ポール・ニザン『アデン・アラビア』
僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。
ポール・ニザンの『アデン・アラビア』は、こういう一文ではじまる。カミュの『異邦人』と並んで、二十世紀フランス文学におけるもっとも有名な書き出しのひとつに数えられるらしい。ぼくはサガンの『悲しみよこんにちは』もそのひとつなのではないか、と思う。
アデン、アラビア/名誉の戦場 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-10)
- 作者: ジャンルオー,ポールニザン,北代美和子,小野正嗣
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2008/11/11
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- 作者: フランソワーズサガン,Francoise Sagan,河野万里子
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書き出し、ということを考えるときに、ぼくはいつでも太宰治の「女の決闘」の文章を思い出す。
書き出しの巧いというのは、その作者の「親切」であります。
太宰治はこうした読者への思いやりを「如是我聞」において「心づくし」と総括している。ぼくが最近、とある人からもらった言葉では「invitation」がこれに近いかもしれない。すなわち、読者をこちらの世界へ導く親切である。とかくに他者を気にしないひとりよがりな文章、もっといえば振る舞い、というのはこの世界には多くて、自戒もこめて、この「心づくし」は大切にしたいところである。
ニザンに戻れば、やはりこの書き出しに心をつかまれる人間は多いだろう。ぼくもそうだった。「二十歳」とはどういう季節であるのか。たとえば与謝野晶子ならば、「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」。俵万智流の訳では「二十歳とはロングヘアーをなびかせて畏れを知らぬ春のヴィーナス」である。
26歳のぼくですら、「若いね」「若い感性」といった言葉を受けることが多いのだから、いわんや二十歳をや、であろう。でもぼくは、そういう言葉を言われるとうれしい反面、少し苦しくなる。もしぼくが若くなくなったら、この感情は消えるのか。ぼくの性格を形作っているものが、ほんとうに若さだけなのだったら、すぐにでも死んで永遠になってやる。
「二十歳」とは、青春を表すひとつの記号なのだろう。だから、「二十歳は美しい」と人が言うときに、その人が羨望しているものはおそらく、きらめく過去という時間の幻影だ。あのころはよかった、という虚飾。
そうした非現実性に対してニザンは怒り狂う。『アデン・アラビア』は世界文学全集の編者である池澤夏樹の言葉を借りれば、「憤り」の文章なのである。
そもそもいわゆる小説とは一線を画したこの小説は、フランスで「風刺的小論文(pamphlet)」と呼ばれるものらしい。ここに物語はない。あるのは、ニザンの怒りなのだ。
それでは彼が具体的に何に怒っているのかというと、高等師範学校(フランスの教員養成学校。ニザンもサルトルと同期でここに入っている)のエリートたち、同時代の詩人、哲学者、教会だ。
『ラモーの甥』よりも、もっと痛烈に、直接的に怒っている。
いずれ哲学者は、単なる語彙の番犬となり、ひとつの言葉にいろんな意味があったあの中世の歴史家でしかなくなるだろう。
祖父たちに捨てられた城のかびた匂いのなかで心安らかにくたばるための最後の避難所
すべてを運命のせいにすれば、いつまでもピラトゥスのように手を洗っていればいいってものじゃない。
といった具合である。
「考えることは、否と言うことだ」というアランの言葉を引用し、創造力を発揮せずに習慣に埋没する物質に近い人間たちに「否」を叩きつける。
そうして彼は逃げる。その逃げ道にも、彼は「否」を重ねる。宗教――否。偉人への道――否。自殺――否。彼が選んだのは、東洋への旅、イエメンのアデンへの逃亡であった。この『世界文学全集』シリーズを読んでいると、みんなよく旅に出る。『オン・ザ・ロード』が刊行されたはじめの一冊である、ということはおそらく確信犯だろう。『楽園への道』のゴーギャンも旅に出る。それは、近代化という一方通行な時間の遡行であり、ここではないどこか、の希求だ。そして、冒険というのは、たいてい活気の湧くものなのである。
オン・ザ・ロード (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-1)
- 作者: ジャック・ケルアック,青山南
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ちょっと風景が変わる。ぼくもふらふらとするのが好きだから、気が向いたらどこかに出歩く。なんとなく景色が変わって、知らないものを見て、気が安らぐ。廃墟や心霊スポットへいっておののき、海を見て感動する。そういうことが、ずいぶんある。冒険は単なる運動に加えて、未知の体験である。端的にいうと、わくわくする。
巖谷國士がルネ・ドーマルの魔術的冒険小説である『類推の山』(ホドロフスキーの『ホーリー・マウンテン』の原作)の解説でいうところの「元気が出る」という効用が、冒険や旅にはある。
- 作者: ルネドーマル,Ren´e Daumal,巌谷国士
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それではニザンはどうだったか。もちろん旅――否であった。
イギリスを出発してジブラルタル海峡を通過し、スエズ運河を渡り、紅海、アデンへたどり着くまでの描写はたった4ページ。
得意がるほどのことではない。
そういう突き放した言い方で、彼の旅は終わる。旅それ自体を楽しむことのできなかったニザンは、やはりアデンも楽しむことはできなかった。
アデンは、僕たちの母なるヨーロッパのぎゅっと凝縮されたイメージなのである。
東洋よ、詩に歌われるおまえのヤシの木々の下に、僕が見つけることができたのは、またもや人間たちの苦しみなのだ。
この本が書かれたのは1931年。ニザンがアデンへ滞在したのが、1926~1927年。軍国主義、植民地主義のただなかにあって、アデンはイギリス領である。アデンには哲学も詩もない。あるのは、ヨーロッパでのそれをもっと純粋にした、資本家の退屈と労働者の苦役。変わらない近代のシステムであった。
ぼくは「みんな同じ空の下」であるとか、「同じ月を見ている」であるとか、そういった言葉を目にするたびに、少し怖くなる。
はちぐわつは青空ばかり底踏みぬいてもまたもや青空/南輝子『WAR IS OVER!百首』
同じ空であるということは、同じ空でしかないのである。太陽は眼であり、どこまでいっても監視されている。「三笠の山にいでし月かも」の感傷も、ニザンにはないだろう。資本主義のモチーフの変奏でしかない東洋に彼が感じたのは「退屈」であった。
可能性として存在する事物に従って生きるような生き方は、退屈の所産である。
アデンでは、恐ろしいくらい無為をもてあます。
退屈が生み出すものは、過去への憧憬や未来への期待である。そうして自らを興奮させる事件への期待である。それは虚飾であった。リアルではなかった。ニザンにとって「二十歳」とは奪われ続ける、破壊され続ける社会へ参入しなくてはならない年なのだ。
それでは、彼は旅のすべてを否定したのかといえばそうではない。彼は逃亡の為の旅に否といい、オデュッセウスの旅を是とする。
旅にまっとうなものはひとつしかない。それは、人間に向かって進んでいくものだ。それがオデュッセウスの旅なのだ。
彼は旅を通して立ち向かうものとなる。プラトンやヴァレリーをも批判するニザンはマルクスの名前を出さない。この小説の中に、マルクスという人間はまったく存在しない。だからこそ、かえって存在が引き立つ。彼がニザンへの渡航で得たものは、「本当の力」への意志であった。
自由は、現実的な力であり、自分自身であろうとする現実的な意志である。
自由? 僕が探しているのはそんな空虚なものじゃなくて、本当の力なんだ。
フランスに帰ってからの15章(全15章)は、他の章に比べると長い。そこでは、いっそう強い調子でホモ・エコノミクスを批判する。ホモ・エコノミクスとは「経済活動において自己利益のみに従って行動する完全に合理的な存在」をいう。
彼はむしろ自動販売機に近い。
目的はただひとつ、購買力によって支配すること。
こうして、彼らが感じる軽蔑、人々のうちにひき起こす羨望が、彼らの生の実感なのだ。
彼らの所有は「抽象的」であり、「距離を置いたまま行われるおとぎ話めいた接触」である、とニザンはいう。一方、労働によって得られる所有は「行動、代価、生産物が一体になったもの」である。「自動販売機」という言い方は、アデンへの旅の前に倦んでいた、ベルクソンのいうところの「機械に近い人間」と同じようなものだろう。彼は旅によって、逃げるものから立ち向かうものへと変化した。
ぼくはすごいと思う。ぼくにはこんなに勇気をもって、他者を鼓舞することはできない。負けていたらいいと、それでも仕方ない、と思ってしまう。
この小説は、次のような文章をもって締めくくられていく。
きみたちは孤独だ。夕食をとるときも、劇場に、映画館にいるときも、歩道を歩くときも、女とベッドにいるときも、罠を探すんだ。きみたちが通り過ぎていく舞台は、きみたちに不利なように仕組まれている。それを壊さなければならない。
怒りをかき立て、気を抜いたりしないこと。憎しみなくして、やつらの秘密を暴けるだろうか?
もしかしたら辟易する人がいるかもしれない。ブルジョワジーをぶっ倒せ!労働者は革命せよ!そういったアジテーションは、ある意味では古色蒼然としており、もはや空虚に響く。街角で拡声器をもって不平不満を叫ぶ人間をたまに見かける。もちろん、あれで奮起する人間もいるのだろうけれど、ぼくは虚しさを覚えるばかりだ。しかし、この『アデン・アラビア』は違う。
寺山修司は『戦後詩』の中でアジテーションと詩の違いを次のように説明している。
アジテーションは「隣人のことば」でもよいが詩はあくまでも「自分のことば」でなければならないのである。それは勿論、読者さえも、その詩人の内部の土地へふみこんだときから「自分のことば」として、詩を「体験」できるものである必要がある。
ここに書かれた言葉は、間違いなくニザン個人の体験から出てきた、彼の苦悩と怒りの言葉に他ならない。アデンにいったことのないぼくは、彼の倦んだ船旅を追体験し、「僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。」という言葉を、まるで自分のものであるかのように感じている。
「本当の力」への意志のようなものが、煮えるのを感じる。
ニザンはダンケルクで戦死した。もし彼が生きていたら、どうなったか。暇はないが退屈していた彼は「生きることはバラで飾られねばならない」(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』)のような生を是認できたであろうか。
同じくフランスの詩人のジャック・プレヴェールにこんな詩がある。
「五月の歌」
ロバと王様とわたし
明日はみんな死ぬ
ロバは飢えで
王様は退屈で
わたしは恋で
時は五月
すべてを手中に収めた王様は、退屈する。退屈の虚飾を許せなければ、どうなってしまうのか。彼の戦死をうつくしいということはできない。けれども、それが救いでなかったということもまたできないのである。
ではニザンの意志は消滅してしまったのだろうか。
『アデン・アラビア』の書評を書き、自身もニザンと親戚関係にあった(らしい。ソースは世界文学全集の解説)レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』はこんな一文から始まる。
私は旅や探検家が嫌いだ。
- 作者: レヴィ=ストロース,Claude L´evi‐Strauss,川田順造
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レヴィ=ストロースがどういう人間であるか、については説明するまでもないと思う。ニザンの意志は、やがて思想の枠組みを変換させる。彼の戦いは無駄ではない。
ロックンロールは鳴りやまないのだ。