよいのですが、「ガラスの靴」という短編がとても好きで、よく読み返しています。

比較もどうかと思いますが、まるで村上春樹が書いたかのような瑞々しさのある短編です。おすすめです。

 

ガラスの靴・悪い仲間 (講談社文芸文庫)

ガラスの靴・悪い仲間 (講談社文芸文庫)

 

 

さて「悪い仲間」ですが、ここに描かれているのは少年の成長です。不良の皮をかぶっていますが、それをとっぱらえば、そんじょそこらにいる少年の成長物語となんの変りもありません。このあたりがまさに「小市民的」なのだと思います。

 

中学生じみたニキビがひっこみはじめていた」年代の僕はひまつぶしで訪れたフランス語の講習会で、講師を口説こうとして赤恥をかく少年・藤井高麗彦と出会います。帰りの電車で彼と一緒になった「僕」は、藤井から「腐った玉ネギの臭い」を感じて忌避しますが、ひょんなことから彼の家へ遊びに行くこととなります。しかし、その約束を何とはなしに破ってしまった「僕」は藤井につめよられ、とっさに嘘をつきます。

 

不思議なことにその日から、あんなに物凄かった彼の臭気は一向感じられなくなった。

 

「腐った玉ネギの臭い」とは藤井の異質さ、特に負/悪の方向の象徴だと思いますが、嘘をついた「僕」はこの臭いを感じなくなります。すでに悪の世界へ仲間入りをしてしまっているわけです。

その後は一緒に食い逃げをしたり、覗きをしたりと悪さをするようになりますが、ある時「僕」は藤井との間に決定的な差を感じます。それは「童貞と非童貞」という差です。

 

彼は未知の国からやってきた人だった。

 

この歴然とした差異によって、藤井という人間は「僕」にとっての悪のロールモデルとなります。

すっかり彼に魅せられた「僕」は、友人の倉田も悪の世界へ誘います。藤井の真似をして、倉田に対して優位に立とうとします。もともと「僕」が藤井と仲良くなったのも、藤井の「クルト・ワイルってどういう人ですか?」という質問に得意になって答えた、というところがはじまりなので、「僕」は「知っている」ということによってマウントをとることに優越を感じる人間なのだと思います。

でも、これは何も特別なことではないと思います。

たとえばyoutubeのコメント欄なんかを見ていると、マウントをとろうとして必死になっている人がたくさんいるわけで、知っているということで誰かの上に立ちたいと思うのは、いかにも「小市民的」な心の動きであるといえます。

 

真似というのも、赤ちゃんは親の表情・行動を模倣することで成長するわけですし、ここで悪の道にしろ少し「大人」な人間を模倣する「僕」は、第二次性徴の兆しを見せているといってしまうこともできると思います。

煙草を吸っていたり、カラーギャングに入っていたりす同級生や先輩を、怖いと思いながらもすごいと思う感覚は、多くの人がもっているのではないかと思います(ぼくは男なのでわかりませんが、たぶん女性も化粧だとかそういうもので同年代の人間に憧れることはあるのだと思います)。

 

その後「河向う(風俗街?)」で落ち合った倉田と藤井に、「僕」は「仲間」という言葉を使います。文字通り大人となって、藤井と同じ場所にたったというわけです。

藤井は京都へ帰っていきますが、この距離が彼をどんどん悪のカリスマに仕立て上げていきます。欲望は他者の欲望を欲望する、というわけで、倉田と「僕」は藤井の真似に明け暮れます。

 

高麗彦と歩いた路を歩き、高麗彦と行った喫茶店に入り、そして馬跳び遊びのように代わり番に高麗彦になりあった。

 

まるで映画スターか何かのように、藤井に憧れる二人。ついには「家」という場所に居心地の悪さを感じるようになります。

まるっきり不良少年です。

しかし、終わりは唐突に訪れるもので、藤井は京都から「悪い病気に侵されたので郷里の朝鮮へ帰る」という旨の手紙を送ってよこします。

そこで「僕」は同じ結末をたどるのを良しとせず、方向転換を図ります。藤井や、藤井に感化されたままの倉田を「患者」とみなし、治療を施す医師のように振る舞うようになります。

 

イニシァティヴをとる快感から倉田に会うのをたのしみに、めずらしく第一時間目の授業に間に合うように登校した。

 

「悪」を通過点とみなし、今度は「善」の立場に立つことでマウントをとろうとします。これも断るまでもなく、ありがちな心象ということができます。

例えるなら中二病を否定する高二病です。

しかしながら倉田はなかなか姿を見せず、藤井と会っているということが判明し、「僕」は自分の行動を裏切りと感じるようになります。

 

そして知らない路を歩いた。もう何処へ行こうにも行きようがない。

 

藤井になりきって歩いていたころにはあった確かな筋道が、急に宙ぶらりんな状態になります。悪の道へも善の道へもたどり着けない、境界に立たされた「僕」。これを「モラトリアム」と名付けても問題ないと思います。

まとめれば、この小説は、やはりとある少年の成長物語に他ならないのだと思います。

 

……と、ここまで書いておいて、こういう作品ほど図書館に行っていろいろな資料にあたりたくなるのは国文学科卒の因業とでもいえばよいのでしょうか。

ここまでは表の解釈であって、もう一つ、裏側には戦争と日本国という表象がふよふよと浮いています。

 

シナ大陸での事変が日常生活の退屈な一と駒になろうとしているころ

 

から始まり、

 

……その年の冬から、また新しい国々との戦争が始まった。

 

で終わるこの物語には、明らかに日本という国の少なくとも短期的な歴史が、「僕」の成長と重ね合わされています。

そもそも悪のロールモデルこと藤井の名前は「高麗彦」で出身は朝鮮です。「高麗」とは朝鮮のことです。距離が対象への欲望を肥大させるということにおいては、日本と朝鮮の間には大変な距離があります。

残念ながらぼくは日本史に明るくないし、ぼくの家にあるせいぜい日本史の参考書程度では、満州事変から日中戦争にかけての国民感情や朝鮮との関係性は、ほんの薄くしか理解できません。

すぐ図書館に行くことができる大学にいる時代にこれを読みたかった、なんて本編とは全く関係ない感想を抱かせてくれる作品なのでした。