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同志社短歌3号感想

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朝起きて昨日の日記を書いてからまったく同じ生き方をする/あかみ「どうせそこそこの幸せ」

 

とりたてて斬新な表現があるわけじゃないし、むしろ直球の「あるあるネタ」といってもいいと思うのだけれど、「まったく」という強調の言葉が面白い。

時間帯的には今日の朝方に昨日の日記を書いているわけで、すなわち昨日と今日との橋となる部分、たがとなる部分で「まったく同じ」という呪いがかけられるわけだ。この強い言葉は、きっと無限に続く代わり映えのない日常を生み出す。

この終わらない日常が、「どうせそこそこの幸せ」という諦念的な連作のタイトルと響き合って、なんともいえないやるせなさを感じさせる。

 

 

共食いを許してこうしている間にも海に沈んでいく舟がある/虎瀬千虎「骨と桜桃」

 

虎瀬さんの短歌はどれもよいのだけれど、特に印象に残ったのがこれだった。

基本的に「こうして」というようなあいまいな言葉は使わないほうがいいと短歌では言われがちだけれど、この歌については「共食い」「海に沈む」の語から「こうして」の内容があぶり出しのように浮き上がってくるので、むしろ効果的だと思う。

端的にいえばそうとうにエロいことなのだけれど、言葉によるぼかしによってどこか幻想的な向きさえある。「船」ではなく「舟」なのも、中国の墨絵のような、ぽつねんとした孤独な釣り舟を想起させて、「共」という言葉と響き合ってくる。

 

 

香水をつけあう二人へだたりがふくらむだけのエレベーターで/田島千捺「へだたり」

 

田島さんは、同志社短歌の中でも異彩を放っていて、体温のない映画のような短歌が多い。

香水をつけあう二人のへだたりは横方向/X軸方向へ「ふくらむだけ」という言葉によって無限に広がっていく。しかしながら、舞台はエレベーター。そこは限定された空間である。心象的には無限とも思われる空間の膨張が、機械的なエレベーターによって強制的に限定されるというのは、皮肉的であり、ある種の抑止力にもなっているのかもしれない。

もちろんエレベーターは縦方向/Y軸方向へ動く物体であり、交わらない二人の距離が平行線のような図式になるところも面白さの一つである。

 

 

ネクタイを締めすぎている心地して四条河原町大交差点/森本直樹「ちいさな湖」

 

四条河原町大交差点。南東にはOIOIがあり、北東にはおいしいスイパラの入っているコトクロスがあり、北西にはいつでもコンタクトレンズのチラシを配っている眼鏡屋があり、南西には大丸のある、京都一の大交差点。

とはいえ、所詮は京都一程度だ。渋谷や新宿の交差点に比べたら、なんてことのないでかさだ。けれども、京都で生活し、京都で就職活動をしているものにとっては、あの交差点こそ天下の大交差点なのだ。下の句に「四条河原町大交差点」の漢字の連打を打ち込んだ地点でこの歌は勝ちなのである。

もちろん、その漢字の堅苦しさに加えて、あの交差点の人間の量を容易に想像できる人間にとっては絞め過ぎたネクタイの苦しさが共鳴する。

 

 

でも寂しい ゆるやかに終わる日々のさなかでまた傘を忘れてしまうのでしょう/北なづ菜「お祈りを終えたひとびとのこと」

 

ぼくにはわかる。こういう歌を歌会にもっていくと、たいていの場合「具体的でない」だの「抽象や言葉に溺れている」だの「よくわからない」だのいわれる。ぼくもそうだからだ。でも、それがゆえにぼくはこの歌が大好きだし、わかるといえる。

「でも」技法というのがぼくの中にあって、これはいわゆる「言いさし」の逆で57577という時間軸の「前」に想像の空白を置く技法だ。そう、世の中にはたくさん楽しい瞬間があって、実はきらきらしているんじゃないかと思うときも多い。「でも」寂しさに打ちのめされる刹那はあるのだ。特別なことは何もなくただ終わっていく世界の中で、何度も何度も傘を忘れてしまう。記憶は消失していってしまう。雨から自発的に自分を守る傘を忘れ、庇護される対象となり、自分で自分を守ることを忘れていく。

それが世界、きっとそれが正常な世界なのだ。

 

 

評論

ちょっとピントのずれた評論だったかなと思う。

2号を読んでいないから(読んでいないのにいうのもどうかと思うけれども)「叫び」の定義はわからないけれども、別に桐壺の更衣にかかわらず在原業平だって藤原道綱母だって源実朝だって「叫び」の歌を詠んでいる。

同志社短歌1号に書いた気もするけれど、ぼくはすべての歌は叫びに他ならないと思っているので、いまさら、というところもあったのかもしれない。

ホトトギスと夜、橘などの関係性について具体をあげているのはよいと思うけれど、『俊頼髄脳』他歌論書/論文にすでに嫌というほど取り上げられている題材でもあるので、何か新規性がほしかったかなというところ。

場から個へ、という歌史的な部分よりも、むしろ『古今集』と与謝野鉄幹の類似のあたりが面白かったので、その中継地点の凡例をたくさん調べたら面白いかと思う。

丸谷才一吉本隆明なんかの評論に触れてみたら、より深度が増すかも。