倫理

「うたの日」というサイトがある。

ぼくもこのサイトについては外様なので、外様なりの認識で説明すると、「インターネット上で歌会ができる場所」である。「歌会」とはいえ、同時にひとつの場所に集まって、相互的な評を述べる場であるというよりも、めいめいが選歌して投票し、めいめいが評をするという場であるような自由度の高い歌会である。

ぼくもときおり、気が向いたときに短歌を投稿している。何よりも手軽だし、いろいろな人の短歌を読めるからだ。

 

先日、Twitterの短歌をやっている人たちの間で、「仮病乙」という文字列が話題となった。

題「鬱」(短歌には題詠といって、あるテーマのもとに短歌をよむ、というものがあります)の部屋において、「仮病乙」という文字列だけが、57577の定型の短歌群の中におかれていたのである。

そういうわけで、「これは荒らしではないのか」「送信途中ではないのか」といった話題でTwitterが盛り上がっていたのである。

うたの日ははじめ無記名で提出された歌に投票し、結果発表にあわせて作者が明かされる方式である。だから「荒らしではないか」という議論が起こるのである。

 

ぼくはといえば、まずその文字列をドラッグしてみた。「仮病乙」のあとに空白はなさそうだったので(もしかしてスペースを打っても消される仕様なのかもしれないけれど)、「仮病乙」だけで完結しているんだな、と思った。

少し短歌にふれていればわかるけれど、これは本当に短歌なのか?という短歌は山ほどある。加藤治郎の「言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!」という歌は教科書などでも見るかもしれない。

ぼくは題詠「鬱」に対しての短歌「仮病乙」を観賞してみることにした。そうして、難しいなあ、と思った。実際の歌会であれば、こういう挑戦的なことをするのであれば、よっぽどではない限り歌会の場所には現れるだろうし、批判も直接受ける覚悟があるだろう。けれど、ここはインターネットである。

「うたの日」に投稿している人はたくさんいるだろうし、そもそも「場」として成り立っているのが奇跡である。おそらく善意の集団なのである。だからこそ「悪意」に見えるものに対するアレルギーがあるのかもしれない。

 

当然といえば当然だけれど、この歌を「仮病乙」という自分の声に驚いてしまったことの沈黙、あるいは他者からの罵倒に対する沈黙の間の表現ととることはできる。けれど、それは「善意」のバイアスを自分にかけた上での解釈である。この「場」において、このフォーマットにおいて提出されたこのスペースなし5音のみ文字列を、そういう短歌としてとるのは、ぼくには難しかった。せめて「仮病乙」にカギ括弧がついていたら、そう読めたかもしれない。

あるいは、デュシャンの「泉」のようなおこないかもしれない、とも思った。けれどそれにしては、ちょっとありていすぎる。もちろんインターネットという「場」だから、インターネット・スラングを「鬱」というセンシティブかつホットな題でもちいて、「これをよんであなたに感情を芽生えさせることが芸術だ!」「場の崩壊という芸術だ!」ということもありえたけれど、それもかなり「善意」に引き寄せた解釈だ。

そういうわけで、ぼくは「間」説も「泉」説も、作者の作品に対する真摯さが足りていない、と思った。

どちらかといえば、こんなに「鬱病」というものについて認知がすすんだ世界で、未だに2000年代みたいな文字列を書くことが面白かった。だから好意的にとれば「泉」説かな、と思って、当初ツイートをした。

 

 

ほんとうであれば、こういう記事は書きたくないのだけれど、このツイートはわれながら問題を茶化し過ぎかな、抽象化して提示しすぎかな、と思ったので、謝罪のつもりで書いている。

ここまでが件のいきさつである。

そうして、ここから先のもろもろによって気分が悪くなってきてしまった。結果としてこれは荒らしではなかった。ぼくは贖罪の気持ち半分にこれを書いているのだけれど、もう半分は別種の感情である。

 

本気でそう思っているならばこの作者を人として認めないし、これを短歌と私は断じて認めません。

 

うつ病患者として見過ごせないので書きますよ。この、心ない一言に傷ついて死んでしまう人がいたら、あなた、責任が取れますか?

 

件の短歌への評に、こういうものがあった。ぼくは「鬱」の部屋に「仮病乙」という短歌の可能性のある文字列を書き込むより、こちらのほうがひどいのではないかと思う。これはテキストのもつ多くの可能性を、一番それらしいものに引き付けて、倫理によって殴っている図であるように思えてしまった。

当然「鬱」という繊細な題であるからこそ、この文字列をかなしく感じる人間はでてきて然るべきだ。作者は当然、その反応を予期しているに違いない。

だから、作者はこういう意見を甘んじて受け入れるべきである。そうして傷つけばよい。それが作者の読者に対する、あるいは作品に対する責任である。「仮病乙」はできるだけ客観的に見れば、そういう類の作品といえるからである。

けれど、だからといって、こうした「評」が「作品」に寄せられるのはかなしいことだと思う。これは「明確に」作者個人を傷つける言葉である。

おそらく「仮病乙」を「荒らし」とみなしたうえでの発言である(この評がどのタイミングで記入されたかはわからない)が、それなら、せめて作者が解題するまで待てばよいのに、と思う。「うたの日」には掲示板というシステムがある。善意の場において誤読を誘う可能性が高い作品を提出し、ここまで意図が伝わっていないのは作者の責任であり、その解説を作者が放棄してはじめて「荒らし」と判定できる可能性がでてくる。「場」の判断を誤った作者の責任は大きい。

しかし、これを尚早に「荒らし」と判断したのは読者の責任である。

感情的になるのは、作品をよんで感情を抱くのは当然悪ではない。この「仮病乙」はそういう効果をもつ文字列だ。けれど、そうした文字列に対してではなく「書いた本人」への攻撃に転嫁するのは、作品外に波及する負の連鎖である。

 

繰り返しになるが、この「仮病乙」については、作者の作品に対する自覚も、営為も足りていない。しかし作者である以上、この作品に対して寄せられる言葉に、作者は「傷」を負わなくてはいけない。それが「作者の責任」である。

だからといって、倫理をもって、つまり「この、心ない一言に傷ついて死んでしまう人がいたら、あなた、責任が取れますか?」といった言葉をもって、作者に詰めよっていいのかと言われれば、それは否、である。

これは短歌に限らず、文学全般、ときには社会思想においても、あるいはすべての事柄に対してであるが、発言の背後に後押ししてくれる「倫理」を想定している人間は、すでに文学者/思想家ではない。芸術は倫理を追い抜かなくてはならない。そもそも、文学は自由を志向するはずだ。

かなしい気持ちになること自体に罪はない、怒りをもつことにも罪はない。それをぶつけてもいい。けれど、一度立ち止まってもらいたい。その評は「読者の責任」を果たせているであろうか。感情的に過ぎていないだろうか。早合点ではないであろうか。嫌いなもの、認められないもの、わからないものを「悪」として排除しようとしていないだろうか。倫理という暴力を疑いなく行使していないだろうか。

ぼくは短歌をやっている人間は、すべて文学者だと思っている。大衆であれば、好き勝手に何を言おうがまず、問題はない。それは仕方のないことである。

もし歌人、詩人、文学者を志向するのであれば、「読者の責任」について立ち止まって考えてみるべきではないだろうか。

文字列は作者だけでなく、読者がいてはじめて作品となるのである。