竹取物語

池澤夏樹編『日本文学全集』から、「竹取物語」を読んだ。

 

 

 

訳者は森見登美彦。このシリーズは、古典の訳者に(個人的に)面白い人たちを採用していて、たとえば『方丈記』を高橋源一郎が、『平家物語』を古川日出男が、宇治拾遺物語町田康が、『雨月物語』を円城塔が……といった具合。

 

竹取物語である。

「物語出で来はじめの祖」であり、「かぐや姫」であり、「今は昔竹取の翁といふものありけり」の竹取物語だ。ぼくは、高校生のときに竹取物語の全文を初めて読んだ。もちろん対訳がついた、角川ソフィア文庫のものだった。

そのときは5人の皇子の婚姻譚ばかりが頭に残った。特に、蓬莱の珠の枝をつくらせた「くらもちの皇子」の台詞の中に「こがねしろがねるりいろのみず」というものがあって、その語感のよさにうっとりとして、ぷつぷつ呟いていた。あるいは燕の子安貝をとろうとして、かわいそうにも死んでしまった「石上麿足」の、少し笑えてもしまう死に様を、頭に浮かべてみた。

 

森見登美彦である。

四畳半神話大系』『夜は短し歩けよ乙女』をはじめ『有頂天家族』『太陽の塔』、少し毛色の違う『きつねのはなし』や『ペンギン・ハイウェイ』など、とても好きな作家だ。なんといっても地の文のぐねぐねした言い回しには、思わず笑いが洩れてしまうこと幾多である。

ぼくの周りでも、森見的日常にあこがれて京都に進学した人がたくさんいた(本当にたくさんいる)。

 

読み終わった今となっては、どうして今までこの二者を比べて考えたことがなかったのだろう、と不思議に思ってならない。

「黒髪の乙女」が「阿呆な男ども」をまどわせて、「てんやわんやの騒ぎ」を、「京都」を舞台に巻き起こす「恋愛」話。

森見さん自身が

 

まるで自分がこしらえたような物語だと、つねづね思っていたのである。

 

といっているように、共通点は多い。

今回森見さんは翻訳にあたって、「原文にない事柄はできるだけ補わない」「現代的な表現を無理して使わない」という二点を方針として定めたらしい。そうしないと「原典から遠く離れてしまいそう」だから、とのことだ。

その方針はしっかりと保たれていて、思っていたようなはじけた訳にはなっていなかった。

それでも、

 

そこらを這いまわってうごうごするのだ。

 

だったり、

 

「うひゃあ、何か掴んだぞ。」

 

だったり、細かいところの言い回しが森見テイストになっている(下の台詞は例の石上麿足)。

そうすると不思議なもので、前に読んだときはぜんぜん気にしていなかった部分が目につくようになった。

たとえば、「竹取の翁」こと「讃岐の造」のキャラの濃さ。

好々爺かと思いきや、取り乱したあかつきには「目玉を握り潰して、尻を大衆の面前に晒してやる」という恐ろしいのか何なのかよくわからない怒り方をしたり、70歳だったかと思えば3年後には50歳になっていたり、帝に買収されそうになるも、やはりかぐや姫がかわいくて前言撤回したり、なにかと笑えるじいちゃんだった。

他にも、「屋根の上に千人」とされる対月人兵の描写(どんだけ耐久性のある屋根だよ、と思わず突っ込んでしまう)であったり、月人の異様な神聖さであったり、かぐや姫との別離の悲しさであったり、「物語」的な部分が、以前にもましてさしせまってきた。

 

気がつけば、ぼくはこの古典作品を、「エンタメ」として受容していた。

角川ソフィア文庫で読んだあの日とは、はっきり違った読み方をしたのである。二度目だった、ということもあるだろう。でも、それより「森見登美彦」というコンテクストがそうさせたのだ、とぼくは思っている。

角川「ソフィア」、すなわち「知」≒「教養」という立ち位置ではなく、森見登美彦的な、つまりひどくエンタメ的な立ち位置から、ぼくは『竹取物語』をながめたのだ。

さきほども言ったけれど、翻訳された文章自体は、それほど森見的ではない(むしろちょっと物足りないくらい)。でも、森見登美彦が訳しているという事実が、森見登美彦の過去の作品群が、「私」や「小津」や「明石さん」や「樋口師匠」が、竹取物語をエンタメ的に読ませる土壌を、おそらく無意識のうちに用意している。

これがよい読み方なのか悪い読み方なのかはわからない。

けれど、はじめて読んだときに「如来来迎図」を想像した月人を、二度目は『宝石の国』の絵柄で想像し、部分的にではなく全体的に楽しむことができたのは、おそらく悪いことではないんじゃないか、と思う。

 

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文学全集といえば、図書館の片隅にねむっているか、へんなにおいを放ちながら親戚の家の本棚に鎮座しているか、BOOK・OFFでかったはいいけど厚くて(あとたいがい汚くて)読まないまま積み上げられてしまうものだと思う。

そう考えてみると、こういうポップでサブサルチャー的な古典受容というのは、ひどく効果的だと思う。

なんてったて読みたくなるから。といっても、ぼくは資本主義の話をしているわけではなくて、本の本質みたいなものの話をしているつもりだ。

つまり、本は、小説は、文章は読まれてはじめて価値が生まれる。

とすれば、池澤さんの試みは、本の価値を創造する、という光の矢を仄暗い出版業界にむけて放つ行為であるといえないか。

 

ネフスキー教授は『月と不死』の中で、月と不死に関するいくつかの民話を紹介し、

 

不死と死の象徴にして、月に変若水、死水があること。

 

という共通的な要素を見出した。

月の満ち欠けが、死と再生を想起させるというわけだ。『竹取物語』でも、「不死の薬」が最後のガジェットとして存在していた。

日本人は、「月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」という大江千里の和歌を引くまでもなく、月が好きだ。そもそも日本は月を基準とした暦で動いていた。だけれど、その愛情は決して燦燦としたものではない。『古事記』においても、主役級に登場する天照に比べれば、月の神であるところの月読はほとんど物語に登場しない。ひどく感情的な、繊細な愛し方を、日本人はしている。

対して、西洋では月は「lunatic=狂気」として忌まれている。

どちらにしても、月には人のこころをゆさぶる奇妙な魔力が備わっている。

その魔力を、そのまま女性の魔性にたとえるのは、まったくひねりがないとは思うけれど、地球上の男たちの、手の及ばぬところにかぐや姫は存在している。

森見さんの言葉を借りれば、地球は丸ごと失恋させられたわけだ。

 

森見さんの、作品を充分原形に保ちつつ古典をエンタメ的に受容させてしまうアクロバティックなわざによって、「物語出で来はじめの祖」は、いつまでも読み継がれる、まさに不死の物語となってゆくのだ。