四半世紀のベスト③

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今回は怖い小説たちです。

 

 

51、連城三紀彦『戻り川心中』

戻り川心中 (光文社文庫)

戻り川心中 (光文社文庫)

 

幻影城』で泡坂妻夫ともに第一線をはった連城の、大正デカダン風味の連作短編集。ミステリーには「ホワイ・ダニット」、つまりなぜ殺人を犯したのかという動機に主眼を置いたものが存在するけれど、「桔梗の宿」は個人的には日本におけるホワイ・ダニット小説の頂点。侠客や遊女、芸術家などの一般の道から外れたやくざものたちの織り成す物語は、連城の耽美な文章にのって深い爪跡を残す。京都のサイゼリアで読み終わったとき、ああああああ!と声をあげてしまった。

 

52、山田風太郎太陽黒点

横溝正史とともに語られることの多い山田風太郎だけれど、彼の小説は少し変わっている。忍者の異能力バトルが繰り広げられたかと思えば、同時代に復活した天草四郎宮本武蔵が剣豪バトルを繰り広げる『FATE』のようなものまである。この『太陽黒点』も同じく風変わりで、3分の2くらいは青春小説なのだけれど、急転直下で推理小説へと変化する。この「あれっ?」という一瞬は、一時期流行ったアハ体験よりもよっぽど痛快だ。

 

53、久生十蘭「無月物語」

久生十蘭短篇選 (岩波文庫)

久生十蘭短篇選 (岩波文庫)

 

大学に入ってからずっと、十蘭が好きだと繰り返していた人間がいた。乱歩や久作の系譜だといわれて読んでみた。思わずため息が漏れた。その文章の魔術に飲み込まれたものを中井英夫は「ジュウラニアン」と呼ぶ。「顎十郎」シリーズのような捕物帳もずば抜けて面白いけれど、悪なるものを書かせたら右に出る者はいない。「無月物語」に描かれる純粋悪に動悸が激しくなる。もちろん悪が書けるものは、同短編集の「黄泉から」のようなリリカルな作品も書ける。気づいたらぼくは「ジュウラニアン」だ。

 

54、津原泰水『蘆屋家の崩壊』

蘆屋家の崩壊 (ちくま文庫)

蘆屋家の崩壊 (ちくま文庫)

 

 猿渡と伯爵を主人公とした怪奇ミステリー「幽明志怪シリーズ」のひとつ。短編集でありながら、散りばめられた衒学的といってもよい怪異や食べ物の雑学の数々。ときには論理を上回る超常現象へと巻き込まれていく。津原の交友関係を見渡せば、金子國義四谷シモン小中千昭。「そういう」世界の住人だ。ちなみに妖怪「件」の小説は、小松左京しかり内田百閒しかり名作となるという、個人的なジンクスがあるのだけど、津原の「五色の舟」もまたそうした傑作のひとつに加えられるだろう。

 

55、チェスタトン『ブラウン神父の童心』

ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)

ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)

 

 海外のミステリーというのは実はあまり肌に合わないことも多いのだけれど、チェスタトンは違った。明晰なるブラウン神父を探偵とした「ブラウン神父シリーズ」の短編は、ひとつひとつが珠玉だ。乱歩が「トリック創出率随一」と語ったように魅力的なトリックと、批評家らしい階級社会や宗教への皮肉のきいた言い回しがリーダビリティを生む。「秘密の庭」のびっくりをぜひ味わってほしい。「サラディン公の罪」「アポロの眼」「折れた剣」、どれもよい。

 

56、太宰治『晩年』 

晩年 (新潮文庫)

晩年 (新潮文庫)

 

ぼくが太宰治に抱いている感情は愛ではない。憎悪だ。太宰のせいでぼくは小説が好きになったし、太宰のせいでぼくの人生は狂った。一時期ぼくは、自分は太宰なのではないかと本気で倒錯した。文章になっているものは関連の評論やエッセイまで含めてほぼすべて読んだ。玉川上水の入水した場所で瞑想し、実際に彼が着たマントを纏った。「死のうと思っていた」ではじまる太宰の処女短編集『晩年』。冒頭の「葉」に太宰のすべては凝縮されている。

 

57、坂口安吾桜の森の満開の下・白痴』

坂口安吾は太宰や織田作と同じく無頼派と呼ばれる集団の一員だ。彼は推理ものもから評論まで数多くのジャンルにまたがって小説を書いてきたが、なんといっても怪奇小説が美しい。「桜の森の満開の下」なんていうのは、その主たるものだ。梶井基次郎しかり、西行しかり、桜には死の魅力が付き纏う。破滅の煌々とした美しさがそこにある。同じく岩波からでている堕落論のほうには、太宰治に対する痛切なラブレターが挿入されている。 

 

58、萩原朔太郎猫町

猫町 他十七篇 (岩波文庫)

猫町 他十七篇 (岩波文庫)

 

気がついたらまわりが猫だらけ。そう書くとなんだか仄々するけれど、この小説の書き手はあの詩人・萩原朔太郎ショーペンハウエルの引用からはじまるこの小説には、幻想的なイメージが敷き詰められている。いつも散歩している道を逆方向に歩いてみたとき、違和感を覚えたことはないだろうか。それは猫町に入った合図だ。そこら中の窓には、猫が目を光らせている。ポーもそうだが、猫というのはどこか悪魔の使者めいた振る舞いをする。

 

59、森鴎外うたかたの記

舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

 

鴎外は前期・中期・後期と作風ががらりと変わっていて、後期の『渋江抽斎』あたりの歴史小説を円熟とみなすむきはあるけれど、やはり前期の浪漫主義的なものはたまらない。「舞姫」でパラノイアという言葉を知った人間も多いだろうけれど、「うたかたの記」もまた恋に狂う人間の物語だ。ドイツの花売りに恋した日本人画家は、池のほとりで発狂した国王ルートヴィヒに出会う。まるで一枚の絵画を目の前にしているようだ。

 

60、芥川龍之介邪宗門

地獄変・邪宗門・好色・薮の中 他七篇 (岩波文庫)

地獄変・邪宗門・好色・薮の中 他七篇 (岩波文庫)

 

実は「蜜柑」以外の芥川の小説はそんなに好きではないのだけれど 、これは別格だ。なんといっても、あの芥川龍之介が書いた異能力バトル小説なのだから。マリア信仰を説き妖しげな術を使う謎の法師、法力で金剛力士像を召喚する仏僧、「地獄変」の大殿の息子にして人心掌握に長けた若殿。彼らの織り成すジャンプ顔負けの戦模様は、どう結末を迎えるのか。ぜひ見届けてほしい。

 

61、今村夏子『こちらあみ子』

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

一躍有名になった彼女を見て、ぼくは臍を噛んでいる。好きだったインディーズバンドが売れるのを見る気持ちだ。彼女の小説は「信頼できない語り手」による不信と作者による隙間の多い文章による不安という二方向からの意趣によって、ぐらぐらとした不穏を獲得している。ぼくはぼくであり、きみはきみでしかないことの恐ろしさが詰まっている。ぼくはこの感覚を別の小説で味わった。古井由吉の「杳子」だ。

 

62、藤野可織『いやしい鳥』

いやしい鳥

いやしい鳥

 

 不穏な文学が文学界を覆った時期があった。藤野可織が『爪と目』で芥川賞をとったあの時期だ。ホラー小説が好きだという藤野さんの小説には、アナ・トーフの作品をじっと眺めたときに抱くような不穏が多分に含まれている。「いやしい鳥」や「胡蝶蘭」なんて、そのまま日本ホラー小説大賞をとってもいいくらいだ。怖いことはよいことだ。怖いというのは、体だけでなく心も震えるということだ。足元をぐらつかせるのが文学の役目だとぼくは信じている。

 

63、最果タヒ『星か獣になる季節』

星か獣になる季節 (単行本)

星か獣になる季節 (単行本)

 

 銀杏BOYZに「十七歳」があり、大森靖子に「子供じゃないもん17」がある。早見純は「4+2+5+6=17(死に頃=17)」と書いた17歳を、最果タヒは星か獣になる季節だという。アイドルとはどういうものか、というのを真っ向から書いた小説。最果タヒはもちろん詩もよいのだけれど、小説も独自の視点から「かわいい」というまやかしへのアプローチをつづけている。彼女の言葉は、この2010年代を無残に切り裂いていく。

 

64、トム・ジョーンズ『拳闘士の休息』

拳闘士の休息 (河出文庫 シ 7-1)

拳闘士の休息 (河出文庫 シ 7-1)

 

打って変わってアメリカの元ボクサー作家による、心身を病みながらも疾走し続ける人間たちの短編集。ヘミングウェイやカーヴァーと違うのはなんといってもその文体だ。日本でいうところの舞城王太郎ドーパミンだらだらのドライブのかかった文章は、ぼくたちをあっという間に置き去りにする。岸本佐知子の畢竟の翻訳といってもいいだろう。こんな作品を一編でも残せたら、もう死んでもいい。

 

65、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 

 いまやありとあらゆる作家や批評家が言及し、彼の著作に対するなにがしかの論文をもたないと批評家として失格だ、といわれる文学的試金石のドストエフスキー。一回、バフチンだとかフロイトだとか小林秀雄だとか、みんなみんな忘れてこの小説を読んでみてほしい。そこに立ち上がってくるのは、極上、としか形容しようのない小説そのものなのだ。こんなにも思考や感情がぐるぐるとフル回転する小説は他にない。

 

66、ブルガーコフ巨匠とマルガリータ

面白すぎて手が震えてしまう、という経験を久しぶりにした。唐突に現れる紳士然とした悪魔、撥ねられる首、悪魔に占拠されるモスクワの劇場、キリストを愛すピラトを書く小説家。ソ連イデオロギーへの反抗は、『ファウスト』を下敷きとした世にも奇妙な悪魔の饗宴となってあらわれる。上下巻だけれど、一気に読んでしまった。頭の中では星野桂だとか永井豪だとか中村明日美子だとかの絵で、魅力的な悪魔たちの姿が浮かんでいた。

 

67、ソローキン『愛』

愛 (文学の冒険シリーズ)

愛 (文学の冒険シリーズ)

 

何も知らずにソローキンの『ロマン』を読める人は幸いだ。人によっては一生小説を読めない体にされてしまうかもしれない。ぼくは読む前に内容を知ってしまった。だから『愛』におさめられたいくつかの短編によって、追体験するしかなくなった。まだ何も知らないひとは、何も調べず必ず頭から読んでみてほしい。ソローキンが試みているのは文字通り小説の破壊だ。コードを破壊するときに、笑いはうまれる。だからよい小説は怖くて笑えるのだ。

 

68、バルザック「浮かれ女盛衰記」

バルザックは「人間喜劇」という計画によって、19世紀のフランスを完璧に描き切ってしまおうとした。この「浮かれ女盛衰記」は「ゴリオ爺さん」にも登場する希代の大悪党・ヴォートランを主人公にした一作。 きらびやかな表の社交界と政治の世界を、裏から牛耳ろうとする彼の奸計と人間的魅力は、この集英社からでているマスターピースシリーズで十分に味わえる。プルーストやワイルドが心酔した悪の魅力が、ヴォートランには満ちている。

 

69、セルバンテスドン・キホーテ

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

 

自分を騎士だと思い込んだ老人が、風車に突っ込んでいく。ドン・キホーテといえばまずこのシーンが頭に浮かぶだろう。騎士道物語に辟易して、自らを騎士と思い込んで悪ならぬ悪を成敗していく。これは底抜けに滑稽で、底抜けに悲しい。読み終えたときには絶望に近い感情を覚える。現実世界で出された偽作までも作中に取り込んで、多重構造的にドン・キホーテは進んでいく。 笑いの表裏一体のかなしみ、というのはこういうことをいうのだと思う。

 

70、チュツオーラ『やし酒のみ』

やし酒飲み (岩波文庫)

やし酒飲み (岩波文庫)

 

日本文学の癒し系が武者小路先生なら、海外文学の癒し系はチュツオーラその人だ。「です・ます」と「である」が混じったすっとぼけた文体、自らが神であり、便利アイテムをもっていることをつい忘れてしまう「やし酒のみ」、脅威を落とし穴なんかで解決する展開。アフリカの神話空間が生んだ奇跡のような小説だ。なんといっても、一ページに一か所はつっこみどころがある。それゆえに異常なリーダビリティをもって、読み終えるころにはチュツオーラたん、という呼称をもって彼を呼ぶことになるのだ。

 

71、リャマサーレス『黄色い雨』

黄色い雨 (河出文庫)

黄色い雨 (河出文庫)

 

スペインの詩人によるこの美しい小説を、ほんとうは教えたくはない。これはぼくだけのものにしておきたい。でも、それは卑怯なのできちんと書いておく。なにもかもが終焉を迎えた村で息をひそめる一人の男。そこにあるのは冷たい狂気と圧倒的な静寂のみだ。この小説、というべきなのかもわからない世界にはそれ以外のものは何もない。タル・ベーラの『ニーチェの馬』のように純粋化された時間だけが存在している。

 

72、アレナス『夜明けのセレスティーノ』

夜明け前のセレスティーノ (文学の冒険シリーズ)

夜明け前のセレスティーノ (文学の冒険シリーズ)

 

ひとえにぼくは、わけがわからないけれどなんだかかなしい小説、というジャンルの小説に垂涎する。これもその一つだ。大人になるにつれて世界は分割されていく、というのはよくきくけれど、そうだとすればこの小説は生まれたばかりの赤ん坊の世界の活写だ。生と死すらも未分化なこの世界はひたすらぐちゃぐちゃだ。突如挿入されるエピグラフ、強烈なリフレイン、死んだと思ったら生き還って次の行でいつの間にか死んでいる。ただかなしみだけが疾走している。

 

73、コルタサル「南部高速道路」

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

 

コルタサルの小説は夢と現実がメビウスの輪のようにつながっている。いつの間にか幻想と現実を往還している。閉鎖系というジャンルがあるけれど、この「南部高速道路」は高速道路が舞台。渋滞のつづく高速道路では、夏が冬になり、運転手同士の恋愛出産があり、葬式があり、共同体ができていく。でも、それは高速道路でしかなく、一旦車が動きだしたら、ただの他人だ。このあたりの文明批評が、上手に、丁寧にえがかれている。 

 

74、ルルフォ『ペドロ・パラモ』

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

 

人が死んでも記憶は積もる。コマラという町にはペドロ・パラモと彼を取り巻く人間たちの記憶が、地層のように重なっている。記憶が肉体から離れたとき、それは記憶それ自体として歩き出すのだ。解説にもあるように、少ないページ数の中に膨大な時間と空間が閉じ込められている。時間の記述は錯綜していて、死と生がぐるぐると渦巻く。これは一回読んでわかるような作品ではないので、自然と何回も読むことになる。

 

75、アルトー『神の裁きと訣別するため』

神の裁きと訣別するため (河出文庫 (ア5-1))

神の裁きと訣別するため (河出文庫 (ア5-1))

 

中三のときにフーコーに出会った。「パノプティコン」、「狂気の零度」という言葉が痛烈に頭に残った。だからドゥルーズまでは、ある意味で一直線だ。そしてその美しき徒花としてアルトーも知った。ラジオ・ドラマのテキストであるこの著作は、ある程度の条件をもたなければ、真の衝撃を味わうことはできないのだけれど、芸術の狂気を書いたゴッホの著述は圧巻だ。マレルの「狂気のブルー、苦悩のオレンジ」という短編は大好きな短編だけれど、そこに描かれるような狂いを、芸術は孕んでいる。

 

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