竹取物語

池澤夏樹編『日本文学全集』から、「竹取物語」を読んだ。

 

 

 

訳者は森見登美彦。このシリーズは、古典の訳者に(個人的に)面白い人たちを採用していて、たとえば『方丈記』を高橋源一郎が、『平家物語』を古川日出男が、宇治拾遺物語町田康が、『雨月物語』を円城塔が……といった具合。

 

竹取物語である。

「物語出で来はじめの祖」であり、「かぐや姫」であり、「今は昔竹取の翁といふものありけり」の竹取物語だ。ぼくは、高校生のときに竹取物語の全文を初めて読んだ。もちろん対訳がついた、角川ソフィア文庫のものだった。

そのときは5人の皇子の婚姻譚ばかりが頭に残った。特に、蓬莱の珠の枝をつくらせた「くらもちの皇子」の台詞の中に「こがねしろがねるりいろのみず」というものがあって、その語感のよさにうっとりとして、ぷつぷつ呟いていた。あるいは燕の子安貝をとろうとして、かわいそうにも死んでしまった「石上麿足」の、少し笑えてもしまう死に様を、頭に浮かべてみた。

 

森見登美彦である。

四畳半神話大系』『夜は短し歩けよ乙女』をはじめ『有頂天家族』『太陽の塔』、少し毛色の違う『きつねのはなし』や『ペンギン・ハイウェイ』など、とても好きな作家だ。なんといっても地の文のぐねぐねした言い回しには、思わず笑いが洩れてしまうこと幾多である。

ぼくの周りでも、森見的日常にあこがれて京都に進学した人がたくさんいた(本当にたくさんいる)。

 

読み終わった今となっては、どうして今までこの二者を比べて考えたことがなかったのだろう、と不思議に思ってならない。

「黒髪の乙女」が「阿呆な男ども」をまどわせて、「てんやわんやの騒ぎ」を、「京都」を舞台に巻き起こす「恋愛」話。

森見さん自身が

 

まるで自分がこしらえたような物語だと、つねづね思っていたのである。

 

といっているように、共通点は多い。

今回森見さんは翻訳にあたって、「原文にない事柄はできるだけ補わない」「現代的な表現を無理して使わない」という二点を方針として定めたらしい。そうしないと「原典から遠く離れてしまいそう」だから、とのことだ。

その方針はしっかりと保たれていて、思っていたようなはじけた訳にはなっていなかった。

それでも、

 

そこらを這いまわってうごうごするのだ。

 

だったり、

 

「うひゃあ、何か掴んだぞ。」

 

だったり、細かいところの言い回しが森見テイストになっている(下の台詞は例の石上麿足)。

そうすると不思議なもので、前に読んだときはぜんぜん気にしていなかった部分が目につくようになった。

たとえば、「竹取の翁」こと「讃岐の造」のキャラの濃さ。

好々爺かと思いきや、取り乱したあかつきには「目玉を握り潰して、尻を大衆の面前に晒してやる」という恐ろしいのか何なのかよくわからない怒り方をしたり、70歳だったかと思えば3年後には50歳になっていたり、帝に買収されそうになるも、やはりかぐや姫がかわいくて前言撤回したり、なにかと笑えるじいちゃんだった。

他にも、「屋根の上に千人」とされる対月人兵の描写(どんだけ耐久性のある屋根だよ、と思わず突っ込んでしまう)であったり、月人の異様な神聖さであったり、かぐや姫との別離の悲しさであったり、「物語」的な部分が、以前にもましてさしせまってきた。

 

気がつけば、ぼくはこの古典作品を、「エンタメ」として受容していた。

角川ソフィア文庫で読んだあの日とは、はっきり違った読み方をしたのである。二度目だった、ということもあるだろう。でも、それより「森見登美彦」というコンテクストがそうさせたのだ、とぼくは思っている。

角川「ソフィア」、すなわち「知」≒「教養」という立ち位置ではなく、森見登美彦的な、つまりひどくエンタメ的な立ち位置から、ぼくは『竹取物語』をながめたのだ。

さきほども言ったけれど、翻訳された文章自体は、それほど森見的ではない(むしろちょっと物足りないくらい)。でも、森見登美彦が訳しているという事実が、森見登美彦の過去の作品群が、「私」や「小津」や「明石さん」や「樋口師匠」が、竹取物語をエンタメ的に読ませる土壌を、おそらく無意識のうちに用意している。

これがよい読み方なのか悪い読み方なのかはわからない。

けれど、はじめて読んだときに「如来来迎図」を想像した月人を、二度目は『宝石の国』の絵柄で想像し、部分的にではなく全体的に楽しむことができたのは、おそらく悪いことではないんじゃないか、と思う。

 

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文学全集といえば、図書館の片隅にねむっているか、へんなにおいを放ちながら親戚の家の本棚に鎮座しているか、BOOK・OFFでかったはいいけど厚くて(あとたいがい汚くて)読まないまま積み上げられてしまうものだと思う。

そう考えてみると、こういうポップでサブサルチャー的な古典受容というのは、ひどく効果的だと思う。

なんてったて読みたくなるから。といっても、ぼくは資本主義の話をしているわけではなくて、本の本質みたいなものの話をしているつもりだ。

つまり、本は、小説は、文章は読まれてはじめて価値が生まれる。

とすれば、池澤さんの試みは、本の価値を創造する、という光の矢を仄暗い出版業界にむけて放つ行為であるといえないか。

 

ネフスキー教授は『月と不死』の中で、月と不死に関するいくつかの民話を紹介し、

 

不死と死の象徴にして、月に変若水、死水があること。

 

という共通的な要素を見出した。

月の満ち欠けが、死と再生を想起させるというわけだ。『竹取物語』でも、「不死の薬」が最後のガジェットとして存在していた。

日本人は、「月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」という大江千里の和歌を引くまでもなく、月が好きだ。そもそも日本は月を基準とした暦で動いていた。だけれど、その愛情は決して燦燦としたものではない。『古事記』においても、主役級に登場する天照に比べれば、月の神であるところの月読はほとんど物語に登場しない。ひどく感情的な、繊細な愛し方を、日本人はしている。

対して、西洋では月は「lunatic=狂気」として忌まれている。

どちらにしても、月には人のこころをゆさぶる奇妙な魔力が備わっている。

その魔力を、そのまま女性の魔性にたとえるのは、まったくひねりがないとは思うけれど、地球上の男たちの、手の及ばぬところにかぐや姫は存在している。

森見さんの言葉を借りれば、地球は丸ごと失恋させられたわけだ。

 

森見さんの、作品を充分原形に保ちつつ古典をエンタメ的に受容させてしまうアクロバティックなわざによって、「物語出で来はじめの祖」は、いつまでも読み継がれる、まさに不死の物語となってゆくのだ。

2015年ベスト(小説・漫画・音楽)

2015年に読んだ本、漫画、聞いた曲のベスト10を書いておこうと思う。

ちなみに漫画と音楽については、刊行・リリースされたのが2015年のものにしぼりました。

 

~BOOK編~

 

『夢屑』島尾敏雄

 

夢屑 (講談社文芸文庫)

夢屑 (講談社文芸文庫)

 

 

夢を主題とした小説は名作ばかりだ。『夢十夜』『冥途』シュルレアリズム、どれもこれも素晴らしい。でも、島尾さんの夢には暴力的な香りが強い。第三の新人とその周辺の作家は、本当に短編が上手。

 

『ひらいて』綿矢りさ

 

ひらいて (新潮文庫)

ひらいて (新潮文庫)

 

 

強烈な自意識だと思った。結局、誰かと一緒にいたいだけなんだ。美雪はある意味で鏡であって、重なり合うことで自己充足へ近づく話とも父権社会への批判とも読めるけれど、やはり僕は百合ソーシャルな青春エンタメとして読みたい。三角関係になった相手を意識するあまり、その相手に対して強い感情を抱いてしまうという構造は、夏目漱石のあの小説とちょっと似ている。ひらいて。何を?こころを。

 

『夢の遠近法』山尾悠子

 

増補 夢の遠近法: 初期作品選 (ちくま文庫)

増補 夢の遠近法: 初期作品選 (ちくま文庫)

 

 

もっと早く読めばよかった。胎児、下半身が異常発達した奇形の女の踊り、夢をくらうバク、天使、「夢の棲む街」をはじめ、日本語で書ける幻想文学の極致だと思う。言葉に酔って、言葉に打ちのめされるというのはなかなかできない体験だ。ボルヘステッド・チャンもそうだけど、無限的な塔というのはそれだけでわくわくさせられる。圧倒的なヴィジョン。

 

『戻り川心中』連城三紀彦

 

戻り川心中 (光文社文庫)

戻り川心中 (光文社文庫)

 

 

「桔梗の宿」を読み終わった瞬間「あああああぁぁぁ」って声が洩れ出た。なんだこの動機。もう何も言葉が出ない。線香花火、花、幼い遊女とこれでもかというほど「儚」要素を詰め込みつつ、薄ら寒さを微塵も感じさせないのは、大正末期~昭和初期というデカダン的時代設定と、何より連城さんの耽美な文章のなせる技だと思う。「戻り川心中」は二転三転する物語。自らを柏木にたとえる行為自体が伏線だとは気付かなかった。外部に物語を設定して、自らをそこに寄せていくのは、芸術家的精神(≒メンヘラ)にありがちなことなので、共感できた。

全体としては「形代」がテーマになっている気がする。

 

『アッシュベイビー』金原ひとみ

 

アッシュベイビー (集英社文庫)

アッシュベイビー (集英社文庫)

 

 

ある意味試金石的な作品だと思う。あえて感性100%の感想を言うとしたら、僕はこの小説が大好きだ。アヤは村野のこと本当は好きじゃないんじゃないか。殺して殺しては、埋めて埋めてに代替できる。拙さや幼さはベイビーなんだから当然。斎藤環も解説で言っていたような気がするけど、かなり記号的な小説で、リアルではないのだけれど、その分思考がそのまま流れてくるような感覚があって、そのドライブ感につれてかれる。希死念慮の根源みたいな作品だった。一方で、やっぱり男は傷つける側なんだと悲しくなる。ファック、ファルス。

 

巨匠とマルガリータブルガーコフ

 

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)

 

 

文芸組織議長のベルリオーズと詩人イワンの前に現れた壮麗の黒魔術研究家“W”。神の不在を信じる二人に、Wはイエスとピラトの対話を克明に語る。なんとWはその場面に居合わせたという……。転がる首に降るお札、赤髪の悪魔はモスクワを闊歩し、全裸の美女は男を誘う。窓に…窓に!二本脚でたつ猫に首根っこはひっこ抜かれるわ、テレポーテーションさせるわ、みんな精神病棟に送られるわの大騒ぎ。さあサバトの始まりだ。

ソ連時代とは思えない濃厚なエンタメ成分と笑っていいのかわからないブルガーコフの批判意識。はい、めっちゃ面白いです。あまりの面白さに、後半は動悸を感じながら読んだ。

思想=文学的な位相でも、胸を打つ描写はたくさんあった(文学を破壊したり、社会を批判したり)けれど、それ以上にエンタメ性が強すぎて、漫画のように読むことのできる稀有な世界文学だと思う。悪魔の饗宴、コロヴィエフとベゲモートのジブリ感。頭の中では星野桂とか永井豪とか中村明日美子とかいろんな人の絵柄がぐるぐるしていた。メフィストフェレスに比べれば、ヴォランドは影が薄いけれど、それでも、それゆえに大物っぽさがすさまじい。ピラトも巨匠も悪魔によって救われるのだな。

 

『夜明け前のセレスティーノ』アレナス

 

夜明け前のセレスティーノ (文学の冒険シリーズ)

夜明け前のセレスティーノ (文学の冒険シリーズ)

 

 

どろどろでぐちゃぐちゃな世界がそのまま垂れ流し。アチャスアチャス。殺したがるじいちゃんと死にたがるかあちゃんと役たたずのセレスティーノが死んでた。死んでた。死んでた。とおもったら次の行では生き返ったと思ったらいつの間にか死んでた。怒涛のリフレイン、めくるめく文章形態、突如挿入されるエピグラフ、なにがなんだかよくわかんない未分化な状態が形になって出てきたアチャス。よくわからんけど悲しさだけが疾走しているのである。アチャスアチャスアチャス。

 

『嵐のピクニック』本谷有希

 

嵐のピクニック (講談社文庫)

嵐のピクニック (講談社文庫)

 

 

「やだやだやだやだ。大人になるってほんとにいやだ。仮面をつけたまま苦しんでるあたしに気付いて。こんなのあたしじゃないって、あたしは気付いてる。気付いてしまってる。お願い、見て。子供のときは無限に見えた世界のひろがりは、実は有限でしかないって気付いちゃったの。非日常は、まったく日常に回収されちゃうって気付いちゃったの。おかしい、世界はもっと面白いはずなのに。」のメタモルフォセスじゃないかと思った。短篇としては、「アウトサイド」「マゴッチギャオの夜」「彼女たち」「タイフーン」「How to~」が好き。

 

『いのちの初夜』北条民雄

 

北條民雄 小説随筆書簡集 (講談社文芸文庫)

北條民雄 小説随筆書簡集 (講談社文芸文庫)

 

 

すさまじい作品だった。ハンセン病の病院での話である。正直かなり暗い。けれど、暗い中にも煌々と輝く、かっかと燃える光が見えた。「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです」と形容される患者の描写は、思わず本当かどうかを疑ってしまう。丸尾末広の絵で想像してしまったほどだ。けれど、これが現実なのか。

 

『親しい友人たち』山川方夫

 

 

「夏の葬列」はこれまでに三回読んだけれど、それぞれ印象が違う。今回は「ヒッチコック・マガジン」掲載作とセットになって、連作の一つとして読んだ。すると、エンタメ色が目に付くようになった。純文学作品とセットで読んだときは、繊細さや孤独が目立ったし、教科書掲載作として読むと、戦争の悲惨さ、というようなテーマが浮き彫りになった。不思議な作家だと思う。けれど忘れられずに、なんとなく読んでしまう。ミステリーでもあり、純文学でもあり、ホラーでもあり、ときおりSFでもある作品群は、どれも珠玉だった。「赤い手帖」が好き。

 

~COMIC編~

 

『ヴォイニッチ・ホテル』道満晴明

 

 

ついに完結した。死人がよみがえったり、死体がしゃべったり、殺人、麻薬、悪魔、魔女、なんでもありのごたごた空間。南国のホテルという舞台設定が、とても上手だと思う。様々な事情で訪れる人が、その一期一会のなかで物語を作り上げていく。どうやってまとめるのかと思っていたけど、大団円でよかった。

キャラではスナークがやっぱり光っている。抱かれて、堕胎して、殺す。

エレナの最後のシーンはウェザー・リポートのあれとか『海辺のカフカ』の中田さんを思い出した。

 

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション浅野いにお

 

 

浅野いにおのことを好きっていうのは、なんだかくすぐったい感じがするのであまり言いたくないのだけど、やっぱり好きなものは好き。『うみべの女の子』とか大学のブックカフェで読んでぐああああってなった。

デデデ3巻はいきなりがーんと一撃を食らう。日常はいつでも非日常になりうるということを、痛烈に意識させられる。デデデの世界というのは、それを読んでいる僕たちの世界となにもかわらないのだろう。滝本竜彦と近いものを感じる。背景がリアルに書かれているのも、そういう思想性ゆえだろう。

 

少女終末旅行』つくみず

 

少女終末旅行 2 (BUNCH COMICS)

少女終末旅行 2 (BUNCH COMICS)

 

 

デデデとはまた違った、非日常の中の日常。主人公の二人は無目的だ。「何かをしたい」というきもちがあまりないように見える。ロストテクノロジーの世界を移動すること自体が目的だ。ホイジンガが「遊びは遊び自体が目的化している」と述べたように、二人の旅も、それ自体が目的。だからこそ目に映るものに素直に疑問を抱き、感動する。その無垢な目線は、変な例えだけど世界ウルルン滞在記みたいだ。

ケッテンクラートのトトトトトっていう擬音、すごくかわいい。13話の雨音がとても好き。

 

ダンジョン飯九井諒子

 

 

「この漫画がすごい」にもランクインしていたけれど、やっぱり面白い。2015年はご飯ものがはやっていたけれど、RPGのモンスターを料理しようという発想はあるようでなかった。スライム、薬草、ミミックというお決まりのアイテム・モンスターをどう料理するのか、というのが毎回楽しみだ。

九井さんは短編集もとても面白かったし、ファンタジーの裏側を書く漫画家としてこれからも頑張ってほしい。

 

『ハイキュー』古舘春一

 

ハイキュー!! 19 (ジャンプコミックス)

ハイキュー!! 19 (ジャンプコミックス)

 

 

アイシールド21』とか『ピンポン』とか、アツいスポーツ漫画が好きなのだけれど、これはジャンプ漫画で久しぶりにアツい。僕は及川が好きなので、青葉城西戦は最高だった。負けた側の話もしっかり書いてくれるのは、よい。

白鳥沢があまり強そうに見えないのはどうしてだろう。

 

バーナード嬢曰く。施川ユウキ

 

 

本好きならだいたい一度は思ったことのあるあるあるがたくさん出てくる。2巻の中だったら、「本の薄さを見て谷崎潤一郎の『春琴抄』を読んだら、めちゃくちゃ読みにくかった」というのは、ものすごい身に覚えがある。

絵は、よく言えば味がある絵(悪く言えば……)だけど、神林がだんだんかわいく見えてくるのは作者の思う壺なのかもしれない。

 

『死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々』阿部共実

 

 

長い。通称「死に日々」。阿部共実は『大好きが虫はタダシくんの』から入って、『空灰』『ちーちゃんはちょっと足りない』と読んできたけれど、胸のざわざわ感が癖になる作家だ。小説でいうと藤野可織さんが近いと思う。

2巻では「友達なんかじゃない」と「7759」がすごい。僕も高嶋に大丈夫っていってほしい。「7759」はすごく完成されている。阿部さんのメリーバッドエンドを書く力が遺憾なく発揮されている。

 

『燐寸少女』鈴木小波

 

 

マッチをすれば願いが叶う。オムニバス形式の作品。昔テレビでやっていた『週刊ストーリーランド』に近い雰囲気を感じる。ただで願いが叶うなんてそんなうまい話はない。その裏には残酷な現実が口をあけて待っている。

1巻の「東京タワー」のような手放しで快哉できる作品はないけれど、じんわり来るものが多かった。『ホクサイと飯』も面白かった。あと、絵柄が好き。(ブラックロックシューターの漫画を書いてた)

 

『てるみな』kashimir

 

てるみな 2

てるみな 2

 

 

つげ義春しりあがり寿のような不条理な作風が好きな人はきっと好き。

ネコ耳が生えた女の子が電車に乗ってあばあちゃんのうちをめざす漫画といってしまえば、あまり癖がなさそうに思えるけれど、彼女が旅するのはよくわからない幻想郷。グロテスクであったり、エロティックであったり、ファンタジックであったり、夢が現実化したような世界の中を電車に揺られていく。

不条理ぶらり途中下車の旅

 

『夕方までに帰るよ』宮崎夏次系

 

夕方までに帰るよ (モーニング KC)

夕方までに帰るよ (モーニング KC)

 

 

宮崎夏次系は大好きな漫画家の一人。細い線で、透明感と不穏を兼ね備えたストーリーテリング。日常の絶望と希望のあわいを、体現している。

長編を読むのは初めてだったけれど、かなり胸がいっぱいになった。上質な音楽のアルバムをまるまる聞き終えた後のような気持ちになる。

病んだ人達のなかで、見つける希望。

 

他にはあらゐけいいちの『日常』や中村ゆうひの『週刊少年ガール』が完結した。『日常』、めちゃめちゃ好きだったのでちょっとさみしい。2015年が初出ではないからあげなかったけれど、近藤ようこの『水鏡綺譚』は、幽怪説話漫画で、面白かった。

 

~MUSIC編~

 

でんぱ組.inc『あした地球がこなごなになっても』

 

 

浅野いにおが作詞をするときいて驚いた。確かにでんぱ組と相性はいいとは思う。けれど、あの世界観に曲をつけるのは相当難しいはずだ。浅野いにおが作詞、といえば真っ先に「ソラニン」を思い出すけれど、あれはゴッチが本当にすごい、と思った。期待半分、不安半分で「こなごな」を聞いた。とてもよかった。「明日地球がこなごなになって宇宙のちりになって消えたらオーロラみたいなメイクして最低!ってそう言って死んでやる」という浅野節がメロディックな曲調で歌われる。B面の「アキハバライフ♪」もでんぱ組の原点にもどった名曲。よい一枚だ。(おつかれサマーの方向に行っていたらどうしよう……と思っていた)

 

パスピエ『娑婆ラバ』

 

娑婆ラバ(通常盤)

娑婆ラバ(通常盤)

 

 

今年はパスピエのワンマンをききに行けた。大学からの帰り道、「トロイメライ」をヘビロテしながら歩いていたのがつい最近のようだ。最近のパスピエは「はいからさん」「とおりゃんせ」のラインを突き詰めていて、このアルバムで結集したように思える。ライブでも大胡田さんは着物と狐の仮面をつけていた。「つくり囃子」、いい曲だ。なによりバンドのプレイヤーの技量が高い。「素顔」は「最終電車」のように聞かせるポップソングだ。

 

米津玄師『Bremen』

 

Bremen

Bremen

 

 

前作の「YANKEE」や「diorama」にあった奇妙なシンセ音やダークな歌詞はなりをひそめ、直球な曲が多くなっている。物足りないのはたしかに物足りない。けど、新しい扉が開かれていくのはやっぱり肯定されるべきことだと思う。「メトロノーム」一曲だけでもこのアルバムには価値がある。

「ミラージュソング」もキャスの弾き語りとはだいぶ違っていていい。

 

ぼくのりりっくのぼうよみ『hollow world』

 

hollow world

hollow world

 

 

正直ラップのことはよくわからない。Rage Against The Machineとノリアキくらいしかしらない。でもラップは面白いから好きだ。ぼくのりりっくのぼうよみ、変な名前だ。正直、「あ、また奇をてらったロキノン系バンドだな」と思ったくらいだ。でも、聞いてみて、リリックの心地よさにしびれた。

17歳というのはちょっと信じられない。

 

Shiggy Jr.『サマータイムラブ』

 

サマータイムラブ

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なんていったってシティポップだ。だっさいPVもイケモコの立ち居振る舞いも全部最高。2010年代にこんなにどストレートな楽曲を持ってこられると、どうしたって、好きになってしまう。「神様この時間をずっとずっと止めてほしいのに」。こういう抒情を忘れないで生きてきたい。ほんとに。

 

吉澤嘉代子箒星図鑑』

 

箒星図鑑

箒星図鑑

 

 

たまたまyoutubeで「ケケケ」を聞いて、好きになった。そもそもアルバムのタイトルが「箒星図鑑」「幻倶楽部」「変身少女」「魔女図鑑」だ。塚本邦雄の歌集みたい。歌謡曲のようなメロディで大正・昭和チックな少女をうたう吉澤さんはとても素敵。「未成年の主張」、とてもいい。このアルバムを薦めてくれたフォロワーさんに感謝。

 

血眼『whiteout』

 

whiteout

whiteout

 

 

女性ボーカルが好きなんです。ねごと、チャットモンチー、tricot、GO!GO!7188、SEBASTIAN X、きのこ帝国、みるきーうぇい、絶景クジラ……あげたらきりがない。血眼はまっとうなギターロック。こういう系統の音楽にはどうしても食指が動いてしまう。さわやかなロックチューンっていうのは、絶対に必要だと思う。「涙のブラウニー」が好き。

 

松本隆『風待であひませう』

 

 

星間飛行」を聞いていて、びっくりした。「濃紺の星空に私たち花火みたい」「魂に銀河雪崩てく」「流星にまたがってあなたに急降下」。よくよく聞いていると聞いたことのない日本語の組み合わせがわんさかでてくる。はっぴいえんどが日本のロックを変えたというのが、よくわかる。YUKIの「卒業」カバーがとてもいい。歌詞を見てたら泣きそうになった。

 

大森靖子『マジックミラー』

 

 

曲調はかわったけれど、大森靖子は最初からずっとひとつのことをうたっている気がする。この世界の生きづらさ、音楽の無力さ。無力だからこそうたいつづけるのだ。「どうして女の子がロックをしてはいけないの」というつぶやきが、突き刺さる。

大森靖子といったらメンヘラ力の高い歌詞だとか、奇抜で憑依的なパフォーマンスばっかり目が行きがちだけど、よくよく曲を聞いてみると何よりキャッチーなメロディを作るセンスがずば抜けていることに気付く。

 

カラスは真っ白『ヒアリズム』

 

ヒアリズム

ヒアリズム

 

 

アヴァンポップなロックバンドだ。パスピエと同じで、バンドがものすごく上手。相対性理論やオタク・カルチャーを吸収して唯一なバンドになろうとしている。「ヒズムリアリズム」のようなポップだけでなく「ニュークリアライザー」のような、直球ロックもできる。守備範囲の広いバンドだ。

 

なんだか、女性ボーカルのバンドばっかりになってしまった。今年はバンプの新譜も出るし、どんな曲が出てくるか楽しみ。

 

2016年はいい年になりますように。

11月8日のこと

 

疲れると本を買ってしまう。

 

本を買うという行為がひとつの救いになっていて、不健康きわまりない。この前の日曜日は久々に休みだったので、京都の古本屋を回ってきた。

さらさ花遊小路で昼食をとってから、京都市役所横をちょっと北上したところにある10000tアローントコへ行く。『幻視の文学1985』、中井英夫『薔薇への供物』、永井荷風『雨瀟瀟・雪解』を購入した。保坂和志フェアもやっていて気にはなったけれど、いったん見送ることにした。保坂さんは、なんだかんだ読もうと思いつつ読めていない作家の一人。まわりに好きな人が多いけど、まだ僕の中では「顔が村上春樹に似ている人」という認識からそんなに前へは進んでない。『書きあぐねている人のための小説入門』の冒頭だけ読んで、「あ、絶対この人の書く小説は好きだ」と直感はしたので、近いうちに読んでみたいと思う。

 

そのあとは性懲りも無く三条のカフェ・アンデパンダンに行って(ミルクレモネードが本当においしい)、アスタルテ書房へ行く。

アスタルテは5、6年前に一度行って、とても迷った記憶がある。澁澤龍彦をまだ知らない時期だったけれど、あの静かで耽美な雰囲気にはどことなく惹かれるものはあった。大学にいたときも「アスタルテしまるらしいよ」という本当なのかガセなのかわからない知らせはたくさんあったけれど、つい最近、店主が亡くなったというニュースを聞いて、ついに閉店か、と思ったものだった。けれど、お客さんと店番の方の会話を盗み聞きしたところ、まだ続くらしい。うれしい知らせだ。

それからは髪を切り、カラオケに行き、適当な時間に帰宅した。

藤原基央になりたいという野心(忙しくて切れなかっただけ)も社会では許されないので、けっこうばっさりといった。髪の毛がないと不安になるので、慣れるのに時間がかかりそうだ。

なかなか休日らしい休日だったんじゃないかと思う。

 

ちなみに、『幻視の文学1985』で第一回幻想文学新人賞を「少女のための鏖殺作法」で受賞した加藤幹也が、『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』の編集をしていた高原英理であること、その奥さんが歌人佐藤弓生であることが芋づる式に判明して、とても面白かった。

 

あまい香のめまいの中の子どもの問い――きんもくせいってどんな惑星?

おびただしい星におびえる子もやがておぼえるだろう目の閉じ方を           佐藤弓生

 

素敵な歌人だと思う。

『パリの憂愁』ボードレール

岩波文庫の『パリの憂愁』こそ「逃げる人」の原点であって、かつ、その苦しみを味わうことのできる文学だと思った。

 

パリの憂愁 (岩波文庫)

パリの憂愁 (岩波文庫)

 

 

 

僕がボードレールと出会ったのは、大学一回生の秋、梶井基次郎の「ある崖上の感情」についてのレポートを書くにあたって、岩波文庫『パリの憂愁』を手に取ったのが初めてだった。

そのころは文学部にもかかわらず耽美主義や悪魔主義なんてものは、まったく知らなかったし(ランボーは筋肉質な映画の主人公のことだと思っていた)、押見修造やルドンに出会う前だったから、『悪の華』すらも知らなかった。

だから僕は、仏詩についてほとんど素人で、仏詩の本を持つのすら初めて、というありさまだったのだ。

 

まず、なんとなく題がいいな、と思った。『巴里の憂鬱』もおどろおどろしくてよいけど、「愁」という字が当時の僕をくすぐった。

本当は目当ての「窓」さえ読めばよかったのだけれど、心ひかれるままに冒頭から読むと、こんな一文が目に飛び込んできた。

 

僕の好きなのは雲さ……。流れていく雲……あそこを……あそこを……あの、素晴らしい雲なのさ!/「異邦人」

 

しびれた。

金よりも、国よりも、友よりも、たゆたう雲を好む感性。そしてそれを臆面も無く言葉にする不適さ。

石川啄木の「空に吸われし十五の心」よりも、谷川俊太郎の「とんでもないおとし物」よりも先に、僕はこの雲を愛する詩人と出会ったのだった。 

レポートそっちのけで読んだ。この時期の僕は、「雲になりたい、雲になりたい」と阿呆みたいに繰り返していたような気がする。

 

この詩集には、雲に関して他にこんな詩片がある。

 

空の無窮、雲の移動し行く建築、海の移り変る色彩、灯台の灯の燦き、それらは、飽くことなく眼を愉しませるために、巧妙にしつらえられたプリズムである。/「港」

 

そして私は、食堂の開いた窓から、神が水蒸気を以て創り為した移動する建築、手の触れ得ざるものを以て組立てられた素晴らしい構造物を、とくと眺めていた。

「すべてこうした変幻極まりない象というものは、僕の可愛い恋人の瞳と、殆ど同じくらい美しいのだ。可愛い気違い女の緑色の瞳と。」

                    /「スープと雲と」

 

うつろい、霧消し、再構築され、また崩壊していく雲。そのたゆたいを、ボードレールは「移動する建築」と表現している。

実際、ボードレール時代の建物はどうだったのだろう。

19世紀半ばのパリは、二月革命の影響下、ナポレオン3世によりパリの大改造が行われていた。スラムは除去され、交通は整備され、採光のよい住宅が立ち並ぶ光の都・パリへと近代化されようとしていた。

うつろいゆく雲は、或いはパリそのものだったのかもしれない。

しかし、パリの町並みと違って、雲は手で触れることができない。

 雲はパリの仮託かもしれないが、一方ではまったく異なった性質をもったものでもある。

パリでありながら、パリでない雲。

二律背反したその空想はボードレールにとっての、ひとつの逃げ場所であったのかもしれない。

 

雲を愛する一方、ボードレールは時間に対して嫌悪感をあらわにする。

 

まさにそうだ!「時間」は再び現れる。「時間」は今や至上者として君臨する。そしてこの忌まわしい老人と共に、彼に従う悪魔的な供奉の面々が帰って来る、「追憶」と、「悔恨」と、「痙攣」と、「恐怖」と、「苦悩」と、「悪夢」と、「憤怒」と、そして「神経症」とが。

                    /「二重の部屋」

 

時間が流れることで、現在は無限に過去になっていく。新しいものは古びていく。

でも、パリはどうだろう。時間が流れ、大改造されることで古いものから新しいものになるはずではないか。ここにも矛盾がひそんでいる。

 

時間が流れることで、過去になること、未来が生まれること。

それは、こういいかえることもできるだろう。

大人になって、成長することと、消えていってしまうこと。

なんだ、この矛盾は若者ならみんな抱えるものじゃないか、とここで気付く。この二律背反こそが、モラトリアムの根源なのではないか。都市の抱える憂愁は、そこに棲む人間をも捕えて離さない。

 ここであってここでない場所。

子供であって、子供ではない時間。

変化を求めながら、一方で永遠をのぞむこと。

 このにっちもさっちもいかない状況から逃れるためには、

 

常に酔っていなければならぬ/「酔え」

 

のだ。

それは、酒かもしれないし、薬かもしれないし、女かもしれないし、文学かもしれないし、音楽かもしれないし、

 

硝子屋の姿が玄関の表口に現れるのを待って、彼の担荷の後ろ枠のちょうど真上に、手にした武器を垂直に投下した。一撃の下に硝子屋はその場に転倒し、行商用の大事な財産が、全部、彼の背中の下でこっぱ微塵と崩れ去った。水晶宮が落雷のために崩れ落ちるとでもいったような荘厳無比の響きを残して。/「不都合な硝子屋」

 

といった、美しい空想かもしれない。

酔わなくてはいけないのだ。

それこそが、

 

何所でもいいのだ!ただこの世の外でさえあるならば!

        /「この世の外ならどこへでも」

 

そんな場所を求める唯一の手段かもしれないのだ。

どこかへ逃げたいと思いながら、どうしようもなくいま・ここにとらわれてしまっている憂鬱が、この『パリの憂愁』を包んでいるような気がする。

 

ドラえもんの映画に『雲の王国』というものがあった。

ボードレールだったら、雲の上にどんな都市を築くのだろう、とついつい空想してしまう。

 

 

 

梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫)

梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫)

 

 

悪の華 (新潮文庫)

悪の華 (新潮文庫)

 

 

 

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)

 

 

 

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

 

 

 

強欲な羊

 

強欲な羊 (創元推理文庫)

強欲な羊 (創元推理文庫)

 

 第七回ミステリーズ!新人賞を受賞した「強欲な羊」を含む5編の連作短編集。

 

羊といえば、一番最初に思い浮かぶのが聖書や『三四郎』の「迷える羊」。それから、眠れないときにおなじみの「羊が一匹…羊が二匹…」っていう例の呪文。それから「メリーさんの羊」。

よく見れば、「美」という漢字や「善」という漢字にも羊は入っている。

そう考えると、なんだか、抽象的でスピリチュアルな動物にも思えてくる。

 

ミステリーということで、ネタバレは必至なのでこの本を読んでから読んでください。面白いので。よろしくです。

 

「強欲な羊」

 

ああ、よかった!お気付きになられましたのね。

 

という冒頭から、ああ、これは怖いぞ、と思った。

この形式は、例えば湊かなえの『告白』であったり、岩井志麻子の『ぼっけえ、きょうてえ』であったり、強制的に読者=聞き手が話者の会話空間にとらわれることになる。語り掛ける形式は、それだけで閉塞感と圧迫感を生む。

三遊亭圓朝でも、稲川淳二でも、ハローバイバイでも、伊集院光でも、百物語でも、ホラーは文字で読むよりも、言葉で聞いたほうが怖さは倍増する気がする。

話し手はいったい誰なのか、聞き手である「自分」はいったい誰なのか、どこなのか、どういう状況なのか、それらは明かされることなく放置され、屋敷で起こった殺人事件の話が「わたくし」によって一方的に語られていく。

 

薔薇に例えられる気性の激しい麻耶子と、桜に例えられる可憐な沙耶子姉妹。

妹のものを奪うことを生きがいにしているかのような姉の麻耶子。そのわがままっぷりはある意味で典型的。それにじっと耐える妹の沙耶子もある意味で典型的。

小指を立てて、おーほっほっほっ!!!!、とか高笑いしそうな姉と、いいの、わたくしは、ああ、ハラリ……、とかしなだれそうな妹、というお嬢様キャラの両極端みたいなキャラ造形だ。

この子が羊の仮面の下にどす黒い本性を隠していることを、なぜ、誰も見抜けないの!?

そういう麻耶子の言葉もあって、なんとなくの結末はみえている。

のだけど、ここからがこの短編の真価。冒頭の見えやすい謎=殺人事件の影に意図的に隠された謎が、怒涛のように明かされるのと同時に襲ってくる、恐怖感。

語りという形式がすごくいかされている。

この二転、三転の心地よさはとてもいい。

 

 

「背徳の羊」

ゴシックホラー風の表題作とは一変して、時代は現代に。

プラスチック加工会社を経営する篠田と、その美人妻・羊子の間に生まれた息子と、葉子の元上司の水嶋の息子が似ている、という違和感から物語ははじまる。

水嶋の妻、初音のもとに届いた「ご主人のすぐそばに、『背徳の羊』がいます」の手紙も相まって、篠田と初音は一緒に羊子の身辺調査をはじめ、次第に羊子の過去が明かされていく。

徐々に羊子を追い詰めていく二人、そんな中、水嶋の息子が池に沈められるという事件が起こり……。

 

火曜サスペンス劇場にありそうな設定であるが、やっぱりこの短編もそうすんなりとはいかない「ひとひねり」が加えられている。いや、「ふたひねり」かもしれない。

最後のページを読んで、「お前かい!!!!」と突っ込んでしまった。

 

 

「眠れぬ夜の羊」

コンビニ経営の塔子はある日、人を撲殺する夢を見る。

殺した相手、それは、過去の恋人・文彦を奪った同級生・明穂だった。

悪夢から醒めた塔子は、シャワーを浴びて、いつも通りコンビニに向かう。

そこで飛び込んできたのは、明穂が公園で殺されたというニュースだった……。

 

夢が本当になってしまった?それとも夢ではなく本当だった?

いわゆる「信頼できない語り手」によって、物語は進んでいく。

そして、信頼できない語り手が信頼できる語り手になった途端、またもやうっちゃりをくらわせられる。

まただ。見えやすい謎を解決して、安心させておいてぐわっと一発くらわせるパターン。

これはホラー映画の「後ろを向いたら誰もいなかった。と思って前を向いたら……」というあのお決まりのパターンに似ている気がする。

しかも、この短編ではがっつりとホラー要素を押し出してくる。

見えるはずのないものが視える女の子がでてくる。

 

 

ストックホルムの羊」

現代的な前の二編とは打って変わって、時代は中世。

暗い塔に幽閉された王子と、カミーラ、ヨハンナ、イーダ、アンの四人の女の暮らしを描く。

ある日謎の美少女マリアが闖入したことによって、安寧な暮らしは崩壊していく……。

 

先に言っておくと、僕は表題作とこの短編が、『強欲な羊』の中では好きだった。

一番衝撃が大きかったからだ。

唐突なファンタジーに一瞬「ん?」となったけど、一番最初にゴシック風味の短編が配置されているせいで、すんなりと受け入れてしまった。

 

ただ、この題名はかなりグレーゾーンだと思う。

いまどき(しかもこの本を手に取るような人が)、「ストックホルム」と聞いて正直に「ああ、スウェーデンの話なのね、うふふ」とは思わないだろう。

しかも、現実に「監禁王子」という存在がいる以上、そのことをほのめかすタイトルはやめた方がいいんじゃないかと思う。

その真意に気付いた人は、「一つ目の謎」=女たちの出生だけじゃなくて、「二つ目の謎」にまで気付いてしまうだろうから(僕は気付かなかったけど)

 

 

「生贄の羊」

連作短編には二種類あると思っていて、一つは同一の主人公や登場人物、場所を、ほんのりちりばめたり、あるいはがっつりだして「読者が読みながら連作だと気付く短編」と、短編を書いて、最後の作品で全部つながってたんだと、作者が明かす「作者の作為で連作となる短編」だ。

後者は、失敗することも多い。強引になりがちだからだ。「蛇足」と呼ばれることも多い。

この「生贄の羊」は完全に後者のパターンだ。

いろんな感想を見てみたけれど、否定派が結構な数いる。

たしかに、何の脈絡もなくそれまでの登場人物の絡みが始まり、何の脈絡もなくホラーがはじまり、何の脈絡もなくすべて一つの街であることが明かされる。

ミステリーを読んでいるという意識の人にとっては、「は?」となるような短編だと思う。

 

でも、僕は冒頭や「眠れぬ夜の羊」から、ホラー小説だと思っていたので違和感がなかった。

しかもなかなか怖かった。

うまくはいえないけれど、この短編をすべてをまとめる「タガ」のようなものと考えないで、漫画の最後にちょっとくっついている「おまけ」みたいなものと考えて息抜きのように読むと、楽しめるんじゃないかと思う。

 

羊、連作短編ミステリー、屋敷、という単語でおっと来た人、はい、米澤穂信が好きな人、おすすめです。

乙一にも近いかも。

冒頭からホラーホラー言ってきたけれど、この美輪和音さんは、別名義で『着信アリ』の脚本を書いているとのことだった。

だから、ホラーの手法がこんなにもちりばめられているのだろう。

 

この作品はイヤミスとしておされているらしいけれど、違うんじゃないかと思う。

「イヤミス」の代表作としてよくあがる湊かなえ真梨幸子のたとえば『孤虫症』とは読み心地が違う。

そもそも、イヤミスというのがよくわからないのだけれど(胸糞悪くなる小説?)、この作品を読んで湧いてくるのは嫌悪感ではない。

たしかに羊の皮をかぶった狼は多く出てくるし、いやーな気持ちにはなるけど、この気持ちはホラーの読後感だ。

「いや」の方向性が違う気がする。

なんにせよ、夏にはぴったりの作品だった。

 

 

 

ところで、さっきからあなたの部屋の窓の、上のほうから覗いているのは誰?

血と地と

講談社文芸文庫から『現代小説クロニクル』というシリーズが出た。1975年から2014年までの文学の歴史を追おうという全8巻のシリーズである。

池澤夏樹世界文学全集もまだ読み終わらないまま、こちらに浮気した。

かなり久しぶりのブログ更新。

ぶっちゃけ死ぬほど忙しかったので、更新どころか本を読むことすらままならなかった。

多少慣れてきたので、更新してみる。

なんか、文章の書き方も忘れてしまった。

 

今回は「クロニクル」第一巻の一作目、中上健次の「岬」だ。

 

 

 

中上健次について語るためには、まず熊野について語らなくてはならない。

熊野とは、紀伊半島南端の地域をさすが、この熊野にはある特別な力が宿っている。鎌倉時代には「熊野三山詣」、すなわち本宮・新宮・那智の三所への参詣が流行した。本宮=阿弥陀如来、新宮=薬師如来那智=千手観音を詣でることで、過去・現世・未来の三世に利益を得ようとしたのである。ここには、例えば一遍が時宗を開いたり、小栗判官が蘇生したり、補陀落浄土があったり、八咫烏が飛び回っていたりと、何かと神秘的な伝説が多く残っている。

風土記』によれば、熊野は「隠国」と呼ばれ、死者の霊がこもる地として解釈されてきた。すぐ近くには天照大神の祀られる伊勢神宮があり、光の伊勢に対して闇の熊野として長く紀伊半島に存在してきたのである。

 

僕は一時期この熊野にめちゃくちゃ入れ込んでいて、二泊三日で熊野三山(+伊勢)弾丸ツアーを慣行したことがある。

京都を出発して、本宮にたどり着くまで約6時間。ひたすら電車やバスに揺られてたどり着いた熊野本宮大社は、鬱蒼とした木々に囲まれていた。これはすごいところにきてしまった、と思った。

 

行ってみてはっきりと感じたことがある。

熊野には「何か」がいる。

熊野には、生者と死者とが交歓してきた歴史がある。

僕は長野出身で、山や森が近くにあるけれど、熊野のそれとはやっぱり違う。

 

中上健次の「岬」は、この熊野を舞台にした物語だ。第74回の芥川賞を受賞している。

正直、ものすごく読むのにエネルギーのいる小説だ。

 

まず人物関係をつかむのに時間がかかる。

自分で相関図を作らないことには、ちんぷんかんぷんだ。気を抜くと「あれ?弦叔父って誰の弟だ?」「ん?親方って誰の夫だったっけ?」ということになる。

今のところ小説を読みながら人物相関図を作った作品は、これと『カラマーゾフの兄弟』だけだ。

 

それから、濃厚な臭気。

絶えず漂い続ける暴力とセックスの香り。濃厚な土と汗のにおい。「わきがのにおい」と描写される獣の匂い。嗅覚が激しく刺激される文章だ。

 

そして、童貞の青年がもつ強烈なエネルギー。

しかも、主人公の秋幸は、ただの童貞ではない。まず、欲望の権化である実の父親が、母を残して行方をくらませている。母は結婚を繰り返し、三人目の夫と生活している。腹違いの兄は自殺した。本作で「彼」と称される秋幸は、血のつながらない姉と生活しているのである。

秋幸は「路地」に蔓延する性的な力(≒血縁)を拒絶しながらも、徐々に実父の血が表立ってくる。

 

おれの顔は、あの男の顔だった。世の中で一番みにくくて、不細工で、邪悪なものがいっぱいある顔だ。

 

花も実もつけることなど要らない。名前などなくていい。

 

しかしながら、その「邪悪」が「花」となって「実」をつけ始める。

秋幸の就いている「土方」という仕事も象徴的だろう。土を掘り、コンクリートを流し込むことは、とりもなおさず土地(≒地縁)の再構築とつながってくる。

生まれながらにして土地と血に縛られた秋幸が、その両方を超越しようとしながらも、実父や姉、兄と同じような狂気を発露していくさまには、恐怖とともに空しさも覚える。

 

本文でも「すぐ熱狂する」と描写されている通り、たかだか100ページの文章とは思えない熱量が、この「岬」にはあふれている。

この熱の原因はどこにあるのだろう。

青年というだけではない。地理だけではない。熊野の「歴史」もまた、この物語に強固なバックグラウンドを提供している。姉の狂うきっかけは、「死者の声」であった。これは、生と死が錯綜する熊野だからこそ、現実味を帯びてくる。

それから、「路地」としての歴史もまた影響しているだろう。「路地」とは被差別地域、すなわち部落のことをさしている。その戦いについては、例えば水平社宣言などを一目でも見れば充分に伝わってくる。

 

あらゆる歴史=物語が内包されているからこそ、この「岬」にはとんでもないエネルギーが満ちているのだろう。

いろんなラリパッパな人たちがでてくるけれど、そのほとんどが強烈な「つながり」の犠牲者なのだ。秋幸はそこから逃れようと思いながら、のまれていくのである。

 

この作品の主人公は秋幸でも、姉でも、母でもなく、土地そのものなのかもしれない。

 

いわゆるエディプス・コンプレックスだとか、佐藤友哉押見修造を髣髴とさせる青年期の鬱屈、フォークナーに連なる「土地」の力、いろいろな「文学的」要素を併せ持つ「岬」、ひいては中上健次に惹かれる読者が多いのも納得だ。

もちろん、僕もその一人となった。

これこそが「物語」なのだと思う。

 

波女は僕を愛しすぎている。

 

この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。

 

いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎてゆくようにかつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。
あなたにそのことを話してあげよう。
わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。

 

ごめんね、僕はこれ以上大きな声で話すことはできないんだ。

君が、そう、僕が語りかけている君が、いつ僕の語りかけに気づいてくれるか、僕にはわからない。
そもそも、僕が君に語りかけているのに君は気づいてくれるのだろうか?

 

いきなりだけれど、ここに引用した文章には共通した感覚があるような気がしている。

言葉が体にすうっと入ってくるような、心のどこかが無意識に「あっ好きだ」とつぶやくような独特の感覚だ。

 

上から順に池澤夏樹の『スティル・ライフ』、ブローティガンの『西瓜糖の日々』、エンデ『鏡のなかの鏡』の冒頭だ。

つまり、上の3つの文章はすべて詩人によって書かれたものなのである。

国も年代も違うのに、まったく同じような感覚を読み手に(少なくとも僕には)抱かせるのだから、やはり詩人は言葉の魔術師だな、と思う。

 

なぜこんなことを話すかと言えば、今回記事にするオクタビオ・パスも詩人であり、その「波との生活」の冒頭にも同じような情感を抱いたからだ。

 

短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

 

 

海から上がろうとすると、すべての波のうちひとつだけが進み寄ってきた。ほっそりとして軽やかな波だった。他の波たちがひらひらする服をつかみ、大声で叫んで引き止めようとしたにもかかわらず、彼女は僕の腕につかまると、一緒に海から飛び出した。

 

どうであろうか。

この部分からもわかるように、「波との生活」は「波」に惚れられ、「波」と生活する男の話だ。

異類婚姻譚のひとつといってよさそうだが、「蛤女房」や「雁の草子」のような作品とは少し違う。

相手が無生物なのだ。

さらに言えば、異類婚姻譚に特徴的な「見るなのタブー」も存在していない。他の作品では、一般的に人間と動物の別れの原因は「見るな」というタブーを破り、相手の真の姿を見てしまうということにある。

この作品では、はじめから男は波を波として認識している。しかもそれを違和感なく受け入れ、扱い、愛している。

そして別れの原因は(幻想的な言葉に言い換えてはあるものの)波の変貌である。

昔は清純でかわいかったのに、年をとるにつれて意地が悪くなっていく妻に違和感を感じる夫……という、よくあるあれだ。

その点が、『御伽草子』にみられる異類婚姻譚と違っている。

ざっくりいえば、普通の恋愛小説みたいなのである。

 

女性を海にたとえたり、海を女性にたとえたり、という例はよく目にする。

でも、海と人間の恋愛の話にしてしまおうという発想は見たことはない。詩人ならではの発想ではないだろうか。

ドイツに詩人が多いのは、シュバルツバルトがあるから、という説をどこかで目にしたことがあったが、詩人は自然と調和した存在であるのだ。

波に包まれ、波と一体になるという体験は詩人の願望であり、同時に女でもある波と交わるという体験は男の願望でもある。

自然物との恋、そこでは性と詩人の願望が重なる。

 

波は月に影響をうける。

女性も月に影響をうける。

下ネタではない。あらゆる意味で自然の話だ。

木や石を女性と置き換えるのとは違ったしっくり感が、波にはある。

 

そういえば、オクタビオ・パスという名前、すごくタコっぽい。

波に惹かれるのも納得だ。