血と地と

講談社文芸文庫から『現代小説クロニクル』というシリーズが出た。1975年から2014年までの文学の歴史を追おうという全8巻のシリーズである。

池澤夏樹世界文学全集もまだ読み終わらないまま、こちらに浮気した。

かなり久しぶりのブログ更新。

ぶっちゃけ死ぬほど忙しかったので、更新どころか本を読むことすらままならなかった。

多少慣れてきたので、更新してみる。

なんか、文章の書き方も忘れてしまった。

 

今回は「クロニクル」第一巻の一作目、中上健次の「岬」だ。

 

 

 

中上健次について語るためには、まず熊野について語らなくてはならない。

熊野とは、紀伊半島南端の地域をさすが、この熊野にはある特別な力が宿っている。鎌倉時代には「熊野三山詣」、すなわち本宮・新宮・那智の三所への参詣が流行した。本宮=阿弥陀如来、新宮=薬師如来那智=千手観音を詣でることで、過去・現世・未来の三世に利益を得ようとしたのである。ここには、例えば一遍が時宗を開いたり、小栗判官が蘇生したり、補陀落浄土があったり、八咫烏が飛び回っていたりと、何かと神秘的な伝説が多く残っている。

風土記』によれば、熊野は「隠国」と呼ばれ、死者の霊がこもる地として解釈されてきた。すぐ近くには天照大神の祀られる伊勢神宮があり、光の伊勢に対して闇の熊野として長く紀伊半島に存在してきたのである。

 

僕は一時期この熊野にめちゃくちゃ入れ込んでいて、二泊三日で熊野三山(+伊勢)弾丸ツアーを慣行したことがある。

京都を出発して、本宮にたどり着くまで約6時間。ひたすら電車やバスに揺られてたどり着いた熊野本宮大社は、鬱蒼とした木々に囲まれていた。これはすごいところにきてしまった、と思った。

 

行ってみてはっきりと感じたことがある。

熊野には「何か」がいる。

熊野には、生者と死者とが交歓してきた歴史がある。

僕は長野出身で、山や森が近くにあるけれど、熊野のそれとはやっぱり違う。

 

中上健次の「岬」は、この熊野を舞台にした物語だ。第74回の芥川賞を受賞している。

正直、ものすごく読むのにエネルギーのいる小説だ。

 

まず人物関係をつかむのに時間がかかる。

自分で相関図を作らないことには、ちんぷんかんぷんだ。気を抜くと「あれ?弦叔父って誰の弟だ?」「ん?親方って誰の夫だったっけ?」ということになる。

今のところ小説を読みながら人物相関図を作った作品は、これと『カラマーゾフの兄弟』だけだ。

 

それから、濃厚な臭気。

絶えず漂い続ける暴力とセックスの香り。濃厚な土と汗のにおい。「わきがのにおい」と描写される獣の匂い。嗅覚が激しく刺激される文章だ。

 

そして、童貞の青年がもつ強烈なエネルギー。

しかも、主人公の秋幸は、ただの童貞ではない。まず、欲望の権化である実の父親が、母を残して行方をくらませている。母は結婚を繰り返し、三人目の夫と生活している。腹違いの兄は自殺した。本作で「彼」と称される秋幸は、血のつながらない姉と生活しているのである。

秋幸は「路地」に蔓延する性的な力(≒血縁)を拒絶しながらも、徐々に実父の血が表立ってくる。

 

おれの顔は、あの男の顔だった。世の中で一番みにくくて、不細工で、邪悪なものがいっぱいある顔だ。

 

花も実もつけることなど要らない。名前などなくていい。

 

しかしながら、その「邪悪」が「花」となって「実」をつけ始める。

秋幸の就いている「土方」という仕事も象徴的だろう。土を掘り、コンクリートを流し込むことは、とりもなおさず土地(≒地縁)の再構築とつながってくる。

生まれながらにして土地と血に縛られた秋幸が、その両方を超越しようとしながらも、実父や姉、兄と同じような狂気を発露していくさまには、恐怖とともに空しさも覚える。

 

本文でも「すぐ熱狂する」と描写されている通り、たかだか100ページの文章とは思えない熱量が、この「岬」にはあふれている。

この熱の原因はどこにあるのだろう。

青年というだけではない。地理だけではない。熊野の「歴史」もまた、この物語に強固なバックグラウンドを提供している。姉の狂うきっかけは、「死者の声」であった。これは、生と死が錯綜する熊野だからこそ、現実味を帯びてくる。

それから、「路地」としての歴史もまた影響しているだろう。「路地」とは被差別地域、すなわち部落のことをさしている。その戦いについては、例えば水平社宣言などを一目でも見れば充分に伝わってくる。

 

あらゆる歴史=物語が内包されているからこそ、この「岬」にはとんでもないエネルギーが満ちているのだろう。

いろんなラリパッパな人たちがでてくるけれど、そのほとんどが強烈な「つながり」の犠牲者なのだ。秋幸はそこから逃れようと思いながら、のまれていくのである。

 

この作品の主人公は秋幸でも、姉でも、母でもなく、土地そのものなのかもしれない。

 

いわゆるエディプス・コンプレックスだとか、佐藤友哉押見修造を髣髴とさせる青年期の鬱屈、フォークナーに連なる「土地」の力、いろいろな「文学的」要素を併せ持つ「岬」、ひいては中上健次に惹かれる読者が多いのも納得だ。

もちろん、僕もその一人となった。

これこそが「物語」なのだと思う。

 

波女は僕を愛しすぎている。

 

この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。

 

いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎてゆくようにかつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。
あなたにそのことを話してあげよう。
わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。

 

ごめんね、僕はこれ以上大きな声で話すことはできないんだ。

君が、そう、僕が語りかけている君が、いつ僕の語りかけに気づいてくれるか、僕にはわからない。
そもそも、僕が君に語りかけているのに君は気づいてくれるのだろうか?

 

いきなりだけれど、ここに引用した文章には共通した感覚があるような気がしている。

言葉が体にすうっと入ってくるような、心のどこかが無意識に「あっ好きだ」とつぶやくような独特の感覚だ。

 

上から順に池澤夏樹の『スティル・ライフ』、ブローティガンの『西瓜糖の日々』、エンデ『鏡のなかの鏡』の冒頭だ。

つまり、上の3つの文章はすべて詩人によって書かれたものなのである。

国も年代も違うのに、まったく同じような感覚を読み手に(少なくとも僕には)抱かせるのだから、やはり詩人は言葉の魔術師だな、と思う。

 

なぜこんなことを話すかと言えば、今回記事にするオクタビオ・パスも詩人であり、その「波との生活」の冒頭にも同じような情感を抱いたからだ。

 

短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

 

 

海から上がろうとすると、すべての波のうちひとつだけが進み寄ってきた。ほっそりとして軽やかな波だった。他の波たちがひらひらする服をつかみ、大声で叫んで引き止めようとしたにもかかわらず、彼女は僕の腕につかまると、一緒に海から飛び出した。

 

どうであろうか。

この部分からもわかるように、「波との生活」は「波」に惚れられ、「波」と生活する男の話だ。

異類婚姻譚のひとつといってよさそうだが、「蛤女房」や「雁の草子」のような作品とは少し違う。

相手が無生物なのだ。

さらに言えば、異類婚姻譚に特徴的な「見るなのタブー」も存在していない。他の作品では、一般的に人間と動物の別れの原因は「見るな」というタブーを破り、相手の真の姿を見てしまうということにある。

この作品では、はじめから男は波を波として認識している。しかもそれを違和感なく受け入れ、扱い、愛している。

そして別れの原因は(幻想的な言葉に言い換えてはあるものの)波の変貌である。

昔は清純でかわいかったのに、年をとるにつれて意地が悪くなっていく妻に違和感を感じる夫……という、よくあるあれだ。

その点が、『御伽草子』にみられる異類婚姻譚と違っている。

ざっくりいえば、普通の恋愛小説みたいなのである。

 

女性を海にたとえたり、海を女性にたとえたり、という例はよく目にする。

でも、海と人間の恋愛の話にしてしまおうという発想は見たことはない。詩人ならではの発想ではないだろうか。

ドイツに詩人が多いのは、シュバルツバルトがあるから、という説をどこかで目にしたことがあったが、詩人は自然と調和した存在であるのだ。

波に包まれ、波と一体になるという体験は詩人の願望であり、同時に女でもある波と交わるという体験は男の願望でもある。

自然物との恋、そこでは性と詩人の願望が重なる。

 

波は月に影響をうける。

女性も月に影響をうける。

下ネタではない。あらゆる意味で自然の話だ。

木や石を女性と置き換えるのとは違ったしっくり感が、波にはある。

 

そういえば、オクタビオ・パスという名前、すごくタコっぽい。

波に惹かれるのも納得だ。

 

南部高速道路は閉鎖されました。

池澤夏樹編集の世界文学全集を買った。

 

短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

 

 目次を見て心躍った。コルタサル、マラマッド、ディック、アチェベ、ブローティガン、カーヴァー……。

この第一集は南北アメリカ、アジア、アフリカの傑作を集めているらしい。

これは第二集も買わなければならないと思った。

 

普段なら本一冊単位で感想を書くのだけど、この短篇集については一編一編が長編並みの濃さを持っているので、短篇ごとに思ったことを書いていきたい。

ということで、今回はコルタサルの「南部高速道路」。

 

 

「閉鎖系」というジャンルがある。

批評家の小森健太朗(『神、さもなくば残念。』)によれば、

〈閉鎖系〉というのは、ミステリで言えば、クローズド・サークルものである 

という。

ミステリーでは、クリスティーの『そして誰もいなくなった』や綾辻行人の『十角館の殺人』、純文学では村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』、夢野久作『瓶詰の地獄』、アニメまで視界を広げれば『灰羽連盟』などを「閉鎖系」作品としてあげることができるであろう。

つまり、何らかの原因で「外部」との接続が切断してしまった状況で繰り広げられる生活や事件を取り扱った作品を「閉鎖系」と呼ぶのである。

 

この「南部高速道路」もそうした「閉鎖系」作品に連なる一作ととらえることができる。

しかし、他作品と比べると、本作は明らかな異彩を放っている。

 

話は飛ぶが、僕は渋滞というものがそこまで嫌いではない。

ただ乗っているだけだった昔は嫌いだったが、運転するようになってからは、あのクリープ現象だけで進んでいくあの感じが結構好きだ。

僕は音楽を流しながら運転をするのだけど、普通は中途半端なところで目的地へ到着してしまう。だけど、渋滞中は好きなだけ音楽を聴くことができる。

そういうわけで、案外渋滞は苦じゃない。

 

ただ、その渋滞が一年以上も途切れなかったらどうだろう。

 

普通は考えられない。しかし、ありえた。

「南部高速道路」の舞台は片側六車線のパリへ通じる高速道路である。

そして用意された密室は「渋滞」である。

まずはその発想に驚かされる。1200の密室を考えた清涼院流水も(たぶん)渋滞を密室と考えてはいなかっただろう(でも清涼院のことだから考えてるかもしれない)

しかもそんじょそこらの渋滞とはわけが違う。

 八月のうだるような暑さ

の中で始まった渋滞は、いつの間にか、

 二、三日の間は雪が休みなく降り続いた

冬にまで突入する。

気づいたらもうコルタサルの世界だ。

 

コルタサルの小説はクラインの壺に似ている。

現実だと思っていたことが気がつかないうちに虚実になり、そうかと思っていたらあれよあれよと現実に帰っている。

 

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

 

 この短編集に収められている「続いている公園」はその顕著な例だ。

空想は現実になり、また空想に移り変わっていく。コルタサルに、現実と夢の間の境界線は存在していない。

 

「南部高速道路」も、渋滞という身近な世界が気づかないうちに幻想空間に突入している。

夏から冬へ。そんなに長い間飲まず食わずで生活できるはずはないから、閉じ込められた人間たちは、周囲の同じ状況に押し込められた人々と協力することとなる。

少ない食料を分け合い、水を分け合い、さらには恋をし、死人を看取る。

若者がいて、老人がいて、子供がいて、男と女がいて、他の共同体と敵対までする。

 

まるで村のような、原始的な共同体が近代の高速道路の中に現れる。

動かない車と、一足飛びに流れる外部の時間。しかしながら、共同体の「質」は近代から前近代へ逆行する。

結果として空間的にも、時間的にも、高速道路上の渋滞は外部と切断されることになる。

大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』も「閉鎖系」の傑作だが、時間感覚までは取りこんでいなかった。

 

いつの間にか読み手は、この空間がいつまでも続けばいいのに、と思うようになる。

しかし、そうはいかない。

なんといっても、時は近代。場所は高速道路。動くことが運命づけられているのである。

 なぜこんなに飛ばさなければならないのか、なぜこんな夜ふけに他人のことにまったく無関心な、見知らぬ車に取り囲まれて走らなければならないか、その理由は誰にもわからなかったが、人々は前方を、ひたすら前方を見つめて走り続けた。

なぜ、どうして、理由もわからずに車は無機質に動き出す。共同体は一瞬で瓦解し、別れのあいさつもないまま、かつての仲間たちは不特定多数に埋没していく。

 

実はこの小説には、人名が登場しない。

「ドーフィヌの若い娘」「プジョー203の夫婦」「タウナスの男」「シムカの若者」のように、車の名前で呼ばれる。

アルゼンチンの小説に日本の文化をとりこんで考えていいのかはわからないけど、一般的に名前を知るというのは、そのまま関係性の問題にとって代わられる行為だ。

名前を知られるということは、魂を握られるということだ。

逆にいえば、本名を知られない限り、関係が近づくことはない。

車の名称を人名として進行するこの話では、最初から関係性は放棄されていたのだ。どれだけ仲良くなっても、長い間共同生活を送っても、はじめから「よそよそしさ」が付いて回っていたのだ。

その「よそよそしさ」はそのまま近代性といってもいい。

共同生活を送っていたのは、人ではなく車だったのだ。

 

抒情とやるせなさを残しながら、閉鎖空間は無限に開かれてゆく。

近代に対する批評性を若干含みながら、南部高速道路の交通渋滞は正常化していくのだ。

 

たまには渋滞もいいんじゃないかな、と思わせてくれるマジックリアリズム小説の傑作だと、僕は思う。

『万葉集』の注釈書

レポートに忙殺されていたけど、それも終わって春休みだ。

ここ数日は万葉集古事記、それから古代歌謡の注釈書ばかり読んでいた。なかなか注釈書を概観してみることがないので、研究の流れが見えて面白い。中には以降の注釈書にまるで無視されている注釈もあり、一見トンデモのようだけど、それはそれで味があったりする。

そこで今回は中でも『万葉集』の注釈書をざっとあげてみる。自分へのメモ用も兼ねているけれど、国文学を研究する人の役にも立つかもしれない。

なお、注釈だけでなく斎藤茂吉の『万葉秀歌』のような、エッセイ調のものも入れてみた。

 

万葉集

・古注(江戸時代の注釈書)

万葉集管見……下河辺長流。全巻から抄出。徳川光圀に「万葉集の注釈してくれ」と言われて執筆した。

万葉拾穂抄……北村季吟。全歌。季吟は松永貞徳に師事していたが、その貞徳のお爺ちゃんは戦国一の悪人という評判の松永久秀

万葉代匠記……契沖。全歌。長流の後を継いでできた注釈書であるため、長流の注釈と重なるところも多い。

万葉集童蒙抄……荷田春満。巻2~17。契沖に学んで、独自な注釈を行っている。

万葉考……賀茂真淵。巻1、2、11~14。全巻をカバーしているわけではないけれど、ここまでにない新しく詳しい見解を加えている。

万葉集問目……本居宣長賀茂真淵の文通。全巻から抄出。

万葉集略解……橘千蔭。全巻。賀茂真淵に師事した千蔭が、本居宣長の協力を得ながら作り上げた注釈書。従って、真淵・宣長と重なってくる部分もあるので、全巻に注を付けているという意義も加えて、古注の中では重要だと思われる。

金砂……上田秋成。全巻から抄出。『雨月物語』などの読本の作者として有名な秋成も、万葉集の注釈書を残している。

万葉集古義……鹿持雅澄。全歌。契沖以来の研究の集大成として存在している。

 

ここまでが近世の注釈書である。ちなみに巻14の東歌について手っ取り早く全体を知りたいなら、桜井満万葉集東歌古注釈集成』が便利である。

 

・新注(明治以降の注釈書)

口訳万葉集……折口信夫。全巻。歌人であり、国文学者でもある折口による、万葉集の口語訳。

万葉秀歌……斎藤茂吉。全巻から抄出。茂吉の気に入った歌について、いくつかの解釈とともに紹介している。わかりやすい。

万葉集評釈……窪田空穂。全巻。通称「評釈」。後の注釈書にひかれることも多い。

万葉集全註釈……武田祐吉。全巻。通称「全註釈」。著者の武田祐吉は東歌に関して、「東歌を疑ふ」において、東国人の作ではないものも含まれているのではないかという論を展開した。

万葉集私注……土屋文明。全巻。通称「私注」。窪田空穂もそうだけど、歌人が注釈書を書くというパターンの注釈書は、内容も仔細に富んでいる。

万葉秀歌……久松潜一。全巻から抄出。茂吉のと同じ名前だが、こちらは講談社学術文庫で刊行されている。

万葉集全訳注……中西進。全巻。講談社文庫から刊行されていて、岩波文庫のものが刊行されるまでは持ち歩きできる万葉集として、よいものだった。文字は小さいが、注はしっかりしている。

万葉集全解……多田一臣。全巻。2009年刊行で新しい。それまでの注釈を踏まえた解釈がされている。

万葉集全歌講義……阿蘇瑞恵。全巻。2011年刊行で、今現在で最も新しい注釈書か。

 

ここまでが新注釈で、この他には『日本古典文学大系』『新潮日本古典集成』『新編日本古典文学全集』『新日本古典文学全集』の有名な全集系がある。この中の『新日本古典文学大系』を文庫化したものが、現在岩波文庫から刊行されている。

 

万葉集(一) (岩波文庫)

万葉集(一) (岩波文庫)

 

訳も注も付いているし、何より字が大きくて見やすいので、今のところ、持ち運びできる万葉集ではこれが一番だと思う。

一家に一冊どうだろうか。

 

古注釈、新注釈合わせて、特に重要だと思われるのは『万葉集略解』『万葉集古義』『万葉集評釈』『万葉集全註釈』で、少なくともこれらは参照したい。

 

最近では上野誠や清川妙による入門書も出ていて、万葉集に親しみやすい環境ができている。

 

 

 

清川妙の萬葉集 (ちくま文庫)

清川妙の萬葉集 (ちくま文庫)

 

これらや岩波ジュニア新書から出ている『万葉集入門』、図解雑学シリーズの万葉集などを足がかりに、万葉集の世界に足を踏み入れてみてはどうだろう。

 

万葉集入門 (岩波ジュニア新書)

万葉集入門 (岩波ジュニア新書)

 

 

 

楽しくわかる万葉集 (図解雑学)

楽しくわかる万葉集 (図解雑学)

 

万葉集、面白いよ。

折れた竜骨

ここ最近はほとんどレポートをやって過ごしていた。

万葉集の東歌についてだ。万葉集の巻十四に収められた歌。東国の人間が読んだ歌だ。1000年以上昔の歌だから、そもそもどこの土地で歌っているのかが分からないものも多い。

例えば巻十四冒頭の信濃國の歌。

信濃なる須賀の荒野にほととぎす鳴く声聞けば時すぎにけり

の「須賀」は、一体どこのことなのかわかっていない。この歌はそれだけでなく、「時」の意味も様々な解釈に分かれている。例えば農耕の時期であったり、帰京の時期であったり、逢瀬の約束をした時期であったり、最近ではほととぎすの鳴き声ではないかという説もある。

詠み手についても、歌いぶりが洗練されているため、この歌は都人が詠んだのではないかという説(賀茂真淵武田祐吉久松潜一など)と、素朴な歌いぶりで民謡として歌われていたのであろうという説(契沖・窪田空穂・斎藤茂吉など)と分かれている。

ほととぎすと「時すぎ」で声調がとれている上に、詠みぶりがあまりに実直なので、僕は恐らく民謡であろうと思うのだけど、たった一首の歌をとってもこんなにも解釈のわかれているのが面白い。全注釈にかかる労力はどれほどのものだろう。

無人島にもっていく歌集を選ぶなら、僕は『万葉集』を選ぶだろう。(『山家集』も捨てがたいけど)

面白かった注釈書・参考書をいくつか。

 

防人歌の基礎構造 (1984年) (筑摩叢書〈287〉)

防人歌の基礎構造 (1984年) (筑摩叢書〈287〉)

 

東歌と防人歌の違い、防人歌の集団性を知りたい人は。

 

万葉集の鳥 (1982年)

万葉集の鳥 (1982年)

 

万葉集には鳥がいろいろ出てくるけど、それぞれの生態や歌われ方について知りたい人は。

 

万葉集全講〈上〉 (1955年)

万葉集全講〈上〉 (1955年)

 

武田先生の「東歌を疑ふ」は、東歌は東国人が歌ったものとは言い切れないことを指摘した、刺激的な論文。

 

 

万葉集の注釈はそれこそ契沖からたくさんあるけど、講談社から出てる文庫のものが読みやすいし、訳も注もついているのでおすすめか。

 

万葉集(一) (岩波文庫)

万葉集(一) (岩波文庫)

 

もしくは岩波のものもいいかもしれない。「新日本古典文学大系」を文庫に落とした内容らしく、文字も講談社より大きいので読みやすい。

入門としては角川文庫から出ている上野誠先生の本や斎藤茂吉の『万葉秀歌』は、読んでいて楽しい。

最近はなんだか万葉集ブームのようなので、ちょっと嬉しい。

 

 

授業やレポートの合間を縫って、米澤穂信『折れた竜骨』を読んだ。

 

折れた竜骨 上 (創元推理文庫)

折れた竜骨 上 (創元推理文庫)

 

米澤穂信は結構好きで、そこそこ読んでいる中では『夏期限定トロピカルパフェ事件』が一番だったけど、今回更新された。

はっきり言って、ものすごく面白かった。

世界史が好きだった人間、自分だけのワールドマップや必殺技を作ったことのある人間は間違いなくはまる。

おそらく本作の制作目的は、作中で聖アンブロジウス病院兄弟団の騎士、ファルク・フィッツジョンが言うこの台詞に終着する。

理性と論理は魔術をも打ち破る。必ず。

ファンタジーのなんでもありな世界観の中で、論理的に解かれる謎。

それだけで意欲作なのだが、本作のすごいところはファンタジーとしても「お約束」を踏まえつつ、大満足の作品に出来上がっているところだ。

しかも、ミステリーとファンタジーの配合がうまい。例えば、証言者の聞き込みで島の様々なところに移動することよって、そのまま世界観が広がっていく。キャラクター作りのうまさは、米澤さんの過去作を見ても明らかだが、本作にも魅力的なキャラクターが多い。マジャル人の傭兵、ハール・エンマにはみんな惚れるだろう。戦闘シーンのアツさは、RPG好きにはたまらない。

ところどころで米澤さんの力量がうかがえる。

ミステリー、ファンタジー、中世ヨーロッパ、サラセン魔術、暗黒騎士。

好きな人はぜひ。

 

 

大学読書人大賞ノミネート作品を買うため生協へ行く。

この読書人大賞、第一回は『幼年期の終わり』、第二回は『好き好き大好き超愛してる。』、第三回は『夜は短し歩けよ乙女』、第四回は『天地明察』、第五回は『ハーモニー』、第六回は『南極点のピアピア動画』がそれぞれ受賞している。

今年のノミネート作品を見る限り、僕の予想では野崎まどの『know』が有力だと思う。

あるいは宮内悠介か米沢穂信あたりかなと思う。ただ僕は『know』と『何者』と『パンギン・ハイウェイ』しか読んでいないので、詳しくは何とも言えない。

せっかくの機会なので読んでみることにする。

 

 

帰ってからは夏目漱石の『門』を読む。

 

門 (新潮文庫)

門 (新潮文庫)

 

 夏目漱石の初期三部作だ。初出は1910年。伊藤博文の暗殺、大逆事件など日本文化に大きな影響を与えた出来事が起こった年だ。

『三四郎』『それから』は、ともに西洋風なものに憧れる・寄生するという在り方に明治期の「日本」性が表れていると思った。しかしながら本作に、そのような「西洋」臭はあまりない。

もっと閉鎖的で、興味の対象が社会ではなく自己の内側へ向かっていっている。

宗助と御米の一生を暗く彩どった関係は、二人の影を薄くして、幽霊の様な思を何所かに抱かしめた。彼等は自己の心のある部分に、人に見えない結核性の恐ろしいものが潜んでいるのを、仄かに自覚しながら、わざと知らぬ顔に互と向き合って年を過した。

この「結核性の恐ろしいもの」こそ、『門』全体を貫く不穏な空気の正体だ。宗助と御米は、過去の罪から社会に背かれている。『それから』の結末があのような形であったからには、対象が社会から自己に、広さから深さに向かっていくのもある意味で当然なのだ。

漱石の文学が初期から後期へ移行する転換期であるということは、確かに伝わってくる。

印象的なのは、宗助が座禅を行ったにもかかわらずなにも変わっていないところだ。座禅とは、個の内面と向かい合うのに最も優れた方法だ。

「普通」、宗教的体験は新たな視座をもたらす。神との交信にしろ、トリップによる神秘体験にしろ、物語に宗教体験が出てきた以上は何かしら動きが生まれるはずなのだ。

でも『門』ではなんにも起きない。なぜなのか。それは二人の抱える罪の意識が「結核性」だからだ。明治における結核は不治の病なのである。

この「結核性の恐ろしいもの」を「自覚しながら、わざと知らぬ顔に互と向き合って年を過」ごした結果、宗助のような先延ばしの人間が生まれてくるのだ。

前には堅固な扉が何時までも展望を遮ぎっていた。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

門の下で待っている人は現代でも多くいる(僕もたぶんそう)。この状況を生み出す原因となる心の動きを探っていくのが、夏目漱石の後期文学ではないのかと、勝手に考えた。

「うん、然し又じき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。

「冬来たりなば春遠からじ」と考えるのが普通だ。けれど、『門』はこの一文で終わっている。この後ろ向きな心の動きは一般的には日本人のそれだろう。

『三四郎』『それから』そして『門』で、漱石は一貫して日本人を描いているのだ。だからこそ、彼は日本の代表的作家なのだろう。

とにかくこの『門』からは、とにかく生活は続いていくという、人生のつらみのようなものを感じた。

初期三部作はどうやら読む時期が良かったようで、すべて楽しく読めた。それぞれの作品の主人公に感情移入してしまった。僕のことを書いていると思った。辛い。

 

 

パトロネ

 

音楽を聴きながら、藤野可織の『パトロネ』を読む。

 

パトロネ (集英社文庫)

パトロネ (集英社文庫)

 

 藤野さんの小説は、『爪と目』『いやしい鳥』と読んできたけど、かなり好きだ。ただ、これは日本ホラー小説大賞じゃないのか、と思うこともしばしば。

藤野さんは「いやしい鳥」で第103回文學界新人賞を取っている。文學界新人賞といえば、文藝春秋が主催しているからなのか、固いイメージがある。でも、第104回には円城塔が「オブ・ザ・ベースボール」で、第92回には吉村萬壱が「クチュクチュバーン」で受賞していて、たまに変な小説が受賞することがあるらしい。

たぶん藤野さんも、その「変」なメンツの一人じゃないかと思う。

 

「パトロネ」も「いけにえ」も、読んでいると不安になってくる。

特に「パトロネ」に顕著なのだが、どうしてそう感じるのかの答えが解説にあった。

藤野さんの小説は、手当たり次第にピントが合っていく。そして容赦ないまでに正確に、言動や物事が描かれる。目の前に広がる場面の、手前だろうが遠くだろうが、あちこちにランダムにピントが合っていたら、どんな光景になるだろう。

さすが星野智幸さんだ。星野さんはこの藤野さんの特色を「リアリズムの氾濫」と呼んでいる。

「いけにえ」には次のような一節がある。

登美乃作品の不気味な点は、モノトーンの色彩よりも、花の描き方にある。彼女が一つの画面に描く花は、五輪から七輪である。一輪一輪異なる種が描かれるが、あやめ、ゆりも、あじさいも、ききょう、しゃくなげも、つばきも、曼珠沙華も、松虫草も、パンジーも、たんぽぽも、しろつめくさも、さくらさえもがほぼ同サイズで、しかもそれぞれ、もっともその花のかたちを認識しやすい角度で描かれている。

これはある意味でメタな描写だと思う。

彼女の文章、正確には視点には遠近感がない。物語を進めていくうえで必要な描写も、不必要な描写も、「同サイズ」で書かれている。奥行きの消失だ。

だから不気味なのだ。

「いつ」「どこまで」物語が進むのかという距離感がまるでわからない。そこには現在しかないからだ。

そうして、断続的な現在は、唐突なねじれを迎える。

「パトロネ」ならりーちゃんの登場、「いけにえ」なら悪魔の登場だ。

唐突にわれわれの世界とはパラレルな世界に入り込むのだが、視線は相変わらず現在だけをとらえ続ける。

そうして終わる。

ただサンドペーパーの上を歩かされているようなざらざらとした不安感だけが残る。 

僕はこの不安感を、現代アートに感じたことがある。アナ・トーフの「偽った嘘について」。無機質に静止画とテキストが次々映し出される映像作品だ。

藤野可織作品は、小説というよりアートに近いと思う瞬間がよくある。

なんというか、普通の美術館を歩いていたら、唐突に「スペースウンコ」に出会うような異質感が藤野作品にはある。彼女が美芸出身であるから、勝手にそう思ってしまっているだけかもしれない。

この中編集で一番異質感を感じたのは、日本からパリへの唐突な時間の消失でもなく、悪魔をとらえた後の仕打ちでもなく、次の場面。

腰を落とし、真下からネガを見上げる。そして、下の端にぱっと食らいつくと、くちびるだけでにじって口のなかに回収していった。

ざらざらな彼女が、つるつるのパトロネになろうとした瞬間だ。

気持ち悪い。