鯉は空を望む

 鯉の煮付けは甘辛く、長野県民好みの味付けである。

祭事にしか食卓に並ばないという希少性に加え、馬の蹄状の盛り付けや、いかにも味の染みた佃煮色の彩りが食欲をそそるが、口にしてみると存外泥臭く骨ばかりで、興ざめであった。蹄中央の窪みには、大振りの帆立に似た内臓が添えられ、大人はそれを上手そうに食むが、子供の頃の私にはただ苦いだけの代物で、どうしてこんなものを有り難がって食べるのだろうと、不思議に思っていたものである。

 大学生になり、県外に出た私は、祭事に鯉を食すのが長野県に特有の風習であることを知った。溜め池で飼われている鯉が、普通は、食用のためでなく鑑賞用に過ぎない、という事実を知ったのもこの時で、あまつさえ錦鯉と呼ばれる品種に何千万を支払う人間がいるらしい、という話には流石に閉口せざるを得なかった。

 昔の疑問がむらむらと湧き上がってくるのを抑えられなくなった私は、去年の盆、帰省に託けて祖母に会い、こう切り出してみた。

「ねえ、おばあちゃん。どうして長野県ではお祝いの時に鯉を食べるの」

じりじり、と油蝉が軋む声が、ただでさえ湿った夏の暑さを一層不快にする。額から流れ落ちる汗が目に入り、沁みた。

空には輪郭のくっきりとした入道雲が、恥じらいもなく天に向かい、立ち昇っていた。ひょっとしたら、俄かに雨が降り出すかもしれない。

祖母の返事はない。この沈黙は避らぬ痴呆の証明なのか、それとも何かしらの逡巡なのだろうか。しばらく会わない間に、髪が薄くなり背も小さくなった、と思う。これは私の身長が高くなったからではなく、祖母の命が着実に削られているからなのだ、と理解できる年齢になってしまった。

「……この地域では、祭儀を一月遅れでやっているのは知っているね」

 久しぶりに聞いた祖母のしわがれ声は、痴呆を感じさせぬほどしっかりとした発音で、心臓を掴まれるような威圧が伴った音声であった。

 祖母は祭儀と言ったが、正しくは元旦を除く節句の行事を一ヶ月遅れで行っているのである。だから私は、四月に雛人形を並べ、七夕の笹を八月に飾ることに、あまり違和感を持っていなかった。

 これもまた、特殊な伝統であると知ったのは最近だった。

しかし、そのしきたりと鯉を食べることに一体どんな関係があるというのだろうか。

「本当はね、遅れさすのは子供の日だけでいいんだよ。六月に鯉のぼりを揚げるのが、祭儀を一月遅れで行う、ただ一つの理由なのさ」

 今や祖母の目は大きく見開かれ、私を真っ直ぐに見据えていた。両手で私の右手を固く握る力は、死に臨む老人のそれとは思えない。

「鯉のぼりとは、葬儀なのさ」

 じりじり、という蝉の声とは対称の、冷たい声であった。

 それから祖母が訥々と語り始めたこの村の伝承は、当時の私には衝撃的な内容であった。盆の中頃、のんびりとした陽の下の、萱葺屋根の下、小さく丸い老人は、何かに取り憑かれたように、次のようなことを語った。

 まだこの村が、ただの集落であり、Sと呼ばれていた時代。山に囲われた土地は開墾されておらず、数十人ばかりの百姓が、農作や採集で糊口を凌いでいた。

田沼意次の治世、浅間山の大噴火に次ぐ天明飢饉に苛まれた集落は、年の始めに供物として、乳飲み子を一人、穀物の神に捧げることを決定した。

新嘗祭にあわせ、乳飲み子は調理され、その子の親を含む民たちに振舞われた。肉食の獣に特有の臭みを消すため、甘辛い醤(ひしお)に漬け込まれ、集落全員に行き渡るように輪切りに切られた。脂肪がのり、重要な内臓が詰め込まれていた腹は、集落の長が口にしたのだという。予め取り除かれ、別に調理された臓腑はがらんどうの腹に盛られた。

「その秘事は、田沼が失脚し、飢饉以前の生活が戻るまで続けられた」

 そこで祖母は、一つ大きな溜息をついた。

 空は薄暗くなり、蝉も声を潜め、名前の分からない雑草を風が薙いでいく音だけが、さわさわ、と響いている。

 溜め池には、盆暮れにはぶつ切りにされてしまうであろう緋鯉が、ゆらゆらと水を切って泳いでいる。鑑賞用とは、どうにも思われない。

「それで、その、赤ちゃんを食べるというのは、やめたわけね」

 いくら死に際した苦肉の策であるとは言い条、人間が人間を食べるというのは紛れもない禁忌である。地に足がつき、正気に戻った集落民は、自らが犯した罪に苦しめられることになる。

 子を食った親は、胸を掻き毟り、苦悶に耐えかねて狂った。

 臓腑を食んだ長は、毎夜、蛇のように身を引きずり迫る腸に、体をきりきりと締め付けられる夢を見るようになった。

 次第に集落は狂気で満ちていった。

 それ故、生贄となった乳飲み子の供養をしないか、という提案が挙がるのにはそれほどの時間を要さなかった。

「子供の日に鯉のぼりを揚げる風習が日本に広まったのは、江戸時代のことらしい」

 何かを空に揚げるという異国の風習が、閉鎖的な集落で供養という発想に代わっていったのも、不思議ではない、と祖母は付け加えた。

「じゃあ、どうして六月に鯉のぼりを揚げよう、という話になったの」

「今は晴れの日でも、平気で鯉のぼりを揚げるようになったけどねえ」

 そもそも鯉のぼりとは、中国の登竜門の故事に倣って始まった行事なんだよ、と祖母は語った。

 鯉が滝を登って龍になる、という話は私も聞いたことがあった。祖母の話では、本当は雨の日にしか鯉のぼりは揚げてはならないのだという。鯉が滝を登り龍となるように、供物となった乳飲み子が雨の道を通って、穀物の神の許へと確かに行けるように、梅雨の時期に鯉のぼりを揚げるようになった。

「そして民は、罪を忘れないために、自らへの戒めとして祭事には、調理された子どもを模した鯉を食べるようになったのさ」

 いつの間にか、庭には驟雨が降り始めている。雨に打たれた木々が、そわそわと内緒話のような音を立て、巻き上がる土の匂いが、つんと鼻を刺激した。

 溜め池の鯉は、餌を求めるように口を水面に出し、ぱくぱくと動かしていた。

「餌はさっきあげたばかりなんだけどねえ。雨が降ると、あの鯉たちは口をぱくぱくさせるのさ。案外、空に向かって登って行こうと、必死なのかもねえ」

 そういって目を細めた祖母の顔は、険しさを失い、元の優しそうなものに戻っていた。そうして、どこにもいない子供をあやすように、どこへともなく呟いた。

「あたしたちは昔から、こう言い聞かされてきたんだよ。六月五日は端午の節句ではなく、なるべく、子供の日と呼べってね」

 私はようやく、この村の一員になれたような気がした。

 

2012年 テーマ批評会「5月5日」より