キャス読書会第一回『ノーライフキング』覚書
80年代は浅田彰や宮沢章夫がのちに回顧するように、あらゆるものが記号化し、ジャンクが堆積している時代であった。サブカルチャーという概念自体もこの時期に日本に取り入れられ、民族的統一性をもつ日本では、ニューアカブームと共鳴して本来の意味と異なった文脈で語られるようになった。消費の時代にかこつけてアニメ、ゲーム、音楽、ファッションなどの雑誌が80年代に数多く創刊していることからも、あらゆるものが分化され、意味付けられていったことがわかる。
宮沢章夫は『「80年代地下文化論」講義』の中で六本木を象徴として次のようなことを語っている。輸入レコードショップ〈六本木WAVE〉のあった箇所には、現在〈六本木ヒルズ〉が存在している。80年代はWAVE=動/ダイナミズムの時代であり、それはバブル崩壊以降ヒル=静/スタティックな時代となった。オタク文化、クラブ文化をはじめとするサブカルチャー文化がうなりをあげ、いろいろなものにタグをつけ、有意味化していったのである。
この記号化の時代が、のちに〈渋谷系〉〈下北系〉〈セカイ系〉といった系、「っぽさ」を生んだことは想像に難くないであろう。試みにいくつか論文を調べたところ「ぽい」という言葉は江戸時代から使用例はあるものの1970年後半から80年代初頭の著作で「若者言葉」として紹介されていた。「ぽい」は「らしい」などに比べて、マイナスの意味を付与する場合に多く使われる。まさにレッテルはり、差異化、階層化、有意味化である。
90年代末期から2000年代には『文藝』の特集で阿部和重を筆頭に〈シブヤ系文学〉〈J文学〉のように、メインカルチャーをサブカル化するかのような言葉が生み出されている。80年代の文学といえば1981年の田中康夫『なんとなく、クリスタル』や高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』のように、従来の文学の私小説的、モノフォニー的な形式を破壊するポストモダン文学というものが登場してきた。1987年のよしもとばなな『キッチン』は少女漫画的といわれる。いわゆるサブカルチャーを文学に輸入したものである。
『ノーライフキング』に話をうつせば、この子どもによる世界の創造は、疑うことなく「大人」社会の、より正確を期せば、80年代カルチャーの転写であるといえよう。
フランスの批評家カイヨワが『遊びと人間』の中で「自然の無秩序状態を規則づけられた世界に変える必要があり、遊びはそのような世界の予見的モデルを提供しているのである」と述べるように、子どもの遊びは社会構造のモデルとして発見することができる。
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「インベーダー」や「ゼビウス」などの遊びは例えば中沢新一によれば、フロイト的欲動の原体験である。有意味化以前の場所=宇宙に侵略者が現れては消えていくというのは、反復強迫の顕現であり、不安をコントロールできるように象徴的な体系を構成しているのである。
大人社会というものは例えば法であり、経済システムであるような多くのコードにのっとって進行している。しかし、それが発生する瞬間があるはずで、80年代という時代がサブカルチャーという神話を生み出し続けているという事実をいとうせいこうは、子どもの遊び、ゲームを用いて表現したのだろう。
噂のひとつひとつがすでにノーライフキングという大きな物語に書き込まれていた気がする。彼らの噂のネットワークは、突然変異的に発生する物語を収納する、不気味で巨大な物語を作り出してしまっていた。
奇しくも映画という「サブカルチャー」を同じく文学に取り入れ、子供社会に大人社会のコードの発生を仮託した作家に谷崎潤一郎がいる。彼の「小さな王国」は、『ノーライフキング』の副読本として一読に値するだろう。
いとうせいこうが特異なのは1983年に一般化した「メタフィクション」を用いて、物語のほころびを批評性として組み込んでいるところであろう。
本作は悪魔のソフトにして噂の正体「ノーライフキング」の話でありながら、『ノーライフキング』という現実の著作として書かれている。さらに「NOW LOADING」のような文を挿入し、主人公の動作を細かく描写することによって、この小説自体をあたかもゲームであるかのように描いている。
ひたすら右へ全速力。およそ三十秒後、まことは、大通りに出る手前の小さな書道教室の角を左歩方向に回りこむ。
駅まで早足で八分。午後五時〇三分発の電車に乗って六つ目の乗り継ぎ駅まで十五分。到着と同時に向かいのホームに白桃色の電車がすべり込む。その三両目に移動して四つの駅をやりすごし、五つ目の駅まで十三分。そこから塾までが徒歩十五分。
さらに作中では、この構造について登場人物の「さとる」や「まこと」による以下の発言やがある。
さとるの指の下にはライフキングがいた。
「これがノーライフキングでしょ」
最後にさとるはハーフライフ一匹一匹をそっと触った。
「で、これがぼく」
ノーライフキングは呪われたソフトの名前だ。そしてそのソフトの主人公の名前だ。しかし、自分たちを実際に襲いつつある呪いの総称でもある。
ここでの構造をまとめると、①ノーライフキングの主人公はノーライフキング、②ノーライフキングのプレイヤーはハーフライフ、③ノーライフキングは噂であり、呪いである。
この構造に当てはめるならば、三人称一視点の主体となるまこと=ゲーム『ノーライフキング』のプレイヤー=小説『ノーライフキング』の主人公となり、命を記述するハーフライフであり、噂の正体でもあるノーライフキングでもあるという多重性を獲得する。
そして80年代の「世紀末」の噂が蔓延する社会を社会『ノーライフキング』とみなせば、この小説『ノーライフキング』の受け手≒読者=プレイヤー=ハーフライフ=噂の正体という空間が表出する。
終末思想に基づいて噂=ノーライフキングを構成しているのは誰なのか、それはその噂世界の登場人物である我々だということになる。
そしてこれは無記名化に対する、個の戦いのすすめでもある。転じれば記号化される一方で死への憧憬を高めていく80年代への「鶏口牛後」といった檄文であるともいえよう。そうなると東日本大震災を受けての『想像ラジオ』での復活も、村上春樹が阪神・淡路大震災に共鳴して書いた『神の子どもたちはみな踊る』以降書いてきたものとあわせて考えれば納得のいくものであろう。
「無名って恐ろしいわね」
「なんだって?」
「ゲリラが一一五名戦死というだけでは何もわからないわ。一人ひとりのことは何もわからないままよ。妻や子供がいたのか?芝居より映画の方が好きだったか?まるでわからない。ただ一一五人戦死というだけ」
ゴダール「気狂いピエロ」――村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』エピグラフより
以上のように80年代の文化批評としての一面をもつ『ノーライフキング』においては、子ども社会の形成を描く一方で大人と子どもの対立が描かれる。
子どもにより創成された価値観=物語=コードを理解できない人間が唱えたのはゲームの廃止だった。
子どもを野放しにするな。ライフキングを奪え
つまりは道徳や倫理、旧常識に基づいたコードの上書きである。その結果何が訪れたかは、小説で書かれているとおりである。
大人たちは誰も、それがかえって子供たちを追い詰めてしまうことに気づかなかった。
呪われたノーライフキングはライフキングであり、ハーフライフであり、それを奪うというのは世界を、ひいては命を奪うということに他ならないのである。
この根本的無理解、レッテルに基づいた批判は言うまでもなく、1989年の宮崎勤による幼女殺害事件、1997年の酒鬼薔薇事件、2008年の秋葉原通り魔事件でも繰り返されている。
この『ノーライフキング』の子どもたちの虚構は、例えば葬式ごっこで泣いてしまう「みのちん」のように、実際に感情を動かす。「リアル」の反転した終幕に表現されているように、終末の噂は、現実に作用する。この延長上に宮台真司のいうところの「終わらない日常」の人工的ハルマゲドン、地下鉄サリン事件があることを考えれば、『ノーライフキング』の批評性と普遍性はかえりみられてしかるべきであろう。
終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)
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1999年のノストラダムスの予言が無事に終幕して以来2012年のマヤ文明の予言、彗星の激突、アセンションという終末思想、またくねくねや八尺様、バンドの楽曲の怖い解釈などの死の欲動に裏付けされたネットロアはインターネットを媒介として無数に展開されている。その中でも『虚構推理』などは、ネットロアを描いたミステリーとして面白い。
噂が世界を意味付け、人を動かすという本質は、マスメディアがネットに敗退し、相互監視となっている社会、第三次世界大戦という新たな終末思想を獲得した現代においては、再確認されるべきではないだろうか。
噂や雰囲気というのは、ひとりひとりが作り出すものであり、ジャンルや記号化に反抗して、自分の声を上げること、命の記述をすることが常に求められることなのだ。
「日本はじめての世紀末はデマしか生まないと思うんですよ」
子供はマンガのヒーローを殺して
最終回を勝手につくった
明るいマンガを暗くしたがった
誰もがそれにきづかなかった
噂はすぐにひろがりだした
どんな噂だってもうどうだってよかった
世界破滅のイメージを誰もが欲しがった
「噂だけの世紀末」より