ホドロフスキー・オールナイト

ホドロフスキーのオールナイト上映会にいった話。

物語の結末にふれる部分があります。

 

昨日、京都のみなみ会館アレハンドロ・ホドロフスキーのオールナイト上映会に行った。12月に新作『エンドレス・ポエトリー』が公開されるので、その記念ということだ。

みなみ会館とはとても古くからある映画館で、千本日活のような変わり種を含めても、京都でもっとも古くから存在している映画館のひとつ。

よくオールナイト企画(馴染みのない人のために説明すると、夜11時くらいから朝までぶっ続けで映画を見ようという楽しい企画)や、映画関係のトークイベントをしているので、映画好きにとっては聖地である。シアターのドアにも、様々な著名人のサインが書かれている。

とはいっても、ぼくはあまり映画というものを見てこなかったし、見るにしてもMOVIXだとかTOHOだとかのシネコンでしか見ていなかったので、そんなに知悉しているわけでもなかった。

はじめてここを訪れたのは銀杏BOYZのライブ映像集『愛地獄』が上映された時のこと。まだ働いていて、仕事をやめる寸前のたしか2月だった。職場で唯一仲が良く、音楽の好みがあった先輩が、「退職祝い」ということで連れてきてくれたのだった。はじめて峯田和伸を見たのも、はじめて彼の歌声を目の当たりにしたのも、みなみ会館だ。その日は隣の松屋でおろしポン酢牛飯を食べて帰った。脳から液体がどばどばでていた。

あれから3年たち、あらゆる状況が様変わりした。数年ぶりに近鉄に乗れば、大学時代を思い出し、ああ~と思ったりもする。京都駅はJRよりも近鉄の乗り場のほうが、なんとなく高級感がある気がする。フランスの駅みたい。

 

前置きが長くなったけれど、ホドロフスキーだ。

映画のことはほとんど知らないけれど、なんとなくカルト映画の監督ということで名前くらいはどこかで聞いていた気がする。

上映作品は『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』『サンタ・サングレ/聖なる血』の三本。これまでに映画を続けて見たのは2回までだったので、アルバイト終わりだということもあって、エスタロンモカを投入して気持ちを高める。周りからはモンスターエナジー系の匂いがしていたので、挙国一致してホドロフスキー脳にしようとしているみたいで楽しい。

はじめに館長からの挨拶があった。前日の12月1日に、みなみ会館閉館のアナウンスがあった。老朽化改修の費用が捻出できない、ということらしい。先日もJASRACの云々があったけれども、文化が消えていくのはさみしい。ぼくはせめて、と思って本は買うようにしているのだけれど、好きなものにはどんどんお金をかけなければ消えていってしまう、というのは意識しなくては、と思う。家とか車とか服とかどうでもよいけれど、本は消えてほしくない。

それでもしんみりとした感じもなく、むしろあたたかな空気の中、上映がはじまる。

 

『エル・トポ』

 

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 砂漠の映像にはじまり、馬に乗ったガンマンと子供の会話。

「お前も一人前の男だ、母親とおもちゃを埋めなさい」

そういって子供は母親の絵とおもちゃを埋める。画面にはクローズアップされた母親の絵と去る父子の後ろ姿の静画。

もうこの時点で「あ、これは好きなやつだ」というアンテナがばりばりとはられた。

続くシーンでは砂漠の街に横たわる大量の人間と赤色。首吊り死体のミュージアム。まだ5分とたっていないだろうが、ぼくは席から身を乗り出していただろう。夢野久作の「死後の恋」でもそうだけれど、こういう舞台装置は動悸がするくらい好きなのだ。『エル・トポ』は、『ホーリー・マウンテン』もだけれど、それぞれの場面が強烈な一枚の絵として提示される。例えば冒頭の埋まる母と去る父子なんかは、サルバドール・ダリの絵画のようであった。

動画として、自然を映すのではなく、静止画の連続であるということを意識して、印象的な映像を繰り広げる。あたかも象徴的な、「普通ではない」絵の展示されている美術館を、早足で観賞しているような気分だ。普通の映画なら「印象に残ったシーン」とは物語のある抑揚の一点を指すことが多いように思うけれど、ホドロフスキーの場合は、物語関係なくそのコマ、動作、色、のひとつひとつが印象的なのだ。映画における静画とは、文章においては言葉であり、その意味で、ホドロフスキーが「詩人である」というのは間違いなく事実だろう。

この静物としての一面(しかもそれはリアリズムではなくシュールレアリズム、マジックレアリズム風である)、それからのちの、例えば『サンタ・サングレ』で顕著な暗黒舞踏のようなねっとりした動き、前衛バレエ的な動きの動的な一面の二面性がホドロフスキーの魅力として、ひとつある気がする。厳密にいうと二面性というより、「抽象的な動きの静画」という入り組んだ形であるのだけれど。

映画にかえって、主人公のガンマンは悪魔的な強さを誇り、悪者をばんばん殺していく。黒衣のカウボーイ然とした見た目もかなり格好良く、誰なんだこの役者は、と思っていたらホドロフスキー本人でびっくりした。細い脚とか、ついつい見てしまう。

村人虐殺の張本人を殺害したエル・トポはあっさり息子を捨て、女性と流浪の旅に出る。

ここからがまるで少年漫画のような部分で、女は「強い人にしか興味がない、砂漠の銃の達人を殺して!」と砂漠に住まう4人の達人の殺害をねだる。

これは、オタクだからなのだろうけれど、敵側の四天王とか五聖刃とか十本刀とかそういう幹部集団みたいなのは、もうでてくるだけで拍手喝采だ。

この4人も、ちゃんとキャラが立っていて、銃弾を透かすヨガの達人、繊細な天才のマザコン男、音楽と兎を愛する男、仙人。みんなエル・トポより格上だけれど、彼はだまし討ちで勝っていく。

最後の仙人にだけは完璧に「負け」て、彼は気が狂う。

ここまでが前半。後半は洞窟のフリークスたちに、知らぬ間に「神」として崇められるところから始まる。

捨てた子供との再会もあるのだけれど、印象的だったのは彼がエル・トポを「父」ではなく「師」と表現したこと。

フリークスたちを解放するために道化を演じて金を稼ぐエル・トポ。もうかつての傲慢なかっこよさはない。

最後には、野に放たれたフリークスたちが銃を乱射され、死に、すべてが水泡に帰したエル・トポは焼身自殺する。焼身自殺ってエモくないですか。Rage Against The Machineの『Rage Against The Machine』のジャケ写で有名なティック・クアン・ドックとか。

 

Rage Against the Machine

Rage Against the Machine

 

 

この燃やす、っていう行為もホドロフスキーの中によくでてきて、例えば『ホーリー・マウンテン』で札束を燃やす場面であったり、『サンタ・サングレ』で母の記憶を燃やすときであったり、彼の中で火は「喪失」の意味合いをもっているのかもしれない。これは日本で火葬の文化に触れたであろうことも、ひょっとしたら関係があるのかもしれない。

 

ホーリー・マウンテン

 

ホーリー・マウンテン HDリマスター版 [Blu-ray]

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『エル・トポ』の興奮醒めやらぬまま、そのまま休憩時間に入ったのだけれど、誰かが吐いたらしくて館内に嘔吐物の匂いが広がって最高の空間だった。

ホーリー・マウンテン』は、2016年に読んだ小説の中でもっともよかったルネ・ドーマルの『類推の山』の映画化作品らしくて、楽しみだった。

 

類推の山 (河出文庫)

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ちょっとの映像トラブルののちにはじまったのが、女性二人と導師の謎の宗教行為で、「ああ、最高」となる。

ストーリーとしては、青年の陰茎を切り取ってコレクションしたり、子供を戦争へ導くためのおもちゃを作ったり、おかしな趣味をもつ富豪たちが、不死の賢者に取って代わるため「山」を目指す、という話だ。こちらもやっぱり四天王的なものがカルト版『水滸伝』みたいな話の中ででてくるので楽しい。次はどんな人間なのだろう、と身を乗り出してみてしまう。

『エル・トポ』よりいっそう悪夢的で、絵画的なので、印象に残った映像だけ列挙しておく。

キリスト像の足に風船を結んで、空に飛ばす。

・大量のキリスト像に囲まれた部屋。

・戦争のおもちゃを作る女が道化から黒衣に着替えるカット。

・アライさんとフェネックのごとく山へ登る団体を追いかける女性とチンパンジー。

・最後

ロイ・アンダーソンの『散歩する惑星』でも思ったけれど、キリスト教をネタにしていく映画は最高だ。

 

散歩する惑星 愛蔵版 [DVD]

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最後は「これは映画だ。われらには現実がある」といった形で、メタ的に終わっていく。『類推の山』は読むと元気が出てくるのだけれど、その「生への肯定」感を、こういう形でやったか、と素直に驚いた。寺山修司の『田園に死す』を想起した。

 

 

寺山の時代の前衛界隈では、『エル・トポ』を見なければ前衛を名乗れない、という風潮があったらしい。次の『サンタ・サングレ』では意識的だが、『エル・トポ』にも表現されていた、「母への絶対的/妄信的な愛」は寺山ともかぶってくるところだ。

このメタへの意識、それから抽象的な連想、なぜか根本に流れる少年漫画的な精神性に、ゼロ年代の諸作を読んでいるときと同じようなこころの動きが起こる。

 

『サンタ・サングレ/聖なる血』

 

 

はじめに都市の空撮があって、おお、方向転換か、と思ってちょっと不安になったけれど、両手を切り落とされ強姦致死させられた少女をご神体にすえる宗教が登場してきて、ああ、変わってないわ、と思う。

前の二つに比べれば物語が明確で、かつ胸にくる描写もあるので、肩ひじをはらずにみられた。フリークスはやっぱりでてくる。フリークス・銃乱射・火・悪夢。これがホドロフスキーなのだろう。

母を父が殺し、父が目の前で自殺するところを見たサーカスの少年・フェニックスは気が狂い、精神病棟に入れられてしまう。そうして彼は母の幻影によって操られ、殺人を繰り返す。このあたりはヒッチコックの『サイコ』を思い出す。

 

サイコ (字幕版)

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母だと思っていたもの、慕ってくれた小人、サーカスのピエロたち、彼らがすべて幻影だとわかる結末の物悲しさといったらない。救いにきた唖の少女が幻ではなかったことだけが唯一の救いだ。

それにしてもサーカス≒見世物小屋のフリークスたち。淫乱な女。魔術使い。少女。ときたら、どうしても頭に浮かんでくるのは丸尾末広の『少女椿』だ。さきほどの寺山修司もそうだけれど、このあたりの影響関係をみていくのは、すごく楽しいだろうなと思う。というか、今度やりたい。

 

少女椿

少女椿

 

 

フランスのグラン・ギニョルであったり、ヒエロニムス・ボスなどのネーデルラントの画家、レオノーラ・キャリントン(『ホーリー・マウンテン』は彼女の『耳ラッパ』に似ているな、と思ったらやはり交流があったらしい)やアンドレ・ブルトンシュールレアリスト、このあたりの人間関係、文学史の動きは非常に面白いので、自分のためにいろいろ見てみようかなと思う。特にヒエロニムス・ボスは塚本邦雄も好きだったようで、日本の前衛に与えた影響は少なくないはずだ。

 

耳ラッパ―幻の聖杯物語

耳ラッパ―幻の聖杯物語

 

 

ともあれ、脳が活性化するよい上映会だった。思わず九条のみなみ会館から京都駅まで歩いてしまった。朝の5時から半分スキップで歩く男がいたら、それはぼくであった可能性が高い。

12月下旬にはルイス・ブニュエルの上映会が東京であって、そのためだけに東京へ行こうかどうか迷うくらい気になる。今年はあとベルイマンを見たいな、と思う。

映画はほとんど見てこなかったので、いつでも目の前に金・銀・瑠璃色の山がねむっているようでうれしい。

久しぶりによい夜だった。もちろん次の日は頭痛によって、グロッキーになった。

人生だ、これは。