四半世紀のベスト④

今回は詩歌・古典その他です。

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76、麻耶雄嵩『メルカトルかく語りき』

メルカトルかく語りき (講談社文庫)

メルカトルかく語りき (講談社文庫)

 

一番好きな探偵は、と聞かれたらぼくはホームズでも金田一耕助でもなく、メルカトル鮎と答える。麻耶雄嵩の書く型破りなミステリーは、思わず二度見ならず五度見はしてしまう。『翼ある闇』や『螢』などの長編もよいけれど、やはりメルカトルの探偵らしからぬ悪行が次々と披露される短篇集がいい。このウルトラCの作家を研究したのが清涼院流水。はちゃめちゃなものを読んでも怒らず笑っていられる人にはうってつけの小説だ。

 

77、橋本紡半分の月がのぼる空

周りに話を聞くと、赤川次郎のようなライトミステリーやライトノベルから読書にはまったという人が多いけれど、ぼくは両方読んだことがなかった。大学生になって、ふと、これを手に取ってみた。病院×文学少女×青春。ぼくは心のど真ん中を撃ち抜かれてしまった。そして『キノの旅』や『紫色のクオリア』や『ある日、爆弾が落ちてきて』のようなラノベの名作と出会えた。『君の膵臓が食べたい』は本作のオマージュだと個人的に思っている。

 

78、ペソア『不穏の書、断章』

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

 

それはまったくの偶然だった。生協へ行くのが日課だったぼくは、新刊コーナーに「不穏の書」という本を見つける。「不穏」とは結構じゃないか、と思いぼくはそっとページを開く。 そうしてぼくはペソアに出会ってしまった。「わたしとは、俳優たちが通り過ぎ、さまざまな芝居を演じる生きた舞台なのだ」。多重人格を使うペソアの詩には、虚無が、諦観が、喪失が言語化されていた。太宰治ペソアだけがぼくのことをわかってくれた。

 

79、ハイヤーム『ルバイヤート』

ルバイヤート (岩波文庫 赤 783-1)

ルバイヤート (岩波文庫 赤 783-1)

 

詩人というのはとにかく酒が好きだと思う。酔っては暴言を吐く中原中也に、酔って月をとろうとして水死した李白。もちろん中東にも酒好きはいるもので、この『ルバイヤート』にはひたすら酒のことが吟じられている。「たのしめ一瞬を、それこそ真の人生だ!」そう高らかにうたいあげるハイヤームの詩は、とにかく刹那的で享楽的だ。これを読み終えたぼくはいてもたってもいられずに、友人と飲みの約束を取り付けたのだった。

 

80、ボードレール『パリの憂愁』

パリの憂愁 (岩波文庫)

パリの憂愁 (岩波文庫)

 

「僕の好きなのは雲さ」「常に酔っていなければならぬ」「何所でもいいのだ!ただこの世の外でさえあるならば!」新型鬱だの、ファッションメンヘラだの、どうしようもないレッテルがたくさんある世の中で息苦しくなるときはボードレールを読むといい。ここにはとんでもない頽廃が存在している。光の都市と化していく19世紀のパリを疎ましく思う気持ちと、きらきらしたものを厭う気持ちは、深いところで通じ合う。

 

81、『中国名詩選』

新編 中国名詩選(上) (岩波文庫)

新編 中国名詩選(上) (岩波文庫)

 

粘法だの、二四不同だの、平仄だのを知って以来、気が向いたら漢和辞典を片手に五言絶句を作っていた。漢字のみで作り上げられる世界に魅了された。よく公的な文章は漢字でしたためるため感情表現が排される、という説明がされることがあるけれどあれは嘘だ。李白杜甫白居易、李賀、彼らの作り上げた漢字のみの芸術はどうしたって感情豊かだ。「君に!勧む!一杯の酒!」というコールを友人と考案して、二人でさみしく杯を交わしていたことも思い出す。

 

82、吉田一穂『吉田一穂詩集』

吉田一穂詩集 (岩波文庫)

吉田一穂詩集 (岩波文庫)

 

いうまでもなく詩集や歌集だけで100冊を選ぶこともできるのだけれど、どれを選ぶといわれると難しい。島崎藤村から三角みづ紀まで、詩集は百花繚乱だ。だからぼくはあえてあまり知られていないこの詩人をここに記す。彼の象徴やイメージで散りばめられる漢字の乱打は、漢詩にも通じれば西脇順三郎のようなシュルレアリスム詩にも通じる。この詩集をひらいてぼくの胸に去来したのは「かっこいい」の一言であった。

 

83、谷川俊太郎『トロムソコラージュ』

トロムソコラージュ

トロムソコラージュ

 

谷川俊太郎は偉大な詩人だ。おそらく日本で一番有名な詩人でありながら、今なおアバンギャルドな言動をつづけている。 「万有引力は引き合う孤独の力である」なんて言葉は、どこからやってくるのだろう。この詩集に収められた「詩人の墓」は、詩才ゆえに人に愛され、詩才ゆえに愛されずに死んだ詩人の物語詩だ。もっとも好きな詩のうちのひとつ。水中、それは苦しいというバンドが「芸人の墓」という曲名でオマージュしているけれど、これもよい。

 

84、ヒューム『人性論』

人性論 (中公クラシックス)

人性論 (中公クラシックス)

 

哲学者の精神はどうなっているのだろう、と不思議に思うことがある。と同時に、文学以上に哲学は毒だと思う。しっかりした解説書や詳しい人による相対化にあえて身をさらさないと、気が狂ってしまう。ぼくはヒュームの懐疑論を知ってしまったせいで、一時期この世のすべてがばらばらに見え、言葉を発せず部屋にひきこもっていた時期がある。プラトンの対話篇くらいなら一人で笑いながら読めるけれど、ある程度円熟してきた時期の哲学は、時に死へと誘ってくる。

 

85、 鈴木大拙大乗仏教概論』

大乗仏教概論 (岩波文庫)

大乗仏教概論 (岩波文庫)

 

メンタルを病んだ人間は仏教に惹かれていく、という傾向がある気がしている。禅宗の「臘八大摂心」なんていうのはLSDで宇宙の真理を知る、というのとほとんど同じだろうし、時宗スーフィー、部屋で音楽を聞きながら踊り狂うのとたいして変わらない。全は一、一は全。他の宗教と違うのは、仏陀が人間であるということだ。唐突に億なんていう数字が出てくる仏教の思索の世界は哲学に近い。いきなりこれに行かずとも、例えば架神恭介の『もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら』は入門によいと思う。

 

86、『古事記

これは天皇が編纂を命じた公的な史書だ。それがここまで物語として面白いのは奇跡だと思う。伊邪那岐伊邪那美の国産みから、素戔嗚の暴挙、ホノニニギ天孫降臨日本武尊の武勇伝まで、ありとあらゆる想像の種がてんこ盛りだ。西洋の神は世界を作るけれど、日本の神は世界を産む。だから日本の神々にはどこか母親に似た親しみやすさがある。いろいろ訳があるけれど、中でもこの池澤夏樹のものは親切で読みやすいと思う。

 

87、旧約聖書より「コヘレトの言葉」

聖書 旧約続編つき - 新共同訳

聖書 旧約続編つき - 新共同訳

 

ぼくはキリスト教に関係のある仕事をしていて、よく聖書を読む機会があったのだけれど、説経臭いところはあまり好きではなくて、ずっと隠れて「コヘレトの言葉」と「黙示録」ばかり読んでいた。この「コヘレトの言葉」はちょっと聖書には珍しく「なんという空しさ、すべては空しい 」といった虚無が満ちている。中でも1章18節「知恵が深まれば悩みも深まり知識が増せば痛みも増す。」という箇所を、ぼくは三重くらいで囲った。

 

88、紫式部源氏物語

新編日本古典文学全集 (20) 源氏物語 (1)

新編日本古典文学全集 (20) 源氏物語 (1)

 

まだメールがコミュニケーションツールだった時代、ぼくのアドレスには「msb」だの「gm54」だのといった記号が織り込まれていた。「紫式部」と「源氏物語54帖」だ。海外では叙事詩でヒロイックなことをうたっている一方で、日本ではたおやめな恋愛三昧である。ぼくが京都にきた理由のひとつは『源氏物語』がたまらなく好きだったからだ。魅力はこの文字数では語りきれないけれど、世にあふれる恋愛小説を読むくらいならぼくは『源氏物語』を百回読む。

 

89、菅原孝標女更級日記

更級日記―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

更級日記―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

物語の登場人物を恋し、憧れ、ついには仏道を疎かにして小説に熱中した少女が、結婚と同時に物語は物語でしかなかったことを知り、「こんなことなら本なんて読まなければよかった」と老後に回想する日記。こんなものエモでしかない。けれど孝標女は結局『浜松中納言物語』を書き、それに感化された三島由紀夫は畢竟の大作「豊饒の海」を書く。ロックンロールは鳴りやまないのだ。

 

90、上田秋成雨月物語

改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

すべての文学は引用だ、という言説は日本文学において視覚化される。なぜなら日本には「本歌取り」という文化があるからだ。例えば「葛葉が裏見」という言葉には「恨み」という掛詞を用いた和歌が本歌取りされている。そういうことがわかる人間が読めば、まるで副音声のように物語が多重化する。現代では注を見ながら読むことで、なんとかその足跡だけはたどれる。そういうことをさておいても、この秋成の読本は人間の情念から生まれた妖しが跳梁跋扈する、幽遠な世界を提供してくれる。

 

91、謡曲「定家」

謡曲百番 (新日本古典文学大系 57)

謡曲百番 (新日本古典文学大系 57)

 

何の気なしに見ても面白いのは歌舞伎だけれど、やはり謡曲のおどろおどろしい静謐な情念の世界というのはたまらないものがある。藤原定家式子内親王への妄執から、死後に定家葛となって内親王の墓に絡みつく。 幽霊となって僧へ回向の願いを立てる内親王だが、最後には墓の方へ消え、定家葛はまたそれに絡みつく。あとにはただ雨が降っている。果たして彼女は成仏したのだろうか。ここには永劫回帰の深淵がある気がする。

 

92、シェイクスピアリア王

リア王 (新潮文庫)

リア王 (新潮文庫)

 

正直シェイクスピアはどれも面白いのだけれど、とにかく一番悲劇的で印象に残ったのは『リア王』だった。ソフォクレスの『オイディプス王』にも劣らない悲劇が、老いリア王を襲う。『ハムレット』『ロミオとジュリエット』もよいけれど、一番わかりやすいのは『ヴェニスの商人』かなと思う。イギリスの劇団がやっているものを見たけれど、国をこえて、時代をこえて、今でも十分斬新な筋立てだ。隣の大学が学生演劇で『夏の夜の夢』をしていて、それも見に行ったことがあったなあ、と懐かしさがやってくる。

 

93、ベケットゴドーを待ちながら

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

 

学生時代は演劇もよく見に行って、その中でいろいろな戯曲も読んできた。『ゴドーを待ちながら』は間違いなく傑作だ。隙間が多くて、「ゴドー」は「GOD」なのかに始まる解釈の余地がたくさんある。ラーメンズのコントでもオマージュされているこの演劇を、ぼくは日常系アニメだと思って読んでいた。なんといっても笑えるのだ。一方で全体を不穏が覆っている。ゴドーとはおそらく「終わり」そのものだと思う。それは死と言い換えることもできる。「けものフレンズ」のキャラに置き換えてみるというSSも進行中なのでぜひ。

 

94、源実朝金槐和歌集

新潮日本古典集成〈新装版〉 金槐和歌集

新潮日本古典集成〈新装版〉 金槐和歌集

 

卒論を『金槐和歌集』にしたのは、太宰治が「右大臣実朝」という小説を書いているからだ。この中世歌壇というのは定家がおり、実朝がおり、西行がおり、良経がおり、後鳥羽院がおり、まさに和歌文化のピークといってもよい。中でも実朝の歌というのは、文芸を愛しながらも、謀略渦巻く将軍家に生まれてしまったことへの怨嗟や病に裏打ちされた激しい叫びのような歌が胸を打つ。「大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも」

 

95、塚本邦雄塚本邦雄歌集』

塚本邦雄歌集 (短歌研究文庫 (16))

塚本邦雄歌集 (短歌研究文庫 (16))

 

なんでもいい。書店で塚本邦雄と名の付く歌集を手に取って、どこでもいいから開いてみてほしい。それで、彼がどういう歌人なのかは十分わかるはずだ。古来からの和歌、茂吉から続く近代短歌、そういうものを破壊してしまった歌人なのだ。語割れ・句跨りを考案し、旧字の漢字の硬質な世界を作った。「ディヌ・リパッティ紺靑の樂句斷つ 死ははじめ空間のさざなみ」なんていう短歌、ぼくは稲妻が走った。一番好きなのは「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」

 

96、魚村晋太郎『花柄』

花柄(魚村晋太郎歌集)

花柄(魚村晋太郎歌集)

 

『玲瓏』の歌会に行くと、必ず黒いシャツに身を包んだ魚村さんがいる。塚本に師事した彼の短歌からは、確かに塚本の息吹を感じるのだけれど、それ以上に抒情的なのだ。 歴史的仮名遣いの、絶妙な息遣い。この人の短歌がぼくの目指すところなのだけれど、到底およばない。どうしたらこんなにせつない短歌が作れるのだろう。「かなしみが怒りの種子をむすばなくなつてひさしい秋天の声」「あの緑色いいよねと(もう二度と聞かぬであらう)声ははなやぐ」

 

97、南輝子『ジャワ・ジャカルタ百首』

ジャワ・ジャカルタ百首―南輝子歌集

ジャワ・ジャカルタ百首―南輝子歌集

 

南さんの短歌には絶望が満ちている。仏教や銀河、水のグロテスクなイメージにのせられて父を失ったことのかなしみや苦しみが肌を刺す。悲痛な鎮魂だ。「おしよせるあまたの魂やはちぐわつははれつしそうにぷるぷるしてゐる」「ああああああながきくるしみいみもなしつきぬけるそらすきとほる世」この日本語のうねるよう感覚は魚村さんと近く、なんとかして会得したいのだけれど、やはりまだまだ難しい。歌会などで会えばいつもぼくに気を払ってくれる、短歌の師のひとりだ。余談だけれど、短歌関連でぼくに気をかけてくれる女性は、みんな魔女のような人たちばかりだ。

 

98、穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

現代の歌人に与えた穂村弘の影響というのは計り知れなくて、ある意味でみんな穂村チルドレンといってしまってもいいくらいだ。エッセイなどを読んでも独特な人だというのはわかるだろうけれど、やっぱりこの歌集がちょっと異常だと思う。筋肉少女帯の「香菜、頭をよくしてあげよう」に通じる、崩壊しそうな危うさを孕んでいる。「手紙かいてすごくよかったね。ほむがいない世界でなくて。まみよかったですね。」この短歌のやばさはこの歌集を読めばよくわかると思う。

 

99、『現代俳句集成』

現代俳句集成

現代俳句集成

 

電車に揺られながら、ぼくは魚村さんにどうしたら魚村さんのような短歌を詠めるのか聞いてみた。すると彼は鞄から付箋の大量についた分厚い本を取り出した。それがこの『現代俳句集成』だった。ぼくははっとした。どうも詩と短歌と俳句は違っているように見えたのだけれど、同じ言語芸術であると気付いたのだ。それ以来この本は、ぼくの部屋の手の届くところに置かれ、適当にひらいて眺めては発見を楽しんでいる。津沢マサ子「太虚を孕み割れたるガラスびん」 

 

100、笹井宏之『てんとろり』

てんとろり 笹井宏之第二歌集

てんとろり 笹井宏之第二歌集

 

現代、歌人は本当にたくさんいる。いろんな人の短歌を読んできた。みんな美しい言葉で感性的な歌を詠んでいる。でも、ぼくはそうした歌の頂点に笹井宏之がいると思っている。彼の脆く、儚く、壊れてしまいそうな言葉たちは、真似しようと思えば途端に消えてしまう。これは笹井宏之の遺した、あまりに透明でつかむことのできない言の葉なのだ。「かなしみにふれているのにあたたかい わたしもうこわれているのかも」

 

 

こうして100冊書き出してみると、案外いろいろな本を読んでいるな、ということがわかる。中でもぼくは「不穏」なものが好きなようだ。それは例えばホラーであり、怪奇であり、幻想であり、夜であり、黒であり、頽廃であり、淫靡であり、儚いものであり、傷をつけるものである。

よい本に出会うと、ぼくは地震が起きたかのようにぐらぐらしてしまう。これから先、どんな本がぼくをぐらぐらとさせてくれるのだろう。

次にベストを書くとすれば、50歳。

それまで生きているかはわからないし、そもそも本というものがあるのかどうかもわからない。けれど、どうなろうがぼくは紙の本を読み続けるし、みんなが失ってしまうもの、落としてしまうものを拾い上げて、大切に保管しておくつもりだ。

だから、みんなも疲れたこちらに帰ってきてほしい。

あたたかいお茶くらいは用意しておくので。