四半世紀のベスト③
前回↑
今回は怖い小説たちです。
51、連城三紀彦『戻り川心中』
『幻影城』で泡坂妻夫ともに第一線をはった連城の、大正デカダン風味の連作短編集。ミステリーには「ホワイ・ダニット」、つまりなぜ殺人を犯したのかという動機に主眼を置いたものが存在するけれど、「桔梗の宿」は個人的には日本におけるホワイ・ダニット小説の頂点。侠客や遊女、芸術家などの一般の道から外れたやくざものたちの織り成す物語は、連城の耽美な文章にのって深い爪跡を残す。京都のサイゼリアで読み終わったとき、ああああああ!と声をあげてしまった。
横溝正史とともに語られることの多い山田風太郎だけれど、彼の小説は少し変わっている。忍者の異能力バトルが繰り広げられたかと思えば、同時代に復活した天草四郎や宮本武蔵が剣豪バトルを繰り広げる『FATE』のようなものまである。この『太陽黒点』も同じく風変わりで、3分の2くらいは青春小説なのだけれど、急転直下で推理小説へと変化する。この「あれっ?」という一瞬は、一時期流行ったアハ体験よりもよっぽど痛快だ。
53、久生十蘭「無月物語」
大学に入ってからずっと、十蘭が好きだと繰り返していた人間がいた。乱歩や久作の系譜だといわれて読んでみた。思わずため息が漏れた。その文章の魔術に飲み込まれたものを中井英夫は「ジュウラニアン」と呼ぶ。「顎十郎」シリーズのような捕物帳もずば抜けて面白いけれど、悪なるものを書かせたら右に出る者はいない。「無月物語」に描かれる純粋悪に動悸が激しくなる。もちろん悪が書けるものは、同短編集の「黄泉から」のようなリリカルな作品も書ける。気づいたらぼくは「ジュウラニアン」だ。
54、津原泰水『蘆屋家の崩壊』
猿渡と伯爵を主人公とした怪奇ミステリー「幽明志怪シリーズ」のひとつ。短編集でありながら、散りばめられた衒学的といってもよい怪異や食べ物の雑学の数々。ときには論理を上回る超常現象へと巻き込まれていく。津原の交友関係を見渡せば、金子國義、四谷シモン、小中千昭。「そういう」世界の住人だ。ちなみに妖怪「件」の小説は、小松左京しかり内田百閒しかり名作となるという、個人的なジンクスがあるのだけど、津原の「五色の舟」もまたそうした傑作のひとつに加えられるだろう。
55、チェスタトン『ブラウン神父の童心』
海外のミステリーというのは実はあまり肌に合わないことも多いのだけれど、チェスタトンは違った。明晰なるブラウン神父を探偵とした「ブラウン神父シリーズ」の短編は、ひとつひとつが珠玉だ。乱歩が「トリック創出率随一」と語ったように魅力的なトリックと、批評家らしい階級社会や宗教への皮肉のきいた言い回しがリーダビリティを生む。「秘密の庭」のびっくりをぜひ味わってほしい。「サラディン公の罪」「アポロの眼」「折れた剣」、どれもよい。
56、太宰治『晩年』
ぼくが太宰治に抱いている感情は愛ではない。憎悪だ。太宰のせいでぼくは小説が好きになったし、太宰のせいでぼくの人生は狂った。一時期ぼくは、自分は太宰なのではないかと本気で倒錯した。文章になっているものは関連の評論やエッセイまで含めてほぼすべて読んだ。玉川上水の入水した場所で瞑想し、実際に彼が着たマントを纏った。「死のうと思っていた」ではじまる太宰の処女短編集『晩年』。冒頭の「葉」に太宰のすべては凝縮されている。
坂口安吾は太宰や織田作と同じく無頼派と呼ばれる集団の一員だ。彼は推理ものもから評論まで数多くのジャンルにまたがって小説を書いてきたが、なんといっても怪奇小説が美しい。「桜の森の満開の下」なんていうのは、その主たるものだ。梶井基次郎しかり、西行しかり、桜には死の魅力が付き纏う。破滅の煌々とした美しさがそこにある。同じく岩波からでている堕落論のほうには、太宰治に対する痛切なラブレターが挿入されている。
気がついたらまわりが猫だらけ。そう書くとなんだか仄々するけれど、この小説の書き手はあの詩人・萩原朔太郎。ショーペンハウエルの引用からはじまるこの小説には、幻想的なイメージが敷き詰められている。いつも散歩している道を逆方向に歩いてみたとき、違和感を覚えたことはないだろうか。それは猫町に入った合図だ。そこら中の窓には、猫が目を光らせている。ポーもそうだが、猫というのはどこか悪魔の使者めいた振る舞いをする。
鴎外は前期・中期・後期と作風ががらりと変わっていて、後期の『渋江抽斎』あたりの歴史小説を円熟とみなすむきはあるけれど、やはり前期の浪漫主義的なものはたまらない。「舞姫」でパラノイアという言葉を知った人間も多いだろうけれど、「うたかたの記」もまた恋に狂う人間の物語だ。ドイツの花売りに恋した日本人画家は、池のほとりで発狂した国王ルートヴィヒに出会う。まるで一枚の絵画を目の前にしているようだ。
実は「蜜柑」以外の芥川の小説はそんなに好きではないのだけれど 、これは別格だ。なんといっても、あの芥川龍之介が書いた異能力バトル小説なのだから。マリア信仰を説き妖しげな術を使う謎の法師、法力で金剛力士像を召喚する仏僧、「地獄変」の大殿の息子にして人心掌握に長けた若殿。彼らの織り成すジャンプ顔負けの戦模様は、どう結末を迎えるのか。ぜひ見届けてほしい。
61、今村夏子『こちらあみ子』
一躍有名になった彼女を見て、ぼくは臍を噛んでいる。好きだったインディーズバンドが売れるのを見る気持ちだ。彼女の小説は「信頼できない語り手」による不信と作者による隙間の多い文章による不安という二方向からの意趣によって、ぐらぐらとした不穏を獲得している。ぼくはぼくであり、きみはきみでしかないことの恐ろしさが詰まっている。ぼくはこの感覚を別の小説で味わった。古井由吉の「杳子」だ。
62、藤野可織『いやしい鳥』
不穏な文学が文学界を覆った時期があった。藤野可織が『爪と目』で芥川賞をとったあの時期だ。ホラー小説が好きだという藤野さんの小説には、アナ・トーフの作品をじっと眺めたときに抱くような不穏が多分に含まれている。「いやしい鳥」や「胡蝶蘭」なんて、そのまま日本ホラー小説大賞をとってもいいくらいだ。怖いことはよいことだ。怖いというのは、体だけでなく心も震えるということだ。足元をぐらつかせるのが文学の役目だとぼくは信じている。
63、最果タヒ『星か獣になる季節』
銀杏BOYZに「十七歳」があり、大森靖子に「子供じゃないもん17」がある。早見純は「4+2+5+6=17(死に頃=17)」と書いた17歳を、最果タヒは星か獣になる季節だという。アイドルとはどういうものか、というのを真っ向から書いた小説。最果タヒはもちろん詩もよいのだけれど、小説も独自の視点から「かわいい」というまやかしへのアプローチをつづけている。彼女の言葉は、この2010年代を無残に切り裂いていく。
64、トム・ジョーンズ『拳闘士の休息』
- 作者: トム・ジョーンズ,岸本佐知子
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2009/10/02
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打って変わってアメリカの元ボクサー作家による、心身を病みながらも疾走し続ける人間たちの短編集。ヘミングウェイやカーヴァーと違うのはなんといってもその文体だ。日本でいうところの舞城王太郎。ドーパミンだらだらのドライブのかかった文章は、ぼくたちをあっという間に置き去りにする。岸本佐知子の畢竟の翻訳といってもいいだろう。こんな作品を一編でも残せたら、もう死んでもいい。
いまやありとあらゆる作家や批評家が言及し、彼の著作に対するなにがしかの論文をもたないと批評家として失格だ、といわれる文学的試金石のドストエフスキー。一回、バフチンだとかフロイトだとか小林秀雄だとか、みんなみんな忘れてこの小説を読んでみてほしい。そこに立ち上がってくるのは、極上、としか形容しようのない小説そのものなのだ。こんなにも思考や感情がぐるぐるとフル回転する小説は他にない。
面白すぎて手が震えてしまう、という経験を久しぶりにした。唐突に現れる紳士然とした悪魔、撥ねられる首、悪魔に占拠されるモスクワの劇場、キリストを愛すピラトを書く小説家。ソ連のイデオロギーへの反抗は、『ファウスト』を下敷きとした世にも奇妙な悪魔の饗宴となってあらわれる。上下巻だけれど、一気に読んでしまった。頭の中では星野桂だとか永井豪だとか中村明日美子だとかの絵で、魅力的な悪魔たちの姿が浮かんでいた。
67、ソローキン『愛』
何も知らずにソローキンの『ロマン』を読める人は幸いだ。人によっては一生小説を読めない体にされてしまうかもしれない。ぼくは読む前に内容を知ってしまった。だから『愛』におさめられたいくつかの短編によって、追体験するしかなくなった。まだ何も知らないひとは、何も調べず必ず頭から読んでみてほしい。ソローキンが試みているのは文字通り小説の破壊だ。コードを破壊するときに、笑いはうまれる。だからよい小説は怖くて笑えるのだ。
68、バルザック「浮かれ女盛衰記」
バルザック ポケットマスターピース03 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
- 作者: オノレ・ドバルザック,野崎歓,Honor´e de Balzac
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2015/12/17
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バルザックは「人間喜劇」という計画によって、19世紀のフランスを完璧に描き切ってしまおうとした。この「浮かれ女盛衰記」は「ゴリオ爺さん」にも登場する希代の大悪党・ヴォートランを主人公にした一作。 きらびやかな表の社交界と政治の世界を、裏から牛耳ろうとする彼の奸計と人間的魅力は、この集英社からでているマスターピースシリーズで十分に味わえる。プルーストやワイルドが心酔した悪の魅力が、ヴォートランには満ちている。
自分を騎士だと思い込んだ老人が、風車に突っ込んでいく。ドン・キホーテといえばまずこのシーンが頭に浮かぶだろう。騎士道物語に辟易して、自らを騎士と思い込んで悪ならぬ悪を成敗していく。これは底抜けに滑稽で、底抜けに悲しい。読み終えたときには絶望に近い感情を覚える。現実世界で出された偽作までも作中に取り込んで、多重構造的にドン・キホーテは進んでいく。 笑いの表裏一体のかなしみ、というのはこういうことをいうのだと思う。
70、チュツオーラ『やし酒のみ』
日本文学の癒し系が武者小路先生なら、海外文学の癒し系はチュツオーラその人だ。「です・ます」と「である」が混じったすっとぼけた文体、自らが神であり、便利アイテムをもっていることをつい忘れてしまう「やし酒のみ」、脅威を落とし穴なんかで解決する展開。アフリカの神話空間が生んだ奇跡のような小説だ。なんといっても、一ページに一か所はつっこみどころがある。それゆえに異常なリーダビリティをもって、読み終えるころにはチュツオーラたん、という呼称をもって彼を呼ぶことになるのだ。
71、リャマサーレス『黄色い雨』
スペインの詩人によるこの美しい小説を、ほんとうは教えたくはない。これはぼくだけのものにしておきたい。でも、それは卑怯なのできちんと書いておく。なにもかもが終焉を迎えた村で息をひそめる一人の男。そこにあるのは冷たい狂気と圧倒的な静寂のみだ。この小説、というべきなのかもわからない世界にはそれ以外のものは何もない。タル・ベーラの『ニーチェの馬』のように純粋化された時間だけが存在している。
72、アレナス『夜明けのセレスティーノ』
- 作者: レイナルドアレナス,Reinald Arenas,安藤哲行
- 出版社/メーカー: 国書刊行会
- 発売日: 2002/04
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ひとえにぼくは、わけがわからないけれどなんだかかなしい小説、というジャンルの小説に垂涎する。これもその一つだ。大人になるにつれて世界は分割されていく、というのはよくきくけれど、そうだとすればこの小説は生まれたばかりの赤ん坊の世界の活写だ。生と死すらも未分化なこの世界はひたすらぐちゃぐちゃだ。突如挿入されるエピグラフ、強烈なリフレイン、死んだと思ったら生き還って次の行でいつの間にか死んでいる。ただかなしみだけが疾走している。
73、コルタサル「南部高速道路」
悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)
- 作者: コルタサル,木村栄一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1992/07/16
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コルタサルの小説は夢と現実がメビウスの輪のようにつながっている。いつの間にか幻想と現実を往還している。閉鎖系というジャンルがあるけれど、この「南部高速道路」は高速道路が舞台。渋滞のつづく高速道路では、夏が冬になり、運転手同士の恋愛出産があり、葬式があり、共同体ができていく。でも、それは高速道路でしかなく、一旦車が動きだしたら、ただの他人だ。このあたりの文明批評が、上手に、丁寧にえがかれている。
74、ルルフォ『ペドロ・パラモ』
人が死んでも記憶は積もる。コマラという町にはペドロ・パラモと彼を取り巻く人間たちの記憶が、地層のように重なっている。記憶が肉体から離れたとき、それは記憶それ自体として歩き出すのだ。解説にもあるように、少ないページ数の中に膨大な時間と空間が閉じ込められている。時間の記述は錯綜していて、死と生がぐるぐると渦巻く。これは一回読んでわかるような作品ではないので、自然と何回も読むことになる。
75、アルトー『神の裁きと訣別するため』
- 作者: アントナン・アルトー,宇野邦一,鈴木創士
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2006/07/05
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中三のときにフーコーに出会った。「パノプティコン」、「狂気の零度」という言葉が痛烈に頭に残った。だからドゥルーズまでは、ある意味で一直線だ。そしてその美しき徒花としてアルトーも知った。ラジオ・ドラマのテキストであるこの著作は、ある程度の条件をもたなければ、真の衝撃を味わうことはできないのだけれど、芸術の狂気を書いたゴッホの著述は圧巻だ。マレルの「狂気のブルー、苦悩のオレンジ」という短編は大好きな短編だけれど、そこに描かれるような狂いを、芸術は孕んでいる。
次回↓
四半世紀のベスト②
今回は現代小説が多めです。
その①はこちら
26、藤枝静男『田紳有楽・空気頭』
「七月初めの蒸し暑い午後、昼寝を終えて外に出た。」といういかにも私小説的な一文から始まる「田紳有楽」は、いつの間にか池に沈むぐい呑みや鉢の視点になり、皿は空を飛び、陶器はしゃべり、ついには森見登美彦ばりのどんちゃん騒ぎになる。冒頭の語り手の正体が明らかになったときには、なんじゃ、これはと思わず笑ってしまった。私小説を突き抜けた結果、しっちゃかめっちゃかになった、最高の「文学」である。
ハンセン病の病棟を舞台にした、死と病の命の小説。「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです」と語られる壮絶な描写は、なぜだか丸尾末広の絵で補完された。命そのものが、胎動している。
28、多和田葉子『聖女伝説』
多和田葉子という作家は日本よりもドイツなどで評価されている。「文字派」といわれる独自の路線を行く彼女の小説も、やはり一風変わっている。少女の生/性/聖が練り上げられていく様を、ぼくは外側から眺めていることしかできない。ひたすら白のイメージをもって書かれる文章ではあるけれど、その行間からはどうしようもなく黒い何者かが蠢いていて、恐ろしく、何よりかなしい。
29、ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』
肺に睡蓮が咲く病気。ぼくはこの設定だけでご飯がいくらでも食べられる。もともとは『ニュールーマニア』というゲームで知ったこの小説は、実は全編が空想的なイメージで彩られた恋愛小説なのだ。ピアノを弾けば音調によってカクテルができ、音楽をかければ部屋は球体に変形し、スケート場では人間が伸縮し死ぬ。ゴンドリーの映画も、シュワンクマイエル風のアニメが使われていて、たいへん面白かった。
イメージの叛乱といえばこの小説(?)を忘れるわけにはいかない。ヒッピー文化の代表にして、重度の麻薬中毒、妻を射殺したこともあるウィリアム・バロウズ。のちカート・コバーンによってオマージュされるカット・アップや麻薬の自動筆記を用いて、猥語や悪夢が取り留めなく記述されていく。そもそも大麻やLSDとはなんなのか、ということを知るのは決して無駄なことではない。それらをひとえに悪と切って捨てることはできないのだ。
31、町田康『パンク侍、斬られて候』
ヒッピー文化はロックというジャンルを生む。日本でも数多のバンドが生まれた。町田町蔵の『メシ喰うな』はパンクの名盤として、よく名があがる。『告白』もこの小説も、まるで松本人志のコントを見ているようだ。つまり笑ってしまうのだ。時代劇の枠組みは、唐突に入る空間の破れによって、簡単にスクラップ・アンド・ビルドしていく。腹ふり党なる怪しげな宗教をめぐる事件は、ついに世界の終焉へと続いていく。げらげら笑いながらも、ふと考えてみると現代の寓話そのものなのが空恐ろしい。
32、峯田和伸『恋と退屈』
仕事に疲れたぼくは自殺を試みた。けど生きた。偶然、先輩につれられて京都のみなみ会館で銀杏BOYZのライブ映画試写会に行った。そこでは汗と涎にまみれた峯田和伸が「薬やったって手首切ったって人殺したっていいから生きて銀杏BOYZを聞きに来てください」と叫んでいた。だからぼくは生きることにしたのだ。いつでも救ってくれるのは歌であり、音であった。峯田和伸と藤原基央と夢眠ねむがいなかったら、ぼくは死んでいた。
33、高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』
高橋源一郎は時代の空気を吸収する、「文学スポンジ」おじさんだと思っている。たくさん吸い込んだ同時代の水は、堰を切ったように絞り出される。現在の童話的語り口もよいけれど、やっぱり初期の三部作は異常だ。ばらばらに崩された言葉の意味、文章、そして文学。はっきりいってめちゃくちゃだ。けれど、その裏には抒情がある。ここでばらばらにされたのは文学ではない。80年代という時代が裁断され、悲しみの声をあげていたのだ。
34、ブローティガン『西瓜糖の日々』
- 作者: リチャードブローティガン,Richard Brautigan,藤本和子
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西瓜糖で作られた世界。そこでは家具も、言葉も、西瓜糖で作られている。薄い甘さで、死と隣り合わせの日常を生きる共同体。いくつかの詩的な断片で編まれた本作は、例えば高橋源一郎に、小川洋子に、村上春樹に、多大な影響を与えた。このリリカルな言葉たちはページを開くたびにすっと胸に馴染みこんでくる。ぼくは好きになった人にこの小説をプレゼントしてきたのだけど、みんないなくなってしまった。だから、これはここだけの秘密のおすすめだ。
ぼくは村上春樹が嫌いだった。洒落た生活をして、セックスをしているだけの小説だと思っていた。これは、無知蒙昧の極みだった。彼のメタファーとアレゴリーというのはちょっと他の作家には見られない。基本的に村上春樹の小説はすべて好きなのだけれど、ぼくを「深い井戸」から救ってくれたのはこれであった。『レオン』を下敷きにしたと思われる、殺し屋・青豆と小説家・天吾、ふかえりの物語。とうていこの文字数では語りつくせないほどの衝撃を受けた。
- 作者: ジョージ・オーウェル,高橋和久
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2009/07/18
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はじめて読んだのは高校の英語のサイド・リーダーだった。表紙には大きく目が印刷されていた。社会主義のいきついた先のディストピアが、「二分間憎悪」「ビッグ・ブラザー」「二重思考」などの魅力的な用語をまじえながら描かれる。この小説は徹底的に絶望である。2+2=4と綴れなくなる時代は、確かに歴史の中で存在していた。『動物農場』もまたある時期の社会の寓話だ。新装版はピンチョンの解説があって、よりよくなっている。
37、伊藤計劃『ハーモニー』
おそらくぼくと同年代の人間は、ほとんどこの小説を読んでいる。伊藤計劃以後、なんて言い方は少し大げさだけれど、ぼくたちは伊藤計劃を失った世界で生きている。『1984年』の翻訳にして、優しさや公共性に支配された世界はまさしく今現在、そのものなのではないか。確かに物語自体も百合じみていて面白いし、多くの文学やライトノベルが引用されているのだけれど、何よりこれは自由意志の小説なのだ。
38、円城塔『バナナ剥きには最適の日々』
円城塔というのは奇妙な作家だ。ホラー好きなぼくは物理専攻にして学術博士、システム・エンジニアを経験してきた伊藤計劃の盟友・円城塔を知るよりも、実は奥さんの田辺青蛙の方を早く知っていた。文学とSFを往還する彼の作品はどれも実験的で難解だ。けれど、例えば二重スリット実験を知ったときの興奮がそのまま文字で追体験できるような硬質な文章、その背後に漂う数学的リリシズムは例えば『Self-Reference ENGINE』に、「墓標天球」に、そして本作所収の「equal」に結実している。
39、海猫沢めろん『左巻キ式ラストリゾート』
『動物化するポストモダン』という新書は、東浩紀の社会批評だけれど、この海猫沢の本一冊にゼロ年代がすべてつまっている。ひぎぃ、ひぎぃから始まる大量のエロと冒涜的な文章。村上隆の作品が自ずとオタクに対する批評性をもったように、この小説もゼロ年代への批評性をたたえている。間違いなく問題作であって、『ドグラ・マグラ』を超えるといってもいいポストモダン奇書だ。元ホストという海猫沢の謎の経歴も味がある。
そしてぼくは舞城王太郎へとたどり着く。正直いってぼくはこの小説によって変わってしまった。ほとんどのミステリーやエンタメ作品では心が動かなくなってしまったのだ。このミステリーにして、文学にして、SFにして、ファンタジーにして、ホラーにして、幻想な小説は、『毒入りチョコレート事件』のような多重推理を組み込み、どこか別の世界へぽーんと飛んで行ってしまう。あとには放心したぼくだけが残っていた。『世界は密室でできている。』あたりが入門にはよい気がする。
41、滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ』
大学時代、これを読んでしばらく大学にいくことができなくなってしまった。現実には、特別なことなんて起こらない。だから見えない敵を作って戦う。けれど、すべて幻なのだ。終わらない日常は続いていく。ただ、薄い灰色が世界を覆っているのだ。今ではスピリチュアルの人になった滝本だけれど、この作品で人生が狂った人も多いのではないかと思う。『lain』や『灰羽連盟』でもデザインを担当している安部吉俊の絵も、くすんでいて素敵だ。
42、金原ひとみ『アッシュベイビー』
綿矢りさとの芥川賞同時受賞で一躍話題となった金原ひとみ。 殺して殺しては、埋めて埋めてに代替できる。ドライブ感のみで構成された拙く幼い文章も、ベイビーなんだから当然だろう。希死念慮そのものを描いた小説だ。男は棒をもつ、女は穴をもつ、男は暴力をもつ。どう叫ぼうとも、この事実は変わることはない。それをまざまざと突き付け、倫理を置き去りにする本作は、人を選ぶだろう。けれど、ぼくは大好きなのだ。
43、本谷有希子『生きてるだけで、愛。』
本谷有希子の名をはじめて知ったのは、『幸せ最高ありがとうマジで!』の演劇だった。そこでは生が強い光を放っていた。寧子は手首を切る代わりに、全身の毛を剃る。働きもせずに男の元に寄生するし、働いたら働いたでちょっとしたことで店を破壊してしまうし、なんでもないことで泣く。変なのはわかっているけれど、変なまま愛されたい。必要なのは矯正じゃなくて同調。そうして、生きてるだけで愛、というのをぼくたちは求めているのだ。
44、鷺沢萠『海の鳥・空の魚』
「切り取ってよ一瞬の光を」と歌ったのは椎名林檎だけれど、人生の一瞬の光を切り取ったいくつもの小品でできているのがこの小説だ。35歳で自殺した彼女もまた、世界の観察に長けていたのではないだろうか。中の短編のひとつは、中学生のとき教材で読んだのを覚えていた。それから教師になり、 高校の教科書に載っていたのをたまたま発見して、ぼくはじーんとしてしまった。人間の光は、何年たっても変わらずに胸をうつ。
45、古井由吉「杳子」
古井由吉は毒だ。過剰に摂取すると、ふらふらして、自分と世界の境界が曖昧になって溶けだしていく。「杳子は深い谷底に一人で坐っていた。」という冒頭から、その世界に閉じ込められる。正常と異常の境界をぐらぐらと揺さぶる杳子。「ここから先は危ない」という具合にざわざわとした不穏を身体的に体験できる文章というのは、たいへん稀有だ。橋を渡るために手を取るシーンなんかは、思わず眩暈がしてしまう。
46、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』
いわゆる「ぼく」文学のはしりと呼ばれるこの小説は、全共闘に馴染めない童貞文学青年の一日の心象を描いている。モラトリアム人間は、赤頭巾ちゃんという無垢なるものによって救われる。これはぼくのことを書いているのか、と錯覚してしまう漫画にするなら浅野いにおか押見修造系文学だ。この小説を読むきっかけも、『旅のラゴス』の女の子だった。彼女は二作目の『白鳥の歌なんて聞こえない』が好きだった。彼女は、どこかで今も本を読んでいるのだろうか。
これもまた罪作りな本だ。はじめにアニメで見、そうして次々と小説を読んでいった。そこで書かれるのは自分の生活する京都の風土だった。あの鴨川も、あの赤玉ワインも、あの、木屋町もここに書かれている。地の文でくすくす笑いながら読めたのは大学時代のこと、あれから数年たち、森見登美彦という名は京都への愛と憎悪とともに脳にしっかりと刻み込まれている。いまだに猫ラーメンは食べられていない。
48、武者小路実篤『友情』
実篤先生は、白樺派という文壇の中心のグループにいながら、直球の笑いとかなしみを提供してくれる素晴らしい先生だ。『愛と死』では自分の創作した人物の死に涙を落とし、『真理先生』では笑いしか起きない物語を描いた武者小路先生は、『友情』でとんでもないことを書いてくれた。いわゆる童貞的な小説といえば田山花袋の『蒲団』が有名だけれど、こちらはよりひどい。なにがひどいって、これを読むと尋常じゃないくらい傷つくのだ。
49、川端康成『みずうみ』
個人的には谷崎潤一郎の気持ち悪さを、より進展させたのが川端康成だと思っている。「片腕」のフェチズムはすでにホラーの域だ。教師と生徒の恋愛に、「意識の流れ」頽の技法と廃的な雰囲気を纏わせたのがこの『みずうみ』。後ろ暗い人間は後ろ暗い人間としか引き合うことができない。くすんでしまった人間は、きらきらしたものにはもう近づくことはできない。なんとも救いのない小説である。
50、伴名練『少女禁区』
- 作者: 伴名練,シライシユウコ
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2010/10/23
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ぼくはホラーが好きで、角川の日本ホラー小説大賞の受賞作はほとんど読んできた。他にもいろいろと面白いものはあるのだけれど、やはりこの『少女禁区』の最後の一文に勝る衝撃はないわけである。根がオタクである、ということであろう。この作品以来しばらく伴名練の噂を聞かなかったのだけれど、しばらくして大森望の『NOVA』の中に名前を発見したときは、思わず小躍りしてしまった。
その③↓
四半世紀のベスト①
いつの間にか26歳になり、人間五十年の時代ならば折り返し地点を過ぎてしまいました。
カート・コバーンやジム・モリソンに憧れて27歳になったらアメリカに行ってショットガン自殺しよう、なんて思い始めてから数年。あとタイムリミットまで一年ですが、もう強い希死念慮は失われて、ただ薄く引き伸ばされた生を生きていこう、と消極的な前傾姿勢を取りながら、なんとか息継ぎをしています。
これまでいろいろと本を読んできましたが、四半世紀のベストということで、影響を受けた本を記録しておこうと思います。基本一作家一作にしましたが、作者単位で影響を受けていることがほとんどです。
一言ずつ思い出語りもしながら、26年の省察をしていきたいです。
1、夢野久作『瓶詰の地獄』
はじめて彼の名前を知ったのは、高校時代。『ドグラ・マグラ』の読んだら発狂する、という惹句と米倉斎加年の妖しげな表紙にひかれて読み、チャカポコ、に戸惑い下巻で断念した。夢野久作の血と狂気の世界にどっぷり漬かると、向う側へといってしまいそうだった。『瓶詰の地獄』の表題作の冒涜的なせつなさ、何よりも「死後の恋」の森に吊るされた死体の描写が、決定的にぼくに「そういう」志向を植え付けたのだった。
2、大槻ケンヂ『ステーシーズ』
14、15、16の少女の死体が恋人を探して地上を彷徨う。友人に感化されて聞き出した「筋肉少女帯」のvo.大槻ケンヂによる小説。彼の世界観にもまた多大な影響を受けた。「機械」や「風車男ルリヲ」「香菜、頭をよくしてあげよう」のマッドなエモさがそこにはあった。はじめはなんてへたくそな小説だ、と思ったけれどいつの間にかずっと頭を占めているのは、死して恋する女の子たちとそれを再殺し、損壊させる部隊のことだった。
3、金井美恵子「兎」
はじめは小川洋子か高原英理のアンソロジーで読んだのだけれど、これには衝撃を受けた。『不思議の国のアリス』の変奏、残酷で血まみれの童話。庭で飼う兎を殺しては食べる父と娘が、やがて倒錯し、狂っていくさまが書かれている。ファンシーとゴシックが絶妙なバランスでミックスされた一品。この「兎」は単行本でもっておきたくて、大阪の商店街の古本屋で見つけて、すぐに買ったのだった。
4、赤江瀑『罪喰い』
『オイディプスの刃』が東西ミステリーベスト100にも選ばれているように、ミステリーの枠組みももっている赤江だけれど、その真骨頂は芸術の美に対する妄執と「魔」への心酔、匂い立つ官能だ。山尾悠子がベストに選ぶ「花夜叉殺し」は庭師に憑く庭とその主人の色物語という物語の中に、白黒映画のような翳と血と頽廃的な性がむんむんと漂っている。
鏡花はどれを選ぶか迷うけれど、手毬唄の旋律と球体のイメージが全体を貫く、屋敷の怨念の物語にした。彼の文章は聞いたことのない日本語がたくさんでてくる。その絢爛な漢字と翻訳不可能な比喩を目で追っているだけでも楽しい。純粋な言葉の世界。「外科室」「春昼」「夜叉が池」「天守物語」「高野聖」「義血侠血」どれも絶品だ。繊細のある種の極致ともいえる文章。畠芋之助の別名もあるけれど、鏡花でよかった。
6、キャリントン『耳ラッパ』
- 作者: レオノーラキャリントン,Leonora Carrington,野中雅代
- 出版社/メーカー: 工作舎
- 発売日: 2003/07
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エルンストの恋でレメディオス・バロの友人のシュルレアリスト画家レオノーラ・キャリントン。魔術だとか錬金術だとか神話だとか、そういった妖しげなものが好きなぼくは、いつの間にかシュルレアリズム絵画にも惹かれていった。耳ラッパは、92歳の老女が友人のカルメラから耳ラッパという補聴器のようなものをもらうところから物語が始まる。そうして老女の冒険は、世界の終末というところまで進んでいく。
- 作者: アンドレブルトン,Andre Breton,巖谷國士
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1992/06/16
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高校の時に知ったマグリット以来ダリ、エルンスト、キリコ、ムンク、モロー、ルドン、ベーコンなど、絵は風景画よりもどこか不穏なものが好きだった。ブルトンの「シュルレアリスム宣言」では、理性の箍を取り払い、夢や無意識の想像力を発現させることが述べられている。剥きだしのイメージの奔流は、例えば麻薬や自動筆記や子供の精神への逆行によって得られる。のちのちの志向を生むことになる諸作の生みの親だ。
8、山尾悠子『夢の遠近法』
日本の作家では一番か二番に好き。彼女の純粋に言葉のみで作り上げられた世界には、ある種の取っつきづらさはあるけれど、一度その砦に立ち入ったらもう帰っては来られない。下半身が異様に発達した踊り子、夢を語る獏、囚われの侏儒、太陽や月が中央を通る無限の塔。澁澤龍彦の影響下にありつつ、独自のイメージの世界を作り上げる彼女の新作を今も読み続けられるというのは、大きな喜びだ。
9、ボルヘス『伝奇集』
ぼくの周囲ではよくボルヘスの名前が挙がっていた。ミステリー、SF、ポストモダン、幻想と違った趣味をもつ4人が共通に話題にするのはボルヘスだった。書物の世界の住人、ボルヘス。「トレーン、ウクバール」「バベルの図書館」など奇想天外な短編は、短いながらそこに収められた世界は長編もかくや、だ。円環と無限を主題にすえた諸作はマルケスと一緒になって文学を変えてしまった。がつん、とくる一冊である。
10、残雪「暗夜」
暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)
- 作者: バオ・ニン,残雪,近藤直子,井川一久
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2008/08/09
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中国版ボルヘスといってもよいような残雪の薄暗く大きな絶望に裏打ちされた作品群。文化大革命の影響をうけた彼女には外部とのわかりあえなさ、という暗澹たる気持ちが常に存在している。「朝」か「夜」なら明らかに「夜」に属する、そんな作品だ。永遠に明けない夜の主題は繰り返し登場する。この『世界文学全集』の読書会を隔月でしているけれど、毎回強い刺激を受ける作品ばかりだ。
11、ルネ・ドーマル『類推の山』
- 作者: ルネドーマル,Ren´e Daumal,巌谷国士
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1996/07
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ドーマルはシュルレアリスムの周辺の作家ではあるけれど、彼らの無機質な感じとは違って、この小説は表向き冒険小説である。世界のどこかにある「類推の山」への登頂を夢見る男女の小説だ。けれど、そこにはいくつもの魔術的イメージがちりばめられている。未完ゆえに無限に開かれていて、圧倒的な想像力が喚起され、なぜか元気の出てくる一冊。いわゆるファンタジー小説のようで、読みやすいのもよい。
12、結城聖『テイルズオブシンフォニア』
テイルズ オブ シンフォニア シルヴァラント編 (集英社スーパーダッシュ文庫)
- 作者: 結城聖,松竹徳幸
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2003/11
- メディア: 文庫
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ぼくが小説を書き始めたのも、魔術的なものに興味を持ち始めたのも、音楽を聞き始めたのも、オタクになったのも、すべて中学でであったナムコのRPG「テイルズオブシンフォニア」のせいだった。さかのぼって「ファンタジア」から「ベルセリア」にいたる巨大な世界観によってぼくの90%くらいは構成されていると思う。これのせいで人生が狂ったのは間違いない。
13、二階堂奥歯『八本脚の蝶』
おどろおどろしい本でおなじみの国書刊行会の編集者にして、25歳で自殺した、「生きてきた日数よりも読んだ本の方が多い」博覧強記の女性。もう二階堂奥歯よりも長く生きているということが信じられない。彼女の日記である『八本脚の蝶』には、日々のよしなしごとから、ブランド、読んだ本などが雑多に書かれているけれど、その趣味の広さと造詣の深さに恋してしまう。もうこの世にはいないのだけれど。
宮沢賢治のように色をもった言葉でつづられる童話。人間がいなくなった夜の学校には、星や月を天に縫い付ける天使たちが集まる。そこに迷い込んだアリスの一日だけの幻。これが文藝新人賞をとっているのは、とてもすごいこと。この小説を読むと、いつでもひとりの女の子がぼくの頭に浮かぶ。長野まゆみや寺山修司が好きで、ぼくに『旅のラゴス』をくれた女の子。結局ぼくは何も伝えられず、彼女はまさに幻のように消失してしまった。
15、小川洋子『寡黙な死骸 みだらな弔い』
はじめて読んだのは『博士の愛した数式』だった。それからしばらくして、この本に出会い、そして彼女の描く硬質な世界の虜になった。形あるものの中に蠢くぐじゅぐじゅしたもの、人間の湛えるグロテスクな内面が、11編の連作短編で描かれる。「果汁」は昔、国語のテストか何かで読んで、以来ずっと心に残っていた短編。再会したのは偶然で、こうした奇跡的な体験が積み重なるにつれて、いっそう読書にのめり込むのだった。
16、川上弘美『蛇を踏む』
小川洋子の紹介で手に取った、おそらく初めて読んだ芥川賞受賞作。蛇を踏んだら女になった、という童話のような話で、なるほどこれが文学というやつかという先入観が刷り込まれることになった。それ以来ぼくにとって文学とは、この世のことでないような不思議な作品をさすような言葉になった。2000年以降の芥川賞受賞作をずっと読んできたけれど、忘れられない一冊だ。
夏目漱石もまた一冊選ぶのが不可能な作家だ。『三四郎』『それから』『門』の重層的なエモ、『草枕』の言語芸術、『坊ちゃん』『彼岸過迄』のエンタメ、『こころ』の内省や衝撃、どれも一級なのだけれど、やはり初めに読んだ「第一夜」の圧倒的な美しさが心に残る。たった4ページなのに、もう心がわけのわからないくらい動く。「百年はもう来ていたんだな」という言葉がしみる。
18、島尾敏雄「夢屑」
こちらも夢を描いた島尾敏雄の短編。夏目漱石や、内田百閒の『冥途』、タブッキの『夢のなかの夢』など夢を題材にした作品は多いけれど、島尾の夢は暴力的で、時には死の香りも漂う。『死の棘』で書かれる現実の不安が、夢の中に投影されているのだろうか。夢はうつつ、うつつは夢。胡蝶の夢だ。第三の新人に分類される作家だけれど、こじんまりしたよさというのを超えた何かを感じる。
百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)
- 作者: ガブリエルガルシア=マルケス,Gabriel Garc´ia M´arquez,鼓直
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2006/12
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かなり多くの人が文庫化したら、と思っているであろうラテンアメリカ文学の旗手マルケスの傑作。『エレンディラ』などで書かれたマジックリアリズムが各所に散りばめられた、アウレリャノの血と、マコンドという土地の物語。人が死ねば黄色い花が降り、恋した人間を死に至らしめる少女は突如昇天し、死んだはずのジプシーは繰り返し蘇る。読み終わった後には深いため息が自然と漏れた。
日本における土地と血の物語。ぼくは一時期熊野に入れ込んでいて、三山はもちろん伊勢にいたるまでの生と死の蠢く妖しげな土地へ旅に出てみた。鬱蒼とした森、海の静寂、自然のダイナミズムを感じた。そこに育った中上は、路地を舞台に「秋幸」の関係自体を物語にする。異父、近親相姦、暴力、濃密な熱量が文章から漂ってくる。ここまでの汗を描いた小説を、ぼくは知らない。
谷崎潤一郎の短編集を作ってください。もしこんな仕事がきたらぼくは断る。それは不可能だからだ。はっきりいって谷崎の短編はどれも珠玉だ。だからぼくは谷崎の中でも特に気持ち悪いこの作品をあげておきたい。女優の妻をもつ映画監督のもとに奇妙な男が現れる。「あなたは奥さんの撮り方がわかっていない、うちにきなさい」。訪れた男の家で、監督が見たものとは。谷崎は気持ち悪い、そこがいいのだ。
何度も自殺を試み、常にヘロインを傍らに生活したカヴァンの短編集。彼女の短編はとにかく不穏だ。よく天井を見て一日を過ごすことがあるのだけれど、ずっとあの白色を見ていると、なんだか禍々しいうねりが見えてくることがある。そういう精神の一瞬の動きを、彼女は文章に落としている。『氷』もながらく絶版だったけれど、文庫になってずいぶん手に入りやすくなった。
23、ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』
ぼくの高校では、毎回英語の定期考査後に英書が配られ、次の考査までの課題となっていた。そこではディックやクラークなどのSF、コリンズやキングなどのミステリー、シェークスピアやディケンズなどの古典、そしてこの『ドリアン・グレイの肖像』が取り扱われた。当時1年生だったぼくは、同性愛、自己陶酔、ピュグマリオンコンプレックスという奇怪な物語に打ちのめされたのだった。これを高1で読ませるのはどうかしている。そのあと『サロメ』で第二の衝撃を受けるのだった。
向精神薬を飲みすぎて夜しか動けなくなる、図書館のほうが居心地がよい、気分が落ち込んだときは歌をうたう。尾崎翠の描く精神衰弱者には、ただひたすらわかる、わかると頷くばかりだ。少女漫画風の筆致の中に、思わず笑ってしまうような会話があり、恋愛があり、けれど全体的にどこかずれている。このずれ具合がやわらかい文章にのって他にない味を出している。
25、カフカ『変身』
- 作者: フランツ・カフカ,Franz Kafka,高橋義孝
- 出版社/メーカー: 新潮社
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これも高1の時、憧れていた国語の先生が教えてくれたのがカフカだった。親が働く本屋へ行って買った。薄いその小説を朝、学校へ行く前に読んだ。「なんだこれ」と思った。朝起きたら虫になっていた、妹や親にはわかってもらえない。読み終わって、笑いやらかなしいやら、いろいろな感情が虫の足のように蠢いた。そう思って振り返れば、ミステリーや人間ドラマよりも早く、ぼくはワイルドやカフカの妖しい世界に巻き込まれていたのだった。
その②はこちら
キャス読書会第一回『ノーライフキング』覚書
80年代は浅田彰や宮沢章夫がのちに回顧するように、あらゆるものが記号化し、ジャンクが堆積している時代であった。サブカルチャーという概念自体もこの時期に日本に取り入れられ、民族的統一性をもつ日本では、ニューアカブームと共鳴して本来の意味と異なった文脈で語られるようになった。消費の時代にかこつけてアニメ、ゲーム、音楽、ファッションなどの雑誌が80年代に数多く創刊していることからも、あらゆるものが分化され、意味付けられていったことがわかる。
宮沢章夫は『「80年代地下文化論」講義』の中で六本木を象徴として次のようなことを語っている。輸入レコードショップ〈六本木WAVE〉のあった箇所には、現在〈六本木ヒルズ〉が存在している。80年代はWAVE=動/ダイナミズムの時代であり、それはバブル崩壊以降ヒル=静/スタティックな時代となった。オタク文化、クラブ文化をはじめとするサブカルチャー文化がうなりをあげ、いろいろなものにタグをつけ、有意味化していったのである。
この記号化の時代が、のちに〈渋谷系〉〈下北系〉〈セカイ系〉といった系、「っぽさ」を生んだことは想像に難くないであろう。試みにいくつか論文を調べたところ「ぽい」という言葉は江戸時代から使用例はあるものの1970年後半から80年代初頭の著作で「若者言葉」として紹介されていた。「ぽい」は「らしい」などに比べて、マイナスの意味を付与する場合に多く使われる。まさにレッテルはり、差異化、階層化、有意味化である。
90年代末期から2000年代には『文藝』の特集で阿部和重を筆頭に〈シブヤ系文学〉〈J文学〉のように、メインカルチャーをサブカル化するかのような言葉が生み出されている。80年代の文学といえば1981年の田中康夫『なんとなく、クリスタル』や高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』のように、従来の文学の私小説的、モノフォニー的な形式を破壊するポストモダン文学というものが登場してきた。1987年のよしもとばなな『キッチン』は少女漫画的といわれる。いわゆるサブカルチャーを文学に輸入したものである。
『ノーライフキング』に話をうつせば、この子どもによる世界の創造は、疑うことなく「大人」社会の、より正確を期せば、80年代カルチャーの転写であるといえよう。
フランスの批評家カイヨワが『遊びと人間』の中で「自然の無秩序状態を規則づけられた世界に変える必要があり、遊びはそのような世界の予見的モデルを提供しているのである」と述べるように、子どもの遊びは社会構造のモデルとして発見することができる。
- 作者: ロジェカイヨワ,多田道太郎,塚崎幹夫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1990/04/05
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「インベーダー」や「ゼビウス」などの遊びは例えば中沢新一によれば、フロイト的欲動の原体験である。有意味化以前の場所=宇宙に侵略者が現れては消えていくというのは、反復強迫の顕現であり、不安をコントロールできるように象徴的な体系を構成しているのである。
大人社会というものは例えば法であり、経済システムであるような多くのコードにのっとって進行している。しかし、それが発生する瞬間があるはずで、80年代という時代がサブカルチャーという神話を生み出し続けているという事実をいとうせいこうは、子どもの遊び、ゲームを用いて表現したのだろう。
噂のひとつひとつがすでにノーライフキングという大きな物語に書き込まれていた気がする。彼らの噂のネットワークは、突然変異的に発生する物語を収納する、不気味で巨大な物語を作り出してしまっていた。
奇しくも映画という「サブカルチャー」を同じく文学に取り入れ、子供社会に大人社会のコードの発生を仮託した作家に谷崎潤一郎がいる。彼の「小さな王国」は、『ノーライフキング』の副読本として一読に値するだろう。
いとうせいこうが特異なのは1983年に一般化した「メタフィクション」を用いて、物語のほころびを批評性として組み込んでいるところであろう。
本作は悪魔のソフトにして噂の正体「ノーライフキング」の話でありながら、『ノーライフキング』という現実の著作として書かれている。さらに「NOW LOADING」のような文を挿入し、主人公の動作を細かく描写することによって、この小説自体をあたかもゲームであるかのように描いている。
ひたすら右へ全速力。およそ三十秒後、まことは、大通りに出る手前の小さな書道教室の角を左歩方向に回りこむ。
駅まで早足で八分。午後五時〇三分発の電車に乗って六つ目の乗り継ぎ駅まで十五分。到着と同時に向かいのホームに白桃色の電車がすべり込む。その三両目に移動して四つの駅をやりすごし、五つ目の駅まで十三分。そこから塾までが徒歩十五分。
さらに作中では、この構造について登場人物の「さとる」や「まこと」による以下の発言やがある。
さとるの指の下にはライフキングがいた。
「これがノーライフキングでしょ」
最後にさとるはハーフライフ一匹一匹をそっと触った。
「で、これがぼく」
ノーライフキングは呪われたソフトの名前だ。そしてそのソフトの主人公の名前だ。しかし、自分たちを実際に襲いつつある呪いの総称でもある。
ここでの構造をまとめると、①ノーライフキングの主人公はノーライフキング、②ノーライフキングのプレイヤーはハーフライフ、③ノーライフキングは噂であり、呪いである。
この構造に当てはめるならば、三人称一視点の主体となるまこと=ゲーム『ノーライフキング』のプレイヤー=小説『ノーライフキング』の主人公となり、命を記述するハーフライフであり、噂の正体でもあるノーライフキングでもあるという多重性を獲得する。
そして80年代の「世紀末」の噂が蔓延する社会を社会『ノーライフキング』とみなせば、この小説『ノーライフキング』の受け手≒読者=プレイヤー=ハーフライフ=噂の正体という空間が表出する。
終末思想に基づいて噂=ノーライフキングを構成しているのは誰なのか、それはその噂世界の登場人物である我々だということになる。
そしてこれは無記名化に対する、個の戦いのすすめでもある。転じれば記号化される一方で死への憧憬を高めていく80年代への「鶏口牛後」といった檄文であるともいえよう。そうなると東日本大震災を受けての『想像ラジオ』での復活も、村上春樹が阪神・淡路大震災に共鳴して書いた『神の子どもたちはみな踊る』以降書いてきたものとあわせて考えれば納得のいくものであろう。
「無名って恐ろしいわね」
「なんだって?」
「ゲリラが一一五名戦死というだけでは何もわからないわ。一人ひとりのことは何もわからないままよ。妻や子供がいたのか?芝居より映画の方が好きだったか?まるでわからない。ただ一一五人戦死というだけ」
ゴダール「気狂いピエロ」――村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』エピグラフより
以上のように80年代の文化批評としての一面をもつ『ノーライフキング』においては、子ども社会の形成を描く一方で大人と子どもの対立が描かれる。
子どもにより創成された価値観=物語=コードを理解できない人間が唱えたのはゲームの廃止だった。
子どもを野放しにするな。ライフキングを奪え
つまりは道徳や倫理、旧常識に基づいたコードの上書きである。その結果何が訪れたかは、小説で書かれているとおりである。
大人たちは誰も、それがかえって子供たちを追い詰めてしまうことに気づかなかった。
呪われたノーライフキングはライフキングであり、ハーフライフであり、それを奪うというのは世界を、ひいては命を奪うということに他ならないのである。
この根本的無理解、レッテルに基づいた批判は言うまでもなく、1989年の宮崎勤による幼女殺害事件、1997年の酒鬼薔薇事件、2008年の秋葉原通り魔事件でも繰り返されている。
この『ノーライフキング』の子どもたちの虚構は、例えば葬式ごっこで泣いてしまう「みのちん」のように、実際に感情を動かす。「リアル」の反転した終幕に表現されているように、終末の噂は、現実に作用する。この延長上に宮台真司のいうところの「終わらない日常」の人工的ハルマゲドン、地下鉄サリン事件があることを考えれば、『ノーライフキング』の批評性と普遍性はかえりみられてしかるべきであろう。
終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)
- 作者: 宮台真司
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1998/03
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1999年のノストラダムスの予言が無事に終幕して以来2012年のマヤ文明の予言、彗星の激突、アセンションという終末思想、またくねくねや八尺様、バンドの楽曲の怖い解釈などの死の欲動に裏付けされたネットロアはインターネットを媒介として無数に展開されている。その中でも『虚構推理』などは、ネットロアを描いたミステリーとして面白い。
噂が世界を意味付け、人を動かすという本質は、マスメディアがネットに敗退し、相互監視となっている社会、第三次世界大戦という新たな終末思想を獲得した現代においては、再確認されるべきではないだろうか。
噂や雰囲気というのは、ひとりひとりが作り出すものであり、ジャンルや記号化に反抗して、自分の声を上げること、命の記述をすることが常に求められることなのだ。
「日本はじめての世紀末はデマしか生まないと思うんですよ」
子供はマンガのヒーローを殺して
最終回を勝手につくった
明るいマンガを暗くしたがった
誰もがそれにきづかなかった
噂はすぐにひろがりだした
どんな噂だってもうどうだってよかった
世界破滅のイメージを誰もが欲しがった
「噂だけの世紀末」より
ぼくとK氏とでんぱ組
2011年、今出川通。
ぼくはアイドル好きの友人から「でんぱ組.inc」の話を聞いていた。
「最上もががうんちゃらかんちゃら」「りさちーが云々」……。正直そのほとんどを覚えていない。というのも、当時のぼくはアイドルにあまり興味がなかった。
それでも何の気なしに「W.W.D」を聞いてみた。
なんの虚飾もなくいうならば「ああ、なるほどね」くらいの反応しかしなかったと思う。
今になってみれば、これがアイドルを必要としない人間の精神状態だったのだとはっきりわかる。
2014年、春。
就職する。
2014年、京都の某カラオケ。
好きだった人といったカラオケで、その人が「でんでんぱっしょん」を歌う。
「ん?」と思った。わけのわからない展開の曲だった。けれど、やけに頭に残るメロディだった。
もちろん好きな人が歌っていたからだ、というのもあったと思う。
家に帰ってからぼくは「でんでんぱっしょん」のPVを見た。電波的彩色、おもちエイリアン、作曲玉屋2060%。稲妻が走った。
「すげえ」
この瞬間、ぼくはでんぱ組.incの曲を好きになった。
「サクラあっぱれーしょん」「でんぱれーどJAPAN」「バリ3共和国」……。
2014年、冬。
職場で先輩に「どんな音楽好きなの?」と聞かれた。
ぼくはいくつかの当たり障りのないロック・バンドとともにこう答えた。
「最近、でんぱ組っていうのにはまってまして」
その数日後、社内のメールで(どんな社なんだという話なのだけれど)でんぱ組の出る番組の情報が流れてきた。あまりのタイミングのよさにびっくりした。
これがぼくとメールの送り主、K先輩とのはじめての出会いだった。
K氏とぼくとは「部署」が違い、なかなか話す機会がなかったのだ。
2015年、春。
死にたくなる。
ぼくの中で決定的に何かが壊れる音を聞いた。
理由ははっきりしているのだけれど、それについては書かない。というか、まだ書けないというのが正しい。思い返すだけで、頭の中でしゃぼん玉がはじけていくからだ。
ぼくは音楽に救いを求めた。
本は全然読めなかった。
ぼくは精神を偶像(idol)崇拝によって正常に保とうと心がけたのだ。
アレゴリーではない。これはぼくにとっては肉体性すら伴った現実だ。
ぼくは「でんぱ組.inc」が好きになった。
狂ったように、これは比喩ではなく狂ったようにでんぱ組の曲を聞いた。もちろんCDは(プレミアのついているものまで)買った。ファンクラブにも入った。Youtubeで関連動画を見まくった。ほとんどの動画は見たのだけれど、なぜかラジオは聞けなかった。
それは彼女たちの「卑近」な部分を見てしまうかもしれないという畏れからであり、触れてしまうことで「神聖さ」が失われてしまうことを恐れたからだ(MV以外の動画もはじめは見るのが怖かった)。
ぼくは夢眠ねむが好きだ。理由は様々あるけれど(タナトスとヒュプノスだとかいろいろ言い始めると収拾がつかなくなるから)、一言でいえば「こういう感じの人が好きだから」だ。
2015年から、ぼくとK氏は同じ部署、同じ部屋の勤務になっていた。
噂では「でんぱ人事」と呼ばれる人事のおかげで、ぼくはK氏からいろいろなグッズをもらったりした。
詳しくは語れないのだけれど、この部署は通称「監獄」で、地獄のような労働環境だった。
限界状態の中、ぼくとK氏は頻繁に飲みに行ったり、カラオケに行ったり、職場から駅まで送って行ってもらうような関係になっていた。
K氏の車の中では、常にでんぱ組が大音量で流れていた。
K氏はファンを公言していて、職場でどんどん「布教」をしていた。
ぼくはといえば、アイドルが好きだということに恥を感じていた。ぼく自身、アイドルオタクというのは「気持ち悪い」という気持ちが強かったからだ。
けれど、ぼくはK氏を見ていて、好きなものにすべてをかけられる姿勢をかっこいいと思い始めてもいた。
自分の心を殺して、仕事をつづけた。
職種柄、大人の建前が激しく求められた。
ぼくはどんどん分裂していった。
信じられないけれど、ぼくは仕事が好きになっていた。
その仕事が好きだったという気持ちは今でも持ち続けている。
でも、分裂していくぼく、ペルソナが本物になろうとしているぼくに語り掛けるぼくαが常に「嘘だ、お前は嘘だ」と頭の中でつぶやき続けていた。
ぼくはそれに耐えることができなかった。
23時に退勤、家に帰ってはでんぱ組を聞き寝落ち、5時に起きる。
本を読む時間はなかった。音楽に救いを求めるのは必然といえば必然だったのだと思う。
2015年、5月。
ぼくはK氏、それからK氏の友人とその彼女、というよくわからないメンツでナガシマスパーランドにいた。
「かみしの君、でんぱ組のイベントに行こう」
機械のようにパソコンに向かっていたぼくに、K氏はささやいた。
『おつかれサマー!』のリリースイベントということだった。
ぼくは、よくその言葉を飲みこめなかった。
でんぱ組に会う、というのは当時のぼくにしてみれば神との邂逅である。
そもそも、「イベントに行く=会うことになる」という等式すら心の中でしっかりとは結べていなかったと思う。
よくわからないまま、よくわからないメンツと、よくわからないイベントに行くことになった。
朝5時集合、日ごろの早起きが役に立った。
正直、アイドルファンをなめていた。
朝6時くらいに会場につくと、すでに長蛇の列。コスプレイヤー、典型的なオタク、常連風の男女……。異空間だった。
なんの列かもよくわからないままK氏に促されて並んだ。
日差しが暑い。長袖を来たぼくを殴りたくなる。
並んだ。
並んだ。
7時間近くたちっぱなしだ。
せいぜいバンドのライブの待機列くらいしか並んだことのないぼくには、ありえない苦行だった。
ようやく何かスタッフの声が聞こえてきた。
一枚の紙を渡され、そこには「夢眠ねむチェキ券」と印刷されていた。
チェキ?
本当になんのイベントかもわからず並んでいたぼくは、聞きなれない単語を調べた。
写真、と検索結果が表示された。
ん?つまり写真を撮る、ということ?ん?どういうこと?
何層もの意識を突破して「2ショットの写真を撮る」という事実にたどり着いたときも、ぼくはいまいち事態を飲み込めていなかった。
チェキ会の前にはライブがあった。
ぼくはてっきりライブだけだと思っていた。
さらに2時間ほど待機した。
会場では常連らしき人たちが騒いでいた。
ぼくが今までいっていたライブの客層と明らかに違う。
なんて気持ち悪いんだ、と思った。
機材トラブルか何かで開始が遅れた。
しばらくざわついたあと、彼女たちはステージにあがった。
曲を披露する彼女たちを、ぼくはどこか遠くで聞いている気分だった。
本当にあきれるしかないけれど、音源ではなく、歌って踊っている彼女たちを見ても、ぼくは理解できていなかった。
すべてを(誇張ではなく『2001年宇宙の旅』のボーマン船長のように)かみ砕いて飲み込んだのは「でんでんぱっしょん」のイントロが聞こえてきた時だ。
「あ、本当にいるんだ、この人たち」
言葉にするなら、そんな感じだ。
それから、いろいろなことを思い出して泣いた。踊りながら泣いた。暗かったから隣でサイリウムをふるK氏にはばれていなかったと思う。
興奮が落ち着かないままチェキ会になった。
今ではすべて理解していたぼくは心臓が高鳴るのを通り越して、変に静かな心境だった。
もが・ピンキー・ねむが前半、りさ・みりん・えいたそが後半。K氏とその友人はみりん押しなので別れ、ぼくはピンキー押しのK氏の友人の彼女という、よりにもよって一番話しづらい人と列にならんだ。「あはは、天気、いいですね」というテンプレの会話を本当にすることになるとは思わなかった。
しばらくして列が三つに分岐した。
ぼくのまえには同じく友人と別れた女の子が並んでいた。
どんどんと列が進んでいく。
列の先にはピンキーとねむが小さく見えていた(もがは逆側だった)。
ピンキーはこの公演で足をくじいてしまっていたので、座っていた(余談だけれど、その状態を見るまでそんなことわからないくらい動いていたので、プロってすごいと思った)。
列はどんどん進む。
ぼくの前の前、リュックサックのお兄さんが終わり、目の前の女の子が移動する。
スタッフが荷物を置くように指示する。
背中側にあった机にリュックを置く。
振り返る。
夢眠ねむと目が合う。
世界がとまる。
夢眠ねむは小さなため息をつく。
きっと多くの人と写真撮って疲れてるんだろうな、と頭だけはフル回転していたので思った。
思っていたより身長が低かった。
夢眠ねむがぼくの左に立つ。
近い。
フラッシュが光る。
ぼくは離れて明後日の方向を見て「ありがとうございます。応援しています」という類の言葉を発する。
「ありがとう~また来てね!」と夢眠ねむが言う。
これがすべてだ。これだけなのだけれど、ぼく生まれて一度も味わったことのない感情を味わった。
まぶしくて見れない、というのは本当にありうることだった。
あの瞬間だけは、ぼくは世界に二人だけしかいないと確信していた。
そのときの感情を友人に話すと、「なかなかきもいな」と言われた。ぼくもそう思う。
チェキには奇妙な距離感のぼくとねむ、日焼けして顔が黒く、阿呆のようににやけているぼくの顔がくっきりと映し出されていた。
2015年、秋。
仕事をやめることは、もう決めていた。
けれど、誰にも言えなかった。
それは、逆説的だけど仕事が好きだったからだ。
仕事場でのぼくと、心の中のぼくは、完全に分離していた。
今でもぼくは心から仕事が好きだったといえるし、一方では心から死にたかったともいえる。
あいかわらずK氏はぼくを飲みやラーメンに誘ってくれた。
部署の愚痴を言い、来年も頑張ろうね、と鼓舞しあった。
「はい!」
ぼくはK氏に嘘をついていた。
2015、冬。
夏の出来事、やめると職場でいえないこと、親にいえないこと、笑顔ででんぱ組のグッズをくれるK氏、慕ってくれる職場の子どもたち、用意された昇進ポスト。
ぼくの仕事用ペルソナはぶっ壊れた。
でも、相変わらず顔は笑っていた。
2016年、2月。
K氏とでんぱ組のツアーに行くことになる。
ぼくの仕事は3月までだ。
ぼくはこの機会にK氏に仕事をやめることを言おうとしていた。
三重県の文化会館に、K氏の車で向かう。
グッズを買う。
もうファンたちには慣れていた。
配信されたばかりの「破!to the Future」が流れる待機列は、どんどん進んでいく。
ナガスパでのライブは5、6曲の縮小バージョンだったので、フルタイムのライブを聞くのはこれが初めてだ。
ライブの内容については多くのレポートがあるだろうから多くは書かないけれど、夢眠ねむの観光大使就任式が見れてよかった。
隣にいたハードなファンと仲良くなった。
みんな人間だった。
興奮状態でぼくはK氏とご飯を食べに行った。
「よかったね!4月からのパワーをもらったね!」
屈託なく笑うK氏の顔を見てぼくは
「はい!」
と元気に嘘をついた。
2016年、3月。
ぼくは仕事をやめた。
全職員の前であいさつをする日の前々日、帰ろうとするぼくの背中にK氏が話しかけてくれた。
「……やめるんだってね、部長にはしっかり話しておいた方がいいよ」
3月にもなれば、ぼくがやめるという噂はとっくに広がっていて、当然K氏のもとにも届いていた。
最後までぼくのことを気遣ってくれたK氏に、結局ぼくは全く自分のことを言うことができなかった。
家に帰ってでんぱ組を聞いた。
ただ救ってほしかった。
ぼくが仕事をしていた2年間、常にバックグラウンドにはでんぱ組.incが流れていた。
プライベートもパブリックも、ぼくの記憶は彼女たちの曲とともに思い出されてくる。
5年前は「なるほど」としか思わなかった「WWD」のねむパート、「ふと気づいたらここで笑ってた」という歌詞を聞いて、ぼくはそういう「ここ」になったであろう場所を、自分のどうしようもない弱さから放棄してしまったことを、K氏の笑顔とともに思い出す。
人間が生きるためには「物語」が必要だと思う。
少なくとも2年間、ぼくはでんぱ組に自分の物語を仮託していた。
最近ねむは「破!to the Future」の歌詞の一部「もしこれがほしいのならば、どうぞあげるもういらないわ」をよく引用している。
新譜『GO GO DEMPA』は明らかに、でんぱ「らしさ」を破ろうとしている。
作曲からも、歌詞からもびしびし伝わってくる。
あの時確かに感じた、「誰も触れない二人だけの国」的世界からの脱却だ。
浅野いにおが歌詞を担当した「あした地球がこなごなになっても」を聞いたときから感じていた。
彼女たちは、いわゆる「非日常」的な存在から「日常」的存在になろうとしている。
モラトリアムを抜け出そうとしている。
ぼくの一時期を形成した藤原基央もまた大人になり、でんぱ組.incも大人になろうとしている。
ぼくはまだとどまっている。
0000書店紀行:番外編inブックオフ~後編~
前編はこちら↓
よ これって知ってる?
か 長野まゆみ、好きだね結構。この人はすごいよ、文字だけで別の世界を作り上げるというか。『少年アリス』でデビューしてると思うんだけど、宮沢賢治とか山尾悠子とかに近いかも。幻想小説
よ 結構読んでるの?
か いや、2,3冊くらいだけど、それもとてもよかったね。『夜啼く鳥は夢を見た』と『聖月夜』かな
よ これみんなけっこう推してるんですよ
か とてもよいよ
よ 最近中村文則が100円コーナーから消えてしまったというね
か 人気なのかな、やっぱ
よ そう人気になって全部100円以上のコーナーに置いてあるっていう
か 中村文則だったら何が一番好き?
よ うーん……『土の中の子供』か『遮光』だけど、まあ『遮光』かな。デビュー作の『銃』と似てるけど、洗練されて短くなってる。まあ、死んだ恋人の指をホルマリン漬けにして持ち歩く話ですね
か (笑)いいねえ、そういうのは
よ いいんですよ、どうしたみたいな。大丈夫じゃない感の出てるやつを読みたいね
か 樋口一葉、エモいんですよね意外と。5000円札の人という印象があるけど
よ こういう文章読めるってのはいいよね
か まあほとんど古文だからね(笑)
よ 古文10点だったから駄目なんだよ(笑)
か (笑)でも古文ゆえの流れる文章というのはあるんだよね
よ そういえば聞きたかったんですけど、東野圭吾って面白いんですか
か んー、ドラマでいいって感じ(笑)
よ 映像的って感じ?
か まあ、そうかな。わりとドラマがあるから、感動みたいなのは映像で見ればいいかなという。普通に面白いんだけど、2時間ドラマサスペンスの原作っていうような感じ
よ そうなんだ(笑)絶対買うやつ見つけましたよ、藤沢周
か おお、『ブエノスアイレス午前零時』、いいじゃないですか
よ 読みたかったやつ。あの、『死亡遊戯』ってのは読んだことあるんだけど、これは読んだことあるんでしょ?
か ある
よ その話を聞いて絶対読みたいと思ってて、これも90年代のいわゆるJ文学と呼ばれたものだよね
か 湿った空気感がよかったね
よ これはじゃあ買いますね。意外とたまってきたな
か まだ外国文学コーナーとかあるんだけどね
よ そうだね、これは『日蝕』
か おお、平野啓一郎
よ これ芥川賞なの?
よ 平野啓一郎すき?
か あー、実験小説しか読んでないんだよね。『日蝕』はまだ読んでない
よ おお珍しい
か 普段ラノベとかアニメしか触れない後輩が面白いって言っていて、だから一見難しそうに見えて面白い物語があるんじゃないかって思ってる
よ youtubeでなんとか文学界っていうアカウントがあって、平野啓一郎とか田中慎弥とか柴崎友香とかが所属していて、こう、インタビューみたいのをやってて面白いんですよ
か へえ、それは面白そう
よ 本多孝好って知ってる?
か 結構好きだよ。『MISSING』の「瑠璃」だっけ、あれが心にきた記憶がある
よ そうそう、瑠璃っていう名前なんじゃじゃなかったけ
か 大人な乙一というか、村上春樹っぽい乙一というか、ビターな感じよね
よ ビターな感じ、そうそう。ハルキチルドレンとか言われてるよね。うまいんだよ
か 文章が透き通っていて、かつミステリーだから
よ そうなんだよね、意外と。『FINE DAYS』も読んだんだけど、よかったですよ。意外と刺さるみたいな
か 乙一とか好きな人におすすめしたい。村上春樹も意外と置いてあるね
よ 本当だ。村上春樹はどれが好き?
か それね、すごい難しい質問なんだよね(笑)基本的には一番最新で読んだ村上春樹が一番好きな村上春樹なんだけど、ま、あえて挙げるなら『羊をめぐる冒険』か『海辺のカフカ』か『1Q84』
よ 3つのどれか(笑)
か うん(笑)どれが好き?
よ 僕はもう『1973年のピンボール』ですね、どれも好きだけど。初期が好きかな
か 初期が好きなら、逆に『騎士団長殺し』を読んでもいいかもしれない
よ 文庫化されたら(笑)完璧なんだよな、泣いちゃうんだよな
か 村上龍のほうはあんまり置いてないな
よ 『限りなく透明に近いブルー』くらいしか読んだことないな
か 『愛と幻想のファシズム』とか面白いらしいよ
よ 名前からしていいよね。『ラブ&ポップ』って原作あるんだっけ
か と思うよ。あのエモいMVね
よ あ、これなんか、家に三冊あるとか言ってなかったっけ(笑)
か 宮本輝。うん、三冊ある(笑)『蛍川』、とてもいいよ。しみじみといい。「川三部作」っていうのがあって、「蛍川」「泥の河」「道頓堀川」っていう
よ 続編とかではなく?
か うん、別の作品
よ 意外と『となり町戦争』とか僕好きですけどね
か ああ、三崎亜記
よ なんか戦争が起こってるんだけど目に見えないんだけど、死者はいるらしいみたいなところが、現代的だなと。あと『向日葵の咲かない夏』とかね、道尾秀介、大好き
か あったね、懐かしいな。いつ読んだっけな、高校の時かな
よ これは暗いですよ、3日くらい学校休まないといけない
か (笑)結構胸にくるよね
よ 森博嗣も少しあるけどね
か 本当だね
よ 『すべてがFになる』とか読んでないんだっけ?
すべてがFになる THE PERFECT INSIDER S&M
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/09/28
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か えっとね、漫画で読んだんだよね
よ あ、漫画で読んだんだ、じゃあ内容はだいたいわかってるんだ
か なんとなくだけどね(笑)おお、連城三紀彦
よ なんなの?
か ここにはないんだけど、『戻り川心中』っていうのが最高なんですよ
よ へえ、何の人なの?
か 『幻影城』っていう雑誌の人で、泡坂妻夫とかと一緒にやってたりするんだけど、まず文章がすごくうまくて、大正・昭和くらいの退廃的な世界観で。ミステリーって「フー・ダニット」とか「ホワイ・ダニット」とかっていうのがあるんだけど、「ホワイ・ダニット」、どうしてその犯罪をしたのかっていうのの、少なくともぼくが読んだ中では一番の傑作だと思う
よ へえ、けっこう厚いの?
か いや、短編集だね。もうね、胸が掻き毟られる。よねぽもあるな、『クドリャフカの順番』
- 作者: 米澤穂信
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2008/05/24
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よ 本当だ、三冊目だね、読んだなあ高校の時に。小市民シリーズもね、秋で終わりなんだよね
か ね、秋で終わってる。早く冬を出してほしい
よ いや、秋で終わりらしいよ
か え!秋で終わりなの!?
よ 秋で完結らしいよ
か 誰が言ってたのそれ?
よ 米澤穂信が
か 何やってんのよ、頼むよ
よ 同志社か大谷大かどこかに講演にきたときに行ったんだけど、その時に言ってた。「秋で終わりですって」(笑)
か いや、ちょっと待ってくれよ(笑)
よ 秋って上下で出てるんだっけ
か そうだね、二巻でてる
よ それで四冊でいいんじゃないか、みたいな
か 本当に待ってくれよ(笑)「冬期限定クリスマスケーキ事件」とか出してくれよ
よ 吉田修一とかもあるよ
か 最近『悪人』とか映像化してたね
よ やっぱり『パーク・ライフ』とか読んでみたいな
か あれはよかったよ
よ 文芸部の方々が目の敵にしてた山田悠介っていう人がいるんですけど、僕はけっこう評価してますよ(笑)
か (笑)設定はすごい面白いしね
よ 文章は拙いかもしれないけど、先取りしてる感があるよね。『アバター』とか『ライヴ』とか今のインターネットとかみんなのやっていることを先駆的に取り入れていて、そこはいいと思う
- 作者: 山田悠介
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か ここらへんはもう……
よ 違う感じだね、綿矢りさとかないね
よ ここらへんは時代小説か
か 時代小説も読んでみたいけど、いっぱいシリーズがあるからどこからいっていいものか
よ そうね、葉室さんって何か
か 直木賞か何かとっていた気がする
よ 田中慎弥と何かやっていた気がする
か やっぱり吉川英治の『三国志』シリーズとかはたいへん面白いけどね
よ へえ、三国志知ってる人か
か 三国志知ってる人だね(笑)けっこう好きだよ
よ 日本史だったっけ?
か 両方やった。ここらへんは外国だね
よ いいね、これいつも買うか迷ってるんだよね、『愛人』
- 作者: マルグリットデュラス,Marguerite Duras,清水徹
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
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か 『愛人』は名作だし買ってもいいかもしれないね。『アーサー王物語』はもってたんだっけな、忘れてしまった。ジャン・コクトーが結構置いてあるな、『恐るべき子供たち』
よ ああ、この前買いました
か おお、いいねえ
よ 意外とカフカの『変身』まだ読んでないんですよね
- 作者: フランツ・カフカ,Franz Kafka,高橋義孝
- 出版社/メーカー: 新潮社
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か 逆にね、有名すぎて読んでないパターンはあったりするよね
よ この前ようやくカミュの『異邦人』を読んであれはよかった
か あれはよいよね
よ どんどん挑戦していきたいよね。あ、ゾラだ
か 『ナナ』だ
よ 読んだことある?
か 『ナナ』はないな。他の短編集は読んだけど、『オリヴィエ・ベカイユの死』っていう、生きたままお墓に埋められた男の話で。あの時代のフランス文学はけっこうおもしろいのが多い
オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家 ゾラ傑作短篇集 (光文社古典新訳文庫)
- 作者: ゾラ,國分俊宏
- 出版社/メーカー: 光文社
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よ へえ、これも友達に薦められてて
か ゾラは『居酒屋』と『ナナ』が二大巨頭だよね。これがブックオフの面白いところだよね。お、アラン・シリトーとかあるね
- 作者: アランシリトー,Alan Sillitoe,丸谷才一,河野一郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1973/09/03
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よ お、それこの前買ったわ、読んでないけど
か 買っちゃおうかな
よ サリンジャー好きだけどね
か いいねえ、「バナナフィッシュ」とか『フラニーとゾーイ』とか
よ みんな読んでるよね
か サガンとか読んだことある?
よ もってるけど読んでないな
か おお、『アドルフ』とかあるじゃん。心理小説の
よ コンスタン、知らない。「空虚な心を埋めるため……」よさそうだね。海外文学って地の文でビックリマークをつけて心の内を吐露するみたいなところがあって、ドストエフスキーとかもそうだけど、愚直にキレてるみたいなのが好き
か (笑)
よ 『グレート・ギャッツビー』とかもよかったな
- 作者: F.スコットフィッツジェラルド,F.Scott Fitzgerald,小川高義
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か 読んだことないんだよな
よ 春樹も好きなんだよね、確か
か 春樹の三大好き小説の一つだった気がする。『騎士団長殺し』もね、『グレート・ギャッツビー』のオマージュと言われている
よ 『ノルウェイの森』でも出てきますしね
か 意外とすいすい決まっていくね
よ 本当だね。トルストイもある、知らないやつだけど
か 『クロイツェル・ソナタ』、これって曲になってなかったっけな。トルストイ読まなきゃな
よ 『アンナ・カレーニナ』
か ね、『アンナ・カレーニナ』を読まなきゃ死ねないみたいな。ヘミングウェイの短編集とかもあるね
よ ヘミングウェイ、渋いよね
か 渋いよね(笑)ボーヴォワール……
よ ヘッセとか好きだけどね
か 『車輪の下』とか辛いもんね
- 作者: ヘルマンヘッセ,Hermann Hesse,高橋健二
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よ 疎外されてるみたいなね
か 『ランボー詩集』
- 作者: ランボオ,J.N.A. Rimbaud,小林秀雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1970/09
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よ 別のバージョンで持ってる気がする
か ぼくは岩波の、小林秀雄の訳でもってるな
よ ああ、そうそう、俺もそれでもってる
か ちょっと面白いんだけど、リリー・フランキーが海外棚にある(笑)
よ 本当だ(笑)『ジャン・クリストフ』の隣にあるね(笑)まあね、そういうこともある。あのプルーストのさ
か 『失われた時を求めて』?
失われた時を求めて 1?第一篇「スワン家のほうへI」? (光文社古典新訳文庫)
- 作者: プルースト
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よ そうそう、あれとか『風と共に去りぬ』とか読みたいんだけど時間絶対かかるじゃん
- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,土屋政雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2001/05
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よ ミステリーなの?
か 違うんじゃないかな、『わたしを離さないで』が有名だよね
よ ああ、中巻しかない『未成年』
か ドストエフスキー
よ 読みたいけどな。これ京都っぽいよね、こんなに『新島襄自伝』があるの
か たぶん同志社生が売ってるんだろうね(笑)何冊あるの?
よ 4、5……10冊あります(笑)
か ほとんど読まれてないであろう『新島襄自伝』(笑)
よ 『未成年』読みたいな、『日はまた昇る』も読みたいけど。ブコウスキーがけっこうヘミングウェイ好きで、よく作中に出てきたりする
- 作者: アーネストヘミングウェイ,Ernest Hemingway,高見浩
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2003/06/28
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か 『水滸伝』が意外にあるな
よ 何、『水滸伝』って
か 中国の奇想小説だね、いろんなヒーローが山に集まってわいわいする。中国の四大奇書の一つだったと思う
よ 単行本、行ってみます?
か 行ってみようか
【単行本コーナー】
か あれだよね、文庫で出ているのは文庫でほしいよね
よ 意外と単行本でいいのが置いてあることあるけどね、みんな大きいから買わない
か 確かにそれはあるね。藤野可織の『いやしい鳥』とかたいへいよい短編集だった
よ 『ハル、ハル、ハル』、古川日出男
か ああ、これよかったね。なんだっけ、犬を殺す短編なかったかな、あれが突っ走っててよかった
よ ドライブ感150%みたいな
か そうそうそう
よ 『火花』がある
か もう文庫で出たもんね
よ あ、『介護入門』ある
か おお、モブ・ノリオ。100円?
よ ……105円(笑)
か 時代すらも超越している(笑)中上健次の『鳳仙花』とか置いてある
よ 中上健次いいよね
か いいねえ
か 石田千も気になるな、芥川賞候補になってて。笙野頼子(笑)
よ 『タイムスリップ・コンビナート』、マグロとか出てくるんじゃなかったけ
か マグロから電話がかかってくるんじゃなかったっけ
よ (笑)そうそうそう、なんか知らない短編が入ってるよ
か おお、本当だ、気になる。それは鳥居みゆき?よかったよね
よ 「蝉」っていうのがすごく好きで、「月曜日に私は生まれ 火曜日に友達ができ 水曜日に友達が死に 木曜日にあなたに恋し 金曜日にあなたは死んだ 土曜日に思いきり泣き 日曜日に私も死んだ 人間よこれが私の一週間の生涯です あなたたちの長い一生私とどっちが重いでしょう」っていう
か そういう世界観だよね
よ 単行本、重いんだよね、それが問題なんだよね。『間宮兄弟』って江國香織なんだっけ
か おお、本当だ
よ あ、鹿島田真希だ
か おおお、でも『冥土めぐり』は実はそんなに面白くなかった
よ そうなんだ(笑)
か 『ゼロの王国』とかが読みたいな、と。うーん、やっぱり文庫かな
よ 『いやしい鳥』は買おうかな
か もう10冊いった?
よ 9冊かな
か おお、じゃあ俺は文庫をあと一冊何か買おう
よ 渋谷知美っていう人でセクシャリティに関係することをやってるんですけど、意外とユーストリムとかに出てたりして結構好き
か へえ、『日本の童貞』ねえ。んん、『忍ぶ川』とか買おうかな、三浦哲郎。これで芥川賞とかとってんじゃないかな。その人は短編をいくつか読んだんだけど、けっこう暗いんだよね
よ 明らかに暗いよね
か 田舎のお爺さんとお婆さんのうち、お爺さんが首つり自殺をしていたっていう「みのむし」っていう小説があったりして
よ 同じようなのを選んだかも、『幸荘物語』花村萬月。暗そうな(笑)
か 10冊、買いますか。いい感じのチョイスができた気がする。というわけで縮小バージョン終わりということで何か一言あれば
よ みんな滝本竜彦を忘れないでください
か 重要だよね(笑)
よ ありがとうございました
か ありがとうございました、なんかご飯を食べに行きましょう
よ 行こう。四流色でした
か かみしのでした
(4月13日 於:京都OPA BOOKOFF)
《今回のお買い上げ本 ver.かみしの》
・コンスタン『アドルフ』
・三浦哲郎『忍ぶ川』
・金原ひとみ『AMEBIC』
・小川一水『老ヴォールの惑星』
・笙野頼子『母の発達』
・南条あや『卒業するまで死にません』
《今回のお買い上げ本 ver.四流色夜空》
・モブ・ノリオ『介護入門』
・藤野可織『いやしい鳥』
・花村萬月『幸荘物語』
・ゾラ『ナナ』
鯉は空を望む
鯉の煮付けは甘辛く、長野県民好みの味付けである。
祭事にしか食卓に並ばないという希少性に加え、馬の蹄状の盛り付けや、いかにも味の染みた佃煮色の彩りが食欲をそそるが、口にしてみると存外泥臭く骨ばかりで、興ざめであった。蹄中央の窪みには、大振りの帆立に似た内臓が添えられ、大人はそれを上手そうに食むが、子供の頃の私にはただ苦いだけの代物で、どうしてこんなものを有り難がって食べるのだろうと、不思議に思っていたものである。
大学生になり、県外に出た私は、祭事に鯉を食すのが長野県に特有の風習であることを知った。溜め池で飼われている鯉が、普通は、食用のためでなく鑑賞用に過ぎない、という事実を知ったのもこの時で、あまつさえ錦鯉と呼ばれる品種に何千万を支払う人間がいるらしい、という話には流石に閉口せざるを得なかった。
昔の疑問がむらむらと湧き上がってくるのを抑えられなくなった私は、去年の盆、帰省に託けて祖母に会い、こう切り出してみた。
「ねえ、おばあちゃん。どうして長野県ではお祝いの時に鯉を食べるの」
じりじり、と油蝉が軋む声が、ただでさえ湿った夏の暑さを一層不快にする。額から流れ落ちる汗が目に入り、沁みた。
空には輪郭のくっきりとした入道雲が、恥じらいもなく天に向かい、立ち昇っていた。ひょっとしたら、俄かに雨が降り出すかもしれない。
祖母の返事はない。この沈黙は避らぬ痴呆の証明なのか、それとも何かしらの逡巡なのだろうか。しばらく会わない間に、髪が薄くなり背も小さくなった、と思う。これは私の身長が高くなったからではなく、祖母の命が着実に削られているからなのだ、と理解できる年齢になってしまった。
「……この地域では、祭儀を一月遅れでやっているのは知っているね」
久しぶりに聞いた祖母のしわがれ声は、痴呆を感じさせぬほどしっかりとした発音で、心臓を掴まれるような威圧が伴った音声であった。
祖母は祭儀と言ったが、正しくは元旦を除く節句の行事を一ヶ月遅れで行っているのである。だから私は、四月に雛人形を並べ、七夕の笹を八月に飾ることに、あまり違和感を持っていなかった。
これもまた、特殊な伝統であると知ったのは最近だった。
しかし、そのしきたりと鯉を食べることに一体どんな関係があるというのだろうか。
「本当はね、遅れさすのは子供の日だけでいいんだよ。六月に鯉のぼりを揚げるのが、祭儀を一月遅れで行う、ただ一つの理由なのさ」
今や祖母の目は大きく見開かれ、私を真っ直ぐに見据えていた。両手で私の右手を固く握る力は、死に臨む老人のそれとは思えない。
「鯉のぼりとは、葬儀なのさ」
じりじり、という蝉の声とは対称の、冷たい声であった。
それから祖母が訥々と語り始めたこの村の伝承は、当時の私には衝撃的な内容であった。盆の中頃、のんびりとした陽の下の、萱葺屋根の下、小さく丸い老人は、何かに取り憑かれたように、次のようなことを語った。
まだこの村が、ただの集落であり、Sと呼ばれていた時代。山に囲われた土地は開墾されておらず、数十人ばかりの百姓が、農作や採集で糊口を凌いでいた。
田沼意次の治世、浅間山の大噴火に次ぐ天明の飢饉に苛まれた集落は、年の始めに供物として、乳飲み子を一人、穀物の神に捧げることを決定した。
新嘗祭にあわせ、乳飲み子は調理され、その子の親を含む民たちに振舞われた。肉食の獣に特有の臭みを消すため、甘辛い醤(ひしお)に漬け込まれ、集落全員に行き渡るように輪切りに切られた。脂肪がのり、重要な内臓が詰め込まれていた腹は、集落の長が口にしたのだという。予め取り除かれ、別に調理された臓腑はがらんどうの腹に盛られた。
「その秘事は、田沼が失脚し、飢饉以前の生活が戻るまで続けられた」
そこで祖母は、一つ大きな溜息をついた。
空は薄暗くなり、蝉も声を潜め、名前の分からない雑草を風が薙いでいく音だけが、さわさわ、と響いている。
溜め池には、盆暮れにはぶつ切りにされてしまうであろう緋鯉が、ゆらゆらと水を切って泳いでいる。鑑賞用とは、どうにも思われない。
「それで、その、赤ちゃんを食べるというのは、やめたわけね」
いくら死に際した苦肉の策であるとは言い条、人間が人間を食べるというのは紛れもない禁忌である。地に足がつき、正気に戻った集落民は、自らが犯した罪に苦しめられることになる。
子を食った親は、胸を掻き毟り、苦悶に耐えかねて狂った。
臓腑を食んだ長は、毎夜、蛇のように身を引きずり迫る腸に、体をきりきりと締め付けられる夢を見るようになった。
次第に集落は狂気で満ちていった。
それ故、生贄となった乳飲み子の供養をしないか、という提案が挙がるのにはそれほどの時間を要さなかった。
「子供の日に鯉のぼりを揚げる風習が日本に広まったのは、江戸時代のことらしい」
何かを空に揚げるという異国の風習が、閉鎖的な集落で供養という発想に代わっていったのも、不思議ではない、と祖母は付け加えた。
「じゃあ、どうして六月に鯉のぼりを揚げよう、という話になったの」
「今は晴れの日でも、平気で鯉のぼりを揚げるようになったけどねえ」
そもそも鯉のぼりとは、中国の登竜門の故事に倣って始まった行事なんだよ、と祖母は語った。
鯉が滝を登って龍になる、という話は私も聞いたことがあった。祖母の話では、本当は雨の日にしか鯉のぼりは揚げてはならないのだという。鯉が滝を登り龍となるように、供物となった乳飲み子が雨の道を通って、穀物の神の許へと確かに行けるように、梅雨の時期に鯉のぼりを揚げるようになった。
「そして民は、罪を忘れないために、自らへの戒めとして祭事には、調理された子どもを模した鯉を食べるようになったのさ」
いつの間にか、庭には驟雨が降り始めている。雨に打たれた木々が、そわそわと内緒話のような音を立て、巻き上がる土の匂いが、つんと鼻を刺激した。
溜め池の鯉は、餌を求めるように口を水面に出し、ぱくぱくと動かしていた。
「餌はさっきあげたばかりなんだけどねえ。雨が降ると、あの鯉たちは口をぱくぱくさせるのさ。案外、空に向かって登って行こうと、必死なのかもねえ」
そういって目を細めた祖母の顔は、険しさを失い、元の優しそうなものに戻っていた。そうして、どこにもいない子供をあやすように、どこへともなく呟いた。
「あたしたちは昔から、こう言い聞かされてきたんだよ。六月五日は端午の節句ではなく、なるべく、子供の日と呼べってね」
私はようやく、この村の一員になれたような気がした。
2012年 テーマ批評会「5月5日」より