かんざし第三号感想

94年生まれだから、櫛でかんざし。おしゃれです。

いくつか印象に残ったものについて書いておきます。

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写真はtwitterよりお借りしました

 

この土地のどこかに鳥の国があるといふあなたの嘘ためらはず/浅野大輝

 

毎年毎年渡り鳥はどこへいくのだろう、と不思議に思う。冬を越すためにあたたかいところへ行くらしいことは知っているけれど、じゃあそれはどこなんだといわれると答えようがない。「あなた」はどこが鳥の国なのか、ということは言っていない。ただそういう国がある、ということを言っているだけだ。これは悪魔の証明だ。「嘘」とは言ってはいるけれど、ほんとうに嘘なのかは永久にわからない。嘘はお伽噺となり、物語となる。嘘をためらわずにつく「あなた」は物語なのだ。翼をもったものだけの国、それを詩の国といいかえることはやや飛躍しているかもしれないが、どこかにある自由の国を信じて生きていくのだろう。

 

 

火葬場でこの頭骨を砕く日がいつか来るかもよ 君を抱きつつ/吉村桃香

 

ぼくのいったことのある火葬場ではあらかじめ頭蓋骨は取り除かれていて、首から下の骨だけが台に寝そべっていた。獣でもそうだけれど、やはり「頭」というのは生を、表情を感じさせてしまうから、という配慮なのだろう。けれど、頭骨を砕くという言葉にはリアリティがあり、死までをともに過ごそうという意志がそこにはある。きっと頭を抱きしめているんだろうな、と思う。頭骨を砕く、というのは遺骨に残る生を砕くこと。死別を体得すること。永久に別れること。そこまでを「君」を抱きながら夢想している。

 

 

「神様」と呼ばれてた友達の名を思い出せなくても夏は来る/中澤詩風

 

頭の中では神聖かまってちゃんの「23才の夏休み」ががんがんかかっていた。友達なのに、名前が思い出せない。「神様」と呼ばれていた友達は、とても勉強ができたのかもしれない。球技がうまかったのかもしれない。裁縫が異常に上手かったのかもしれない。神様、The One。たったひとつの絶対者に、実は名前はない。神様は名前を忘れられたことによって、手の届かない憧憬の対象となる。過去が遠くなってしまっても、夏は来るのだ。そうして夏が来るごとに、神様はいっそう遠くなっていく。

 

 

いない上司の不満を隅で聞きながら注ぐラー油はゆっくり泡立つ/北虎叡人

 

たとえば醤油を醤油さしに入れたり、牛乳をコップに注いだり、ということは日常生活においてよく経験する。けれど、ラー油はだいたい小瓶のものを使い捨てるので、業務用のものを移すという作業はあまりしたことがない。なので、真っ先に思ったのは「あ、ラー油って泡立つんだ」ということだった。情景がありありと浮かんでくる。「油を売る」という言葉は油の粘性により、売るために客の容器に移し替えるのに時間がかかることが語源らしい。いない上司の愚痴に、主体は参加していない。けれど、ゆっくり泡立っていくラー油によって引き伸ばされた時間に、上司に対しての、そしておそらく不満をいう同僚への、度し難い感情がじわじわと芽生えていく。

 

 

助手席を倒されるときいつも雨 くび、しめてもいいですよ、って/緒川那智

ぐーっと助手席を倒される。その時に見えるのは倒した相手の顔、あるいは車の天井だろう。ワイパーの音は、アイドリングの音は聞こえないだろうか。きっとエンジンは切っている。車内にはふたりの息遣いと「くび、しめてもいいですよ」とささやく雨の音だけが響いている。この雨に、「羅生門」の雨を重ねるのはやや安直かもしれない。けれども、雨の圧迫感、行きどまりの感覚、それから傘を差そうが濡らされてしまうという強大な力に対しての受動、それらが一体となって、くびをしめてもいいよ、とふたりにささやきかける。くびをしめるという背徳的にみえる行為は、抗えない自然によって赦されている。

 

 

眼窩まであをぞら沁むる真昼間の卵生の紫陽花を飼ふゆめ/瑞田卓翔

 

卵生の紫陽花。きっとアメジストのような卵なのだろうな、と思う。そうして、この卵はきっと眼球だ。卵生の紫陽花の夢をみてしまうくらいの青空が、そこにはあったのだ。とんでもない歌だな、と思った。紫陽花を飼うって、どういうことなのだろう。枯れろ、といえば枯らせられることができるし、咲け、といえば咲かせられるのだろうか。他にも卵生の花はいるのだろうか。生物の体系がまるで変ってしまった世界。それを31文字で幻視させてしまった。すごい。

 

 

カタカナ語はあんまり好きじゃないけれどカヌレはいいな、みっつ食べたい/北村早紀

 

カヌレって写真で見ると小さいけれど、実際見るとなかなか大きい。おやつに食べるならひとつでも十分だ。けれど、みっつ食べたいのだ。これは、よっぽどよいのだ。「カタカナ語はあんまり好きじゃない」「カヌレはいいな」「みっつ食べたい」すべて自己完結している。自己完結しているゆえに、どこもまったく動かしようがなくて、ああ、たしかにカヌレはいいな、みっつ食べたい、と思う。カヌレはいいな、みっつ食べたいという気持ちになってしまう。この歌には魔力がある。

 

 

ちょい煙草吸ってくるわと言う人がグラスを軽く机にのせる/森本直樹

 

なんということはない情景なのだけれど、「軽く」という言葉がよくて、よくぞそこを切り取ったな、という気持ちになる。喫煙者を交えたカラオケではしばしば見る光景だけれど、それが言葉で切り取られると、一気に俯瞰的になる。たぶん三人以上なんだろうと思う。ちょい煙草吸ってくるわ、という軽妙な存在感は、グラスの置き方にもあらわれてくる。まさに煙のように行ったり来たりする人なのだきっと。

 

 

青春にへんな音する砂利がありその砂利を踏むわざと、いつでも/工藤玲音

 

青春は違和感の連続だ。大人たちによって塗装整備された道のはずなのに、ところどころに砂利が落ちている。その砂利を気にせずに生きていくことは可能だ。けれど、ねむるときに目玉はどこを向いているのか、あるいは普段舌はどこにあるのか、そういうことをいちど気にすると、いてもたってもいられなくなってしまう。その砂利はへんな音がする、と知ってしまったが最後、砂利の存在は頭から離れなくなってしまう。踏まずに気になるくらいだったら、わざと踏む。踏んでいたら、いつの間にかけもの道だ。いつしか塗装された道から外れるために、砂利を踏むようになる。そのぎみ、っともじゃむ、っともいえない奇妙な音を聞くと、いつまでも大人になれずにいられる。ほんとうはもう大人なのに。

 

 

東直子さんによる前号評が羨ましかったです。