水中都市・デンドロカカリヤ
授業中に安部公房『水中都市・デンドロカカリヤ』を読む。
二つの表題作については、前に文学研究会(結局一人しかこなかったけど)と合同読書会をしたときの課題小説だった。
この時期の安部公房の短編には、一定の「枠組み」が存在している気がする。それは、簡単に言ってしまえば民主主義・資本主義に対する革命という枠組みだ。
例えば「デンドロカカリヤ」で、コモン君は「顔」が裏返ってしまう。顔とは個性だ。ブルジョア階層によって押しつけられた労働を、ただこなすだけの日常をおくると、次第に意志が消えてゆく。考えることなく働き続ける人間は、機械のように無個性になっていってしまう。
これがマルクスのいう人間疎外だ。
いやいや、幸福じゃなくったって……、幸福だの不幸だのなんて、一体なんの役に立つんです。どうでもいいじゃありませんか。要するに、ますます純粋に、豊富に存続しつづけるということが問題。そうじゃないですか。
「デンドロカカリヤ」より。
個性が消えることで、コモン君は名前を失い、遂には支配階層によって「デンドロカカリヤ・クレピディフォリア」というありきたりな一般名詞の名前を与えられてしまう。
もはや、自分では自分を名づけることができないのだ。
あわれ、コモン君は名前を失ったcommon君になってしまうのである。
この枠組みは、例えば「水中都市」「闖入者」「飢えた皮膚」などの短編にもあてはめることができる。
この作品集では「変身」が重要なガジェットとなっているが、この作品集自体が、大きな枠組みの中で繰り返される変奏の集成なのだ。
そして、変身していく中で変わることのない固有名詞としての「わたし」を、安部公房は模索し続ける。
……そして安部公房の短編は以上の枠組みをすべて「忘却」した時、初めてその楽しさが表れてくる。
まず、文章がかっこいい。
気象学の法則に加えて、以上のような一切が、内と外の両側から夢と魂と願望の雲を冷却させ、それらは凍って結晶した。
だとか
自壊的なヒステリーの爆発。それはゼンマイの外れた玩具。無意味な物質に還元する最短コース。窓を開けて、雪の中に手を差しのべ、自ら凍ることのみが、理性あるものの最後に残された行為であるかとも思われた。
だとか。
両方とも「詩人の生涯」からの抜粋だが、最高にクールじゃないか。
言葉のかっこよさでは、これと「水中都市」が抜けている。
彼女の精神は機械のように解放されているんだ。
やべえ、意味は分からないけど最高にクールだ。
文章のかっこよさの他に、とても奇妙な世界観が安部公房にはある。
木に変身するってなんだよ。酒飲みすぎると魚になるってどういうことだよ。鳩がしゃべるってなんだよ。
まるで夢みたいだ。
ちなみに僕は上にあげた短編の他は「闖入者」「手」が好きだ。「闖入者」は「友達」という戯曲にもなっているが、小説の方が圧倒的に後味が悪い。胸糞悪くなってくる。太宰の「親友交歓」を初めて読んだ時に似た感覚。
他には薬漬けにされるメンヘラ女の話もあったり、結構えぐいのである。