相思樹

 宋の康王は暴虐の限りを尽くした王であった。故に孤独な王であった。

 日に十も人を殺し、その民には途方もない労働を課した。そして、これに従ぜないものは、国の賊として容赦なく処刑した。口に糊した民や恐怖した臣下が、四方の富める国々へ流れ出たのも致し方のないことであっただろう。

 王はときどき玉座に頬杖をついて考えた。

 果たしてこの宋という国には、兄を殺してまで手に入れる程の価値があったのだろうか。周囲を魏、斉、楚の大国に囲まれ、窮鼠の体をなすこの宋に、と。

 そもそも、続けて王は考える。

 そもそも、何故私は、兄から宋を奪おうと思ったのだろう。大した魅力のある国ではない。いや、むしろ重荷にしかならぬ。私は自由が好きだ。王は自由ではない。それなのに宋を欲したのは、恐らくそれが兄のものだったからである。

 私は兄の持つものはなんでも欲しかった。

 遠い昔、私は月を手に入れるため、森に入ったことがある。その前日、白い石をかざしながら兄が私に自慢したのだ。

「見ろ、月だ」

 白く丸みを帯びたそれが、私には本物の月に思われた。

 なんとなく、欲しくなった。

「月だ、月だ。ねえ、それをどこで手に入れたの」

「真っ暗森さ。湖に浮かんでいたのを、ひょいと取ったのだ」

 聞いて私は走り出した。兄は、くつくつと笑っていた気がする。

 冷ややかに水を湛えた湖の畔に私は腰掛け、湖面に満月が現われるのを待った。

 夜、雲居に顔を覗かせた満月は、少し恥じらいながらその身を湖に落した。

 手を差し伸べたが、月はさらりとしていてつかめず、代わりにその影をゆらりと揺らして、私を暗い湖に誘った。

 私の助けを求める声を聞いたのであろう、森の番兵が血相を変えて飛び込んできた。

 深夜、私は番兵に抱えられて帰還した。殿中は私がいなくなったとかで大騒ぎであったが、私が戻ってくると、その騒ぎはいよいよ狂気的なものとなった。

 松明が煌々と照りつけられ、私はすぐに、冷え切った体を暖かな羽毛に包まれた。

 母が駆け寄ってきて、ずぶ濡れになった我が子を見ると、顔を青白くさせた。その母の顔が、件の石よりよほど月に見えたことを私はよく覚えている。

 兄は、悪いことをしたというような、ばつが悪い顔をして、白い石を私に手渡した。

 私はありがとう、と言ったが、兄がいなくなると、その石を力いっぱい遠くに投げ捨ててしまった。もう石など、どうでもよかったのである。

 数日後に父は、私を森に不用意に招き入れた罰として、私を助けた番兵を処罰した。彼は何よりも始めに、自らに与えられた役割を守らなければならなかったのである。

 つまり私を助けようが助けまいが、私を森へと招き入れた時点で、彼は死ぬしかなかったわけである。

 己の役を侵犯したものには、刑罰を与えねばならないことを、私はこのとき理解した。

 捨てた石は、今もこの庭のどこかにあるのだろうか。もしかしたら雨風にさらされ、砂になっているかもしれない。しかしそれはどうでもよいことだ。

 くく、と大きく伸びをして、王は庭を眺めた。

 

  二

 

 王の世話焼きに、韓憑という男がいた。

 この男、容姿が醜く、顔は油でいつもてらてらとしていたのだが、王が何を申しつけても嫌そうな顔をしない。もしかしたら嫌な顔をしているのかもしれないが、土台、蝦蟇のような容貌であるのでそれがわからない。とにかく文句を口にしたことはないので、その点を王に気に入られ、舎人となったのである。

 この韓憑はどう間違ったのか、何氏という傾国の美女を娶り、妻としていた。蝦蟇と一瞥百媚の女とが睦まじくしている様は、当然のように羨望と嫉妬の視線にさらされた。 

 何より士大夫をして嘆息せしめたのは、韓憑の悪辣たる性癖である。

 この男、普段の鬱憤をどこで晴らしているかと思えば、何のことはない、自らの女を打ち据えることでこれを昇華していたのであった。

 しかも、この仕打ちには、いささか性的な何ものかが含まれているらしく、涎にまみれながら女の尻を激しく打つ韓憑の顔は、平生のそれに増して魍魎に近しいものであった。

 打たれている間、女は苦痛に耐えるでもない、目をとろんとさせた不思議な顔をして、ただ前方を見つめているだけであった。

 少し皺の寄った眉間も、幽谷を思わせる美しさであり、時折こぼれる、ああ、という声は、嬌態を覗き居る男達に何とも言えぬ高揚感をもたらした。

 韓憑は、四面楚歌の国況ゆえ、詮なく、王より無理難題を背負わされることが度重なり、次第に己が欲望を隠すことを少なくしていった。

 終いには所構わず宮庭の木陰などで打ち据えるといった有様で、とうとうその嬌態は王の知れるところとなった。

 王は深刻な顔で韓憑を呼び出して言った。

「韓憑よ、私は貴様の、何を申しつけても文句を言わぬ頑丈をのみ認めて、世話焼きとしたのだ。しかし聞けば、自らの妻にその責を押し付け、あまつさえ自らの汚らしい欲を顕わにしているという。遂に貴様の本性が出たということだな」

「へっへ、お言葉ですが最近の王は、私を酷使しすぎております。私はこれでも人間。耐え忍ぶにも限度というものがあります。それにあれは私の妻。どう扱おうと王の気にするところではございません」

「やや、私に文句を言おうとは。蝦蟇のわりに静かな男だと思っていたが、やはり蝦蟇は蝦蟇と見える」

 宮中の臣下は笑いをこらえるのに必死になっていたが、韓憑の大きな目に睨みつけられると、怯えた蛇のように体を竦ませた。

「王は汚いとおっしゃいますが、あれもあれで喜んでおります」

「もう駄目だ、私も笑いが止まらぬ。そもそもお前のような化け物が、あの傾国をあれなどと呼ぶのが、ちゃんちゃらおかしいのだ。喜んでげこげこ鳴いているのは、貴様の方だろう」

 こらえきれず臣下の一人が、ぶは、と息をふきだしたのを皮切りに、堰を切ったように王の周囲は笑いに包まれた。

 そもそも彼らの大半は、醜い韓憑が舎人として重宝され、あれほどの妻を娶ったのを羨ましく思っていたものばかりである。

 羨望の裏には必ず嫉妬がある。

 つまり彼らは、韓憑が王に叱責されるのが愉快でたまらなかったのである。韓憑は目をぎょろつかせて、ただ恥に耐えていた。

「どうだ、韓憑よ、あの女を私にくれぬか。なんとなく、欲しくなったのだ。貴様にはもったいない。」

 これには韓憑も、苦しそうに喉を鳴らした。

「馬鹿を言え、あれは俺のものだ、やるわけがなかろう。だいたい、俺を蝦蟇と呼ぶ貴様は、何と呼ばれているのか、知っているか。宋の紂王だ、この暴君が、人でなしが」

「ふふふ、なかなか悪くはない。それに紂には、妲妃という傾城があったではないか。認めるであろうな、韓憑」

「ああ、悪鬼のような男よ。もう我慢できない。俺なぞより貴様の方がよほど化け物ではないか」

「貴様と言ったな、蝦蟇め。二度は許さぬぞ。貴様は舎人としての領分を侵した。この場で殺してやりたいが、生かしてより酷い重苦を味わわせてやろう」

 韓憑は訳のわからぬことを喚き散らし、短刀で王にのぞみかかったが、すぐに衛兵に取り押さえられた。

 そのまま両の脇をつかまれ、おのれ、だの、殺す、だの恐ろしいことを叫びながら、引きずられて宮殿を追い出されていった。

 

  三

 

 数日すると、何氏が宮中に招き入れられた。

 なるほど、近くで見るとなれば、聞きしより数倍は増して美しい。

 これより先の世にもこれほどの女は現れないであろう、王はそう思いながら、漂う妖しい白粉の薫りを鼻に感じていた。その馥郁たる香は鼻孔を通じ、王の脳髄を麻痺せしめた。

 女は、二月の柳枝のように、少し風が吹けば折れてしまいそうな足をひた、ひた、と進ませて王の眼前に傅いた。

 どこまでも白い肌に、唇と頬はほんのりと赤く色づき、桃の実のようである。

 彼女を前にすれば、恐らくは、花も色を失うに違いあるまい。

「顔をあげて、私によく見せてください。あなたは、きっと私を恨んでいような」

「いいえ、あの男は辛いことがあれば、私を激しく打ち据えました。この通り、ここもこんなに赤くなってしまい、王の御寵愛を賜ることが叶うでしょうか、心配でなりません」

 そういうと女は、身に纏っていた羽衣をはらりと落した。

 すす、という衣擦れの音が妙に艶めかしい。一糸纏わぬ姿となった女の体には、その白い肌にどこまでも不釣り合いな赤があった。 

 王は韓憑を心から憎く思った。

「ああ、なんと可哀そうな、私はそんな真似は必ずしない。さあ、湯治なさるといい。水を用意してあります」

 王が手を叩くと女官が現われ、倒れそうな女を支え起こし、湯浴みへと連れて行った。

 浴槽に腰掛ける女は、さながら月であった。

 美しいものはこうでなくてはならぬ、蝦蟇などと汚らわしい行為に興じていてはならないのだ。あの女だけは、手に入れてよかった。手放すこともあるまい。

 王は朝夕問わずに女を愛した。

 帳の中暖かくして、春の宵を過ごす。傍にいて、愛でるだけでよかった。それ以上のことは、少なくとも蝦蟇のようにはしない。彼女には、薄絹の衣を与え、着させた。毎日のように頭を撫で、甘言を囁いた。

「枕を共に出来るだけで、私は幸せです。明日もこうしていてくれますね」

「このような体でも、王様のお役にたてるのなら、私も幸せでございます」

 女の甘い声は、王の心を和らげ、癒した。

 国が危急の秋であることも、韓憑が城造りの人夫として身をやつしていることも、今はどうでもよいことであった。

「あなたと話していられること、それだけで私は充分なのです」

「幸せでございます……」

「あなたは、韓憑に体をいいようにされましたね」

「今その体を、王様がお役立てになっています」

「冗談の上手いお方だ。私はあの男のように、あなたの体を傷つけることはしませんよ」

「心は……」

「ええ、私はあなたの心がほしいのです。」

 

  四

 

 一季節が廻った。

 ある夜、何氏は王に、韓憑宛ての書簡を出すことについて、許しを請うた。

 王は言うまでもなく嫌な気持ちであったが、検閲を通すという条件を付けてしぶしぶながら、許可を与えた。

「あれでも、元は夫。少し心配でございます」という女の訴えを、不憫に思ったのである。

 私は、これほどあれを愛しているのだ。よもや、間違いもあるまい。手紙の内容も、私が見るのである。今思えば、韓憑にも少し悪いことをした。あれを打ったのは、許しがたいことではあるが、蓋し私も奴に辛く当りすぎたかもしれない。

 何氏は早速書簡を書いたようであった。

こちらは淫淫とした雨が降り続き、大河も龍のように体を震わせております。本日、日は中央に位置いたしました。どうぞお体に気をつけて。》

 なるほど、連日のこの雨では、昼夜となく労働に駆り出される韓憑も、どこか体に障りがあるかもしれぬ。河も水かさが増し、雨止みの呪いをするものも出始めているという。

「しかし、『日が中央に位置した』とは? 天は雲に覆われ、日など久しく見ていないというのに、その位置などわかるはずがない。誰かこの意味がわかるものはいるか。」

 王は左右に意見を求めたが、答える者はいなかった。

「なんだ、誰もわからないのか」

「恐れながら」

 蘇賀がうつむき気味に答えた。

 この男、頭が切れ、治世軍略にその才を存分に発揮したため、かつての韓憑のように重宝されていたのである。

「おお、蘇賀。お前が私に意見するというのに、何故そのようにかしこまるのだ。思うことがあれば、言ってみなさい」

「はい。僭越ながら王、これは裏切りの手紙でございます」

「裏切り……」

 王の顔が曇った。

「雨が淫淫と降り続くとは、思い悩みながら慕い続けていることを言います。大河の水かさが増したことを言ったのは、行き来が叶わないことを嘆いているのです。中央に日が位置したとは、心に死の決意を固めた事を言ったのです」

「つまり、お前は何氏が私より韓憑を選んだと、そう言うのだな」

「そうとしか読めないと言っているのです」

 王の眉間には皺が深く刻まれた。全身を震わせ、そしてなんとか声を絞り出すようにして言った。

「そうか、私はお前を、賢しいと思って重用してきたのだが、そうでもなかったようだ」

「いえ、決してそのような……」

「黙れ。おい、この男を連れていけ」

 何氏が私を裏切るなど、あろうはずがない。

 蘇賀は馬鹿であった。私と彼女の思いの深さを知らないから、あのような戯言を吐いたのだ。

 私たちは一年の間、毎夜欠かさず睦言を交わしてきた。

 私は一度たりともあの女を打つような真似はしなかった。それどころか、彼女の脂肌に触れるのは、未だに躊躇いを覚えるほどである。

 私は韓憑とは違う。欲のはけ口などでは決してない。心が欲しいのだ。私は渾身、彼女を愛し続けてきた。

 彼女もまた、文句の一つも口に出すことはなかった。

 それを知らずに蘇賀は。

 もう日のことなどどうでもいい。

 どの道、私にわからないような手紙を、あの韓憑がわかるはずないのだ。ああ、私はあの女が愛おしくてたまらぬ。欲するものならなんでも与えてやる。

 怒りにせよ愛情にせよ、人は強く思いすぎると、何に対して激情を馳せているのか、よく分からなくなるようである。

 何氏を愛で始めてから、王は無暗に人を殺すことはなくなった。

 一種のしらけといえよう。

 

 

  五

 

 その夜、王は何氏の部屋に渡り、尋ねた。無実を確信しているとはいえ、やはり気になったのだ。

「何氏よ。手紙を拝見する限り、あなたは韓憑の体をよほど案じている様子。どうだろう、奴を人夫の役から解いてやってもよいのだが」

 無論、これは王の一計。少しでも喜ばしい態度を見せたならば、いかな寵愛の妃といえども、さすがに疑いを抱かざるを得ない。

 何氏は少し顔を伏せて答えた。

「その必要はございません。あの男に未練など、あろうはずが。ただ、一年苦役に課せられ、雨雪問わず粉骨している身、恐らくもう長くはないでしょう。悲しいかな、今や人夫一人とはいえ無駄にできない状況ゆえ、檄文を送ったにすぎません」

 聞いて王は、変わらぬ愛を胸に抱いた。

 色めきたる容貌に加え、愛国の志まで。私はこの人を生涯離しはしない。

「なるほど、そういうことでしたか。あなたは心までも麗しいのですね」

 一抹でも何氏を疑ったことを恥じねばなるまい。王は一人、悪いことをしたような気になり、誤魔化すために、思いついた適当なことを口にした。

「そういえば、私があげた衣、あれはどうしています? 最近見ないようだが」

「それは……」

 と何氏。思いがけない質問に驚いた様子。王は訝しげに何氏を見据え問うた。

「どうしました?」

「いえ、実は連日の雨の中、庭の花が気になり少し外に出たところ、あっと躓き……」

「なるほど、汚しましたか」

「申し訳ございません。王より賜りました品を……、怖れ多く、終に申し出る勇気が得られませんでした」

 しばらく鹿爪らしくしていた王は、ふと顔をほころばせ微笑んだ。

「ふふ……ははは、何といじらしいお方だ。そんなことは気にしなくてもよい。たかが衣一枚、なんとでもなります」

「しかし、あれは王が私に初めて下さった品。薄紅の色も、絹の肌触りも気に入っておりましたのに……」

「では、同じものを用意しましょう。実はあの衣、私も気に入っていたのです。あれを着けたあなたは、妲妃もかくやという美しさでしたよ」

 何氏、顔を赤らめ、

「いえ、あの、そんな。ただ王の篤い御心遣いに感謝いたします」

 その様子のいちいちが可愛く思われてしかたないのは、王。

しばらく黙って何事かを考えていたが、遂に心に決めた様子で、

「実は次の祭日に、あなたへ大きな贈り物をしようと思っていたのです。きっとお喜びになるでしょう」

 と微笑んだ。

「まあ、なんでございましょう」

「ふふ、重陽の日を楽しみにしておられるといい。そうだ、その折、例の衣を着てきてください。よい記念です」

 何氏は承知の代わりに莞爾と笑い、衣を床に落した。

 顔をほころばせた王は、少しためらいながら何氏の肩に手をかけた。

 数日の後、韓憑自害の旨が王の耳に届けられた。

 夜、自らが作り上げた城の高台に立ち、眼下を一瞥見下し、監視が止める間もなく飛んだのだという。

 王は内心安堵した。

 これで私の恋慕を妨げる者はいなくなった。何氏の中に、少なからずあり続けたであろう、元夫の残滓も消えうせた。

 韓憑が自ら命を絶ったのは、僥倖であった。

 何氏は人夫一人さえ無駄にはできないといったが、あの男の代わりくらいはいくらでもいる。

 どの道、いつかは殺してしまおうと思っていた。

 殺さなかったのは、韓憑への憎しみよりも、何氏への愛しみが強かったからなのだ。

 何氏を傷つけた下種が、未だに時を同じくしているのがたまらなく嫌だった。

 何氏は穢れた。

 穢された。

 薄汚い、臭気を漂わせた、ぬめぬめとした蝦蟇の油で。

 何氏を腕に抱きながらも、私はかつての夫を忘れることができなかった。この腰は韓憑に抱かれ、この口を韓憑が吸い、この頭を韓憑が撫で、この乳を韓憑は舐めたのだ。

 その韓憑が死んだ。何氏は解放されたのだ。

 これで私は心置きなく何氏を愛することができる。何氏もまた、亡霊に心を惑わされることなく、愛に身をゆだねることができるであろう。

 心の中の澱が、すっかりなくなったようだ。

 

  六 

 

 宋は重陽節句を迎えた。

 宮中では華やかな酒肴が用意され、女官、侍従が右へ左へ大忙しである。

 庭には細かな秋雨が降り咲き、桐の葉を散らしている。今日は庭師も臣下に交じって奔走しているため、階に落ちた赤い葉は掃き去られないまま、重陽の宮を赤く彩っている。

「これもまた優雅ではないですか」

 王は隣に腰を下ろす何氏に向かって尋ねた。何氏は、秋には不釣り合いな薄紅の絹衣を身に纏い、じっと俯いていたが、

「ええ。七夕には、嘆きの涙を催さしむるという憎らしい雨も、この重陽には、いいものです」

 と目を潤ませ、ほぅと溜息をついた。

「最近のあなたは元気がありませんでした。久しぶりにあなたの笑顔を見られて、私も嬉しいですよ」

「秋の寒さは身に沁みます」

 そういうと何氏は王の胸に手をやり、

「けれど、あなたの体は暖かい。しばらく、こうしていてもよいですか」

「勿論です」

「心臓が早鐘のようでございます」

「悪いお人だ。今日の夜、例の高台へ登りましょう。あなたに渡したいものがある」

 しなだれかかる何氏の体に手を添え、王は囁いた。

「楽しみにしておりますわ……。それまでに晴れると良いですね」

「なに、天帝も重陽ばかりは逢瀬を手伝ってくれましょう」

 杯に並々と注がれた酒を、く、と飲みほし、庭に目をやった。

 あの日、放り投げた石は、今日宮中に帰ってくるだろう。

 あの石は砂になどなってはいない、今も昔も月のままであったのだ。

 今度は投げ出したりはしない。

 ああ、何氏の言うとおり、夜までに晴れるといい。

 今宵は満月なのだ。

 夜。

 王は、何氏と数名の従者を引き連れ、韓憑が作り上げた高台へと登った。

 空は澄み渡り、満月が白々と高台を照らしている。

 時折頬をかすめる風が、心地よい。

 くるう、くるうと鳥が鳴き、心が切なくなるような夜である。

「目を瞑って……、そうこちらです。いいですね、私が合図をしたら、目を開けて振り向いてください」

 王は何氏の手を取り、台の端へ導いた。

「どうぞ」

 何氏は目を開き、振り返り眼下へ広がる景色を一望した。

 澄んでいるため、遠くまでが見える。

 台の脇を流れる淮水には星々が映り、張騫が筏で渡ったという天の大河が現われた。

 民家には燈が灯り、空には星が輝き、見えるものすべてが天球のよう。

 さすがに壮観。

 王も、従者も、そして何氏も言葉を失った。

 全てが幻のようであった。

「これが私からの贈り物です。この城下、国、いや、星々全てをあなたへ差しあげたかったのです」

「これが……」

 何氏の頬を一縷の涙が伝った。

 王は心から幸せな気持ちであった。

「これが、私の最愛の人、韓憑が見た最後の景色だったのですね」

 ふわり、と何氏の体が宙に浮いた。

 一瞬のことである。

 王はなんとか衣を掴んだ。しかし、何氏の体を一秒も止めておくことはできなかった。

 腐っていたのである。

 何氏は人知れず、衣を腐らせていたのである。

 鈍い音を立て、何氏の体は、宋の大地の塵埃となった。

 

  七

 

《宋の紂王は卑しくも、私の体を御役立てになりました。

 あなたの醜い欲望を、私の体を使って、お晴らしになりました。あなたに心を許したことなど一度もありませんでした。

 韓憑を、最愛の人を私から奪ったあなたなど、どうして愛することができましょうか。

 あなたの体は暖かかった。けれども、心は冷徹でした。私は、一生あなたの下では温まりそうにありません。

 以前韓憑に打たれて辛かったろうとあなたはおっしゃいました。

 全く辛くなどなかったのです。私はあの人に打たれて嬉しかった。

 苦しみを分け合えて、嬉しかった。

 あの人が私を心から愛し、私もそうだったからです。

 あなたには、一生わかりますまい。

 けれども、あなたに少しでも暖かい心が残っているのならば、私の死体をあの人と一緒に埋めてください。

せめて死んでからは、私の体を私のために役立てたいのです。》

 

 王が新しく与えた衣は、真新しいままで部屋に置かれていた。しかし、その裏には、王への恨み事がつらつらと書かれていのである。

 私が欲しかったのは、体ではない。心だったのだ。

 悔しく、悲しく、歯を食いしばれども、その口を通して溢れてくるやるせなさをぶつける相手は、王にはいない。

 一秒であろうと、ひと所に留まることができない。動いていなければ、引いて行かない怒りの氾濫。或いは、苦しみの氾濫。

 なぜ何氏は韓憑を選んだのだろう。

 あの涎を垂らした韓憑を、何氏は愛していたというのか。尻を打たれている時も、本気で喜んでいたというのか。私が頭を撫でたとき、何氏は嫌がっていたのか。

 なぜ私では駄目だったのか。

 私は心から何氏を愛した。ひと時たりとも、放ってはおかなかった。常に心には何氏がいた。

 なのに、あの女は心の中で、例の汚らわしい嬌態を思い出していたというのか。韓憑が忘れられなかったというのか。

 冷徹。

 心が冷徹。

 私の贈り物の裏に書かれた言葉。心が冷徹なのはどちらだ。お前は、私の贈り物を腐らせていた。こんなものいらなかったというのか。そこまで嫌だったのか。

 転んで、汚したというのも嘘だったのか。気に入ったという言葉も嘘であったのか。

 何よりも、恥ずかしい。恥だ。よくも私を騙してくれた。愛を捧げた私に泥を塗ってくれた。

 悔しい。苦しい。

 王の心の中には、名状し難い感情が渦巻いていた。

 名前がつけられる以前の、原始的な感情。名前がつけられていないからこその、混沌とした感情。もし名前がつけられたら、刹那として消えてしまいそうな感情。

「村人どもに命令しろ。あの女は、韓憑の墓と離して埋めるのだ」

 あの女は私を裏切った。ならば、その遺言を聞いてやる必要もあるまい。

 そうだ、何氏は韓憑に心を操られていたのではないか。そうだとすれば、死ねば呪いは消えるはず。

「ただ、塚は向い合せに作るがよい」

 愛し合っているというのなら、死して後、二人は一つにならんとするだろう。

 しかし、いくら韓憑が何氏と逢おうとすれど、何氏が拒めば叶うことはない。

 もしも、二人が再び一つになるようなことがあれば、その時は私も邪魔をすまい。

 私は何氏を、もう一度信じよう。

  

  八 

 

 何氏を地面に埋めてから幾晩と経たぬ後、双方の塚の端から、梓の木が生えてきた。

 始めの頃は、三寸ほどの芽に過ぎず、通り過ぎる村人の幾人かが、おや、と不思議に思う程度に過ぎなかった。

 これが十日も経つと、一抱えに余るほどまで育ち、幹が徐々に、相手の塚に向かって曲がってきた。

 梓は天に向かい、真っ直ぐに屹立する木である。

 この不思議な木のことは瞬く間に村中へ広がり、人々は寄り合い寄り合い、頭を捻って何事かと考えた。

 見る見るうちに枝は交錯し、複雑に絡み合った。互いの木が、待ち侘びていたと言わんばかりである。

とある村人が、根元を掘ってみると、その根も、人間が足を絡め、睦び合うが如く、うねりにうねっていた。

 かくて、二つの梓は、一つの樹となった。

 枝の先には、いつしか一番の鴛鴦が住まうようになった。ねぐらとしているのだろう、いつまで経っても木から離れようとはしなかった。

 鴛鴦は互いの首をさし交えながら、昼となく、夜となく、きゅうきゅうと鳴いた。

 それは、互いを慈しむような声であった。

 長らく離れ離れになっていた夫婦が、再会を喜び合うような声であったとも言う。

 ここにおいて村人たちは、韓憑と何氏を哀れがり、木に「相思樹」という名前を付け、村の宝として大切に育て上げたと言う。

 相思とは、おおよそこのようなものであろう。

 戦国の世に入り、北狄南蛮が村へ流れ込むにつれ、木は枯れて朽ち、後の世には、ただ相思という言葉だけが残った。

 果たしてこの話は、康王の耳に入っただろうか。

 それを知るすべはない。

 康王の名は、人情を知らぬ暴君として残るばかりである。

 

(捜神記による)

 

高校3年生創作ノートより