きたみち、ゆくみち――2018年春

1月

自分を変えようと思ったのだ。

何かをするのだ、その「何か」を定めようと思った。前年のように天井をひたすら見上げて、自傷をして、そうして一年がすぎて、そのまま死んでいくのが怖かった。だから、ぼくは剛力で怠惰な性質を捻じ曲げようとした。だから、今年一年は、かなり無理をした一年であったように思える。

文学フリマ関連では、複素数太郎くんの『問題のある子』へ「破いて、ツインシュー」を寄稿する。「ゆきのまち幻想文学賞」に書いたものもサンプリングした。作中に書いたとある場面をフォロワーの人が実行したらしく、のちにその写真が送られてきた。虚構が現実を浸食する生々しい場である。

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個人誌『永遠ごっこ』に収録した「ゴドー、ゆるやかに歩く」に一部加筆する。あの小説は東日本大震災に影響を受けて書いたものだった。日常はとうとつに終わりを迎える。その現実を、「終わり」を奪われた戯曲『ゴドーを待ちながら』に差し込んだのだった。どうしてもこの小説は個人誌に入れたかった。ただ、あの震災からは7年の月日が経っている。だから、川上弘美の『神様』のように、アップロード・パッチをあてたのだ。

文フリ当日は喪服で参加した、『T2トレインスポッティング』へのオマージュである。京都を離れることはすでに決めていたので、京都とそれにまつわるすべての思い出を葬送しようとした。『永遠ごっこ』は27歳までのかみしのを殺すための本でもあった。四流色夜空くんや、K坂ひえきさん、複素数太郎くんたちと打ち上げをする。ひえきさんの「ガラスのブルースでも、最後は川へ行きますよね」という指摘に感情がかき混ぜられる。

『永遠ごっこ』の表紙、裏表紙はりりぃさんにお願いした。ぼくは「朝顔と月見草と女の子」というかなり抽象的な依頼の仕方をしたのだけど、りりぃさんはすべてをくみ取ってくれた。表紙の女の子、本物の朝顔に巻き付かれながら、偽物の朝顔を抱える少女。ぼくの似姿であった。

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この『永遠ごっこ』では大森靖子の「少女三号」という楽曲を一部もちいている。だから、ずっと好きであった彼女にDMを送った。使用快諾の連絡とともに「27歳まで生きてくれてありがとう」という一言をもらった。27歳まで生きていてよかったと思った。

短歌関連では、粘菌歌会を始動した。友人の猫のパジャマくんと、ひつじのあゆみさんと。彼等との出会いも、ほとんど奇跡に近いものであったけれど、彼らのおかげでぼくは2018年をやってこられた。ひつじさんについては、はじめて大阪は扇町公園で出会ったとき、ぼくはメンクリ帰りでシャワーも浴びていないし、パーカーを深くかぶっているし、かなり怪しかったのではないかと思う。

石井僚一短歌賞に送る連作を作り始めたのもこの時期である。この時期に見た『ヒエロニムス・ボス』の映画は、かなり影響をうけた。連作のありようについては、以前鈴木秋馬さんや田上純也くんと少し話したところだったけれど、ボスの『快楽の園』はそのひとつの解答を用意してくれた。以下は1月に印象に残った短歌。

 

笑いながらフェラチオをしてる君の目にうつるすべてを忘れたくない/ナイス害『フラッシュバックに勝つる』

 

お湯のことさゆってよべばおいしそう さゆ きみの中身を知りたいよ/初谷むい『ぬばたま2号』

 

眼窩まであをぞら沁むる真昼間の卵生の紫陽花を飼ふゆめ/瑞田卓翔『かんざし3号』

 

音楽ではアキシブ系というジャンルにはまっていた。同人のフーリンキャットマークというユニットのCDを買い、ひたすら聞いていた。

映画は『バーフバリ』がやはりよかった。王道というのは小賢しさを圧倒する力をもちうる。

皆既月食、冴え冴えとした月と赤い月に見送られ、濃厚なひと月は怒濤のように終わったのだった。 

 

2月

塚本邦雄の『詞華美術館』。この一冊の本の周囲をぐるぐると回っていたのが2018年だったのではないかと思う。「エモーショナルきりん大全」はこの本から色濃い影響を受けている。日記のメモをそのまま書いてみる。「塚本邦雄とぼくは思考様式が似ている気がする。観念的連想。異なる地域の文章(詩/散文)を橋のように繋ぎ、分節化される以前の深層に寄り添う。塚本はパトス的であると思う。後期ソシュール」この本を読んだ2日後に「エモーショナルきりん大全」と「ヴェロニカ、あれが空だ」というフレーズが受胎告知のようにやってきた。赤ん坊は、すでにぼくの中にいたのだった。

 

詞華美術館 (講談社文芸文庫)

詞華美術館 (講談社文芸文庫)

 

 

玲瓏の歌会では、塚本は実は太宰が好きだった、という話をきく。真偽は定かではないが、太宰の「憑依的才能(丸谷才一)」と、塚本のパトス的心性、そこの親和性は高いのではないか。吉岡太朗さんが塚本の評は、対象の歌に塚本がのりうつる、といったことを書いていたけれど、その在り方は、まさに太宰の小説の書き方と同じである。そこを繫ぐのは、フロイト斎藤茂吉ではないか、ということで、ここからはその周辺を読んでいく。茂吉の「実相観入」と塚本の「サンボリズム」は同一線上にある。塚本は言葉に、ロゴスの最下層にアクセスする。古事記ギリシア神話の類似を探る比較神話学、その現代的焼き直しが塚本の『詞華美術館』ではないか。フロイトの『精神分析入門』には「言語学者や精神医学者からよりも、むしろ詩人から学ぶところが多い」という一言があった。

ウェルベックの『闘争領域の拡大』も印象的だった。この小説といえば、もう死んでしまったはるしにゃんのことを思い出す。彼の存在は、杙のようにぼくの中に打ち込まれている。彼もまた、太宰治であった。尊大だった彼の「ぼくは文学のことはよくわからないけれど……」というはにかみから、すでに数年離れてしまった。「ペニスであれば、いつでも切り取れる。しかしヴァギナの虚しさはどうにもできない

2月はずっと精神が悪かった。

フォークナー『アブサロム!アブサロム』の解説「現実の事柄(アクチュアル)を聖書外典アポクリファル)のような神話に」という一文が気にいる。

映画はパゾリーニの『デカメロン』がよかった。意地悪だ。

音楽では、zepp tokyo銀杏BOYZ大森靖子の対バンを見に行った。大森さんにも『永遠ごっこ』を渡した。ぼくにとっては二人のヒーローだ。「駆けぬけて性春」「非国民的ヒーロー」をうたう二人に、ぼくは自然と涙を流していた。ゴイステ時代の曲をやり、大森靖子はファンの一人の目をしていた。DAOKOが米津玄師と楽曲を製作するように、夢眠ねむオザケンのMVに出るように、大森靖子が銀杏と対バンするように、愛を続けることは無為ではないのかもしれない、と思わされたライブであった。こうしてぼくはぼくを生き延ばすことに成功していく。

 

花みたい、それはやさしい揶揄でした いいよ花ならお墓に似合う

 

この短歌はライブの次の日、横浜駅の花屋のポインセチアを見ているときにとうとつに降ってきた。感情が動くと何かができるのであった。

 

3月

初っ端から感情が悪化する。日記には「救われたい、救われない」という文字列が並ぶ。

「予が真に写生すれば、それが即ち、予の生の象徴たるのである」という茂吉の言は、ゴッホの「現実を描いたらそのまま神話となり、超越体験となる」というあり方、あるいは例のアクチュアルからアポクリファルへ、というあり方と重なって面白い。

未来の歌会に参加させてもらう。

歌会の心の動かなさについての話を、田上くんや秋馬さんとする。彼等と話していると、脳の底がかき回されて気持ちいい。

蒼井杏さんといちごつみを始めたのもこのころであった。『瀬戸際レモン』はぼくの中で、「よすぎて読めなくなりそうだから読まずに置いておく本」のひとつとして、心の神棚に挙げていた歌集である。だから、お誘いをいただいて感無量であった。はらはらとするいちごつみであった。

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粘菌歌会を円山公園で行った。酔漢に囲まれながらというのも、楽しかった。