BUMP OF CHICKEN STADIUM TOUR 2016 "BFLY" 大阪レポ

STADIUM TOUR 2016 "BFLY"

BUMP OF CHICKEN初のスタジアムツアー。その一日目の公演に行ってきました。京セラドーム大阪はパワプロ君でくらいしか見たことがなかったけど、まさか、野球観戦で来るより先に、ライブを見にくることになるとは……。

朝の9時から物販をしていて、噂によると何千人規模で並んでいたとか。

ぼくは開演ぎりぎり(4時半くらい)にたどり着きましたが、まだグッズ余っていたのでそんなに早くいく必要もないのでは、と思いました。

 

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会場はさすがスタジアムだけあって広い広い。

ステージをバックスクリーンとすれば、ぼくは少し深めの守備をとっているショートくらいのところの席で、はじめてのアリーナなのでどきどきわくわく。

前にBUMPを見たのは2012年のGOLD GLIDER TOURなので、かれこれ4年ぶり。あのときは大学生。今は無職。笑えますね。

ボレロは流れていなくて、代わりに開演5分前にはスクリーンに300の数字がうつしだされ、徐々にカウントダウンしていきます。

なるほど、新年のカウントダウンみたいな方式か、とか思いながらやっぱりテンションはあがります。

 

以下、少し記憶違いがあるかもしれませんが覚えてること書いていきます。

最初に言っときたいのは、サイコーだったってこと。

 

Hello,world!」がオープニング。アルバムツアーなので、「GO」からくるかな、とか思っていたので初っ端から盛り上がる会場。ちなみに今回のライブでは一つの席にひとつずつLEDリストバンド「PIXMOB」が配布されていて、曲に合わせて光ります。LEDの開発者に感謝って具合に光ります。アリーナから見ると、スタンド席がいろとりどりに光っているのは圧巻です。

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盛り上がりはそのままに「パレード」に。

寄生獣のタイアップですね。初めて聞いた時は、うわ、声にエフェクトかけてきた、そんなの必要ないのに……とか、少し残念に思った曲でしたが、ライブで聞くとこれがまたかっこいい。

「週末の大通りを」と次の曲を歌い始めた途端、会場からわく歓声。ぼくも飛び跳ねました。「K」、聞きたかったので本当にうれしい。『THE LIVING DEAD』の中ではわりとライブでやる回数は多いけど、聞くのははじめて。

「すでに満身創痍だ」あたりのエモさにああああーってなる脳内。「聖なる騎士を埋めてやった」の最後の言葉をのばすライブ・アレンジ。もうどばどばです。

 

チャマのMCも久しぶりに聞くけど、やけにテンションが高かった。「スタジアムライブは初めて……つまりVirgin、言い換えればチェリーボーイ」チェリーボーイの連発には、思わずメンバーも苦笑。この時だけじゃなくて、終始みんなテンションが高かったので、きっと楽しかったんじゃないかと思う。

 

MCマイクを置けばソリッドなイントロ。

カルマ」からBUMP、というか音楽全体に入ったぼくからすれば、前回のライブにつづいて今回もきけて本当にうれしい。中学~高校にかけてひたすらヘビロテしていた曲なので、思わず口が動いてしまいます。

いろんな思い出がよみがえってくる3分間。

噴出されるきらきらの帯もしっかりキャッチしました。この帯、しっかり絵がかいてあって、しかも大阪って書いてあるTシャツをきたニコルだったり、ツアーの日にちと場所を書いた旗を持った王様だったりしたので、たぶん日ごと場所ごとに違うものです。すげえ。

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ファイター」、この曲を聴くためだけに『三月のライオン』の10巻だけ買った人も多いはず。僕もその口です。羽海野チカさんすいません。『ハチミツとクローバー』大好きです。『夜は短し歩けよ乙女』の解説の絵も大好きです。

二番からドラムの刻みがはいってくるパターンの曲最近多いけど、よいと思います。

「新しい曲やります」、の言葉とともに「宝石になった日」のイントロ。

カルピスのCMソングになったらしいですね。新しいアルバムのシングルカットされてない曲の中では一番好きな曲です。

 

次のMCでは、チャマがスタジアムでやりたいことがあると発言。

いわゆるウェーブをやってほしいという要請を、スタンド席にします。たしかに見てみたい。なにげに大阪ドームのウェーブなんて、芝の上に立たないと見られないので、レアなものをみさせてもらいました。すごかった。チャマもしっかり、iPhoneで録画してました。

 

新しいアルバムから何曲かやります、のMCの次はしんみりしたサウンドの「流星群」。

スクリーンに無数に散る星と流れ星はきらきらとしていてとてもきれいでした。

大我慢大会」は、会場のみんなでクラップ。スクリーンにも手拍子のアイコンがうつしだされます。手元のLEDは手拍子にあわせて点滅します。これもまた壮観。

前のライブでは客の手拍子で曲がとまってしまうというハプニングがあったので、そのときのことを思い出したりして、なんというかBUMP、大人になったななんて当たり前のことを思ってしまいました。

 

ここでステージ移動。「恥ずかし島」へ移動。

はっきりいって、アリーナでよかったと一番思った瞬間です。

ぼくはアーティストをアイドルみたいに祭り上げたり、きゃーきゃーわめくのは基本的に嫌いなのですが、ごめんなさい、藤原基央だけは別です。藤原基央になりたくて髪の毛を伸ばしたり、眼鏡をかけなかったり、歌詞とか作ってみたり、音楽を始めてみたりしてみました。なんだかんだ10年はたちました。思えば、いろんなことがありました。死のうとしたこともあったし、人を好きになったこともあったし、ぜんぶぜんぶ壊れてしまえばいいと思ったこともありました。そんな中学、高校、大学、ずっとBUMPは心のなかにありました。

藤原基央は、ぼくのロールモデルで、洋楽とかあまりわからないからジョン・レノンよりも、ミック・ジャガーよりも、フレディ・マーキュリーよりも、カート・コバーンよりも、ぼくにとっては根源的なスターなんです。

その藤原基央が、目の前の通路をとおっていきました。

思ったより、身長低いな、なんて失礼なことを思ったりもしました。

けど、なんというか、なんにも言えない気持ちです。

あ、藤原基央って本当にいるんだ、ってはじめて腑に落ちたような気持ちです。

 

後方に移動してから一曲目は「孤独の合唱」。カントリーな音。サビをみんなで合唱して一体感がましていきます。

二曲目、ゆっくりしたリフに一瞬戸惑って、なんだ、と思っていると急速なアッチェレランド。「ダンデライオン」。また飛び跳ねてしまいます。はじめてきいたときは「こんな歌詞ありなのか!」とびっくりしてしまった曲です。Youtubeでいろんな人の自作PVを見たり、目をつむって想像したりして、ひっそりと大事にしていた曲です。まさか聞けるなんて思ってもみなかった。

 

またもとのステージにもどります。会場に流れるインスト。「メーデー」の「星の鳥」のように、きっと曲につながるインストなのだと思います。

ステージ上に再登場したメンバーはジャケットからTシャツに衣装替え。こっちのほうがBUMPらしくて好きです。

そのまま「GO」。アルバムの一曲目の曲で、仕切り直しです。

車輪の唄」。死ぬかと思いました。あと、泣きました。

「カルマ」と同じくらいヘビロテした曲で、カラオケいったら必ず歌う曲で、いろんな思い出がある曲。あ、だめだ、言葉にできない。

 

藤原基央の「いままでも一緒にうたってきたけど次の曲もみんなでうたってほしい」という短めのMCののち、「supernova」。「カルマ」の両A面シングルだったな、なんてことを思い出しながらじっくりきいてしまいました。サビはみんなで合唱。

「まだいけるかい」という言葉のあとに流れるのは「ray」のイントロ。

初音ミクとの共演も、あんまり驚くことじゃなくて、やっぱりという感じだった。実は『COSMONAUT』あたりからBUMPには違和感があって、「もう、昔とは違っちゃうのかな」なんて思っていたのですが、この曲を聞いて安心しました。藤原基央はずっと藤原基央だった。

この曲もいろんな思い出があって、どちらかというと死にたい方の記憶なのだけれど、でも藤原基央に「生きるのは最高だ!」なんてうたわれたら生きるしかないわけです。これも生で聞きたかった曲だったので最高、もう最高。あたまとこころぐちゃぐちゃ。

虹を待つ人」、アルバムでは微妙かななんて思ってた曲だったけど、ライブ映えする楽曲です。これもみんなで合唱。

最後の曲は「Butterfly」。ここでくるかという感じです。EDMってなんだかんだで盛り上がるわけで、最後に持ってこられると、もう突っ走ってしまう。

 

もうここで終わってしまってもいいわけだけど、会場は「supernova」のコール。アンコールの恒例なのだけど、もうずれずれ。みんなわけわからないからぐちゃぐちゃなんだけど、それでも楽しくて、また出てきたメンバーも笑ってました。

最後はやっぱり「天体観測」。

もういうことはないという感じです。

 

チャマがさりぎわに言った「今までのライブで一番楽しかった」っていう言葉がすべてです。

藤君の声が年々優しくなってきて、でもやっぱり藤原基央で、ということが再認識できたライブでした。

過去に今に時間が(ぼくの中で)行ったり来たりする2時間で、最終的にはBUMP OF CHICKEN、好きだわって納得する貴重な時間でした。

 

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セトリ

1、Hello,world!

2、パレード

3、K

4、カルマ

5、ファイター

6、宝石になった日

7、流星群

8、大我慢大会

9、孤独の合唱

10、ダンデライオン

11、GO

12、車輪の唄

13、supernova

14、ray

15、虹を待つ人

16、Butterfly

 

~アンコール~

天体観測

 

『夏の葬列』山川方夫

「夏の葬列」という作品がある。

 

夏の葬列 (集英社文庫)

夏の葬列 (集英社文庫)

 

 

作者は山川方夫慶應義塾大学に入学し、『三田文学』に編集長として携わった。芥川賞直木賞、両方の候補になったことがあるが、結局ちゃんとした賞はとったことがない。

1965年、交通事故にあい、34歳で死去した。

そのくらいの、とりたてて華々しくはない作家だ。

 

「夏の葬列」は1962年、『ヒッチコック・マガジン』8月号に掲載された、十数ページのショート・ショート作品。山川方夫の他の作品は読んだことがなくても、この「夏の葬列」なら読んだことがある、という人は多いかもしれない。

なぜなら、中学校の教科書に採用されている作品だからだ。

でも、ぼくは大学生になってから、はじめてこの作品を読んだ。そして衝撃を受けた。

 

今回は、「夏の葬列」とその作者山川方夫の魅力を語ろうと思う。

 

これまでに三回、違う媒体で「夏の葬列」を読んだ。一回目は教科書のコピーで、二回目は集英社文庫『夏の葬列』で、三回目は創元推理文庫『親しい人たち』で、だ。

ぼくは三回、それぞれ違った印象を受けた。

端的に言えば、一回目は名作として、二回目は純文学として、三回目はミステリー小説として、ぼくは「夏の葬列」を味わった。

どうしてこんなことが起きたかといえば、コンテクストの違いだと思う。

 

教科書に載る=名作、戦争を描く=戦争の悲惨さを描いている、こんな等式が頭の中にあったので、たとえば「ちいちゃんのかげおくり」だとか、「おとなになれなかった弟たちへ」だとか、「字のない葉書」だとか、ああいうものを読むのと同じような気持ちで読んだ。

そして、物語の構成の妙、つまりはどんでん返しに度肝を抜かれた。

教科書で読んだときは、題材と構成という二つの面から、名作としての「夏の葬列」に衝撃を受けたわけだ。

 

集英社文庫『夏の葬列』は、ショート・ショートだけでなく、「煙突」「海岸公園」のような純文学を志向して書かれた作品もセットで掲載されている。

収録されている作品と、初出を列挙してみよう。

 

・「夏の葬列」/『ヒッチコック・マガジン』

・「待っている女」/『ヒッチコック・マガジン』

・「お守り」/『宝石』

・「十三年」/『宝石』

・「朝のヨット」/『美術手帖

・「他人の夏」/『中学時代』

・「一人ぼっちのプレゼント」/『文藝朝日』

・「煙突」/『文学界

・「海岸公園」/『新潮』

 

ヒッチコック・マガジン』のような大衆小説誌(他にはレイ・ブラッドベリレイモンド・チャンドラー江戸川乱歩星新一等の作品が掲載されていた)掲載作と、『文学界』『新潮』のような純文学雑誌掲載作が、ひとつの作品集に収められ、しかも同じような“匂い”を発しているのは、とても面白い。もっといえば、掲載作のうち、「海岸公園」は1961年の第45回芥川賞の、「一人ぼっちのプレゼント」は1963年第50回直木賞の候補になっている。

一つの短編集の中に、芥川賞直木賞の候補作が共存しているわけだ。

 

例えば、絲山秋子であったり島本理生であったり車谷長吉であったり、他にも、芥川賞直木賞の両方で候補になった作家はいる。けれど、その候補作を二つとも取り入れた短編集はあまり見たことがない。

僕はどちらかといえば芥川賞系が好き(三島賞系の方がもっと好きだけど)だから、「煙突」や「海岸公園」に興味がいき、それに引っ張られて「夏の葬列」も文章や主題といったところに目がいったというわけだ。

 

山川方夫ミステリ傑作選と銘打たれた創元推理文庫『親しい友人たち』は、つい最近(2015.9)刊行されたばかりの短編集。ぼくはびっくりした。このときはじめて、「夏の葬列」が『ヒッチコック・マガジン』に連載された短編のうちのひとつだということを知ったからだ。

さっきも書いたように『ヒッチコック・マガジン』はエンタメ誌であって、いわゆるショート・ショートを世に知らしめることに貢献した雑誌である。

教科書と集英社の二回から、ぼくは「夏の葬列」を名作・純文学だと認識していたので、星新一江戸川乱歩と肩を並べて掲載されていた、というのはかなりの衝撃だったわけだ。

「夏の葬列」以外の作品、たとえば「赤い手帖」「蒐集」といった作品は、たしかに怪奇ミステリ色が強く、新本格ミステリじみた味わいすらあった。

そうすると不思議なもので、名作文学としてみていた「夏の葬列」も、巧みな構成と仕掛けにみちたミステリー小説としての面を強く感じるようになった。

 

名作として、純文学として、エンタメとして、様々な色を見せる「夏の葬列」という作品に、そして山川方夫という人間に、いつの間にかぼくは夢中になっていた。

 

山川方夫は夏がよく似合う作家だと思う。

それは海、青春、孤独といった山川作品によくでてくるテーマの印象がそうさせているのだろう。

そんな「夏」の名を冠する「夏の葬列」は、文章の中にも様々な夏を感じさせるものが組み込まれている。

 

あの翌日、戦争は終わったのだ。

 

なによりも、とある「事件」の起きた時期が第二時世界大戦中である。8月14日、「彼」の罪悪感の根源となる事件が発生する。戦争自体をプロット作りのガジェットとしてもちいた、という考えがあるかもしれないけれど、やっぱりぼくは、戦争という主題が確実にあると思う。

テーマについてはあとで書くとして、他の夏のイメージをみていこう。

 

真昼の重い光を浴び、青々とした葉を波うたせたひろい芋畑の向うに、一列になって、喪服を着た人びとの小さな葬列が動いている。

 

ひとつは色彩だ。青々とした空と畑をバックに、葬列が(たぶん陽炎の向うに揺れながら)行進している情景が、映像のように浮かんでくる。このコントラストの効いた色彩感は、夏的だと感じる。他にも「濃緑の葉」「芋の葉を、白く裏返して」という色の描写が、本作には多い。しかし、そうした小さな部分にも、仕掛けがある。例えば、引用部では「重い光」の一語で、トーンを落としている。「彼」にとって、夏の日光とは、忘れることのできない「重さ」を象徴しているわけだ。

 

自分には夏以外の季節がなかったような気がしていた。

 

重くるしくおれをとりまきつづけていた一つの夏の記憶

 

「彼」にとって夏は、ある罪の記憶そのものなのである。

 

他の夏を感じさせるものとして、海がある。

そもそも舞台が「海岸の小さな町の駅」である。さらに芋畑が「真青な波を重ねた海みたい」「やわらかい緑の海」と描写されることで、子ども時代の「彼」と2歳年上の「ヒロ子」さんを取り巻く環境に、どこか爽やかな感覚を付け足している。

それら色彩や海の「爽やかさ」は、艦載機の飛来によって一転する。

やや構造的かもしれないけれど、このあたりの感覚操作はみごとだと思う。落差に愕然とさせられるわけだ。

話がそれるかもしれないけれど、吹奏楽天野正道による「おほなゐ」という曲がある。この曲も阪神淡路大震災の唐突さ、つまり日常と非日常の落差を、音楽によって表現した作品であり、この「夏の葬列」にもコントラストの意識がはたらいているような気がする。

 

コントラストも含めて、この作品は小説的な仕掛けに満ちている。それについては、西原千博(『夏の葬列』試解 : 国語科教材のテクスト分析の試み.2002)などが指摘しているので、ぼくは純文学的なテーマについて触れたいと思う。

先ほども書いたように、戦争という主題があるだろう。もう一歩進めば、この作品の主題は「サバイバーズ・ギルト」だといってもいい。

つまり、生き残ってしまったことに対する罪の意識だ。教科書にのる作品は、『こころ』をはじめとして、このサバイバーズ・ギルトを取り扱ったものが、いくつかある。ぼくは、この「夏の葬列」もそうなのだと思う。

 

ある機会、「夏の葬列」の感想を言い合っているなかで、「ヒロ子」という名前に注目した人がいた。

「ヒロ」とは「ヒロシマ」のことではないか、ということだった。

面白いと思った。

この作品の時代設定は、本文中の記述から考えると1962~1963年になる。60年初頭から、戦時中を振り返るという構成になっているわけだ。

そして「夏の葬列」が『ヒッチコック・マガジン』8月号に掲載されたのも1962年。

これはもちろん、偶然の一致ではないだろう。

カタカナで書かれた「ヒロシマ」が想起するもの。その「ヒロ」を含む、ヒロ子さんを殺してしまったかもしれないという罪悪感。

ヒロシマを殺してしまったという罪悪感。

そうして生き残っていることに対する罪悪感。

やはり、娯楽小説としてだけではない面白み、メッセージ性をぼくは「夏の葬列」から感じる。

一つから二つになった「彼」の罪は、生き続ける限り、罪は増えていくということを暗示しているように思われる。しかしながら、それはマイナスだけの解釈だけではないようにも思えてくる。

 

もはや逃げ場所はないのだという意識が、彼の足どりをひどく確実なものにしていた。

 

最後の一文である。

確実」という言葉にぼくはひっかかった。不安な足どりではなく、確実な足どり。つまり、その罪悪感と向き合わなければならない、というような決意を、ぼくは読み取った。

 

「夏の葬列」はたんに娯楽的な作品だけでなく、かといって純文学としてでもなく、いろいろな面から解釈ができる名作だ。

そして、山川方夫も、もっと話題に上がっていい作家だと思う。

小難しいことをくどくど述べてきたけど、まず、圧倒的に面白い。

それから、透明感のある文章。

青春の一ページを切り取ったような描写。

ショート・ショートとしては、星新一筒井康隆、あるいは川端康成の『掌の小説』あたりが有名だけど、もう一人いる。

 

今回は「夏の葬列」だけだったけれど、同時収録の作品はどれも、透明感と絶望感があっていい。

特に「煙突」は庄司薫村上春樹よりも早く一人称「ぼく」文学として、世の中に出てきた作品だ。(余談だが、山川方夫庄司薫は1959年に対談していて、この対談が「煙突」の改稿に及ぼした影響についても考えてみる価値があるかもしれない)

 

透きとおっていく夏と青春に罪の意識を感じたとき、山川方夫は傍にいてくれる。

 

ちいちゃんのかげおくり (あかね創作えほん 11)

ちいちゃんのかげおくり (あかね創作えほん 11)

 

 

ボッコちゃん (新潮文庫)

ボッコちゃん (新潮文庫)

 

 

 

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

 

 

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

竹取物語

池澤夏樹編『日本文学全集』から、「竹取物語」を読んだ。

 

 

 

訳者は森見登美彦。このシリーズは、古典の訳者に(個人的に)面白い人たちを採用していて、たとえば『方丈記』を高橋源一郎が、『平家物語』を古川日出男が、宇治拾遺物語町田康が、『雨月物語』を円城塔が……といった具合。

 

竹取物語である。

「物語出で来はじめの祖」であり、「かぐや姫」であり、「今は昔竹取の翁といふものありけり」の竹取物語だ。ぼくは、高校生のときに竹取物語の全文を初めて読んだ。もちろん対訳がついた、角川ソフィア文庫のものだった。

そのときは5人の皇子の婚姻譚ばかりが頭に残った。特に、蓬莱の珠の枝をつくらせた「くらもちの皇子」の台詞の中に「こがねしろがねるりいろのみず」というものがあって、その語感のよさにうっとりとして、ぷつぷつ呟いていた。あるいは燕の子安貝をとろうとして、かわいそうにも死んでしまった「石上麿足」の、少し笑えてもしまう死に様を、頭に浮かべてみた。

 

森見登美彦である。

四畳半神話大系』『夜は短し歩けよ乙女』をはじめ『有頂天家族』『太陽の塔』、少し毛色の違う『きつねのはなし』や『ペンギン・ハイウェイ』など、とても好きな作家だ。なんといっても地の文のぐねぐねした言い回しには、思わず笑いが洩れてしまうこと幾多である。

ぼくの周りでも、森見的日常にあこがれて京都に進学した人がたくさんいた(本当にたくさんいる)。

 

読み終わった今となっては、どうして今までこの二者を比べて考えたことがなかったのだろう、と不思議に思ってならない。

「黒髪の乙女」が「阿呆な男ども」をまどわせて、「てんやわんやの騒ぎ」を、「京都」を舞台に巻き起こす「恋愛」話。

森見さん自身が

 

まるで自分がこしらえたような物語だと、つねづね思っていたのである。

 

といっているように、共通点は多い。

今回森見さんは翻訳にあたって、「原文にない事柄はできるだけ補わない」「現代的な表現を無理して使わない」という二点を方針として定めたらしい。そうしないと「原典から遠く離れてしまいそう」だから、とのことだ。

その方針はしっかりと保たれていて、思っていたようなはじけた訳にはなっていなかった。

それでも、

 

そこらを這いまわってうごうごするのだ。

 

だったり、

 

「うひゃあ、何か掴んだぞ。」

 

だったり、細かいところの言い回しが森見テイストになっている(下の台詞は例の石上麿足)。

そうすると不思議なもので、前に読んだときはぜんぜん気にしていなかった部分が目につくようになった。

たとえば、「竹取の翁」こと「讃岐の造」のキャラの濃さ。

好々爺かと思いきや、取り乱したあかつきには「目玉を握り潰して、尻を大衆の面前に晒してやる」という恐ろしいのか何なのかよくわからない怒り方をしたり、70歳だったかと思えば3年後には50歳になっていたり、帝に買収されそうになるも、やはりかぐや姫がかわいくて前言撤回したり、なにかと笑えるじいちゃんだった。

他にも、「屋根の上に千人」とされる対月人兵の描写(どんだけ耐久性のある屋根だよ、と思わず突っ込んでしまう)であったり、月人の異様な神聖さであったり、かぐや姫との別離の悲しさであったり、「物語」的な部分が、以前にもましてさしせまってきた。

 

気がつけば、ぼくはこの古典作品を、「エンタメ」として受容していた。

角川ソフィア文庫で読んだあの日とは、はっきり違った読み方をしたのである。二度目だった、ということもあるだろう。でも、それより「森見登美彦」というコンテクストがそうさせたのだ、とぼくは思っている。

角川「ソフィア」、すなわち「知」≒「教養」という立ち位置ではなく、森見登美彦的な、つまりひどくエンタメ的な立ち位置から、ぼくは『竹取物語』をながめたのだ。

さきほども言ったけれど、翻訳された文章自体は、それほど森見的ではない(むしろちょっと物足りないくらい)。でも、森見登美彦が訳しているという事実が、森見登美彦の過去の作品群が、「私」や「小津」や「明石さん」や「樋口師匠」が、竹取物語をエンタメ的に読ませる土壌を、おそらく無意識のうちに用意している。

これがよい読み方なのか悪い読み方なのかはわからない。

けれど、はじめて読んだときに「如来来迎図」を想像した月人を、二度目は『宝石の国』の絵柄で想像し、部分的にではなく全体的に楽しむことができたのは、おそらく悪いことではないんじゃないか、と思う。

 

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文学全集といえば、図書館の片隅にねむっているか、へんなにおいを放ちながら親戚の家の本棚に鎮座しているか、BOOK・OFFでかったはいいけど厚くて(あとたいがい汚くて)読まないまま積み上げられてしまうものだと思う。

そう考えてみると、こういうポップでサブサルチャー的な古典受容というのは、ひどく効果的だと思う。

なんてったて読みたくなるから。といっても、ぼくは資本主義の話をしているわけではなくて、本の本質みたいなものの話をしているつもりだ。

つまり、本は、小説は、文章は読まれてはじめて価値が生まれる。

とすれば、池澤さんの試みは、本の価値を創造する、という光の矢を仄暗い出版業界にむけて放つ行為であるといえないか。

 

ネフスキー教授は『月と不死』の中で、月と不死に関するいくつかの民話を紹介し、

 

不死と死の象徴にして、月に変若水、死水があること。

 

という共通的な要素を見出した。

月の満ち欠けが、死と再生を想起させるというわけだ。『竹取物語』でも、「不死の薬」が最後のガジェットとして存在していた。

日本人は、「月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」という大江千里の和歌を引くまでもなく、月が好きだ。そもそも日本は月を基準とした暦で動いていた。だけれど、その愛情は決して燦燦としたものではない。『古事記』においても、主役級に登場する天照に比べれば、月の神であるところの月読はほとんど物語に登場しない。ひどく感情的な、繊細な愛し方を、日本人はしている。

対して、西洋では月は「lunatic=狂気」として忌まれている。

どちらにしても、月には人のこころをゆさぶる奇妙な魔力が備わっている。

その魔力を、そのまま女性の魔性にたとえるのは、まったくひねりがないとは思うけれど、地球上の男たちの、手の及ばぬところにかぐや姫は存在している。

森見さんの言葉を借りれば、地球は丸ごと失恋させられたわけだ。

 

森見さんの、作品を充分原形に保ちつつ古典をエンタメ的に受容させてしまうアクロバティックなわざによって、「物語出で来はじめの祖」は、いつまでも読み継がれる、まさに不死の物語となってゆくのだ。

2015年ベスト(小説・漫画・音楽)

2015年に読んだ本、漫画、聞いた曲のベスト10を書いておこうと思う。

ちなみに漫画と音楽については、刊行・リリースされたのが2015年のものにしぼりました。

 

~BOOK編~

 

『夢屑』島尾敏雄

 

夢屑 (講談社文芸文庫)

夢屑 (講談社文芸文庫)

 

 

夢を主題とした小説は名作ばかりだ。『夢十夜』『冥途』シュルレアリズム、どれもこれも素晴らしい。でも、島尾さんの夢には暴力的な香りが強い。第三の新人とその周辺の作家は、本当に短編が上手。

 

『ひらいて』綿矢りさ

 

ひらいて (新潮文庫)

ひらいて (新潮文庫)

 

 

強烈な自意識だと思った。結局、誰かと一緒にいたいだけなんだ。美雪はある意味で鏡であって、重なり合うことで自己充足へ近づく話とも父権社会への批判とも読めるけれど、やはり僕は百合ソーシャルな青春エンタメとして読みたい。三角関係になった相手を意識するあまり、その相手に対して強い感情を抱いてしまうという構造は、夏目漱石のあの小説とちょっと似ている。ひらいて。何を?こころを。

 

『夢の遠近法』山尾悠子

 

増補 夢の遠近法: 初期作品選 (ちくま文庫)

増補 夢の遠近法: 初期作品選 (ちくま文庫)

 

 

もっと早く読めばよかった。胎児、下半身が異常発達した奇形の女の踊り、夢をくらうバク、天使、「夢の棲む街」をはじめ、日本語で書ける幻想文学の極致だと思う。言葉に酔って、言葉に打ちのめされるというのはなかなかできない体験だ。ボルヘステッド・チャンもそうだけど、無限的な塔というのはそれだけでわくわくさせられる。圧倒的なヴィジョン。

 

『戻り川心中』連城三紀彦

 

戻り川心中 (光文社文庫)

戻り川心中 (光文社文庫)

 

 

「桔梗の宿」を読み終わった瞬間「あああああぁぁぁ」って声が洩れ出た。なんだこの動機。もう何も言葉が出ない。線香花火、花、幼い遊女とこれでもかというほど「儚」要素を詰め込みつつ、薄ら寒さを微塵も感じさせないのは、大正末期~昭和初期というデカダン的時代設定と、何より連城さんの耽美な文章のなせる技だと思う。「戻り川心中」は二転三転する物語。自らを柏木にたとえる行為自体が伏線だとは気付かなかった。外部に物語を設定して、自らをそこに寄せていくのは、芸術家的精神(≒メンヘラ)にありがちなことなので、共感できた。

全体としては「形代」がテーマになっている気がする。

 

『アッシュベイビー』金原ひとみ

 

アッシュベイビー (集英社文庫)

アッシュベイビー (集英社文庫)

 

 

ある意味試金石的な作品だと思う。あえて感性100%の感想を言うとしたら、僕はこの小説が大好きだ。アヤは村野のこと本当は好きじゃないんじゃないか。殺して殺しては、埋めて埋めてに代替できる。拙さや幼さはベイビーなんだから当然。斎藤環も解説で言っていたような気がするけど、かなり記号的な小説で、リアルではないのだけれど、その分思考がそのまま流れてくるような感覚があって、そのドライブ感につれてかれる。希死念慮の根源みたいな作品だった。一方で、やっぱり男は傷つける側なんだと悲しくなる。ファック、ファルス。

 

巨匠とマルガリータブルガーコフ

 

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)

 

 

文芸組織議長のベルリオーズと詩人イワンの前に現れた壮麗の黒魔術研究家“W”。神の不在を信じる二人に、Wはイエスとピラトの対話を克明に語る。なんとWはその場面に居合わせたという……。転がる首に降るお札、赤髪の悪魔はモスクワを闊歩し、全裸の美女は男を誘う。窓に…窓に!二本脚でたつ猫に首根っこはひっこ抜かれるわ、テレポーテーションさせるわ、みんな精神病棟に送られるわの大騒ぎ。さあサバトの始まりだ。

ソ連時代とは思えない濃厚なエンタメ成分と笑っていいのかわからないブルガーコフの批判意識。はい、めっちゃ面白いです。あまりの面白さに、後半は動悸を感じながら読んだ。

思想=文学的な位相でも、胸を打つ描写はたくさんあった(文学を破壊したり、社会を批判したり)けれど、それ以上にエンタメ性が強すぎて、漫画のように読むことのできる稀有な世界文学だと思う。悪魔の饗宴、コロヴィエフとベゲモートのジブリ感。頭の中では星野桂とか永井豪とか中村明日美子とかいろんな人の絵柄がぐるぐるしていた。メフィストフェレスに比べれば、ヴォランドは影が薄いけれど、それでも、それゆえに大物っぽさがすさまじい。ピラトも巨匠も悪魔によって救われるのだな。

 

『夜明け前のセレスティーノ』アレナス

 

夜明け前のセレスティーノ (文学の冒険シリーズ)

夜明け前のセレスティーノ (文学の冒険シリーズ)

 

 

どろどろでぐちゃぐちゃな世界がそのまま垂れ流し。アチャスアチャス。殺したがるじいちゃんと死にたがるかあちゃんと役たたずのセレスティーノが死んでた。死んでた。死んでた。とおもったら次の行では生き返ったと思ったらいつの間にか死んでた。怒涛のリフレイン、めくるめく文章形態、突如挿入されるエピグラフ、なにがなんだかよくわかんない未分化な状態が形になって出てきたアチャス。よくわからんけど悲しさだけが疾走しているのである。アチャスアチャスアチャス。

 

『嵐のピクニック』本谷有希

 

嵐のピクニック (講談社文庫)

嵐のピクニック (講談社文庫)

 

 

「やだやだやだやだ。大人になるってほんとにいやだ。仮面をつけたまま苦しんでるあたしに気付いて。こんなのあたしじゃないって、あたしは気付いてる。気付いてしまってる。お願い、見て。子供のときは無限に見えた世界のひろがりは、実は有限でしかないって気付いちゃったの。非日常は、まったく日常に回収されちゃうって気付いちゃったの。おかしい、世界はもっと面白いはずなのに。」のメタモルフォセスじゃないかと思った。短篇としては、「アウトサイド」「マゴッチギャオの夜」「彼女たち」「タイフーン」「How to~」が好き。

 

『いのちの初夜』北条民雄

 

北條民雄 小説随筆書簡集 (講談社文芸文庫)

北條民雄 小説随筆書簡集 (講談社文芸文庫)

 

 

すさまじい作品だった。ハンセン病の病院での話である。正直かなり暗い。けれど、暗い中にも煌々と輝く、かっかと燃える光が見えた。「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです」と形容される患者の描写は、思わず本当かどうかを疑ってしまう。丸尾末広の絵で想像してしまったほどだ。けれど、これが現実なのか。

 

『親しい友人たち』山川方夫

 

 

「夏の葬列」はこれまでに三回読んだけれど、それぞれ印象が違う。今回は「ヒッチコック・マガジン」掲載作とセットになって、連作の一つとして読んだ。すると、エンタメ色が目に付くようになった。純文学作品とセットで読んだときは、繊細さや孤独が目立ったし、教科書掲載作として読むと、戦争の悲惨さ、というようなテーマが浮き彫りになった。不思議な作家だと思う。けれど忘れられずに、なんとなく読んでしまう。ミステリーでもあり、純文学でもあり、ホラーでもあり、ときおりSFでもある作品群は、どれも珠玉だった。「赤い手帖」が好き。

 

~COMIC編~

 

『ヴォイニッチ・ホテル』道満晴明

 

 

ついに完結した。死人がよみがえったり、死体がしゃべったり、殺人、麻薬、悪魔、魔女、なんでもありのごたごた空間。南国のホテルという舞台設定が、とても上手だと思う。様々な事情で訪れる人が、その一期一会のなかで物語を作り上げていく。どうやってまとめるのかと思っていたけど、大団円でよかった。

キャラではスナークがやっぱり光っている。抱かれて、堕胎して、殺す。

エレナの最後のシーンはウェザー・リポートのあれとか『海辺のカフカ』の中田さんを思い出した。

 

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション浅野いにお

 

 

浅野いにおのことを好きっていうのは、なんだかくすぐったい感じがするのであまり言いたくないのだけど、やっぱり好きなものは好き。『うみべの女の子』とか大学のブックカフェで読んでぐああああってなった。

デデデ3巻はいきなりがーんと一撃を食らう。日常はいつでも非日常になりうるということを、痛烈に意識させられる。デデデの世界というのは、それを読んでいる僕たちの世界となにもかわらないのだろう。滝本竜彦と近いものを感じる。背景がリアルに書かれているのも、そういう思想性ゆえだろう。

 

少女終末旅行』つくみず

 

少女終末旅行 2 (BUNCH COMICS)

少女終末旅行 2 (BUNCH COMICS)

 

 

デデデとはまた違った、非日常の中の日常。主人公の二人は無目的だ。「何かをしたい」というきもちがあまりないように見える。ロストテクノロジーの世界を移動すること自体が目的だ。ホイジンガが「遊びは遊び自体が目的化している」と述べたように、二人の旅も、それ自体が目的。だからこそ目に映るものに素直に疑問を抱き、感動する。その無垢な目線は、変な例えだけど世界ウルルン滞在記みたいだ。

ケッテンクラートのトトトトトっていう擬音、すごくかわいい。13話の雨音がとても好き。

 

ダンジョン飯九井諒子

 

 

「この漫画がすごい」にもランクインしていたけれど、やっぱり面白い。2015年はご飯ものがはやっていたけれど、RPGのモンスターを料理しようという発想はあるようでなかった。スライム、薬草、ミミックというお決まりのアイテム・モンスターをどう料理するのか、というのが毎回楽しみだ。

九井さんは短編集もとても面白かったし、ファンタジーの裏側を書く漫画家としてこれからも頑張ってほしい。

 

『ハイキュー』古舘春一

 

ハイキュー!! 19 (ジャンプコミックス)

ハイキュー!! 19 (ジャンプコミックス)

 

 

アイシールド21』とか『ピンポン』とか、アツいスポーツ漫画が好きなのだけれど、これはジャンプ漫画で久しぶりにアツい。僕は及川が好きなので、青葉城西戦は最高だった。負けた側の話もしっかり書いてくれるのは、よい。

白鳥沢があまり強そうに見えないのはどうしてだろう。

 

バーナード嬢曰く。施川ユウキ

 

 

本好きならだいたい一度は思ったことのあるあるあるがたくさん出てくる。2巻の中だったら、「本の薄さを見て谷崎潤一郎の『春琴抄』を読んだら、めちゃくちゃ読みにくかった」というのは、ものすごい身に覚えがある。

絵は、よく言えば味がある絵(悪く言えば……)だけど、神林がだんだんかわいく見えてくるのは作者の思う壺なのかもしれない。

 

『死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々』阿部共実

 

 

長い。通称「死に日々」。阿部共実は『大好きが虫はタダシくんの』から入って、『空灰』『ちーちゃんはちょっと足りない』と読んできたけれど、胸のざわざわ感が癖になる作家だ。小説でいうと藤野可織さんが近いと思う。

2巻では「友達なんかじゃない」と「7759」がすごい。僕も高嶋に大丈夫っていってほしい。「7759」はすごく完成されている。阿部さんのメリーバッドエンドを書く力が遺憾なく発揮されている。

 

『燐寸少女』鈴木小波

 

 

マッチをすれば願いが叶う。オムニバス形式の作品。昔テレビでやっていた『週刊ストーリーランド』に近い雰囲気を感じる。ただで願いが叶うなんてそんなうまい話はない。その裏には残酷な現実が口をあけて待っている。

1巻の「東京タワー」のような手放しで快哉できる作品はないけれど、じんわり来るものが多かった。『ホクサイと飯』も面白かった。あと、絵柄が好き。(ブラックロックシューターの漫画を書いてた)

 

『てるみな』kashimir

 

てるみな 2

てるみな 2

 

 

つげ義春しりあがり寿のような不条理な作風が好きな人はきっと好き。

ネコ耳が生えた女の子が電車に乗ってあばあちゃんのうちをめざす漫画といってしまえば、あまり癖がなさそうに思えるけれど、彼女が旅するのはよくわからない幻想郷。グロテスクであったり、エロティックであったり、ファンタジックであったり、夢が現実化したような世界の中を電車に揺られていく。

不条理ぶらり途中下車の旅

 

『夕方までに帰るよ』宮崎夏次系

 

夕方までに帰るよ (モーニング KC)

夕方までに帰るよ (モーニング KC)

 

 

宮崎夏次系は大好きな漫画家の一人。細い線で、透明感と不穏を兼ね備えたストーリーテリング。日常の絶望と希望のあわいを、体現している。

長編を読むのは初めてだったけれど、かなり胸がいっぱいになった。上質な音楽のアルバムをまるまる聞き終えた後のような気持ちになる。

病んだ人達のなかで、見つける希望。

 

他にはあらゐけいいちの『日常』や中村ゆうひの『週刊少年ガール』が完結した。『日常』、めちゃめちゃ好きだったのでちょっとさみしい。2015年が初出ではないからあげなかったけれど、近藤ようこの『水鏡綺譚』は、幽怪説話漫画で、面白かった。

 

~MUSIC編~

 

でんぱ組.inc『あした地球がこなごなになっても』

 

 

浅野いにおが作詞をするときいて驚いた。確かにでんぱ組と相性はいいとは思う。けれど、あの世界観に曲をつけるのは相当難しいはずだ。浅野いにおが作詞、といえば真っ先に「ソラニン」を思い出すけれど、あれはゴッチが本当にすごい、と思った。期待半分、不安半分で「こなごな」を聞いた。とてもよかった。「明日地球がこなごなになって宇宙のちりになって消えたらオーロラみたいなメイクして最低!ってそう言って死んでやる」という浅野節がメロディックな曲調で歌われる。B面の「アキハバライフ♪」もでんぱ組の原点にもどった名曲。よい一枚だ。(おつかれサマーの方向に行っていたらどうしよう……と思っていた)

 

パスピエ『娑婆ラバ』

 

娑婆ラバ(通常盤)

娑婆ラバ(通常盤)

 

 

今年はパスピエのワンマンをききに行けた。大学からの帰り道、「トロイメライ」をヘビロテしながら歩いていたのがつい最近のようだ。最近のパスピエは「はいからさん」「とおりゃんせ」のラインを突き詰めていて、このアルバムで結集したように思える。ライブでも大胡田さんは着物と狐の仮面をつけていた。「つくり囃子」、いい曲だ。なによりバンドのプレイヤーの技量が高い。「素顔」は「最終電車」のように聞かせるポップソングだ。

 

米津玄師『Bremen』

 

Bremen

Bremen

 

 

前作の「YANKEE」や「diorama」にあった奇妙なシンセ音やダークな歌詞はなりをひそめ、直球な曲が多くなっている。物足りないのはたしかに物足りない。けど、新しい扉が開かれていくのはやっぱり肯定されるべきことだと思う。「メトロノーム」一曲だけでもこのアルバムには価値がある。

「ミラージュソング」もキャスの弾き語りとはだいぶ違っていていい。

 

ぼくのりりっくのぼうよみ『hollow world』

 

hollow world

hollow world

 

 

正直ラップのことはよくわからない。Rage Against The Machineとノリアキくらいしかしらない。でもラップは面白いから好きだ。ぼくのりりっくのぼうよみ、変な名前だ。正直、「あ、また奇をてらったロキノン系バンドだな」と思ったくらいだ。でも、聞いてみて、リリックの心地よさにしびれた。

17歳というのはちょっと信じられない。

 

Shiggy Jr.『サマータイムラブ』

 

サマータイムラブ

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なんていったってシティポップだ。だっさいPVもイケモコの立ち居振る舞いも全部最高。2010年代にこんなにどストレートな楽曲を持ってこられると、どうしたって、好きになってしまう。「神様この時間をずっとずっと止めてほしいのに」。こういう抒情を忘れないで生きてきたい。ほんとに。

 

吉澤嘉代子箒星図鑑』

 

箒星図鑑

箒星図鑑

 

 

たまたまyoutubeで「ケケケ」を聞いて、好きになった。そもそもアルバムのタイトルが「箒星図鑑」「幻倶楽部」「変身少女」「魔女図鑑」だ。塚本邦雄の歌集みたい。歌謡曲のようなメロディで大正・昭和チックな少女をうたう吉澤さんはとても素敵。「未成年の主張」、とてもいい。このアルバムを薦めてくれたフォロワーさんに感謝。

 

血眼『whiteout』

 

whiteout

whiteout

 

 

女性ボーカルが好きなんです。ねごと、チャットモンチー、tricot、GO!GO!7188、SEBASTIAN X、きのこ帝国、みるきーうぇい、絶景クジラ……あげたらきりがない。血眼はまっとうなギターロック。こういう系統の音楽にはどうしても食指が動いてしまう。さわやかなロックチューンっていうのは、絶対に必要だと思う。「涙のブラウニー」が好き。

 

松本隆『風待であひませう』

 

 

星間飛行」を聞いていて、びっくりした。「濃紺の星空に私たち花火みたい」「魂に銀河雪崩てく」「流星にまたがってあなたに急降下」。よくよく聞いていると聞いたことのない日本語の組み合わせがわんさかでてくる。はっぴいえんどが日本のロックを変えたというのが、よくわかる。YUKIの「卒業」カバーがとてもいい。歌詞を見てたら泣きそうになった。

 

大森靖子『マジックミラー』

 

 

曲調はかわったけれど、大森靖子は最初からずっとひとつのことをうたっている気がする。この世界の生きづらさ、音楽の無力さ。無力だからこそうたいつづけるのだ。「どうして女の子がロックをしてはいけないの」というつぶやきが、突き刺さる。

大森靖子といったらメンヘラ力の高い歌詞だとか、奇抜で憑依的なパフォーマンスばっかり目が行きがちだけど、よくよく曲を聞いてみると何よりキャッチーなメロディを作るセンスがずば抜けていることに気付く。

 

カラスは真っ白『ヒアリズム』

 

ヒアリズム

ヒアリズム

 

 

アヴァンポップなロックバンドだ。パスピエと同じで、バンドがものすごく上手。相対性理論やオタク・カルチャーを吸収して唯一なバンドになろうとしている。「ヒズムリアリズム」のようなポップだけでなく「ニュークリアライザー」のような、直球ロックもできる。守備範囲の広いバンドだ。

 

なんだか、女性ボーカルのバンドばっかりになってしまった。今年はバンプの新譜も出るし、どんな曲が出てくるか楽しみ。

 

2016年はいい年になりますように。

11月8日のこと

 

疲れると本を買ってしまう。

 

本を買うという行為がひとつの救いになっていて、不健康きわまりない。この前の日曜日は久々に休みだったので、京都の古本屋を回ってきた。

さらさ花遊小路で昼食をとってから、京都市役所横をちょっと北上したところにある10000tアローントコへ行く。『幻視の文学1985』、中井英夫『薔薇への供物』、永井荷風『雨瀟瀟・雪解』を購入した。保坂和志フェアもやっていて気にはなったけれど、いったん見送ることにした。保坂さんは、なんだかんだ読もうと思いつつ読めていない作家の一人。まわりに好きな人が多いけど、まだ僕の中では「顔が村上春樹に似ている人」という認識からそんなに前へは進んでない。『書きあぐねている人のための小説入門』の冒頭だけ読んで、「あ、絶対この人の書く小説は好きだ」と直感はしたので、近いうちに読んでみたいと思う。

 

そのあとは性懲りも無く三条のカフェ・アンデパンダンに行って(ミルクレモネードが本当においしい)、アスタルテ書房へ行く。

アスタルテは5、6年前に一度行って、とても迷った記憶がある。澁澤龍彦をまだ知らない時期だったけれど、あの静かで耽美な雰囲気にはどことなく惹かれるものはあった。大学にいたときも「アスタルテしまるらしいよ」という本当なのかガセなのかわからない知らせはたくさんあったけれど、つい最近、店主が亡くなったというニュースを聞いて、ついに閉店か、と思ったものだった。けれど、お客さんと店番の方の会話を盗み聞きしたところ、まだ続くらしい。うれしい知らせだ。

それからは髪を切り、カラオケに行き、適当な時間に帰宅した。

藤原基央になりたいという野心(忙しくて切れなかっただけ)も社会では許されないので、けっこうばっさりといった。髪の毛がないと不安になるので、慣れるのに時間がかかりそうだ。

なかなか休日らしい休日だったんじゃないかと思う。

 

ちなみに、『幻視の文学1985』で第一回幻想文学新人賞を「少女のための鏖殺作法」で受賞した加藤幹也が、『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』の編集をしていた高原英理であること、その奥さんが歌人佐藤弓生であることが芋づる式に判明して、とても面白かった。

 

あまい香のめまいの中の子どもの問い――きんもくせいってどんな惑星?

おびただしい星におびえる子もやがておぼえるだろう目の閉じ方を           佐藤弓生

 

素敵な歌人だと思う。

『パリの憂愁』ボードレール

岩波文庫の『パリの憂愁』こそ「逃げる人」の原点であって、かつ、その苦しみを味わうことのできる文学だと思った。

 

パリの憂愁 (岩波文庫)

パリの憂愁 (岩波文庫)

 

 

 

僕がボードレールと出会ったのは、大学一回生の秋、梶井基次郎の「ある崖上の感情」についてのレポートを書くにあたって、岩波文庫『パリの憂愁』を手に取ったのが初めてだった。

そのころは文学部にもかかわらず耽美主義や悪魔主義なんてものは、まったく知らなかったし(ランボーは筋肉質な映画の主人公のことだと思っていた)、押見修造やルドンに出会う前だったから、『悪の華』すらも知らなかった。

だから僕は、仏詩についてほとんど素人で、仏詩の本を持つのすら初めて、というありさまだったのだ。

 

まず、なんとなく題がいいな、と思った。『巴里の憂鬱』もおどろおどろしくてよいけど、「愁」という字が当時の僕をくすぐった。

本当は目当ての「窓」さえ読めばよかったのだけれど、心ひかれるままに冒頭から読むと、こんな一文が目に飛び込んできた。

 

僕の好きなのは雲さ……。流れていく雲……あそこを……あそこを……あの、素晴らしい雲なのさ!/「異邦人」

 

しびれた。

金よりも、国よりも、友よりも、たゆたう雲を好む感性。そしてそれを臆面も無く言葉にする不適さ。

石川啄木の「空に吸われし十五の心」よりも、谷川俊太郎の「とんでもないおとし物」よりも先に、僕はこの雲を愛する詩人と出会ったのだった。 

レポートそっちのけで読んだ。この時期の僕は、「雲になりたい、雲になりたい」と阿呆みたいに繰り返していたような気がする。

 

この詩集には、雲に関して他にこんな詩片がある。

 

空の無窮、雲の移動し行く建築、海の移り変る色彩、灯台の灯の燦き、それらは、飽くことなく眼を愉しませるために、巧妙にしつらえられたプリズムである。/「港」

 

そして私は、食堂の開いた窓から、神が水蒸気を以て創り為した移動する建築、手の触れ得ざるものを以て組立てられた素晴らしい構造物を、とくと眺めていた。

「すべてこうした変幻極まりない象というものは、僕の可愛い恋人の瞳と、殆ど同じくらい美しいのだ。可愛い気違い女の緑色の瞳と。」

                    /「スープと雲と」

 

うつろい、霧消し、再構築され、また崩壊していく雲。そのたゆたいを、ボードレールは「移動する建築」と表現している。

実際、ボードレール時代の建物はどうだったのだろう。

19世紀半ばのパリは、二月革命の影響下、ナポレオン3世によりパリの大改造が行われていた。スラムは除去され、交通は整備され、採光のよい住宅が立ち並ぶ光の都・パリへと近代化されようとしていた。

うつろいゆく雲は、或いはパリそのものだったのかもしれない。

しかし、パリの町並みと違って、雲は手で触れることができない。

 雲はパリの仮託かもしれないが、一方ではまったく異なった性質をもったものでもある。

パリでありながら、パリでない雲。

二律背反したその空想はボードレールにとっての、ひとつの逃げ場所であったのかもしれない。

 

雲を愛する一方、ボードレールは時間に対して嫌悪感をあらわにする。

 

まさにそうだ!「時間」は再び現れる。「時間」は今や至上者として君臨する。そしてこの忌まわしい老人と共に、彼に従う悪魔的な供奉の面々が帰って来る、「追憶」と、「悔恨」と、「痙攣」と、「恐怖」と、「苦悩」と、「悪夢」と、「憤怒」と、そして「神経症」とが。

                    /「二重の部屋」

 

時間が流れることで、現在は無限に過去になっていく。新しいものは古びていく。

でも、パリはどうだろう。時間が流れ、大改造されることで古いものから新しいものになるはずではないか。ここにも矛盾がひそんでいる。

 

時間が流れることで、過去になること、未来が生まれること。

それは、こういいかえることもできるだろう。

大人になって、成長することと、消えていってしまうこと。

なんだ、この矛盾は若者ならみんな抱えるものじゃないか、とここで気付く。この二律背反こそが、モラトリアムの根源なのではないか。都市の抱える憂愁は、そこに棲む人間をも捕えて離さない。

 ここであってここでない場所。

子供であって、子供ではない時間。

変化を求めながら、一方で永遠をのぞむこと。

 このにっちもさっちもいかない状況から逃れるためには、

 

常に酔っていなければならぬ/「酔え」

 

のだ。

それは、酒かもしれないし、薬かもしれないし、女かもしれないし、文学かもしれないし、音楽かもしれないし、

 

硝子屋の姿が玄関の表口に現れるのを待って、彼の担荷の後ろ枠のちょうど真上に、手にした武器を垂直に投下した。一撃の下に硝子屋はその場に転倒し、行商用の大事な財産が、全部、彼の背中の下でこっぱ微塵と崩れ去った。水晶宮が落雷のために崩れ落ちるとでもいったような荘厳無比の響きを残して。/「不都合な硝子屋」

 

といった、美しい空想かもしれない。

酔わなくてはいけないのだ。

それこそが、

 

何所でもいいのだ!ただこの世の外でさえあるならば!

        /「この世の外ならどこへでも」

 

そんな場所を求める唯一の手段かもしれないのだ。

どこかへ逃げたいと思いながら、どうしようもなくいま・ここにとらわれてしまっている憂鬱が、この『パリの憂愁』を包んでいるような気がする。

 

ドラえもんの映画に『雲の王国』というものがあった。

ボードレールだったら、雲の上にどんな都市を築くのだろう、とついつい空想してしまう。

 

 

 

梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫)

梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫)

 

 

悪の華 (新潮文庫)

悪の華 (新潮文庫)

 

 

 

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)

 

 

 

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

 

 

 

強欲な羊

 

強欲な羊 (創元推理文庫)

強欲な羊 (創元推理文庫)

 

 第七回ミステリーズ!新人賞を受賞した「強欲な羊」を含む5編の連作短編集。

 

羊といえば、一番最初に思い浮かぶのが聖書や『三四郎』の「迷える羊」。それから、眠れないときにおなじみの「羊が一匹…羊が二匹…」っていう例の呪文。それから「メリーさんの羊」。

よく見れば、「美」という漢字や「善」という漢字にも羊は入っている。

そう考えると、なんだか、抽象的でスピリチュアルな動物にも思えてくる。

 

ミステリーということで、ネタバレは必至なのでこの本を読んでから読んでください。面白いので。よろしくです。

 

「強欲な羊」

 

ああ、よかった!お気付きになられましたのね。

 

という冒頭から、ああ、これは怖いぞ、と思った。

この形式は、例えば湊かなえの『告白』であったり、岩井志麻子の『ぼっけえ、きょうてえ』であったり、強制的に読者=聞き手が話者の会話空間にとらわれることになる。語り掛ける形式は、それだけで閉塞感と圧迫感を生む。

三遊亭圓朝でも、稲川淳二でも、ハローバイバイでも、伊集院光でも、百物語でも、ホラーは文字で読むよりも、言葉で聞いたほうが怖さは倍増する気がする。

話し手はいったい誰なのか、聞き手である「自分」はいったい誰なのか、どこなのか、どういう状況なのか、それらは明かされることなく放置され、屋敷で起こった殺人事件の話が「わたくし」によって一方的に語られていく。

 

薔薇に例えられる気性の激しい麻耶子と、桜に例えられる可憐な沙耶子姉妹。

妹のものを奪うことを生きがいにしているかのような姉の麻耶子。そのわがままっぷりはある意味で典型的。それにじっと耐える妹の沙耶子もある意味で典型的。

小指を立てて、おーほっほっほっ!!!!、とか高笑いしそうな姉と、いいの、わたくしは、ああ、ハラリ……、とかしなだれそうな妹、というお嬢様キャラの両極端みたいなキャラ造形だ。

この子が羊の仮面の下にどす黒い本性を隠していることを、なぜ、誰も見抜けないの!?

そういう麻耶子の言葉もあって、なんとなくの結末はみえている。

のだけど、ここからがこの短編の真価。冒頭の見えやすい謎=殺人事件の影に意図的に隠された謎が、怒涛のように明かされるのと同時に襲ってくる、恐怖感。

語りという形式がすごくいかされている。

この二転、三転の心地よさはとてもいい。

 

 

「背徳の羊」

ゴシックホラー風の表題作とは一変して、時代は現代に。

プラスチック加工会社を経営する篠田と、その美人妻・羊子の間に生まれた息子と、葉子の元上司の水嶋の息子が似ている、という違和感から物語ははじまる。

水嶋の妻、初音のもとに届いた「ご主人のすぐそばに、『背徳の羊』がいます」の手紙も相まって、篠田と初音は一緒に羊子の身辺調査をはじめ、次第に羊子の過去が明かされていく。

徐々に羊子を追い詰めていく二人、そんな中、水嶋の息子が池に沈められるという事件が起こり……。

 

火曜サスペンス劇場にありそうな設定であるが、やっぱりこの短編もそうすんなりとはいかない「ひとひねり」が加えられている。いや、「ふたひねり」かもしれない。

最後のページを読んで、「お前かい!!!!」と突っ込んでしまった。

 

 

「眠れぬ夜の羊」

コンビニ経営の塔子はある日、人を撲殺する夢を見る。

殺した相手、それは、過去の恋人・文彦を奪った同級生・明穂だった。

悪夢から醒めた塔子は、シャワーを浴びて、いつも通りコンビニに向かう。

そこで飛び込んできたのは、明穂が公園で殺されたというニュースだった……。

 

夢が本当になってしまった?それとも夢ではなく本当だった?

いわゆる「信頼できない語り手」によって、物語は進んでいく。

そして、信頼できない語り手が信頼できる語り手になった途端、またもやうっちゃりをくらわせられる。

まただ。見えやすい謎を解決して、安心させておいてぐわっと一発くらわせるパターン。

これはホラー映画の「後ろを向いたら誰もいなかった。と思って前を向いたら……」というあのお決まりのパターンに似ている気がする。

しかも、この短編ではがっつりとホラー要素を押し出してくる。

見えるはずのないものが視える女の子がでてくる。

 

 

ストックホルムの羊」

現代的な前の二編とは打って変わって、時代は中世。

暗い塔に幽閉された王子と、カミーラ、ヨハンナ、イーダ、アンの四人の女の暮らしを描く。

ある日謎の美少女マリアが闖入したことによって、安寧な暮らしは崩壊していく……。

 

先に言っておくと、僕は表題作とこの短編が、『強欲な羊』の中では好きだった。

一番衝撃が大きかったからだ。

唐突なファンタジーに一瞬「ん?」となったけど、一番最初にゴシック風味の短編が配置されているせいで、すんなりと受け入れてしまった。

 

ただ、この題名はかなりグレーゾーンだと思う。

いまどき(しかもこの本を手に取るような人が)、「ストックホルム」と聞いて正直に「ああ、スウェーデンの話なのね、うふふ」とは思わないだろう。

しかも、現実に「監禁王子」という存在がいる以上、そのことをほのめかすタイトルはやめた方がいいんじゃないかと思う。

その真意に気付いた人は、「一つ目の謎」=女たちの出生だけじゃなくて、「二つ目の謎」にまで気付いてしまうだろうから(僕は気付かなかったけど)

 

 

「生贄の羊」

連作短編には二種類あると思っていて、一つは同一の主人公や登場人物、場所を、ほんのりちりばめたり、あるいはがっつりだして「読者が読みながら連作だと気付く短編」と、短編を書いて、最後の作品で全部つながってたんだと、作者が明かす「作者の作為で連作となる短編」だ。

後者は、失敗することも多い。強引になりがちだからだ。「蛇足」と呼ばれることも多い。

この「生贄の羊」は完全に後者のパターンだ。

いろんな感想を見てみたけれど、否定派が結構な数いる。

たしかに、何の脈絡もなくそれまでの登場人物の絡みが始まり、何の脈絡もなくホラーがはじまり、何の脈絡もなくすべて一つの街であることが明かされる。

ミステリーを読んでいるという意識の人にとっては、「は?」となるような短編だと思う。

 

でも、僕は冒頭や「眠れぬ夜の羊」から、ホラー小説だと思っていたので違和感がなかった。

しかもなかなか怖かった。

うまくはいえないけれど、この短編をすべてをまとめる「タガ」のようなものと考えないで、漫画の最後にちょっとくっついている「おまけ」みたいなものと考えて息抜きのように読むと、楽しめるんじゃないかと思う。

 

羊、連作短編ミステリー、屋敷、という単語でおっと来た人、はい、米澤穂信が好きな人、おすすめです。

乙一にも近いかも。

冒頭からホラーホラー言ってきたけれど、この美輪和音さんは、別名義で『着信アリ』の脚本を書いているとのことだった。

だから、ホラーの手法がこんなにもちりばめられているのだろう。

 

この作品はイヤミスとしておされているらしいけれど、違うんじゃないかと思う。

「イヤミス」の代表作としてよくあがる湊かなえ真梨幸子のたとえば『孤虫症』とは読み心地が違う。

そもそも、イヤミスというのがよくわからないのだけれど(胸糞悪くなる小説?)、この作品を読んで湧いてくるのは嫌悪感ではない。

たしかに羊の皮をかぶった狼は多く出てくるし、いやーな気持ちにはなるけど、この気持ちはホラーの読後感だ。

「いや」の方向性が違う気がする。

なんにせよ、夏にはぴったりの作品だった。

 

 

 

ところで、さっきからあなたの部屋の窓の、上のほうから覗いているのは誰?