岡大短歌vol.5感想

岡大短歌5号。

まず、全体についてなのですが、企画がとても面白かったです。5首連作には岡山についての小文が添えられていて、一度も行ったことのない岡山という土地に閉じ込められた感情の一端を味わうことができます。レぺゼン感があって、とてもよかったです。

しんくわさんや田丸まひるさんとの手紙と連作の交換、学年×5首の連作、一首評と、目次を眺めているだけでも(もちろん中身も)楽しい一冊でした。

よい歌が多かったのですが、いくつか書いておこうと思います。

 

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土曜日のバイトに行きたくないきみとたまに柔軟剤を分け合う/山田成海

 

柔軟剤ってなんなのか実はよくわからない。柔軟というくらいだからふわふわにしてくれるんだろうけれど、ぼくの中では「いい匂いになる」液体という印象が強い。この「きみ」はやはり恋人と思ってしまう。柔軟剤を分け合うということは、一緒の洗濯機を使っている。「土曜日のバイトが嫌」というのは限定的なのだけれど、わざわざ「土曜日の」というからには他の日のバイト事情も知っているはずだ。火曜は楽しみなのかもしれない、けれども土曜は行きたくないということを知っている。そんな「きみ」と「ぼく/わたし」は、分け合った柔軟剤でいい匂いになり、同じ匂いになり、洗濯機の中でぐるぐると回って一つになる。

 

 

一晩で野薔薇が家を覆いつくしドアが開かないので休みます/森永理恵

 

森永さんの短歌は、この「巻き貝に似た」の他にも「蜃気楼システム」という連作も載っているのだけれど、どの歌もかなり好きでした。ぼくが今までずる休みのときに使った嘘は「眼医者に行きます」とか「いま病院です」とかそんなに面白くないのだけれど、ぼくもこんな言い訳ができたら愉快だったろうと思う。薔薇というと三島由紀夫であったり、中井英夫であったり、どこか耽美的な香りがある。あんなものに巻き付かれたら痛いだろうと思う。野生の「鉄の処女」だ。この世界は歩いているだけで毒状態のようにHPが減っていくことがある。あれは、もしかしたら野薔薇に巻き付かれているのかもしれない。でも、その血を浴びるエリザベート・バートリはいない。そう考えると、家も出たくなくなる。

 

 

「いのちって綿菓子よりも軽いから」君のてのひらに咲く寒椿/杉野真歩

 

人間の魂は21グラム。屋台のわたあめはだいたいザラメ20グラムで作るらしい。確かに人間のいのちはわたあめよりも軽いらしい。ぼくは椿という花が好きで、なぜかというと椿は花の形を保ったまま落ちるからだ。きれいなまま死ねるなんて羨ましい。だから椿の花は「散る」のではなく、「落ちる」だ。しかし寒椿は椿にもかかわらず、散る。そうなってくると、君がてのひらに咲かせている寒椿は、君みずから手折ってきたのかもしれない。そんな君が「いのちって綿菓子よりも軽い」という。思わず背筋が凍ってしまいそうになる。結句のS音がふとした寒気のように吹く。

 

 

〈うつくしい重星〉の誤植〈うつくしい銃声〉悲運な星座の項に/白水裕子

 

星座のなりたちの伝承を見ていると、ギリシア人たちはほんとうに悲劇が好きだったんだろうなと考えてしまう。ぼくは魚座の一等星フォーマルハウトの重星ではないかと思った。確か魚座は、体と体を結んで入水した恋人の星座……とここまで書いてから調べたらどうやら違うらしい。太宰治か何かと混同していたのかもしれない。重星はよく目を凝らさないと二つ見えない。銃声もよく目を凝らさないと、音にかき消されて失われてしまった生命が見えない。特に死体が隠される現代では、死は機会がない限りなかなか触れられない。それが本や神話、宇宙など遠い物語の中でしか、しかも誤植で偶然的にしか目にできないというのは、ほんとうに不運に他ならないのかもしれない。「うつくしい/銃声悲運な」と切ったときの上の句から下の句の温度の移行にびっくりしてしまう。

 

まばたきのあいだに見失ったねこ ほんとにいたんだ黒ねこ ほそいの/安良田梨湖

 

本当にいた気がする猫の身体的特徴を伝えてその実在を訴えるのが、まあ論理的なやり方には違いないのだけれど、なかなかそうもいかない。見失ったものを、なくしてしまったけれど、自分の中で確かに存在していたものの実在をしらしめるには、あったんだよ、あったんだ、とわめくしかない。そうして、冷静になってからそれがどんなものであったのか、言葉にする。17・12・4とどんどん少なくなっていく音数が、感情の爆発と収束、あとに残るやりきれなさのようなものが現れているようで、微笑ましくもさみしい。

 

香川県産/きゅうり」のところに刃を入れて婚姻はこんな感じだろうか/上本彩加

 

今どきは夫婦別姓という選択肢もあるけれども、やはり結婚というのは、他者の家に入るということである。「香川県産」、どこで生まれたのか≒苗字。「きゅうり」、それがなんであるのか≒名前。そこに鋭く切り込まれる包丁。それまで、最低でも18年か16年はそうやって存在していた苗字+名前が、切断されうるものだと気付くとき、どんな痛みが走るのかはまだ知らない。だからこそ「こんな感じだろうか」という曖昧な実感が、主体には存在している。達人の切った野菜はまたくっつくらしいけれど、そうなってくると離婚という選択肢を選べた人は、何かの達人なのかもしれない。

 

 

奇形なら喜ばれるのねクローバーひとの世界もそうならいいね/里見香織

 

探偵ナイトスクープ」という番組で、四葉のクローバーを探すことのできる少女、という回があってびっくりした。京都の三つ葉タクシーには、たまに四つ葉が混じっている。いつの間にか、クローバーといえば「四つ葉」が主流となっている。突然生まれてしまった変異体、インドで奇形児が神の子と畏れられるように、ありがたがられるのは奇形のほうだ。凡人(凡葉)は見向きもされない。人間の世界ではそうもいかない。まあ、あまり民族性をもってくるのは好きではないけれど、日本にいると特に感じる。出る杭を打ち、KYが流行語になるような国だ。特に苦しいのは四つ葉と三つ葉は葉っぱの数が一枚しか違わないことだ。クローバーも11枚とかになれば、もはやあまり触れられないように、人間の世界でもほんものの突き抜けた奇形は違う世界に生きられる。けれども、葉っぱ一枚分しか他の人間と違わないぼくたちは、どちらの世界にも属せず精神をすり減らしていく。

 

 

重力のこびりついてるヒラメ筋洗ってそのまま布団に沈む/加瀬はる

 

重力子はまだ発見されていないけれど、もし発見されたら重力子だけを洗い流せるお風呂とかできるのだろうか。足が棒になる、とか昔の人は面白い言葉を作ったものだと思うけれど、重力がこびりついているという表現も面白い。確かに、山登りした時のあの疲れは、しつこい汚れのようにこびりついているとしか思えない。そんな足を洗って、布団にぼふっと顔をうずめるときはほんとうに幸せだ。けれど、「沈む」という言葉が表しているように、それでもぼくたちは重力からは逃れられない。そんな自然を洗い落とせるととらえる感覚が素敵だ。

 

 

適当にリュックサックに放り込むこれはあの山に落ちていたへんなライター/しんくわ

 

これはすごい。なんといってもなんにも具体的なことをいっていない。「適当に」「あの山」「へんなライター」。どこなんだ、なんなんだ、なんでリュックに放り込んだんだ。きっと「へんなライター」だったから記念なのだろうけれど、山に落ちているような、ある意味でごみであるにもかかわらず拾いたくなる「ライター」っていったい、どう変なのだろう。よく映画なんかででてくる、銃のライターだったらちょっとほしいけれど、そんなものをリュックに忍ばせていたらすぐにお縄だろう。しんくわさんの連作はどれもユーモアが、しかもいやらしくない、ふふっと笑ってしまうものが多かった。

 

 

でもすべて大丈夫だね大丈夫だよミッフィーのハンドクリーム/田丸まひる

 

すべて大丈夫だね、って大丈夫ではないのだ、もちろん。この問いかけは一緒に寝ている誰かへの問いかけなのだろうか。いや、違う。これは自問自答だ。どう考えても、この世界で生きるなんて大丈夫ではない。他の人間なんて信用できない。ぼくは、わたしは、ぼくだけで、わたしだけで、ひとつの弾丸となって世界を撃ち抜いていかなければならない。だからミッフィーのハンドクリームなのだ。かわいいの力、化粧品の力、コーティングの力。戦闘部族がする隈取は、ここではハンドクリームだ。「すべて」大丈夫から「手」へと収束する、認知の歪みのような把握感覚に共感してしまう。

 

 

繰り返しですが、企画が面白くて、感想を書いていない短歌でもよいものがたくさんありました。

面白かったです。