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短篇五芒星

舞城王太郎の『短篇五芒星』を読む。

 

短篇五芒星

短篇五芒星

 

 

この前『生きてるだけで、愛。』を読んで、久しぶりに舞城を読みたくなった。舞城王太郎村上春樹は既刊を読み終えてしまうのがもったいないので、あえて読まずにおいている。

この『短篇五芒星』は5作全てが芥川賞候補になっている。んで、また落選した。たぶんもうとれないと思う。残念。

「美しい馬の地」は、衝動との付き合い方の話。

「何で死を悼むことが人を傷つけることになるんだよ?」

「誰かのことを勝手に可哀想がることが相手を傷つけるってことくらい想像つかないか?そういう経験ないの?一方的に可哀想とか辛いね、悲しいねって気持ちを押し付けられることで傷ついたりとか、お前判んないの?」

悼むという、一見優しさに見える行為も、例えば怒りを差し向けるということと何も変わらない。一方的な感情の押し付けなのだ。

それはどう抗うこともできないほどの、どうしようもないことなのだ。

どこにも罪はない。悪もない。悲しみだけがあるべきところに僕は怒りを持ち込んでいたのだ。

本来複雑なものである物事や感情を二元論的に考え、悪を「勝手に」創出し解消すること。これではまるで風車を怪物と思い込んで突撃したドンキホーテのようだ。そうして勝手に「悪」を倒したと思いこんで、悦に入るのだからいい気なものだ。

この辺り、滝本竜彦の『ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ』にも通じるところがある。

 

「アユの嫁」は、鮎の神様に嫁いだ姉の話。

姉が鮎の神様に嫁いでいき、父や母、そして妹である「私」達は姉を忘れていく。

「あーあれは神様の類やな」と父親が自棄になったみたいに言う。「もう何ともならん」

このどうしようもないところに連れていかれて、置いてけぼりになる感が舞城にはよくあるけど、今回のこの置いてけぼりについてはどうしても死者と生者という隔たりを感じてしまう。

神様に召されるとは、まさしく死ぬことだ。記憶が薄れていくということも、死者を忘れていくということを意味しているようにも思われる。

皆がいろいろ頑張ってきて、今も頑張っている。これからも頑張っていかなければならない。

何故なら何も決まっていないからだ、本当に。

そう、頑張らなければいけない。

 

「四点リレー怪談」は笑える話。

本郷タケシタケシだとかエンジェルバニーズだとか、おなじみのキャラ達が「四角の部屋でリレーをすると一人増える」というあれについて、図を交えながら話していく。

暗闇は明かりのない部屋ばかりにあるわけじゃない。人の心の中にもあるわけだ!人間と人間の気持ちのすれ違いこそ、目の届いていない、明かりのない、つまり暗闇なんだ!

この怪談自体が暗闇、すなわち「美しい馬の地」でいうところの「衝動」との付き合い方についての話になっている。暗闇の中で錯綜するのは人間だけではない、感情もまた、そう簡単に(つまり二元論的に)解ける問題ではないのだ。

 

「バーベル・ザ・バーバリアン」はバーベルになった人間の話。

あいつは俺をバーベルなんかにすべきじゃなかったのだ。人間は無機物として扱われるべきじゃないのだ。気持ちを無視され、じっとして動くな、言葉を飲み込んで無心になれみたいな無理強いをされるべきじゃないのだ。

大切なのは対話だ。

全てはブラックボックスなのだから、「アユの嫁」のように一緒に「頑張っていく」しか方法がないのだ。感情を押し付けることは、押し付けた側のその場しのぎにしかならない。

 

「あうだうだう」は悪い箱と戦う話。

そう世界は、そして人間はブラックボックスだ。なにもわからない。

「ちょっと叩くだけや。神様殺したらあかんやろ」

「何で?」

「だって、でもあうだうだうって、悪い奴なんでしょ?」

「悪い箱やけど、神様はこの世を作ってるもんやで」

意味が判らない。「だから、殺しちゃえば悪がなくなるんじゃない?」

「悪はなくなる必要ないよ」

「何で?」

「ほやさけ、この世の一部やでやって」

「もう……」

堂々巡りだ。

「悪をなくすことが善ってことではないんやで?」

悪がいて、その悪を倒せば万事解決。この世はそう簡単にできてはいない。僕はこの話を読んで、というよりこの短編集全体を読んで、村上春樹の「かえるくん、東京を救う」を思い出した。

みみずくんのような存在も、ある意味では、世界にとってあってかまわないものなのだろうと考えています。

「かえるくん」の中の一節だ。地震を起こすみみずくんとの戦いで、かえるくんは死んでしまう。ちなみに「あうだうだう」には次のような一節がある。

こうして残酷に生き物を犠牲にしなくては、戦えない戦いがあるんだ、と私は思う。感情対感情で、悪には生き物の命を用いなければならない。

そう、かえるくんとみみずくんの戦いも「感情」の中で、「想像力」の中で行われたのである。

「かえるくん、東京を救う」の収録された『神の子どもたちはみな踊る』の原題は、『after the quake』であり、『短篇五芒星』が「群像」に掲載されたのは20123月である。

僕は、この短篇集の主題は「よくわからないもの」との付き合い方にあると思う。それは人間かもしれないし、神―自然かもしれない。必要なのは対話だ。二元論に持ち込んではいけない。

そして、その対話を可能にするのが「記憶」だ。忘却はその場しのぎにはなるかもしれないが、「頑張る」ことには繋がらない。

他にもいろいろ考えられる。例えば鮎から津波を連想することもできるし、「悪い箱」から「棺桶」、つまり「死」を連想することもできる。

正解なんてない。偶然何かが読み取れただけだ。舞城も「四点リレー怪談」でいっている。

グルグルと回って混乱している中からポン、と在り得ないはずの、しかし必要とされていたものが出現する、というような……物語は、ときにこういう力を持つんだよな。

 

「僕にとっては」似たテーマのように思われる『想像ラジオ』はあんなに取り上げられてるのに、と思えて仕方ないのは、僕が舞城を好きだからなのだ、きっと。