ぬばたま第二号感想

うばたまや闇のくらきに天雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる/源実朝

あじさいの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼/佐藤佐太郎

 

96年だから「黒」ということはあとあと知ったのだけれど、黒色ってとてもかっこいいな、と思う。印象に残った歌について、いくつか書いておこうと思います。

 

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 表紙の写真が投稿できなかったのでただの黒です

 

強い風わたしといない日のきみを想像してみるときにとりわけ/乾遥香

 

「わたしといない日」といえば、たとえば交際関係にあって、あるいは好意を向けている人間が、わたしといない日≒わたしでない誰かといるかもしれない日、ということになるのだと思う。でも、もしかしたら「わたしといない日」はわたしときみが出会わなかった世界の夢想なのかもしれない。ともあれ、わたしときみは、きっと常にひとつなのだ。だからこそ、切り離されたときに、神経が過敏になってしまう。順番としてはきみといないから風が強い、なのだ。けれど、そういう日に限って特に強く風が吹く、という錯誤した言葉の並べ方に、わたしと切り離された「自然」が定義される。そういった世界とも換言される自然に、きっとわたしときみなら対抗できるのだろう。

 

 

ティッシュ箱がつぶれてたぶんどちらかが踏んじゃったんだ今日のどこかで/初谷むい

 

お湯のことさゆってよべばおいしそう さゆ きみの中身を知りたいよ/初谷むい

 

好きです。なんにもかなしいことはいっていないはずなのに、どうしてこういう感情になるのか不思議になる。ティッシュ箱、たしかによく潰れる。踏んで潰れるというからには、きっと床に乱雑に置かれている。丁寧な生活では、きっとない。どちらが踏んだかは定かではない。どの時点で踏んだのかも定かではない。ただ、ふたりの生活の結果として潰れたティッシュ箱がある。めちゃくちゃになって進んだ一日の表象として潰れたティッシュ箱がある。

アヌビアス・ナナ水槽に揺れてゐて ナナ、ナナ、きみの残像がある/山田航」例えばこんな歌。楽曲ならば、筋肉少女帯の「香菜、頭をよくしてあげよう」であったり、米津玄師の「vivi」であったり、ROSSOの「シャロン」であったり、スピッツの「ナナへの気持ち」であったり、こういう人名に呼びかける、という歌がある。ぼくは、歌って呼びかけなのではないか、と思っている。「さゆ」も「ナナ」も元は物の名前だ。そこから人名を探し出して呼びかけるとき、ある切実さが生まれる。お湯なんだから透き通っているはずだ。それなのに、中身を知りたいのだ。お湯ですらわからないのだから、人間なんてもっとわからない。

初谷さんの歌の「着地しない言葉遣い」を見ていると、この人の日本語は呪術のようだ、と思う。ひらがな、過去形、主語・目的語の欠落、口語、様々な要素から、日常のそこここに「ほろび」が立ち現れる。

 

 

海風と帆船 なにも奪わない奪われないで暮らしていきたい/佐々木遥

 

海風と帆船。風があるから船は進む。一見すればそれは互助的であって、ある種理想的な関係性に見える。しかしながら、風が強く吹けば船は転覆する。帆は自由に進むことができたはずの風を遮っている。帆船は停止するという自由を風に奪われている。おそらく生きていく中でなにも奪わないで、奪われないで生きていくことは不可能だ。そうして、それを主体はわかっている。「いきたい」という希望は、実は「海風と帆船」によって最初から絶望になっている。けれども、奪っている、奪われているということを意識しなければ、それらは理想的な私/君の関係だ。諦観の中に、切実な願いがどうしても光ろうとする。これをおそらく祈りという。

 

 

映画ならもう冒頭は越えたはず サントラまみれで交わるセックス/関寧花

 

変な言い回しだなと思った。サントラまみれ、とは。実際に映画のBGMを流しながらセックスしているのかもしれないけれど、ぼくはコンテクストのことなのかと思った。コンテクスト、言い換えれば桎梏。ひとつのロマンスのように人生をとらえ、冒頭を越えるころには様々なコンテクストが周囲には生まれているのだろう。映画におけるサントラは、雰囲気を決定する重要な要素だ。日常系ほのぼのアニメの曲が『ダイ・ハード』に流れていたら、途端に気が抜けてしまう。きみとわたしの関係の中で絡みついてくる、すべてのものの中でのセックス。それって実は普通のセックスなのだけれど、それを「サントラまみれ」という突拍子もない言葉で表現されると、何やら面白いものに思えてくる。そして、それを俯瞰している冷徹なわたしが、うっすらと背後に存在している。

 

 

うお座です」「ミモザですか?」と返しつつぼくらに未知の樹が茂る森/越田勇俊

 

うお座です」という答えを発する機会は、たぶん「何座ですか?」と聞かれた時だけだろう。だから、「うお座」を「ミモザ」と聞き間違えることは、ありえない。だから、すでにここには普通ではない論理がはたいている。これは関係ないと思うけれど、みなみのうお座のフォーマルハウトは、クトゥルフ神話ではニャルラトホテプの天敵クトゥグァの住む星だ。クトゥグァはニャルラトホテプの住むン=ガイの森を焼き払う。「未知の樹が茂る森」の神秘的な言い回しは、そういう論理の外にある神話をも想起させる。「うお座」「ミモザ」の聞き間違いだけで、海、空、森という三カ所を一首の中に登場させるのは、面白いと思う。

 

 

僕も飛びたい僕も飛びたい流れ星消えゆく前に僕も飛びたい/九条しょーこ

 

「気づいてくれない」がリフレインされる連作のひとつ。僕も飛びたい、ってどういうことなのだろう。空を?きっと流れ星のように、誰かに待ち望まれたい、見つけてほしい、ということなのだと思う。「黒色の落書きは叫ぶ わたしを消してわたしを消してわたしを消して/早坂類」を思い浮かべた。こちらもきっちり三回、願いを繰り返す。これは流れ星への願いだ。「僕も飛びたい」「僕も飛びたい」流れ星消えゆく前に(僕は願う)「僕も飛びたい」だろう。けれど、その括弧には、きっと「一緒に」という気持ちも入っている。では、飛んだら誰か気づいてくれるのか、というと連作の中でアンサーがされている。連作として面白かった。

 

 

はつ恋のやうにしづかな遊園地のそこにいつでもゐたしろいいぬ/岐阜亮司

 

ああ、初恋って静かなんだと、まずは思った。でも、この静かは、ほんとうに静かなわけではないだろう。「まだあげ初めし前髪の」のように、言葉になる初恋。韻律にのせられて歌われる初恋。その背後には情熱が、眩暈がある。なんといっても遊園地だ。初恋と遊園地という二つの言葉が、「静か」で結び付けられるスリリングさは絶妙だ。そうして、その流れるような言葉は、しろいいぬへと向かっていく。ゐた、のだ。過去形なのだ。きっともういないのだろう。そうしてまた冒頭の初恋へと戻っていく。しろいいぬ、聖性。失われた神聖。これはもう一首を通してどうにも動きようがない、綺麗な歌だと思った。

 

 

糸を引くようなちゃん付けされている 水に沈めて葬式にする/櫛田有希

 

糸を引くようなちゃん付け。なぜだろう、このちゃん付けに対して、ぼくは否定的なニュアンスを受け取った。それはきっと「葬式」という言葉があるからだろう。「ちゃん」という言葉に含まれる性差の、あるいはうっすらとした階層化のニュアンス、それが糸引くようになされている。糸を引くだけでよいのに、さらにされている(ing)というくらいなのだから、相当気になっているのだろう。だから、一度ぶった切って水に沈めて葬式をする。葬る。

もちろん、ちゃん付けがうれしくて、それを冷やすために冷たい水で顔を洗う、というようなプラスにも読めるのだけれど、この連作の中に置かれると、どうにも違和の言葉として現れてくる気がした。

 

 

災厄ののちの世界のうすあかりけもののけものみんな笑つて/岐阜亮司

 

テーマ詠「黒」の中の一首。これについては、歌というより言葉について気になって、自分のためにも書いておきたいところがある。「けもののけもの」という言葉、2017年以後においてはあるひとつのアニメを想起させる言葉になっていると思う。したがって、全体がその文脈に引っ張られることになる。むろん、そういう文脈に乗ろうが乗るまいが、この短歌のノワールな雰囲気、まさに黒の題詠には相応しいよさ、というのは変わらない。けれど、昔、ある人間が「性の悦びを知りやがって」という言葉は、もうエロ漫画界では使えない、というようなことを話してくれた。そこにはもう文脈が生まれてしまっているからだ。

この歌はそういうことを思い出した歌だったので、なんとなく気になった歌だった。

 

 

エッセイも面白かった。なんだか陰謀論めいているけれど、こういう結びつきの話はいいねいいねとなるので、『ぬばたま』という同人誌の中で読めたのは、とてもよかった。

あと、表紙、めちゃくちゃかっこよくないですか。黒、好き。オタクなので