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『群像70周年記念号』全作レビュー7~焔の中~

群像レビュー

予定では去年のうちに全部の作品についてレビューし終わるはずだったのですが、そううまくいくはずもなく、まだまだ序盤の『群像10月号』全作レビュー。

 

群像 2016年 10月号 [雑誌]

群像 2016年 10月号 [雑誌]

 

 

今回も前回までの第三の新人ラッシュに引き続き、第三の新人界のエロ枠担当こと吉行淳之介「焔の中」です。

 

P+D BOOKS 焔の中

P+D BOOKS 焔の中

 

 

少しふざけましたが、やはり得意分野というかテーマとしているものというのが文学にはあって、例えば遠藤周作なら宗教だし、庄野潤三なら家族だしといった具合です。

吉行淳之介には花柳小説、いわゆる遊郭を舞台とした小説も多く、そういう枠組みで語られることが多いというわけです。

この「焔の中」は自叙伝的な、そして前々から「第三の新人」の特徴としてあげているような小市民的な作品なのですが、やはりちょっとだけそういう場面があります。

というか、むしろ主題のひとつとして「」との向き合い方というのが書かれているのが、この小説ではないかと思います。

 

まずは物語の作り方として、この小説の最初の一文は次の通りです。

 

瞼の上があかるくて、耳のまわりで音がざわざわ動いているので、厭々ながら思い切って眼をひらいた。

 

少し読み進めると、こうした文章が登場してきます。

 

めずらしく前夜からこの朝にかけて、空襲がなかったのだ。いつもは、耳のまわりでざわざわ動いている音のために眼覚めると、その音は警報のサイレンとか塀の外の舗装道路をあわただしく走る靴の音などであった。

 

つまり、この部分だけでタイトルの「焔」がいったい何のことなのか、というのが説明されることとなります。やはり時代も時代、「焔」とは空襲による炎のことである、というのがここで仄めかされます。

さらにうまいのは、はじめに感じた「音」がいつもとは違って、空襲にまつわる「音」ではないことが示唆されています。つまり、この一日が何か「特別」である、ということが冒頭から暗示されているのです。

実際すぐ後に、

 

若い女中が作ってくれた朝食の、不可思議な旨さ

 

という形で「不可思議」という言葉を持ち出すことで、いつもとは違う特別性を演出しています。やはり平凡な一日よりかは、特別な一日のほうが物語にはなりやすいので、この時点で何か起こるのではないかという予兆を読者に孕ませることになります。

もっといえばこの作りは、静→動の動きをも作りだしているので、読者を引き込む演出としても成功しています。

このあたりは、例えば遠藤周作の『海と毒薬』でも同じ手法が使われているし、ホラー映画なんかでも平凡な日常が最初に描かれることが多いので、なんとなく了承してもらえるのではないかと思います。

 

海と毒薬 (新潮文庫)

海と毒薬 (新潮文庫)

 

 

付け加えてもう一点。なんらかの「音」に目覚めてしまうような、繊細な「心の動き」が主人公に存在していることも、ここで推察することができるようになっています。

この後は、その心の動きが主題として語られていきます。

 

まとめれば、初めの一文に①特別感の演出、②静から動の演出、③主題の表出、④タイトルの説明という4点を詰め込んでいるのです。

すんなり書いているように見えますが、結構作りこまれている感じです。

 

今度は話の主題になりますが、この作品を貫いている主人公の心象は次のようなものです。

 

自分の生が数歩向こうで断ち切られているとあきらめた場合、日常生活の煩わしさのうちの大そう多くの部分を切り捨ててしまうことができる。

 

これは、現代でも処世術として実行している人がいるのではないかと思います。要するに、どうせ死ぬから少しの傷はどうでもいい、というやつです。

現代では、基本的には自発的に死のうとしなければ生きられる世の中ですが、冒頭でも書かれているように時代は第二次世界大戦

 

戦争の終った後の日々の中には、僕はすでに存在していない筈だった。

 

という実感が若者の中に、肉体性を伴って存在している時期です。

とはいえ、これだけだったら戦時中の青年の心の動きを書いているわけで、いわゆる普遍性は得られないということになります。

いかなる状況であれ、やはり描かれる青年の心境は次のようなもの。

 

青春、というか思春期といった方が正確か、ともかくそれはぼくにとっては、明るく美しいものの要素よりも、陰気でべたべたからまりついてくる触手のいっぱい生えた、恥の多い始末に困る要素がはるかに多いものであった。

 

僕はまだ、童貞という濡れたシャツを脱ぐことさえ出来ていなかったのだ。そいつは、青春というべたべたしたシャツのなかでも、もっともねばっこく皮膚に貼りついてくるものだった。

 

前々回の安岡章太郎「悪い仲間」でも出てきましたが、やはり少年と青年をわかつモラトリアムの分水嶺は「童貞」という観念です。

 

kamisino.hatenablog.com

「安い仲間」のときは、あくまでモラトリアムを描く道具の一つでしたが、今回の「焔の中」ではこの童貞、ひいては女性に対する距離感というのが主題となってきます。

モラトリアムを構成するいくつかの心の動きの中で、女性との関係を特に描くあたりが吉行淳之介の面目躍如といったところ。

そういうわけで、「べたべたしたシャツ」のような青春を演出する3人の女性がこの小説には登場します。

 

一人目は、「四国地方の田舎から東京に憧れて出てきた」「漿液の多そうな厚ぼったい手」をした吉行家の女中。

この女中はのちのち物語をすすめるトラブルメーカーとしても活躍します。全編を通してどこかコメディチックな印象を受けるのも彼女のおかげ。

 

二人目は、「派手に見える外貌の内側に古い気質が潜んでい」る美容師の母。

父に死に別れ、未亡人として日々を送っています。

 

三人目は、蓮っ葉な感じのする女友達の友人。

主人公は彼女に対して、性的な欲求を抱く、正しく言えば抱こうとふるまいます。

この少女は、いわゆる恋愛脳のような印象を主人公は受けますが、手を握られると耳朶が真っ赤になってしまうような純情な女の子。

 

この三人に共通しているのが、みんなイメージと実際の差に引き裂かれている点です。

女中は「都会」ぶりたいけれど、「田舎者」を抜け出せないというイメージ。母は「派手」な外見だけれど中身が「古風」であるというイメージ。友人は「蓮っ葉」にふるまうけれど、実際は「純情」であるというイメージ。

二つのイメージの間に彷徨う女性を描くことで、自然と同じく「少年」と「青年」の間を、まさに焔のように揺れ動く主人公という存在を浮かび上がらせることができます。

 

さて、主人公は友人と性交渉しようとしますが、それは女中の「覗き」という行為によって中断されてしまいます。

しらけた主人公が何をしたかといえば、見た目に反して奥手な母親に向けての「性教育」。もちろん実際的な近親相姦ではなく、知識による教育です。

 

ここで明らかになるのは「友人」と「母親」が重ね合わされているということ。つまるところ、この小説は「父親を殺して母親を犯す」類の、あのパターンにのっとったものである、ということができると思います。

それが成長のしるしになる、といういわゆるオイディプス的なあれです。

「童貞」は友人に仮託された母親を抱く、制圧することによって心理的に解消されます。

このあたりは『生き延びるためのラカン』あたりにやさしく書かれているので、説明は省きます。

 

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

 

 

こうしてコケティッシュな「聖/性」的なアイコンとして機能する母親や友人と対比されるのが都会に憧れつつどうしようもなく道化となってしまう「俗/生」的な女中。

彼のモラトリアムは、この女中によって阻害され続けていきます。

このように女性キャラに明確な性格をもたせているあたりが、丸谷才一をして「吉行は女性に不感症的」と揶揄されてしまう部分なのかもしれませんが、小説としてはわかりやすくなっていると思います。

 

文学全集を立ちあげる

文学全集を立ちあげる

 

 

物語は進んで終盤、序盤に暗に示しておいた通り、空襲が起こります。静から動への物語の転換です。

けれども、

 

自分の生が数歩向こうで断ち切られているとあきらめた場合、日常生活の煩わしさのうちの大そう多くの部分を切り捨ててしまうことができる。

 

と考えている主人公はどこか冷静。

 

「もう五分だけ、僕はここにいます。どうせ燃えるにしても、ちょっとだけそのときの様子を見ておきたいんだ」

 

と言い放ち、炎に囲まれた家へとどまり、レコードを持ち出します。

これによって能動的な思想の表明、前述の思想にのっとった行動が示されることになります。

つまり「どうせ死ぬ」という思想に動かされて、その裏付けとなるように最終的に「無用の品物」であるレコードを持ち出すことになります。

このシーンは持ち出すものを「本」→「毛布」→「レコード」と悩ませることで、その煩悶に、「どうせ死ぬ」とは言いながらもやはり生を諦めきれない戦中の青年の心の動きが書かれているような気がします。

 

ここで主人公がとどまったのは何のためか。

ひとつは今いったとおりに、自分の思想の強度を高めるための行動として、あえて残ったというのが表の理由として考えられます。

どうせ燃えてしまう家と自らの身体を重ね合わせてみていたのかもしれません。

 

もう一つはもっと形而上的な意味。

「童貞という濡れたシャツ」を乾かすため、というのは少し考えすぎでしょうか。友人と性交渉をもつことができずに中途半端に終わった、モラトリアムからの脱出を、外部の火によって少しでも実行させようという心の動きなのではないでしょうか。

端的に言えば冷えた心を温めるため。

 

最後の場面、唯一残っていた財産も女中の俗な行動によって消失してしまいます。

有用なものは燃えてなくなり、残ったのは無用の品物であるレコードだけ。

この空虚な感じと、結局焔の中にあっても燃やすことのできなかった思春期の湿り気が、一種の諦めのように描かれて、「焔の中」は幕を閉じます。

とはいえ、なんとなくくすっとしてしまうのは女中の道化的なふるまいのおかげ。

最後の最後まで、主人公は「俗」なるものによって、現世的な「生」の世界にとどまることを強要されてしまうのでした。

 

長く続いた男性作家ゾーンも終わり、次は女性作家。

男性作家とはどのように違うのか、というところが見れるのではないかと思います。

出来るだけ早いうちに更新出来たらうれしいです。