『群像70周年記念号』全作レビュー8~いのちの家~
「第三の新人」の波もおさまって、『群像10月号』初の女性作家が顔を出します。
円地文子。
あまり有名な作家ではありませんが、与謝野晶子、谷崎潤一郎に続いて『源氏物語』を訳していたり、『夜半の寝覚』や『蜻蛉日記』といった古典文学を訳していたりと、いわゆる古典に造詣の深い作家として名を知られています。
ぼくは本屋に行って講談社文芸文庫の棚に行くたびに『朱を奪うもの』『傷ある翼』『虹と修羅』という中二っぽいタイトルの作品に思わず目を奪われていたので、ぼんやりとは知っていました。
これは円地さんの逸話ですが、谷崎潤一郎賞の選考委員をやっていた際、自らの作品を受賞作として推して他の選考委員に諫められていたようです。
我が強いというか、おそらく自分の書いたものに強い自身があったのだと思います。
ちなみに結局上記の三部作で円地さんは賞を受賞しています。
今回はそんな円地さんの短編「家のいのち」について少し書いていこうと思います。
家というのは不思議なもので、さらな土地に壁や天井といったもので区切りを作成して、そこに住むことで家と主張しているだけの空間です。
その空間を家たらしめているものは何なのか。
それはおそらく住む人間の情念みたいなものなのではないかと思います。
まずは、「戦争」というものについて少し考えてみたいと思います。
レイモンド・カーヴァーは「良き小説というものは、ある世界のニュースを別の世界に伝えるものなんだ」と語っていますが、戦争について書くというのは、時間や空間を隔てた現在のぼくたちに、当時の記憶を伝えるという意味において重要な役割があると思います。
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教科書を読むだけではわからない、戦時中、あるいは戦後の生活のにおいが、この小説にはあります。
例えば「軍人恩給」や「方面委員」という単語。
この小説では、菊と謙三という夫婦が軍人恩給が廃止されたことによる貧困でなんとか糊口をしのぎつつ、自分たちの借家を手放さなくてはならないのではないか、と思案するところから物語が始まっています。
軍人恩給とは軍隊に服役した人間に対する金銭や土地の保証制度であって、日本では1946年に廃止されましたが、旧軍人たちの運動によって1953年には復活したということです。
つまり、この小説の時代設定が1946~1953年の戦後間もない時期であるということがわかります。
方面委員の世話になっている人達が一戸建ての家を借りているというのは理に合わない。
方面委員の世話になっているものが葬式だけ表てを飾ることは許されない。
方面委員とは現在の民生委員の前身で、低所得者救済のための組織です。
今風に言うなら生活保護を受けているのに、贅沢をするのはおかしいというのに近い感覚なのだろうなと思います。
ちなみに方面委員という名前は1946年に廃止されているので、軍人恩給とあわせて考えるに時代は1946年、戦後すぐの時期だということがわかります。
空襲で土地が焼かれ、貧困にあえぐ暗黒の一時期の描写がこの小説には書かれているということになります。
このあたりの制度を知れるというだけで、読む意味はあるのですが、この小説を小説たらしめているのは「怪談」と「逆説のおかしみ」なのだと個人的には思います。
「怪談」。
よく日本のホラーは精神的で、海外のホラーは肉体的だといわれることがあります。
大きな音でびっくりさせる海外とは対照的に、日本のホラーでは真綿でじりじりと締め付けられるような、脂汗がにじみでるようなホラーが描かれることがあります。
その正体のひとつは恨みです。
例えば日本文学史における幽霊として有名な「六条御息所」。彼女は愛する光源氏への思いが募るばかり、彼と関係をもつ女性を次々と呪い殺します。
あるいは謡曲「定家」における定家や式子内親王。『雨月物語』における宮木や蛇女。
古典に登場する幽霊たちは、その想いの強さによって、成仏することなく形をもった「恨み」として登場します。
この「家のいのち」は一見、戦後の一瞬の時期を切り取ったスケッチのようなものに見えますが、まごうことなき怪談なのだと思います。
家の主人である菊は、方面委員の世話になっているにもかかわらず借家に住み、
自慢はもっとも夫だけではなく、着る物でも手道具でも何でも自分のものとなれば他人の持ちものとはまるで質の違う愛着が生じる癖
をもっていて、盲目の夫・松木謙三だけでなく、特に家に並々ならぬ執心を抱いていることが書かれています。
菊が家を綺麗に住むことでは趣味を越えて病的
老人疎開などが喧しく言われたころでも、菊は頑としてこの家を動こうとはしなかった。
死に場所に決めていた家
これは「欲しがりません勝つまでは」の精神のアンチとして生まれた人間像なのだと思いますが、それゆえに思いの強さは戦時中の国民像と対比されて、強く印象付けられます。
やがて彼女は死に、夫もまたあとを追うように死にます。
軍人恩給のない中家賃も払っていなかった夫婦の死によって、貸主である押小路家は一種の安堵を感じ、この家には松木の親族、官庁の岡野、その姪夫婦、進駐軍相手のダンサーをしている珠子といった人間たちがかわるがわる住むようになります。
ぼろぼろになった家を改築する際に押小路夫人が家を訪れたときの感想は以下の通りです。
父親の遺産として譲り受けて以来、長い間自分の持ち家とは思っていても一日も住んだことのない不在家主の自分よりも、この家から棺を出すことを念願して朝晩に拭き磨きをしていた菊の方が、この家のほんとうの女主人であったことをそのとき未亡人は今更に気づいた。
木造の家には、木に水が染み込むように、人間の魂のようなものが染み込むような気がします。現代のコンクリート製の建物では、こうはいかないのではないかと思います。
最初に書いたように、円地さんは『源氏物語』『雨月物語』を現代語訳しています。はるかな古典時代と戦後のある時期を繫ぐ架け橋の一つに、木造建築と霊魂というのがあったのでしょう。
菊の強い思いは、ダンサーの珠子の前に霊となって現れます。
恋人のケニーと抱き合うとき、彼女はまったく知らない筈の松木夫婦の姿を幻視します。
知らないままに皮膚の色の異う恋人たちは古い家の霊に憑かれて、不思議に甘美な抱擁を続けていた……
まさに古典的な「恨み」の幽霊です。
その古典的な造形に、国家総動員によって所有を許されなかった日本国民の「恨み」が重ね合わされ、戦争に対する怨念のようなものが浮かび上がってきます。
この反戦的な思いは「逆説のおかしみ」をもって描かれ、奇妙な後味を残して小説は終わりを迎えます。
ひょんなことから、この家の付近から火が出ます。
近所の人間はあわてて、アメリカ進駐軍のポンプを要請します。
進駐軍のケニーは「日本の家、木と紙、皆焼ける」と慌てます。結局進駐軍によって家は焼けることなく消化され、「お宅のアメリカさんのお蔭で」と礼を言われて大団円を迎えます。
このあたりにわりあい強烈な意識を感じます。
どうしてケニーは、つまり米軍は日本の家がよく燃えることを知っているのか。
空襲で家を焼かれた人間たちが、家を守ってくれたことを感謝する。
時代は戦後まもなくの時期。
ついこの間まで敵であったはずのアメリカ軍に、日本人が焼かないでくれてありがとうと感謝する。
たぶん当時の人たちには、今ではわからないある種の感情を抱かせたのではないかと思います。
このあたりに「逆説のおかしみ」にかこつけた、戦争に関する円地さんの思いが噴出しているのではないかなと思います。
寿命の長い家だ、強い家だと世にも頼もしく眺めてしばらくそこに立ちつづけていた
と菊の家を見ながら立ちすくむ場面でこの小説は終わります。
古典時代から続く想い、恨み、霊となって現れるほどの強い魂の力。その意志の強さはアメリカ人をも動かし火にも打ち勝つという、ひとつのテーマが浮かび上がってくるような気がします。
砕かれ、燃やされつつも失われなかったある種の力について想起してみるのも、きっと必要なことなのだろうと思います。