ぼくとK氏とでんぱ組

2011年、今出川通

 

ぼくはアイドル好きの友人から「でんぱ組.inc」の話を聞いていた。

「最上もががうんちゃらかんちゃら」「りさちーが云々」……。正直そのほとんどを覚えていない。というのも、当時のぼくはアイドルにあまり興味がなかった。

それでも何の気なしに「W.W.D」を聞いてみた。

なんの虚飾もなくいうならば「ああ、なるほどね」くらいの反応しかしなかったと思う。

今になってみれば、これがアイドルを必要としない人間の精神状態だったのだとはっきりわかる。

 

2014年、春。

 

就職する。

 

2014年、京都の某カラオケ。

 

好きだった人といったカラオケで、その人が「でんでんぱっしょん」を歌う。

「ん?」と思った。わけのわからない展開の曲だった。けれど、やけに頭に残るメロディだった。

もちろん好きな人が歌っていたからだ、というのもあったと思う。

家に帰ってからぼくは「でんでんぱっしょん」のPVを見た。電波的彩色、おもちエイリアン、作曲玉屋2060%。稲妻が走った。

「すげえ」

この瞬間、ぼくはでんぱ組.incの曲を好きになった。

「サクラあっぱれーしょん」「でんぱれーどJAPAN」「バリ3共和国」……。

 

2014年、冬。

 

職場で先輩に「どんな音楽好きなの?」と聞かれた。

ぼくはいくつかの当たり障りのないロック・バンドとともにこう答えた。

「最近、でんぱ組っていうのにはまってまして」

その数日後、社内のメールで(どんな社なんだという話なのだけれど)でんぱ組の出る番組の情報が流れてきた。あまりのタイミングのよさにびっくりした。

これがぼくとメールの送り主、K先輩とのはじめての出会いだった。

K氏とぼくとは「部署」が違い、なかなか話す機会がなかったのだ。

 

2015年、春。

 

死にたくなる。

ぼくの中で決定的に何かが壊れる音を聞いた。

理由ははっきりしているのだけれど、それについては書かない。というか、まだ書けないというのが正しい。思い返すだけで、頭の中でしゃぼん玉がはじけていくからだ。

 

ぼくは音楽に救いを求めた。

本は全然読めなかった。

ぼくは精神を偶像(idol)崇拝によって正常に保とうと心がけたのだ。

アレゴリーではない。これはぼくにとっては肉体性すら伴った現実だ。

ぼくは「でんぱ組.inc」が好きになった。

狂ったように、これは比喩ではなく狂ったようにでんぱ組の曲を聞いた。もちろんCDは(プレミアのついているものまで)買った。ファンクラブにも入った。Youtubeで関連動画を見まくった。ほとんどの動画は見たのだけれど、なぜかラジオは聞けなかった。

それは彼女たちの「卑近」な部分を見てしまうかもしれないという畏れからであり、触れてしまうことで「神聖さ」が失われてしまうことを恐れたからだ(MV以外の動画もはじめは見るのが怖かった)。

 

ぼくは夢眠ねむが好きだ。理由は様々あるけれど(タナトスヒュプノスだとかいろいろ言い始めると収拾がつかなくなるから)、一言でいえば「こういう感じの人が好きだから」だ。

 

2015年から、ぼくとK氏は同じ部署、同じ部屋の勤務になっていた。

噂では「でんぱ人事」と呼ばれる人事のおかげで、ぼくはK氏からいろいろなグッズをもらったりした。

詳しくは語れないのだけれど、この部署は通称「監獄」で、地獄のような労働環境だった。

限界状態の中、ぼくとK氏は頻繁に飲みに行ったり、カラオケに行ったり、職場から駅まで送って行ってもらうような関係になっていた。

K氏の車の中では、常にでんぱ組が大音量で流れていた。

K氏はファンを公言していて、職場でどんどん「布教」をしていた。

ぼくはといえば、アイドルが好きだということに恥を感じていた。ぼく自身、アイドルオタクというのは「気持ち悪い」という気持ちが強かったからだ。

けれど、ぼくはK氏を見ていて、好きなものにすべてをかけられる姿勢をかっこいいと思い始めてもいた。

 

自分の心を殺して、仕事をつづけた。

職種柄、大人の建前が激しく求められた。

ぼくはどんどん分裂していった。

信じられないけれど、ぼくは仕事が好きになっていた。

その仕事が好きだったという気持ちは今でも持ち続けている。

でも、分裂していくぼく、ペルソナが本物になろうとしているぼくに語り掛けるぼくαが常に「嘘だ、お前は嘘だ」と頭の中でつぶやき続けていた。

ぼくはそれに耐えることができなかった。

 

23時に退勤、家に帰ってはでんぱ組を聞き寝落ち、5時に起きる。

本を読む時間はなかった。音楽に救いを求めるのは必然といえば必然だったのだと思う。

 

2015年、5月。

 

ぼくはK氏、それからK氏の友人とその彼女、というよくわからないメンツでナガシマスパーランドにいた。

「かみしの君、でんぱ組のイベントに行こう」

機械のようにパソコンに向かっていたぼくに、K氏はささやいた。

『おつかれサマー!』のリリースイベントということだった。

ぼくは、よくその言葉を飲みこめなかった。

でんぱ組に会う、というのは当時のぼくにしてみれば神との邂逅である。

そもそも、「イベントに行く=会うことになる」という等式すら心の中でしっかりとは結べていなかったと思う。

よくわからないまま、よくわからないメンツと、よくわからないイベントに行くことになった。

朝5時集合、日ごろの早起きが役に立った。

 

正直、アイドルファンをなめていた。

朝6時くらいに会場につくと、すでに長蛇の列。コスプレイヤー、典型的なオタク、常連風の男女……。異空間だった。

なんの列かもよくわからないままK氏に促されて並んだ。

日差しが暑い。長袖を来たぼくを殴りたくなる。

並んだ。

並んだ。

7時間近くたちっぱなしだ。

せいぜいバンドのライブの待機列くらいしか並んだことのないぼくには、ありえない苦行だった。

ようやく何かスタッフの声が聞こえてきた。

一枚の紙を渡され、そこには「夢眠ねむチェキ券」と印刷されていた。

チェキ?

本当になんのイベントかもわからず並んでいたぼくは、聞きなれない単語を調べた。

写真、と検索結果が表示された。

ん?つまり写真を撮る、ということ?ん?どういうこと?

何層もの意識を突破して「2ショットの写真を撮る」という事実にたどり着いたときも、ぼくはいまいち事態を飲み込めていなかった。

 

チェキ会の前にはライブがあった。

ぼくはてっきりライブだけだと思っていた。

 

さらに2時間ほど待機した。

会場では常連らしき人たちが騒いでいた。

ぼくが今までいっていたライブの客層と明らかに違う。

なんて気持ち悪いんだ、と思った。

機材トラブルか何かで開始が遅れた。

しばらくざわついたあと、彼女たちはステージにあがった。

曲を披露する彼女たちを、ぼくはどこか遠くで聞いている気分だった。

本当にあきれるしかないけれど、音源ではなく、歌って踊っている彼女たちを見ても、ぼくは理解できていなかった。

すべてを(誇張ではなく『2001年宇宙の旅』のボーマン船長のように)かみ砕いて飲み込んだのは「でんでんぱっしょん」のイントロが聞こえてきた時だ。

「あ、本当にいるんだ、この人たち」

言葉にするなら、そんな感じだ。

それから、いろいろなことを思い出して泣いた。踊りながら泣いた。暗かったから隣でサイリウムをふるK氏にはばれていなかったと思う。

 

興奮が落ち着かないままチェキ会になった。

今ではすべて理解していたぼくは心臓が高鳴るのを通り越して、変に静かな心境だった。

もが・ピンキー・ねむが前半、りさ・みりん・えいたそが後半。K氏とその友人はみりん押しなので別れ、ぼくはピンキー押しのK氏の友人の彼女という、よりにもよって一番話しづらい人と列にならんだ。「あはは、天気、いいですね」というテンプレの会話を本当にすることになるとは思わなかった。

しばらくして列が三つに分岐した。

ぼくのまえには同じく友人と別れた女の子が並んでいた。

 

どんどんと列が進んでいく。

列の先にはピンキーとねむが小さく見えていた(もがは逆側だった)。

ピンキーはこの公演で足をくじいてしまっていたので、座っていた(余談だけれど、その状態を見るまでそんなことわからないくらい動いていたので、プロってすごいと思った)。

 

列はどんどん進む。

ぼくの前の前、リュックサックのお兄さんが終わり、目の前の女の子が移動する。

スタッフが荷物を置くように指示する。

背中側にあった机にリュックを置く。

振り返る。

夢眠ねむと目が合う。

世界がとまる。

夢眠ねむは小さなため息をつく。

きっと多くの人と写真撮って疲れてるんだろうな、と頭だけはフル回転していたので思った。

思っていたより身長が低かった。

夢眠ねむがぼくの左に立つ。

近い。

フラッシュが光る。

ぼくは離れて明後日の方向を見て「ありがとうございます。応援しています」という類の言葉を発する。

「ありがとう~また来てね!」と夢眠ねむが言う。

 

これがすべてだ。これだけなのだけれど、ぼく生まれて一度も味わったことのない感情を味わった。

胎内巡りのあとの如来無明長夜の光、を体験した気がする。

まぶしくて見れない、というのは本当にありうることだった。

あの瞬間だけは、ぼくは世界に二人だけしかいないと確信していた。

そのときの感情を友人に話すと、「なかなかきもいな」と言われた。ぼくもそう思う。

 

チェキには奇妙な距離感のぼくとねむ、日焼けして顔が黒く、阿呆のようににやけているぼくの顔がくっきりと映し出されていた。

 

2015年、秋。

 

仕事をやめることは、もう決めていた。

けれど、誰にも言えなかった。

それは、逆説的だけど仕事が好きだったからだ。

仕事場でのぼくと、心の中のぼくは、完全に分離していた。

今でもぼくは心から仕事が好きだったといえるし、一方では心から死にたかったともいえる。

あいかわらずK氏はぼくを飲みやラーメンに誘ってくれた。

部署の愚痴を言い、来年も頑張ろうね、と鼓舞しあった。

「はい!」

ぼくはK氏に嘘をついていた。

 

 

2015、冬。

 

夏の出来事、やめると職場でいえないこと、親にいえないこと、笑顔ででんぱ組のグッズをくれるK氏、慕ってくれる職場の子どもたち、用意された昇進ポスト。

ぼくの仕事用ペルソナはぶっ壊れた。

でも、相変わらず顔は笑っていた。

 

2016年、2月。

 

K氏とでんぱ組のツアーに行くことになる。

ぼくの仕事は3月までだ。

ぼくはこの機会にK氏に仕事をやめることを言おうとしていた。

 

三重県の文化会館に、K氏の車で向かう。

グッズを買う。

もうファンたちには慣れていた。

配信されたばかりの「破!to the Future」が流れる待機列は、どんどん進んでいく。

ナガスパでのライブは5、6曲の縮小バージョンだったので、フルタイムのライブを聞くのはこれが初めてだ。

 

ライブの内容については多くのレポートがあるだろうから多くは書かないけれど、夢眠ねむ観光大使就任式が見れてよかった。

隣にいたハードなファンと仲良くなった。

みんな人間だった。

 

興奮状態でぼくはK氏とご飯を食べに行った。

「よかったね!4月からのパワーをもらったね!」

屈託なく笑うK氏の顔を見てぼくは

「はい!」

と元気に嘘をついた。

 

2016年、3月。

 

ぼくは仕事をやめた。

全職員の前であいさつをする日の前々日、帰ろうとするぼくの背中にK氏が話しかけてくれた。

「……やめるんだってね、部長にはしっかり話しておいた方がいいよ」

3月にもなれば、ぼくがやめるという噂はとっくに広がっていて、当然K氏のもとにも届いていた。

最後までぼくのことを気遣ってくれたK氏に、結局ぼくは全く自分のことを言うことができなかった。

家に帰ってでんぱ組を聞いた。

ただ救ってほしかった。

 

 

ぼくが仕事をしていた2年間、常にバックグラウンドにはでんぱ組.incが流れていた。

プライベートもパブリックも、ぼくの記憶は彼女たちの曲とともに思い出されてくる。

5年前は「なるほど」としか思わなかった「WWD」のねむパート、「ふと気づいたらここで笑ってた」という歌詞を聞いて、ぼくはそういう「ここ」になったであろう場所を、自分のどうしようもない弱さから放棄してしまったことを、K氏の笑顔とともに思い出す。

 

人間が生きるためには「物語」が必要だと思う。

少なくとも2年間、ぼくはでんぱ組に自分の物語を仮託していた。

 

最近ねむは「破!to the Future」の歌詞の一部「もしこれがほしいのならば、どうぞあげるもういらないわ」をよく引用している。

新譜『GO GO DEMPA』は明らかに、でんぱ「らしさ」を破ろうとしている。

作曲からも、歌詞からもびしびし伝わってくる。

あの時確かに感じた、「誰も触れない二人だけの国」的世界からの脱却だ。

浅野いにおが歌詞を担当した「あした地球がこなごなになっても」を聞いたときから感じていた。

彼女たちは、いわゆる「非日常」的な存在から「日常」的存在になろうとしている。

モラトリアムを抜け出そうとしている。

 

ぼくの一時期を形成した藤原基央もまた大人になり、でんぱ組.incも大人になろうとしている。

ぼくはまだとどまっている。