今村夏子と「書かないこと」

そこにあるべきものが存在していないとき、ふと恐怖に襲われることがある。

いつも同じ場所に置いてあるはずのものが、突如消えていたとき。顔があるべきところに、顔がないのっぺらぼう。しっかり踏みしめていたはずの大地がどろどろに緩みだし、頼るもののない闇の中へと落下していく。

今村夏子は、「書かないこと」の上手い作家である。

私小説作家が書きすぎてしまう心情、あるいは書いて当然である状況、設定。そういうことを書かない。そういう意味ではネットロアの「巨頭オ」なんかに近い怖さがある。藤野可織小山田浩子吉田知子など不穏な文学の書き手は多くいるけれど、今村夏子もまたそうした「不穏文学」の担い手として、一味違った小説を書き続けている。

彼女の書いた小説は、まだ少ない。

 

太宰治賞、三島由紀夫賞を受賞した「こちらあみ子」を含む作品集『こちらあみ子』

芥川賞候補となった「あひる」を含む作品集『あひる』

・2017年上半期の芥川賞候補『星の子』

・『文芸カドカワ2016年9月号』に収録の「父と私の桜尾通り商店街」

・『たべるのがおそいvol.3』に収録の「白いセーター」

 

くらいのものだ。「父と私の桜尾通り商店街」だけ読めていないけれど、このまだ寡作な作家の著作を見通して、どのような作家なのかの簡単な感想を書いておきたい。

 

こちらあみ子』

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

 

こちらあみ子」はあみ子の幼年時代の思い出が語られていく作品だが、一読して不穏な気持ちに包まれる。それはあみ子が「信頼できない語り手」だからである。あみ子は純粋である。純粋すぎるがゆえに、アスペルガー的な振る舞いをする。

周りの人間の言動から、あみ子がどのような人間とみなされ、どのように扱われているのかということは嫌というほどわかるのだけれど、それを一向に気にせず、あまつさえ状況を悪化させていくあみ子にやきもきとしてしまう。

「信頼できない語り手」とは、例えばこんな場面だ。

 

兄が突然不良になったように、母は突然やる気をなくした。

 

のちに、なぜそうした状況になったのかは読者にはわかるのだけれど、あみ子には「突然」という認識しかできないのだ。

あみ子は同級生からはいじめられ、両親からは腫物を扱うようにされている。母の書道教室では奥のほうに隠され、クラスの友人からは罵詈雑言を吐かれる。けれど、あみ子にはそれらが「理解」できない。この小説はあみ子の視点で進んでいくけれど、「悲しい」という感情がすっぽりと抜け落ちている。

流産した妹の墓を、他の生き物と並べて作ることの意味が、チョコチップクッキーのチョコだけをなめとって好きな男の子に与えることの意味が、あみ子にはわからない。でも読者にはわかる。その認識のずれが、この小説の居心地の悪さを生み出している。

例えば『苦役列車』や『コンビニ人間』も似たような構造をしていて、異端なるものの視点を書くことで、それを笑い、あるいはそれにいらいらとする読者を相対化して、正気と狂気は立場の違いに過ぎない、ということを浮き彫りにする。

苦役列車 (新潮文庫)

苦役列車 (新潮文庫)

 

 

コンビニ人間 (文春e-book)

コンビニ人間 (文春e-book)

 

 

けれど「こちらあみ子」は、それらの作品とは違う部分がある。あみ子は疑わないのだ。「自分は普通ではない」というメタな認識があみ子にはない。繰り返しになるが、彼女は純粋なのだ。すべての行動は、自らがよかれと思って行動していることなのだ。

だから、あみ子の告白には破壊力がある。なぜなら、彼女の「好き」にはなんの打算もないからだ。

 

好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真っ赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。

 

のり君の「殺す」という気持ちもわかるし、あみ子の「好き」もわかる。この場面は白眉で、読者のもやもやが純粋化した存在としてののり君と、あみ子との対決なのだ。

殴られるというノンバーバルなコミュニケーションによってはじめて、あみ子は「一息つく」ことができた。「好き」という感情の置き所を獲得できた。

その後中学卒業を間近に控えた時期の、兄や幼馴染との対話で言葉によるコミュニケーションの兆しも見えてくる。

 

「おーとーせよ。こちらあみ子、こちらあみ子。おーとーせよ」ザーザーと雑音がするだけで、やはり兄の声は聞こえない。

 

と、誰もトランシーバーに応答しない伝達不可能の時代、

 

 「あみ子にはわからんよ」

 

父親が吐露する時代から、あみ子は脱却していく。そのきっかけは大好きなのり君に殴られる、というコミュニケーションの経験からなのだ。殴られることによって、対話が成立する。ここに、やはりやりきれないかなしさのようなものがある。

文庫本の解説を穂村弘が書いているけれど、『ラインマーカーズ』などに収められた彼の短歌には、なんだか共鳴するところが多い気がする。

 

ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi

ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi

 

 

お遊戯がおぼえられない君のため瞬くだけでいい星の役

手紙かいてすごくよかったね。ほむがいない世界でなくて。まみよかったですね。

 

特に前者なんかは、「こちらあみ子」のための短歌のようだ。

また、町田康も解説を書いているのだけれど、ぼくが「こちらあみ子」を読んで思い出したのは古井由吉の『杳子』と町田康の『告白』だった。

『告白』の熊太郎が明らかに悪い方向に進んでいくのを「やめろ……やめろ……」と思いながら読んでいく、という作中主体と読者の関係性は、「こちらあみ子」に似ている。

 

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

 

 

告白 (中公文庫)

告白 (中公文庫)

 

 

この居心地の悪さというのは「ピクニック」でも違った形で提供される。

ガールズバーではたらく「ルミたち」のもとへ、芸人の春げんきの彼女と名乗る七瀬さんが訪れる。彼女は春げんきとの出会いを語り、彼への愛からどぶ掃除まで行う人物であり、やはりちょっとおかしい、ということはだんだんわかってくる。

けれども、「ルミたち」は疑わない。七瀬の告発をする女子高生の新人が出て来るけれど、逆に彼女のほうが異端なるものとして扱われている。ここでも「信頼できない語り手」として七瀬はでてくるのだけれど、一番気味が悪いのが、結局彼女が何者であるかがわからないところである。

ただの虚言であるならば、そうだったのか、となるのだけれど、時折彼女と春げんきは通じ合う時がある。例えば、昼の番組に出演したときに、彼は七瀬に約束した(と七瀬が述べる)行動をとる。それは、ひょっとしたら作品には書かれていないところで、七瀬が聞いたラジオで春げんきがそうするということを言っていたのかもしれない。

はじめの靴に関する出会いであったり、カバの鳴き声であったり、という部分は「信頼できない語り手」の虚言であるということもできるだろうが、この部分では客観的な「ルミたち」も時間を共有しているので、真実味が生まれている。

なので、ひょっとしたら出会いは本当で、けれども、七瀬はいわゆる「カキタレ」だったのではないか、そしてある程度は本当のことを言っていたのではないか、という解釈も生まれてくる。

新人のいうようにすべてが嘘だったのか、あるいは本当のこともあったのか、そうしたことの答えは語られることなく、七瀬は部屋に引きこもり物語は終わる。

 

「チズさん」もまた、書かれないことが多い。何より、語り手とチズさんの関係性がわからない。ヘルパーのようだけれど、ただのご近所さんのようでもある。ヘルパーなら、なぜチズさんの家族があらわれたときに隠れたのだろう。

この、文章の空白とどこか信頼できない語り手たちは、『あひる』でも登場してくる。

 

『あひる』

あひる

あひる

 

 

あひるを飼い始めてから子供がうちによく遊びにくるようになった。あひるの名前はのりたまといって、前に飼っていた人が付けたので、名前の由来をわたしは知らない。

 

父と母、それからわたしの三人暮らしの家に、突然「のりたま」というあひるがやってくる。のりたまといえば黄色と黒色。つまりは危険色だ。その名前の通り、一家に不穏な影が闖入する。

弟が家を出ていき、しんとしていた家に、あひるを見にくる子供が次々とやってくる。両親ははりきって、全霊をもって歓待する。家は子供たちによって遊び場と化し、汚されていく。

安部公房の『友達』に近い気持ちわるさだ。

友達・棒になった男 (新潮文庫)

友達・棒になった男 (新潮文庫)

 

 

けれど、名前も知らない子供の誕生日会を目前に控えた両親の良心は、何の前触れもなく裏切られる。

この部分がかなり胸にくる。

まるで大人になって二階に引きこもるわたしや不良となって家を出ていった弟の代替物として振る舞う子供たちは、やはり他の家庭の子供であるのだ。

どうして子供たちが誕生日会にこなかったかの説明は一切ない。ここでも「書かない」ことによって、彼らの行いが「家族ごっこ」でしかなかったということが浮き彫りになる。

この小説の気色悪さというのは、あみ子のように純粋さが逆に悪くはたらいてしまうという子供なるものという集合体の気持ち悪さがひとつある。

もう一つは空白の多さである。ぱっとページを開いてみて感じるのは、文字の少なさだ。情報量がかなり少ない。

二階で生活している「わたし」は基本的に傍観者であって、一階で巻き起こる騒動、両親、子供たちは異邦人だ。だから、病気で病院に連れていかれたのりたまが帰ってきたときに、違和感を覚える。

 

おかしい。

これはのりたまじゃない。

 

つまり、両親が子供たちを引きとめるために、のりたまの偽物を用意したのではないかという考えに至るのである。

この考えは最終的に三輪車に乗った女の子によって裏打ちされるのだけれど、彼女は「信頼できない語り手」である。誕生日会の日に訪れた男の子をのりたまの化身と思うわたしもまた信頼に足るとは言い難い。

当事者である両親が何も言わない以上、真実はわからないのである。

もちろん前述の誕生日会の日の男の子も謎の人物として書かれるだけである。

 

「おばあちゃんの家」「森の兄妹」は、同じ場所での出来事を二方向から書いた、連作といってもよい作品だ。

「おばあちゃんの家」は離れに住むおばあちゃんについての話だ。このおばあちゃんは途中からはぼけたものとして扱われるのだけれど、最後の一文が恐怖をそそる。

 

今、テレビをみているみのりの目の前を横切って、台所へと向かっていったおばあちゃんの足取りは、どう見ても、昨日より安定している。

 

足取りもおぼつかないおばあちゃんの歩みが安定する。みのりは子供だ。子供の語りというのは、いつでも不安定な要素を含んでいる。『銀の匙』や『二十四の瞳』、あるいは『夏の水の半魚人』の瑞々しさというのは、裏返せば不完全な視線だ。未知だからこそ恐怖があり、わくわくがあるのだ。

この小説は、大人の目線で書かれていたら何のことはない物語なのかもしれない。けれど、子供の目線で、空白の多い文章で書かれることによっておばあちゃんはまるで幽霊のような存在と化す。

こちらあみ子』でもそうだったが、「あひる」のわたしにしても、「おばあちゃんの家」「森の兄妹」のおばあちゃんにしても、どこか奥に押し込められている「異形のもの」がよくでてくるのは今村夏子の特徴かもしれない。そういう者たちとのコミュニケーションは、基本的には難解なのだ。

 

「白いセーター」

文学ムック たべるのがおそい vol.3

文学ムック たべるのがおそい vol.3

 

 

今度の語り手は嘘をつく。

クリスマスイブの日に、婚約相手の姉から子供を預かってもらうように頼まれる。

そこで、ちょっとしたことから子供を泣かしてしまい、そのことを問われたときに、わたしはとっさに嘘をつく。

奇妙なのはこの部分が、何かを取り繕おうとする嘘として描写されていないことだろう。

 

元気がないようには見えなかった。わたしには普通に見えた。

 

わたしはくびをかしげた。

 

まるで先ほどの出来事を忘れてしまったような振る舞いだ。怒られたくないあまりに嘘をついてしまって泥沼にはまる、というのはよくわかるのだけれど、どうにも「わたしは悪いことはしていない」という純粋さがここにも見え隠れしている。

確かに彼女がしたのは、大声を出す子供の口を塞ぐ、というそれだけのことなのだけれど、嘘をついてしまうことによって、「信頼」を失ってしまう。

素直に言ってしまえばよいのに、という読者と作中主体のずれ、それはこの小説にも描かれることとなる。

基本的に他者は理解不可能だし、自分すらも理解不可能だ。足元がぐらぐらとしてくる。

 

『星の子』

星の子

星の子

 

 

おそらく今村夏子初の長編だろう。

一読した印象としては、物語づくりや会話、あるいはシーン、新興宗教にはまる両親、正しい家庭を取り戻そうとする姉、自意識過剰な中学教師、きたない人間ばかりの世の中で唯一きれいな友人といった人物造形がかなり漫画っぽいなというものだ。

読みながら、宮崎夏次系の『夕方までに帰るよ』が頭をよぎった。

夕方までに帰るよ (モーニング KC)

夕方までに帰るよ (モーニング KC)

 

 

幼いころ身体の発疹などで苦しんでいた娘を救おうと苦心する両親は、会社で次のような言葉を耳にする。

 

それは水が悪いのです

 

この時点で「あっ……」と察する。水と新興宗教の話といえば『聖水』なんかを思い出すけれど、奇妙な宗教やマルチは水を売ると相場が決まっている。

聖水 (文春文庫)

聖水 (文春文庫)

 

 

こちらあみ子』はアスペルガー的振る舞いのゆえに、端的にいえば白痴であるがゆえに疎外されていた主人公であったが、今回は両親が怪しげな宗教にはまっているがゆえに疎外される。

現実の世界でもそうだけれど、家庭環境の不全は、家庭の代替物を求める。いちいちフロイトやなんだをもってこなくても、この辺りはなんとなく納得できると思う。不穏、空白を埋めるものはいつでも物語だ。父親のいない社会で、父親的なものを宗教に求めるように、この家の姉妹も物語を求める。

それは愛であった。

こちらあみ子』や『あひる』に比べれば直球な小説だ。それゆえに不穏よりも面白さのほうがうわまわっているというのが一回読んだときの率直な感想だった。

個人的な見方では、これは浅野いにおであったり、宮崎夏次系であったり、サブカルと標榜される漫画諸作に読み心地が近い。

 

「ねえ。ちーちゃん、好きな子いる?」

わたしは、パンをもぐもぐ咀嚼しながら「うん」とこたえた。

「どんな子?」

当時はエドワード・ファーロングへの熱も冷めて、秋山くんのことを好きだった。

「背が高くて、サッカーがうまくて、歌がうまくて、さか立ちができる人」

「へーかっこいいね」

「まーちゃんは」

「いるよ」

「どんな人」

「背が低くてサッカーできなくて歌がへたくそで、さか立ちもできない最低の人」

 

「アハハ。じゃああたしはどう見える?」

「きれい」

 

このあたりの台詞回しは、もちろん前後の文脈もあるのだけれど、かなりグッとくる部分だ。

新興宗教といえば妖しくて忌避すべきもの、という考えは1995年以降のわれわれには染み込んでしまっているものだろう。けれども、愛や恋のような幻想の物語はいつでも美徳とされている。そのあたりのことが、改めて認識できる小説だろう。

とはいえ「書かない」今村夏子も健在で、最後のシーン。不気味さを伴う言いさしで終わっていく。とはいえ、この小説では折れながらも進んでいくという陰な爽やかさが不穏さを上回っていた、と個人的には思う。

 

 

今村夏子は寡作だ。おそらくこれからたくさん小説を書いてくれるだろう、と期待する。少なくともぼくのまわりでは今村夏子はかなりの読者を獲得している。今日び、たくさん読まれる文学作品というのも珍しい。

不穏な続編を期待している作家のひとりだ。