『群像70周年記念号』全作レビュー6~プールサイド小景~

前回は第三の新人安岡章太郎についてのレビューを書きました。

今回もまた「第三の新人」の代表的作家である庄野潤三について書いてみようと思います。

 

群像 2016年 10月号 [雑誌]

群像 2016年 10月号 [雑誌]

 

 

第三の新人」とは戦後に登場してきた小市民的な感覚をテーマとして描いた文学の集団です。

余談ですが集団として語られる文学グループはこののちに「内向の世代」という人たちが出てきます。しかしこの「内向の世代」はほとんど同時代というだけで、文学的な共同性はそんなにないというのが通説です。

もう少し後になると村上春樹村上龍中上健次といった文学者たちが同時代にデビューします。文壇ではこの人たちに「青の世代」というグループ名をつけようとしていたようですが、うまく定着することはありませんでした。それは、作風があまりに異なっていたからです。

今では文学は多様化しています。もはや文壇的な力は薄くなってきているのではないかと思います。

それを考えるとこの「第三の新人」たちは一緒に写真を撮るような仲良しですし、問題意識にも似たような部分はあるので、ある意味で最後の文学集団ともいえるのではないかと思います。

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ファウスト』だったり、徳間の二階だったり、トキワ荘のような小サロンは、文学においてはほとんどなくなってしまったような気がします。(ぼくが観測していないだけかもしれません)

 

 

話が少しそれてしまいましたが、この「プールサイド小景」もまた小市民的な感覚で書かれた佳作です。そもそも「小景」=ちょっとした眺めというタイトルにこじんまりとしたよさがあふれているように思います。

 

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

 

 

この小説の主人公は会社の金を使い込んでクビになってしまった男とその家族です。

1954年。戦争が終わって9年。前に記事を書いた大岡昇平原民喜と比べると、その主題がぐっと身近になっていることがよくわかると思います。

プールでは女子高生が水泳の練習をしています。

 

この情景は、暑気とさまざまな憂苦とで萎えてしまっている哀れな勤め人たちの心に、ほんの一瞬、慰めを投げかけたかもしれない。

 

仕事終わりにくたびれたサラリーマンが、高校生の溌剌とした声を聞いて元気をもらう。水着の女の子であるということがエロティックな意味を付加させているということはありません。

ここでは、単に仕事で疲れた大人とフレッシュな少女たちという対比があります。

 

このプールサイドには子供を連れた男性が遊びに来ています。

水泳のコーチは彼と彼の子供たちを見て、

 

あれが本当に生活だな。生活らしい生活だな。夕食の前に、家族がプールで一泳ぎして帰ってゆくなんて……

 

と感慨します。

しかし、この家庭には、他人のあずかり知らぬ問題がありました。先ほども書いたように、この男は会社の金を使い込んでくびになってしまったのです。それだけではありません。

どうして金を使い込んでしまったのか。彼はバーの女性に入れあげてしまったのです。

 

こういう女と人気のない夜の街路を散歩してみたらと云う漠然たる希望

 

なんのことはない、横領と不倫が幸せに見えるこの家族の裏にじっとりと隠れているのでした。

 

男が毎朝背広に着換えて電車に乗って遠い勤め先まで出かけて行き、夜になるとすっかり消耗して不機嫌な顔をして戻って来るという生活様式が、そもそも不幸のもとではないだろうか。

 

男の妻はこう考えます。人間疎外、とまではいかないまでも、仕事によってすり減らされる日常。主人公もプールの女学生をぼんやりと眺める「哀れな勤め人」に過ぎないのです。

高度経済成長期の日本、着ている物が軍服からスーツに変わっただけで、勤め人達はまた違った戦場へと駆り出されていきます。

疲れ、倦怠、そういったものからつい女性に逃げてしまう。ものすごく小市民的な心の動きではないでしょうか。

男は外へ働きに、女は家庭で家事を。この生活スタイルが、

 

いったい自分たち夫婦は、十五年も一緒の家に暮していて、その間に何を話し合っていたのだろうか?

 

というすれ違いを生みます。

戦争という大きなうねりが通り過ぎ、問題は家族、仕事、そういった小さなものになっていきます。

傍からみれば「これぞ生活」と思われる家族にも、仄暗い物語はあるのです。

 この小説の最後は離婚を彷彿とさせる意味ありげな妻のつぶやきで幕を閉じます。

 

実はこの小説を大学の講義で取り扱ったことがあります。

その時に、この小説の最後のシーンについての論争が起きました。「国文学科はこんなことをやっているんだ」という活写と、ぼくなりの考えの表明のために最後に触れておきたいと思います。

問題の場面は男が家を出て行ったあとのプールの描写。

 

プールは、ひっそり静まり返っている。

コースロープを全部取り外した水面の真中に、たった一人、男の頭が浮かんでいる。

(中略)

やがてプールの向う側の線路に、電車が現れる。勤めの帰りの乗客たちの眼には、ひっそりしたプールが映る。いつもの女子選手がいなくて、男の頭が水面に一つ出ている。

 

この「男の頭」を、主人公の入水自殺と受け取った人がいたのです。

一応中略した部分に、この男はプールのごみを拾うコーチであるということは明記してあります。

「やがて」という時間の推移を表す副詞があることから、中略以前の「男の頭」と以後の「男の頭」は別の人間を指すと考えられないことはありません。

そこで喧々諤々の口論が起きたわけですが、結論から言えばぼくはすべてコーチの頭を指していると考えています。

ただ問題はどうして入水自殺なんていう考えが出てきたかということで、それはそこまでの文章で自殺もありなんという雰囲気を、庄野潤三が作り出しているからです。

冒頭の女子学生であふれたプールの描写と、この最後の男の頭だけが浮いている描写は明らかに対比されています。

離婚を彷彿とさせる、とぼくがいったのはここに不穏な要素を感じ取ったからです。男が出て行ってから帰ってこないとは一言も書かれていません。しかし、この描写には不穏な雰囲気が満ち満ちています。

この不穏な雰囲気が、ありがちな家庭の崩壊を描いた小説と「プールサイド小景」を区別する部分だと考えています。

 

最後に印象に残った文章を書き残しておこうと思います。

主人公が誰もいない会社を訪れた場面。

 

尻が丁度乗っかる部分のレザーは、その人間の五体から滲み出て、しみ込んだ油のようなもので光っている。それはきっとその人間の憤怒とか焦だちとか、愚痴や泣き言や、または絶えざる怖れや不安が、彼の身体から長い間かかって絞り出した油のようなものなのだ。僕にはそう思えてならない。

椅子の背中のもたれるようになた部分、そのひしぎ具合にも、その男のこの勤め場所での感情が見られる。否応なしに毎日そこへ来て、その椅子に尻を下す人間の心の状態が乗りうつるのは当然のことではないだろうか。

 

仕事場に、人間たちは自分の感情を、ある意味で自分の半分を落っことしてきているのです。

つまり家に帰るのは自分の半身でしかありません。そういうところからすれ違いが生じてくるというのは、この小説が発表されて50年近くたっている今でも全く変わらないことなのではないかと思います。

働きたくないなあ。